

尾張桶狭間の合戦を記す碑。織田信長が駿河の今川義元を破ったこの合戦は、天下一統に向かう信長の重要な一戦として著名。250年を経た文化6年(1809)頃、合戦地とされる所に建てられた。
本碑は全体として「弔古」すなわち遠く古を思って傷む心を読者に喚起しようする。それは、信長側ではなく、むしろ敗者の今川氏側に目を向けることによってである。主君義元のために討死した者達の忠義心を称賛するとともに、もし後嗣今川氏真が彼ら忠臣を活用していれば雪辱を果たす可能性も大いにあり得たと論じる。撰者は尾張藩儒官の秦鼎(滄浪)。彼は実際に現地に臨み高所から戦跡を眺め感極まったという。余分な情報を省いた短文は雑然とした感が否めないけれども、一文一字に撰者自身の弔古心が素直に吐露されている。末尾の銘(漢詩)は、短いながら2度も換韻し、三言句と四言句の合わさった雑言詩。漢詩としての整然さや形式美には欠けるものの、撰者の感情の高まりを察するには余りある。現地踏査の興奮そのままに一気に書き上げた感を受ける。もしこの碑文を他所で読めば、当地に足を運び過去に思いを馳せたいと思わせる力があろう。
建碑の主体は、尾張津島社の神官で歌人の氷室長翁(豊永)と親類。現地を眺め弔古心の起こった彼らは、戦跡を荒廃させまいと願う心が生じたという。したがって本碑造立の目的とは、弔古の情を読者に喚起し、それによって戦跡の保全を図ることと考えられる。なお彼らは義元に殉じた将兵の縁者だと、ほのめかした書き方がなされている。建碑の端緒は実は個別的な事情によるらしい。
刻字は、緩急自在に楷行草の書体を織り交ぜている。細字で彫りが浅く、摩耗して判読しにくいのが難点だが、今まさに筆写したかのように瑞々しい。至極真面目な碑文内容にかえって不相応ですらある。
建碑から約百年経って国の史跡に指定され、国家によりその保全が図られることとなった。その約百年後のこんにち、有力な戦跡候補地の一つとして、歴史愛好家の往来は絶えない。
資料名 桶陜弔古碑
年 代 文化6年(1809)
所 在 桶狭間古戦場 敷地内|愛知県豊明市栄町南舘
北緯35°03’35″ 東経136°58’51”
文化財指定 国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚」(昭和12年12月21日指定)内に所在
資料種別 石碑
銘文類型 歴史的事件
備 考 資料名は篆額による。2字目「陜」は「狭」と同義。年代は碑文の撰文・書写の年。
ID 0052_2409
翻刻
「桶陜弔古碑」
登高原眇遠、慨歎興敗于前跡。何国蔑有。余独悲此桶峡云。記曰、永禄三年、駿□
西征。五月十九日、陣桶峡。山北織田公、以奇兵襲之、駿侯義元滅。夫駿強国也。方
其図覇、相・甲□以賦従。尾人亦往往送款。於是、大挙入尾、攻鷲津・丸根抜之曰、明
旦屠清洲而朝食。衆皆賀、置酒軍中。会黒雲起西北、風雨暴発、敵人鼓声、亦□背
震。皆不意其猝□、中軍大乱。格闘死者、二千五百餘人。夫自足利氏失鹿、四海戦
場、□以侈亡、甲以暴滅。而未有若此一戦而跌者也。勝敗如化。誰知其極。但勝之
不可保。矧可驕哉。悲也夫雖然、或聞軍敗、自先鋒還闘与其卒二百人皆死、或□
孤城不走、請□尸而□。若斯□者、累世所養。豈不皆忠烈哉。籍使後人有庸主之
材、外結強援、□用若士、師徒雖虧、駿遠之地尚全。猶足以向西報伐也。游蕩忘□、
卒以播遷。悠悠蒼天。此何人哉今生。平世眇歎前跡、跡已歴二百五十年。時雖□、
□猶昨。則後人弔之、亦猶今也。則是千万世、亦何有極。請建碑、以記之。銘曰、
三軍覆、 野茫茫。 孰有後、 孰孤傷。 乱之思治、 已値今時。
□□□、 酹古邱。 来弔之、 千万秋。 治不忘乱、 視旧跡碑。
文化己巳夏五月 尾張 儒官 秦鼎撰 大阪天満邸令 中西融書
〇ウラ面
此碑也、豊長輩有所
