

幕末から明治期に民政・産業・防災など多方面に活躍した浜口梧陵の顕彰碑。
梧陵は紀伊南部の広村(現和歌山県広川町)の生まれ。家は代々当地の豪族だった。湯浅湾に面するこの村の住人は、漁民や魚商人として各地に多く出稼ぎしており、浜口家も下総(現千葉県)銚子に拠点を有して醤油醸造を行っていた(現ヤマサ)。青年期には幕府に頼り海外巡視を熱望したが、この外へ向かれた目は、当地や浜口家の生業形態と無関係でない。無念にも渡航は叶わなかったが、翻然と帰郷して子弟教育に熱情を注ぐことになる。
梧陵は広く学問を修め公益のある民政を心掛けていた。その価値観が当地で実現されたのが災害の復興活動である。嘉永7年(安政元年、1854)、大地震によって起きた大津波が村を襲う。日の落ちた中での惨事に人々は狼狽したが、機知に富む梧陵は大砲を打ち鳴らし、田地の稲わらを燃やして村民を高台へと誘導した。音と光によって暗闇での避難を促したわけである。被災後、橋梁修造や勧業に携わったが、特筆すべきは私財を投じて海岸沿いに防潮堤を築いたことである。この工事は公共福祉も兼ねており、労賃の支給により村民が離散の憂き目を見ないようにさせ、また田畑面積の削減により年貢額を減少させもした。この「広村堤防」は後の津波でも威力を発揮する。
明治17年(1884)、それまで県政に携わっていた梧陵は、決然と欧米視察の旅に出る。既に還暦を過ぎていた。国会開設が迫り、異域の政治・風俗を視察して国家へ貢献する狙いがあったらしい。翌年、米国ニューヨークで病にかかり道半ばにして逝く。享年66。
8年後、有志の人々が発意し、後継ぎの勤太とともに建碑。撰文は、交流のあった勝海舟。東京にて造成の後、広村に運ばれて広八幡宮境内の高所に建立された。大きく立派で長文の碑である。しかし彼の事跡は碑文以外にも多岐にわたり、この大人物を語るにはむしろ小さいとすら感ずる人もあるだろう。東南海地震の対応が叫ばれる現代において、災害対応および復興・防災活動における本碑の文化財としての価値は小さくない。
資料名 梧陵浜口君碑
年 代 明治26年(1893)
所 在 廣八幡宮|和歌山県有田郡広川町上中野
北緯34°01’06″ 東経135°10’31”
文化財指定 和歌山県指定史跡「濱口梧陵碑」(平成27年1月15日指定)
資料種別 石碑
銘文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は題字による。本文題は「浜口梧陵碑」。年代は建立年。
ID 0054_2410
翻刻
「梧陵浜口君碑」
浜口梧陵碑 枢密顧問官正三位勲一等伯爵勝安芳撰文并題額
浜口成則、字公輿、俗称儀兵衛、梧陵其号也。和歌山県紀州在田郡広邨産。家世為邑豪族。為
人、宏度明達、博渉群書、喜修徂徠学、夙抱大志、広交四方知名之士。而於宇内形勢、頗有所見。
方幕府開外交之日、君語人曰、「方今急務、在外交。外交之要、不能以徳威接之、則不若戦而後
和」。嘗就所知一二有司、謀航海外以窺其情実。諸氏皆翼賛之、而幕議遷延不果。其志於是慨
然投袂還郷里、以教養子弟為事。文以道徳・経済為先、武則専採洋法。編制銃陣、屡試練習、一
藩靡然士気漸振。会紀侯釐革藩政、擢任参政。明治四年、自和歌山藩権大参事、歴任駅逓正
及駅逓頭、復補和歌山県大参事。未幾辞官、後再任同県参事尋罷。初安政中、在田郡地大震
海嘯。広邨聚落蕩然、雖水退、而流離荒壊之餘、人心洶々、将瀕飢餓。君百方慰撫、或捐私財、以
賑之。従来広邨田畝厚、税倍于他所。民恒苦之。君以謂、「海嘯之防、在設隄障。固不可一日無之。
雖然居民苦重歛、急于水火、亦不可以不速除也。今若築隄防取田圃名、移以為其敷地、則民
免重賦。是一挙両得之計也」。乃与同族吉右衛門謀、白諸官、請率先以投鉅貲。躬自董役、不日
竣工。隄長凡十五町、広八間。永為租税不輸地、闔邨一時獲免二害。其他、治橋梁勧産業不一。
而□民皆徳之。及県会之興也、輿望推君為議長。復挙于同友会会長。亟論政党之弊、抑其軽
躁之行、以就於著実之歩。其言諄々。闔県人士、由此以得定自立之根基、而成自治之計画。君
