

和歌山県南部の広村において先人が成した偉業に謝意を表す碑。広村(現広川町)は、広川の左岸にあり西は湯浅湾に面する。中世荘園比呂荘に淵源を持ち、古くから開発が行われてきた地域である。熊野街道が通るため多くの人・モノが行き交い、室町期には守護畠山氏の政治的・軍事的拠点が築かれた。近世に入ると、南紀伊の重要な港として多くの漁民・魚商人が各地へ出稼ぎに出て行く。このように人と船舶・富の集中する海浜地帯なので、中世以来、領主などによって防波堤・防潮堤の造成と修復が繰り返されてきた。本碑はこうした歴史を先賢達の偉業として列記する。特に安政元年(1854)大地震による堤防の損壊と全村への被害、並びに浜口梧陵による防潮堤(広村堤防)の造成について多くの文章が費やされている。これらの偉業に思いを致して愛護し、不測の自然災害に備えることを喚起するため、昭和8年(1933)、村民によって広村堤防の上に建てられた。
資料名 感恩碑
年 代 昭和8年(1933)
所 在 広村堤防上|和歌山県有田郡広川町広
北緯34°01’40″ 東経135°10’19”
文化財指定 国指定史跡「広村堤防」(昭和13年12月14日指定)内に所在
資料種別 石碑
碑文類型 歴史的人物顕彰
備 考 資料名は題字による。
ID 0053_2410
翻刻
「感恩碑」
広村之地、西北臨于海湾、遙望阿州之山姿于淼渺之間、東南与隴畝相
接、遠見霊巌・明神之巒峰之屹立。風光絶佳、南紀之一要津也。伝云、畠山
氏領当国也、築城於東広之山上、号広城。又構邸宅於海浜、築石堤四百
餘間、以防風濤之害矣。寛文年間、藩祖南竜公築和田之石堤、長百二十
間、幅員十有七間。以便繋舟也。然而宝永四年十月四日、有大海嘯、闔村
漂没。死者三百餘。和田之石堤崩壊矣。安永十年、里正飯沼若太夫等、乞
官而修築之。寛政五年四月経始、享和二年十月竣役矣。其後安政元年
十一月五日、地大震。海潮洶湧、死者三十餘名。聚落蕩然、将瀕饑餓。浜口
梧陵翁等、焦慮慰撫、捐私財以賑救之。又与同族東江翁相諮、建白於官、
投巨貲而築堤防。長三百七十間、高二間半、堤礎幅員十一間也。安政二
年二月起工、同五年十二月竣成矣。又移植松樹数百株於堤脚、以欲防
海嘯之禍也。鳴呼、何之世、莫天変地異乎。先賢為子孫所企劃如斯。誰不
感荷厥恩徳乎。庶幾、追憶愛護先賢之偉業。以可不備将来不測之災禍
哉。昭和八年五月、広村民相諮建碑勒之云爾。
〇ウラ面
陸軍大臣荒木貞夫閣下題額
浜口恵璋先生撰文
辻本勝巳先生書
史蹟調査員
(人名略)
発起人
広村長 戸田保太郎
(人名略)
碑陰岩崎勝書 川合硧斎刻
現代語訳
感恩碑(恩恵に感謝する碑)
広村の地勢は、西北は海に面して湾が広がり、遥かに眺めれば、果てしなく広がる海原の向こうに阿波国の山々が認められる。東南は田畑が広がり、遠くを見れば、霊巌山や明神山の高く堂々とそびえ立つ姿を認めることができる。ここは大変美しい風景の広がる、紀伊南部の重要な一港である。次のように伝えられている。畠山氏が当国を領有していた頃(守護であった頃)、東広の山上に城郭を築き広城と名付けた。また海辺に邸宅を構え、400間(約720メートル)余りの石堤防を構築し、これによって波浪の害を防いだのだという。寛文年間(1661~73)、和歌山藩の藩祖南竜公徳川頼宣は、和田の海域に、長さ120間(約220メートル)、幅17間(約31メートル)の石堤防すなわち和田の波止を築いた。これによって船の係留を安定させようとしたのである。しかしながら、宝永4年(1707)10月4日、(大地震により)大波が起こって一村ことごとく水に没してしまう。死者は300人余り。和田の波止は崩壊した。安永10年(1781)、村長の飯沼若太夫らは役所に請願してこれを修築しようとした。寛政5年(1793)4月に工事を始め、享和2年(1802)10月に竣工した。その後、安政元年(1854)11月5日、大地が激しく震動した。すさまじい勢いで湧きだした潮により、30名余りが亡くなってしまった。村落はあとかたもなくなり、まさに飢餓が起ころうとしていた。浜口梧陵翁らは、苦心して人々を慰めいたわり、私財を投じて彼らを困窮から救おうとした。さらに同族の東江翁と協議して役所に請願し、資財を大量に投じて堤防を構築した。その長さは370間(約670メートル)、高さ2間半(約4.5メートル)、堤防の基礎部分の厚さ11間(約20メートル)だった。安政2年2月に起工し、同5年12月に竣工した。また数百株の松を堤防の斜面に移し植え、そうして大波の災いを防ぎたいと考えた。ああ、いかなる時代なら天変地異の起きないことがあり得ようぞ(どんな時代でも起こり得るのだ)。(だから)過去の賢人達は、子孫のため以上のような企てを成してきたわけである。身に受けているこの恩恵に、ありがたみを感じない人などあり得ようか。願わくは、先賢達の偉業に思いを致し、これを愛して護られんことを。(というのは)将来不測の災害にそなえないでよいことがあろうか(よいはずはないからである)。昭和8年(1933)5月、広村の村民達が協議して碑を建て以上の内容を刻んだ。