感而建之。碑文所載、
先鋒還闘。在他人、猶
且扼腕。況於豊長輩
乎。観其故而弔古、矚
其蹤而惨目。是情何
歇。故願不使前跡徒
蕪也。後来有懐旧君
子、与我同志、亦将有
感于茲。秦士鉉作銘、
中西仲長書之。皆我
尾張国□也。
津島神主
氷室豊長建
現代語訳
〔1.古をとぶらう〕
桶狭間にて昔をとぶらう碑
野原の高きあたりに登り、目を細めて遠くを眺めやる。一昔前の興亡の史跡に臨んで、悲しみの心が起こり気持ちも高ぶってくる。興亡もなくて、このような悲しみの起き得ない国など、いったいどこにあるだろうか。私は一人、ここ桶狭間で悲しみの心に沈んだ。
〔2.今川義元の豪勢と討死〕
さて記録によれば、
「永禄3年(1560)、駿河侯 今川義元は西の方に向け討伐の軍を起こした。5月19日、桶狭間に陣を張る。その山の北にあった織田信長公は不意打ちの軍兵を以って襲撃し、駿河侯義元は滅亡した。そもそも駿河は強国であった。覇を唱えようと図ると、相模の人々も甲斐の人々も、貢ぎ物をともなって従いたいと願ってきた。尾張国の人々もしばしば好みを通じてくる。ここに到り、大挙して尾張に侵入し、鷲津砦・丸根砦を攻めて陥落させると、(義元は)『明朝、(織田の本拠)清洲を攻め滅ぼして朝飯をいただくこととしよう』と言った。(戦勝を確信した)軍衆はみな喜んで、その余り軍陣にて酒宴を開いた。偶然にも西北の方より黒雲が生れ、風雨が急に起こってくると、それと共に敵方の軍太鼓を打ち鳴らす音が背後よりとどろきわたってきた。完全に不意をつかれて(織田軍が)俄かに迫り来ると、大将義元の直属軍は大混乱におちいった。互いに組み討ちあって亡くなった者は、2500余名だった」
という。そもそも足利氏が権力を喪失してからというもの、天下はどこも戦場であって、周防(大内氏)は驕りのために亡び、甲斐(武田氏)は暴虐のゆえに滅んだ。しかし、かのように一戦して倒れ死んでしまった者はかつていない。
〔3.雪辱の可能性 忠臣と暗君〕
勝ち負けは、変化して常無きもののように見える。(だから今が勝ちや負けの)究極の地点にあるかどうかなど、誰が知っていようぞ。勝つことだけを続けるのは不可能である(勝つこともあれば負けることもある)。(とはいうものの勝ちに)驕ってよいわけがあろうか(驕れば勝ちは負けに転ずる)。それは、いうまでも無いだろう。悲しいことであるなあ。そもそもそうはいっても、ある者は軍の敗れたことを聞いて、先鋒隊より(桶狭間に)帰ってきて戦い、その兵卒200人とともに皆死んでしまったし、ある者は孤立無援の城を守っていたが逃げもせず、主君義元の屍を(織田方より)請い受けて(故国に)帰っていった。このような類の者達は、代々(今川家から臣として)やしなわれてきた。彼ら全員、強い忠義心のないということがあり得ようか。仮に、(義元の)後嗣の者に能力がなく凡庸な君主としかなり得なかったとしても、外部からは強力な援助を受け、内部にはこのような(忠義心の篤い)武士を用いれば、軍隊は損害を受けてしまったといっても、駿河・遠江の地はなおも保ち得ていただろう。さらに西に向かい報復の討伐をすることもできたであろう。(後嗣の今川氏真はそういうこともせず)だらしなく遊びふけり復讐も忘れ果てて、終に遠国をさすらう身となってしまったのだ。
〔4.永遠に古をとぶらう〕
はるかなる時を過ぎし、青き天よ。(天の永遠性に比べて桶狭間に戦った者達の)何人が今ここに生き残っているだろうか。平和なこの世の中にあって前代の遺跡を眺めやり、これを傷む気持ちが起こってくるが、この戦跡は既に250年もの時を経ているのである。時代は遥か昔のこととはいっても、(合戦などがあった)事柄はあたかも昨日のことのようだ。だから、後代の人がここに於いて昔をしのび、痛み悲しむ心も、あたかも現在の(私の)ようなものであろう。とすれば、千年万年の先も(このような痛み悲しむ感情は)どうして尽きることがあろう。碑を建てることを求められ、そのため文章を記した。銘は以下の通り。