雖已老、英気鬱勃、無異于前日。十九年五月、決然欲航欧米、以遂宿志。蓋其意以国会開設之
期已迫、欲親詢異域政治・風俗、以裨益国家。惜、其足跡僅止北米一邦、而病歿于新約客館。実
明治二十年四月二十一日也。享年六十六。君之学、以経世有用為主。安政海嘯之変、暮夜忽
卒、人民狼狽、不知出逃。君命連発巨砲。乃皆出走就高処。路黒歩艱、君火田畔禾稈、以取明。衆
頼以免死。其長于機智、亦此類也。余少壮与君倶学剣技。尓来殆四十年。恍乎如一夢。而君不
可復見。頃者令嗣勤太、价人請余録君生平履歴。乃叙其大略如此。
明治二十五年三月 貴族院議員従四位勲三等巌谷修書 宮亀年刻
〇ウラ面(『浜口梧陵伝』より)。
声之美也、其感人深且遠矣。浜口梧陵君、積学施恵、顕
著于世。世人無不欣慕也。伯爵勝君撰其碑文。何栄加焉。碑
成于東京、而向至和歌山県有田郡。有志之士、請之於嗣
子、相与協力、択高敞之地以建之。蓋欲報其徳也。嗚呼、君
之得人心、可以観矣。詩曰、「鳳凰鳴矣、于彼朝陽」。梧陵君有
焉。余乃為之銘曰、
広浦之上、 松樹鬱蒼。 千歳美徳、 豈帯一郷。
明治二十六年四月 倉田績撰 池永直書
現代語訳
〔1.青年期 海外渡航の志し〕
浜口梧陵碑
浜口成則の字は公輿、俗称は儀兵衛で、梧陵がその号である。和歌山県紀伊国在田郡の広村に生まれた。家は代々村の豪族である。その人となりは、心が広く寛容であり、しかも聡明で物事によく通じている。様々な分野の書籍を読み、荻生徂徠の学問を喜んで学び自分のものとした。常に大きな志しを抱きつつ、世間に名の知られた人士を広く四方に求め彼らと交際を持った。だから天下の形勢については相当に自分なりの見解を持っていた。幕府が諸外国と交際を始める時に当たって、浜口君は次のように人に語っている。
「現在の急務は外交である。外交の根本は、徳の威力をもって諸外国と(君子同氏の)交際をし、それができないのであれば、干戈を交え、しかる後に仲直りをするに越したことはない」。
かつて1人か2人かの知り合いの役人に頼り、海外に渡航してその実状をうかがおうと計画したことがあった。諸氏はみなこれに賛意を表し支援したけれども、幕府の議論がのびのびに遅延し終に叶わなかった。
〔2.帰郷と子弟教育〕
ここに到り彼の心は(消沈するよりもむしろ)奮い立つ。たもとを振って勢いよく立ち去るように郷里へと帰り、子弟教育を自身のなすべき仕事とした。文の方は道徳と(国を利し民を助けることにつながる)経済活動とを主眼とし、武の方は専ら西洋兵学を採用した。銃器部隊を編成し、折々に試験的な訓練をしていたので、それになびくよう紀伊和歌山藩中の士気は徐々に上がってきた。
〔3.都鄙官職の歴任〕
その折偶然にも和歌山藩主による藩政改革が行われ、(浜口君は)抜擢されて藩政に参与する職(勘定奉行)に任ぜられた。明治4年(1871)、和歌山藩権大参事より始まって、(中央官庁の一つで民部省や大蔵省の所轄である駅逓司の長官)駅逓正および(大蔵省所轄の駅逓寮の長官)駅逓頭を歴任し、そして再び和歌山県大参事に任ぜられた(※明治4年7月に和歌山藩が廃され和歌山県が設立)。いくらも経たないうちに官を辞し、その後に再び同県参事に任ぜられ、次いで辞した。
〔4.安政の大津波と復興〕
(浜口君が帰郷した)初めのころ、安政(1854~60)の時、在田郡の大地が激しく震動し大海は鳴り響いてやむことがなかった(=大轟音とともに津波が襲った)。広村集落はあとかたも無くなってしまう。海水が引いたとはいえ、流入した津波によって(家屋・田畑等が)荒れ崩れてしまったので、人々は恐れおののき、(さらに)飢え死に至らんとしていた。浜口君は何方となく人々を慰めいたわり、ある時は私財を義捐して彼らを救済した。広村の田畑は地味が良いため、昔から他所に比べて倍ほどの税が賦課されていた。村民は常にこのことに苦しんでいた。浜口君は考える。