訓読文・註釈
感恩碑
広村の地、西北は海湾に臨んで、遙かに阿州の山姿を淼渺の間に望み、東南は隴畝と相い接して、遠く霊巌・明神の巒峰の屹立するを見る。風光絶佳にして、南紀の一要津なり。伝へて云く、畠山氏の当国を領するや、城を東広の山上に築き、広城と号す。又た邸宅を海浜に構へ、石堤四百餘間を築き、以て風濤の害を防ぐ、と。寛文年間、藩祖南竜公、和田の石堤を築くこと、長さ百二十間、幅員十有七間。以て舟を繋ぐに便ならしむるなり。然り而して、宝永四年十月四日、大海嘯有りて、闔村漂没す。死する者、三百餘り。和田の石堤崩壊す。安永十年、里正飯沼若太夫等、官に乞ひて之を修築せんとす。寛政五年四月に経始し、享和二年十月に役を竣ふ。其の後、安政元年十一月五日、地大いに震ふ。海潮洶湧し、死する者三十餘名。聚落蕩然として、将に饑餓に瀕せんとす。浜口梧陵翁等、焦慮して慰撫し、私財を捐て以て之を賑救す。又た同族東江翁と相い諮りて官に建白し、巨貲を投じて堤防を築く。長さ三百七十間、高さ二間半、堤礎の幅員十一間なり。安政二年二月に起工し、同五年十二月に竣成す。又た松樹数百株を堤脚に移し植ゑ、以て海嘯の禍を防がんと欲するなり。鳴呼、何の世か、天変地異の莫からんや。先賢の、子孫の為めに企劃する所斯の如し。誰か厥の恩徳を荷ふを感ぜざらんや。庶幾くは、先賢の偉業を追憶し愛護せんことを。以て将来不測の災禍に備へざるべけんや。昭和八年五月、広村民、相い諮りて碑を建て之を勒むと爾云ふ。
*感恩 人から受ける恩を感謝すること。ありがたく思うこと。
*広村 現和歌山県有田郡広川町広あたり。下記補足参照。
*阿州 阿波国(現徳島県)。
*淼渺 淼は、水などの限りなく広いさま。渺は、淼と同義。「淼渺」とは、果てしなく広がる海という程の意であろう。
*隴畝 うねとあぜ。要するに田畑。
*霊巌・明神之巒峰 広村の東南にみえる霊巌山と明神山(現和歌山県有田郡広川町下津木および同町上中野の南部あたり)。
*絶佳 すぐれていて美しいこと。
*南紀 紀伊国の南。
*要津 交通・産業上、重要な港。
*畠山氏 室町幕府将軍足利氏の一門。室町時代に紀伊国の守護を世襲した。
*東広 広村あたりは、中世に比呂荘の領域だった。荘域が広大なためか中世の段階で西広と東広に分かたれ、東広の範囲は、近世村でいうと広村および名島村(現和歌山県有田郡広川町名島)などが含まれる。広城は、名島の高城(たかしろ)山にあった城。
*広城 「*東広」参照。
*風濤 風によって立つ波。要するに波浪のこと。
*藩祖南竜公 紀伊和歌山藩の始祖徳川頼宣(1602~71)。家康の十男。
*和田之石堤 和田の波止(はと)のこと。藩主徳川頼宣が、寛文年間(1661~73)に和田(現和歌山県有田郡広川町和田)の海域に築いた波止場。
*海嘯 大波。ここでは大地震(宝永地震)により発生した大津波のこと。
*闔村 村中。
*里正 村長。
*官 役所。ここでは和歌山藩。
*経始 土木事業を始める。
*海潮洶湧 海潮は、海水。洶湧は、水が勢いよくわき出ること。要するに大波をこう表現した。
*聚落蕩然 聚落は、集落。蕩然は、少しも残らないさま。
*饑餓 飢餓。飢え。
*浜口梧陵 1820~85。幕末から明治時代の実業家・政治家。下総銚子で家業の醤油醸造にたずさわり、浜口儀兵衛商店(現ヤマサ醤油)の7代目をつぐ。明治になり、和歌山藩権大参事、和歌山県会議長などを歴任。齢六十を過ぎなおも見聞を広めんと渡海するが、米国で客死。
*焦慮慰撫 焦慮は、気をもんで心配する。慰撫は、人の心を慰めいたわる。
*賑救 施し物をして、災害などで困窮した状態から人を救うこと。
*巨貲 巨資。多量の資財。
*堤脚 堤防の斜面の意と見られる。
*企劃 企画。
画像






その他
補足
- 広村について:
広川の左岸にあり、西は湯浅湾に面する。中世には比呂荘の一部で、古くから開発がなされてきた地域。熊野街道が通り人・モノの往来が多かった。碑文にもある通り、室町時代に守護畠山氏が居館を構え、東隣の名島に広城(高城城)を築城。近世前期には、人家が連なって町の様相を呈しており、和歌山藩主徳川頼宣により広御殿が建てられた。五島列島などの西国や房総半島などの関東へ漁民や魚商人が多く出稼ぎしており、当地はますます発展した。 - 本碑文はすでに『和歌山県内の津波碑』(海洋研究開発機構地震津波海域観測研究開発センター、2016年)によって紹介されている。合わせてご参照下さい。
- 碑文に言及する浜口梧陵の顕彰碑は、こちら。
参考文献
特になし。
所在地
感恩碑および碑文関連地 地図
所在:
広村堤防上|和歌山県有田郡広川町広
アクセス:
JR 紀勢本線 湯浅駅 下車
徒歩約20分
編集履歴
2024年10月17日 公開
2024年10月25日 小修正
2024年11月2日 小修正