〔5.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。換韻ごとに空白行を挿入。
大軍が崩れ去り、野は茫々。
(当時の人々の)誰が後代にあるものぞ。(この戦跡を眺めて)痛み悲しむのはどうして私一人だけといえようぞ。
一片の碑を建て、古の墳墓に酒を注いで亡魂を祭る。
(何人も)ここに来れば彼らに痛み悲しむことだろう、千年も万年の先でも。
戦乱の時代に(人々は)平和な治世を思い望む。やがて(平和な)今の世の中に至ったのだ。
治まった世の中にあって戦乱の世を忘れまいとするならば、古跡の(この)碑を見るがよい。
文化6年(1809)5月
〔6.建碑の経緯 -懐古の情と史跡保存-〕
〇ウラ面
この碑は、心に感じるところがあり豊長とその親類が建てたものである。碑文には「先鋒隊が帰ってきて戦った」などと記してある。我が親族以外の者(すなわち撰者の秦滄浪)にあってすら、自身の腕を強く握りしめて(古を)傷み悲しむ。豊永やその親類においては言うまでもなかろう。過去の事跡を眺めては昔を思って悲しみ、史跡を見つめては目をいたませる。この感情は、(今後も)どうして尽きることがあろう。そのため、いたずらに史跡を荒廃させないようにと願うのである。(そうすれば)後代に昔を思う君子があれば、我々と同じように(史跡を荒廃させないようにとの)志を持つだろうし、さらにこの場所において心に強い感動を覚えることもあるだろう。秦滄浪が銘を作成し、中西仲長が字を書いた。ともに我が尾張藩の役人である。
津島社の神主 氷室長翁(豊長)が建てた
訓読文・註釈
〔1.古をとぶらう〕
桶陜弔古碑
高原に登り遠きを眇むれば、興敗を前跡に慨歎す。何れの国か有ること蔑からんや。余のみ独り此の桶峡に悲しむと云ふ。
〔2.今川義元の豪勢と討死〕
記に曰く、「永禄三年、駿侯西征す。五月十九日、桶峡に陣す。山北の織田公、奇兵を以て之を襲ひ、駿侯義元滅ぶ。夫れ駿は強国なり。其の覇を図るに方りて、相・甲、賦を以て従はんを請ふ。尾の人も亦た往往にして款を送る。是に於いて、大挙して尾に入り、鷲津・丸根を攻め之を抜きて曰く、『明旦、清洲を屠りて朝食せん』と。衆皆な賀び、酒を軍中に置く。会ま黒雲、西北に起き、風雨暴に発り、敵人の鼓声も亦た背より震ふ。皆な意とせず其の猝に至るや、中軍大いに乱る。格闘して死する者、二千五百餘人」と。夫れ足利氏の鹿を失ひしより、四海戦場にして、周は侈りを以て亡び、甲は暴を以て滅ぶ。而して未だ此の若く一戦して跌るる者有らざるなり。
〔3.雪辱の可能性 忠臣と暗君〕
勝敗は化するが如し。誰か其の極みを知らんや。但だ勝ちをのみ之保つべからず。矧んや驕るべけんや。悲しきかな、夫れ然りと雖ども、或るひとは軍の敗るるを聞きて、先鋒より還りて闘ひ、其の卒二百人と与に皆な死に、或るひとは孤城を守るも走らず、主の尸を請ひて帰る。斯の若きの類の者、世を累ねて養ふ所なり。豈に皆な忠烈ならざらんや。籍使、後人、庸主の材有れば、外には強援を結び、内には若き士を用ふれば、師徒の虧くと雖も、駿遠の地尚ほ全からん。猶ほ以て西に向かひて報ひ伐つに足るなり。游蕩して讐するを忘れ、卒に以て播遷す。
〔4.永遠に古をとぶらう〕
悠悠たり、蒼天。此に何人か今に生きんや。平世に前跡に眇め歎くも、跡已に二百五十年を歴たり。時は邈かなりと雖も、事は猶ほ昨のごとし。則ち後人の之に弔ふも、亦た猶ほ今のごときならん。則ち是れ千万世も、亦た何ぞ極まること有らんや。碑を建つるを請はれ、以て之を記す。銘に曰く、