「大波を防ぐには堤防を設けなければいけない。本来一日も無くてはならないものである。そうとはいうものの重い税の負担は、それに苦しむ住人にとって水や火など日常必需品を得るよりも危急のことであって、すぐに取り除かないわけにはいかない。今もし堤防を築くに当たり(その地の)地目を田畑から屋敷地に移してしまえば、住民は重税から免れることができよう。これは一挙両得のはかりごとである」。
そこで同族の吉右衛門とはかってこのことをお役所(和歌山藩)に請願した。(その際)率先して巨額の財産を義捐することを請うた。我が身自ら工事を監督し、すぐに工事は終わった。堤の長さは総じて15町(約1.6キロメートル)、幅は8間(約14メートル)である。永久に非課税の地となり、時を同じくして村中2つの害から逃れることができた。その他、何度か橋を修造したり産業を振興したりした。村民はみなこれらを有難く感じたことだった。
〔5.政治結社 木国同友会〕
(和歌山県の)県会が発足すると、浜口君は衆望により推されて議長となった。さらに(和歌山県内の政治的団体である)木国同友会の会長に推挙された。政党の弊害を折々に論じてその無分別で軽はずみな行動を抑えつつ、着実に一歩一歩前進できるようにした。彼の言葉は懇切丁寧で、よくわかるよう繰り返し話して聞かせていた。このため和歌山県中の人士は県政自立の基礎を固め、そして(お上への従属ではなく)自治の方向へと歩を進めていけるようになった。
〔6.海外渡航の宿志〕
すでに年老いてしまった浜口君ではあるが、元気は体中満ち溢れて過日と異なるところが無かった。19年(1886)5月(※17年の間違い)、思い切って欧米に渡航し宿願を遂げようと考えた。その心というのは恐らく、当時国会開設の時期が迫っており、自ら異国の政治・風俗を見聞し、そうして国家に益あらしめんと思ったからであろう。惜しいことに、彼の足跡はわずかに北米の一国(=アメリカ)にしか及ばず、ニューヨークの旅宿で病気に斃れた。実に明治20年4月21日だった(※18年の間違い)。享年66。
〔7.生前のエピソード -大津波と巨砲の音、稲藁の火-〕
浜口君の学問は、経世と有用すなわちどうすれば世の中をよく治められるか、またどうすれば公益があるかに主眼があった。安政大波の大事変は夜に突然起きたことだったので、住民は狼狽し、逃げるべきことを認識できなかった。浜口君は命を下し頻りに大砲を打ち鳴らす。すると、みな高い場所に避難してきた。道は暗く歩行が困難だったので、浜口君は、田のあぜ道の稲わらを焼いて明かりとした。多くの人がこれを頼んで死を免れることができた。このように、彼は機知すなわちその場その場の状況に応じて素早く働く才知に富んでもいた。
〔8.海舟と梧陵〕
私は若いころ浜口君とともに剣術を学んだ。以来ほぼ40年。(彼との剣術の日々は)まるで一晩の夢のようだ。そして彼を再び見ることはかなわない。このごろ御令嗣の勤太氏が、浜口君の平生の来歴を記されよと人を通して私に頼んできた。そのため以上のようにその大略を記してきたのである。
明治25年(1892)3月
〔9.建碑の経緯〕
〇ウラ面
美しくすばらしい名声というのは、(近くの人ばかりではなく)遠くの人にまで深い感動を及ぼす。浜口梧陵君は学問を積み重ね(人々に)恩恵を施してきたが、その程度は際立って目立っている。彼に対して世の人々が、喜びの心で慕わないことなどない。伯爵勝海舟君はその碑文を撰述した。(貴人に碑文をかいてもらって)このほかに何の栄誉があるものだろう。碑は東京で完成し、そして和歌山県有田郡に至った。(当初)有志の人士がこれらのことを後継ぎ(勤太氏)に請うて、ともに協力し合い、高く広く見晴らしの良い土地を選んでこれを建てた。彼の恩恵に報いたいと願うためであろう。ああ、浜口君がいかに人心をつかんでいるか、これらのことから分かるであろう。『詩経』にいう、「鳳凰は鳴く。朝日のかかる山の端に」と。梧陵君はここ(=碑の立つ、この見晴らしの良い場所)にいるのである。私は下記の通り銘(漢詩)をなす。
〔10.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
広の浦のほとり、(梧陵君の成した堤防に)鬱蒼としげる松の木。