〔5.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。換韻ごとに空白行を挿入。
三軍覆り、野は茫茫たり。
孰か後に有らんや。孰ぞ孤り傷まんや。
片碑を建て、古邱に酹ぐ。
来れば之を弔はん、千万秋に。
乱るれば之治を思ひ、已に今時に値ふ。
治まりて乱を忘れざれば、旧跡の碑を視よ。
文化己巳夏五月 尾張 儒官 秦鼎撰 大阪天満邸令 中西融書
〔6.建碑の経緯 -懐古の情と史跡保存-〕
〇ウラ面
此の碑や、豊長の輩、感ずる所有りて之を建つ。碑文の載する所、先鋒の還りて闘ふと。他人に在りてすら、猶ほ且つ扼腕す。況んや豊長の輩に於いてをや。其の故を観て古を弔ひ、其の蹤を矚て目を惨しくす。是の情、何ぞ歇きんや。故に前跡をして徒らに蕪れしめざらんと願ふなり。後来、懐旧の君子有れば、我と志を同じうし、亦た将て茲に感ずることも有らん。秦士鉉、銘を作し、中西仲長、之を書す。皆な我が尾張の国臣なり。
津島神主
氷室豊長建つ
*桶陜弔古碑 「陜」は、せまい。「狭」と同義。「桶陜」とは、桶狭間(おけはざま)の意。「弔古」は、昔を思い、いたみ悲しむこと。
*高原 高台の野原という程度の意。
*眇遠 目を細くして遠くを眺める。
*慨歎 悲しんで気持を高ぶらせる。
*前跡 前代の遺跡。
*何国蔑有 蔑は、否定の意。「不」や「無」と同様。前文の「登高原眇遠慨歎興敗于前跡」を受けて、このように古を思う感情が起こらない国などあろうかと問いかけている。
*云 前文(「登高原」から「此桶峡」まで)では、撰者の発言ないし感情が述べられている。「云」はその終了を明示する。
*駿侯 駿河国などを領した今川義元(1519~60)。
*相・甲 相模国と甲斐国。
*尾人 尾張の人。今川義元に通じた尾張国内の諸勢力。
*送款 好みを敵に通じる。
*鷲津・丸根 どちらも尾張国の砦。織田方の拠点だったが、碑文の通り今川方によって陥落した。鷲津砦は現名古屋市緑区大高町鷲津山に、丸根砦は同区大高町丸根に所在した。
*置酒 酒宴を開く。
*中軍 大将自らが引率指揮する部隊。
*失鹿 覇権を失う。
*周以侈亡 驕りによって周防の大内氏は滅んだ。
*甲 甲斐の武田氏。
*勝敗如化 勝敗の変化して常無いこと。『国語』巻第九晋語三「勝敗若化」に基づく表現と見られる。
*誰知其極 解釈やや難。勝っている中にも負けの要因は潜み、負けている中にも勝ちの契機が存在するように、勝ちや負けは絶えず当事者間を移り変わるもので、その究極の状態に誰が成り得ようか、と解釈した。『老子』徳経下・順化第五十八「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極」を踏まえた表現と見られる。
*養 やしなう。ここでは今川家が臣をやしなうこと。
*忠烈 忠義心のきわめて強いこと。
*籍使 かりに。もしも。
*後人有庸主之材 「後人」は、後継ぎ。「庸主之材」は、君主として凡庸な才能。ここでは後継ぎとなる人物について、仮想的な状況を設定して一般論を展開しているが、これは義元の後継ぎ氏真が実際に凡庸な君主であった事実を前提とした上での記述である。
*強援 強い援助。
*師徒 軍隊。
*駿遠 駿河と遠江。今川氏の領国。
*游蕩 だらしなく遊びにふけること。
*播遷 遠国をさすらうこと。
*悠悠蒼天 悠悠は、長く久しいさま。蒼天は、青々とした空。後述の、人の命が有限であることに比較して、天が、桶狭間合戦の昔から存在し続けることを述べたもの。
*平世 治まった世。碑文の作成された当時のこと。
*眇歎前跡 前半部の「眇遠慨歎興敗于前跡」を縮約した表現と見られる。
*後人 石碑建立時より後代の人。
*今 石碑建立の当時。
*三軍覆・・・ 雑言詩。三言句が8句4聯、継いで四言句が4句2聯で構成。韻字、茫・傷(下平声七陽)、邱・秋(下平声十一尤)、治・時・碑(上平声四支)。なお補足参照。
*三軍 大軍。
*茫茫 広々としてはるかなるさま。
*片碑 ひとかけらの碑。
*酹古邱 解釈やや難。原義通りに訳せば、古い墳墓に酒をそそぎ地の神を祭るとなるが、より具体的には戦没亡魂をとぶらうとの意と見られる。
*秦鼎 秦滄浪(1761~1831)。江戸時代後期の儒者。尾張藩につかえ、藩校明倫堂教授となる。名は鼎。
*大阪天満邸令 大坂の天満にあった尾張藩邸の奉行。
*輩 同類。仲間。ここでは親類という意味と考えられる(「*在他人・・・況於豊長・・・」も参照)。
*他人 親類以外。我が国独特の意味で、ここではこの意にとるのが適当と考えられる(「*在他人・・・況於豊長・・・」も参照)。具体的には、碑文撰者の秦鼎(滄浪)を指す。
*在他人・・・況於豊長・・・ 一読して文意不明瞭。意味深長である。整合的に理解するための一つの可能性として、氷室長翁(豊長)は、「自先鋒還闘与其卒二百人皆死」という今川家家臣の子孫ないし縁者に当たるのではないか。なお『信長公記』巻首には、松井一門一党二百人が、義元のために討死したとあり、他方豊長の実家は尾張藩士の松井氏である(「*氷室豊長」参照)。
*扼腕 自分で自身の腕を強く握りしめること。憤ったり、残念がったりするさま。
*惨目 目をいたませる。つまり強く泣くこと。
*与我同志 解釈やや難。具体的に「志」とは、前文の「願不使前跡徒蕪」すなわち史跡を荒廃させないようにと願う心を指すと見られる。
*尾張国臣 尾張藩の臣。
*津島 津島社。牛頭天王を祭る尾張国の神社。現愛知県津島市神明町に所在。
*氷室豊長 氷室長翁(1784~1863)。歌人。諱は豊長。尾張藩士松井氏の子で、津島社神主氷室氏の養子となった。
画像







その他
補足
- ここの他にも戦跡候補地は存在します。ご留意ください。
- 本碑文は、『尾張名所図会』『豊明町誌』はじめ多くの書籍に収載され、訓点が付されているものもある。判読不明な箇所や、訓読困難なところは、これらを参考とした。
- 銘について:
この銘2行は、2つの読み進め方が考えられる。
(1)一段組:純粋に上から下に読む(三言4句→四言2句→三言4句→四言2句)。こう読むと、押韻の点でやや支障が出る。
(2)二段組:字の配列を見ると各句の空白は原則1字分なのに対して、三言句と四言句との間は3字分となっている。これは二段組として読む
秦鼎(滄浪)撰文の石碑には、二段組で刻字されたものがある(岐阜県養老郡養老町養老神社所在「菊水銘」、愛知県春日井市松河戸町所在「小埜晁𢘑遺跡碑」)。活字化資料でも、(2)の読み進め方を採用しているものが多い。以上を踏まえると、(2)が妥当と考えられる。
銘の前の序文は一段組で、銘は二段組となっており、一碑文中に両段組が混在している。読者への配慮に欠ける点は否めないが、銘部分の見栄えが考慮されて、やや変則的な配列が敢えて採用されたと考えられる。
参考文献
- 『新釈漢文大系 67 国語(下)』(明治書院、1978年)432~4頁。
- 『新釈漢文大系 7 老子・荘子』(明治書院、1966年)100~1頁。
- 『尾張名所図会』前編五(明治13年刊(初版天保15年))八十~八十一丁。
- 『豊明町誌』(豊明町、1959年)268~9頁。
- 『信長公記』巻首「今川義元討死の事」(『戦国史料叢書2 信長公記』(人物往来社、1965年)57~8頁)。
- 石田誠太郎『大阪人物誌 巻下』「(四二)中西石樵」(石田文庫、1936年)。
所在地
桶陜弔古碑および碑文関連地 地図
所在:
桶狭間古戦場 敷地内|愛知県豊明市栄町南舘
アクセス:
名鉄名古屋本線 中京競馬場前駅 下車
徒歩 約5分
編集履歴
2024年9月30日 公開
2024年11月2日 小修正