千年にもおよぶ彼の美徳、(その恩恵は)どうして一村にだけ及ぶものぞ。
明治26年(1893)4月
訓読文・註釈
〔1.青年期 海外渡航の志し〕
浜口梧陵碑 枢密顧問官正三位勲一等伯爵勝安芳撰文并びに題額
浜口成則、字公輿、俗称儀兵衛、梧陵は其の号なり。和歌山県紀州在田郡広邨の産なり。家世、邑の豪族為り。為人、宏度にして明達、博く群書に渉り、喜びて徂徠学を修め、夙に大志を抱き、広く四方知名の士と交はる。而して宇内の形勢に於いて、頗る所見有り。幕府の外交を開くの日に方り、君、人に語りて曰く、
「方今の急務、外交に在り。外交の要、徳威を以て之に接する能はざれば、則ち戦ひて後に和するに若かず」と。
嘗て知る所の一二の有司に就きて、海外に航り以て其の情実を窺はんと謀る。諸氏皆な之を翼賛するも、而して幕議遷延して果さず。
〔2.帰郷と子弟教育〕
其の志、是に於いて慨然として袂を投じて郷里に還り、子弟を教養するを以て事と為す。文は道徳・経済を以て先と為し、武は則ち専ら洋法を採る。銃陣を編制し、屡ば試しに練習すれば、一藩靡然として士気漸く振ふ。
〔3.都鄙官職の歴任〕
会ま紀侯、藩政を釐革するに、擢きて参政に任ぜらる。明治四年、和歌山藩権大参事より、駅逓正及び駅逓頭を歴任し、復た和歌山県大参事に補せらる。未だ幾らずして官を辞め、後に再び同県参事に任じ、尋いで罷む。
〔4.安政の大津波と復興〕
初め安政中、在田郡の地、大いに震へ、海嘯く。広邨の聚落蕩然として、水退くと雖も、而も流離荒壊の餘り、人心洶々として、将に飢餓に瀕せんとす。君、百方に慰撫し、或いは私財を捐へ、以て之を賑す。従来、広邨の田畝厚く、税は他所に倍す。民恒に之に苦しむ。君以謂く、
「海嘯の防、隄障を設くるに在り。固より一日も之無かるべからず。然りと雖も居民の重斂に苦しむこと水火より急にして、亦た以て速かに除かざるべからざるなり。今若し隄防を築くに田圃の名を取り、移し以て其の敷地と為せば、則ち民は重賦を免れん。是れ一挙両得の計なり」と。
乃ち同族吉右衛門と与に謀り、諸を官に白し、率先して以て鉅貲を投ぜんを請ふ。躬自ら役を董し、不日にして工を竣ふ。隄の長さ凡そ十五町、広さ八間。永く租税不輸の地と為り、闔邨一時に二害より免かるるを獲たり。其の他、橋梁を治し産業を勧むること一にあらず。而して邑民皆な之を徳とす。
〔5.政治結社 木国同友会〕
県会の興るに及ぶや、輿望、君を推して議長と為す。復た同友会会長に挙げらる。亟ば政党の弊を論じ、其の軽躁の行ひを抑へ、以て著実の歩みに就かしむ。其の言諄々たり。闔県の人士、此に由り以て自立の根基を定め、而して自治の計画を成すを得たり。
〔6.海外渡航の宿志〕
君已に老ゆと雖も、英気鬱勃として、前日に異なること無し。十九年五月、決然として欧米に航り、以て宿志を遂げんと欲す。蓋し其の意、国会開設の期の已に迫り、親ら異域の政治・風俗を詢ひ、以て国家に裨益せんと欲するを以てなり。惜しきかな、其の足跡、僅かに北米の一邦に止まり、而して新約の客館に病歿す。実に明治二十年四月二十一日なり。享年六十六。
〔7.生前のエピソード -大津波と巨砲の音、稲藁の火-〕
君の学、経世有用を以て主と為す。安政海嘯の変、暮夜に忽卒たれば、人民狼狽し、出逃するを知らず。君命じて連りに巨砲を発せしむ。乃ち皆な出走して高処に就く。路黒く歩みの艱ければ、君田畔の禾稈を火き、以て明を取る。衆頼み以て死を免かる。其の機智に長ずること、亦た此の類なり。
〔8.海舟と梧陵〕
余、少壮にして君と倶に剣技を学ぶ。尓来殆んど四十年。恍乎として一夢の如し。而して君は復た見るべからず。頃者令嗣の勤太、人を价して余に君生平の履歴を録さんを請ふ。乃ち其の大略を叙すこと此の如し。
明治二十五年三月 貴族院議員従四位勲三等巌谷修書 宮亀年刻
〔9.建碑の経緯〕
〇ウラ面
声の美しきや、其の人を感ぜしむること深く且つ遠し。浜口梧陵君、学を積み恵を施すこと、世に顕著なり。世人、欣慕せざる無きなり。伯爵勝君、其の碑文を撰す。何の栄か焉に加はらんや。碑は東京に成り、而して向ひて和歌山県有田郡に至る。有志の士、之を嗣子に請ひ、相い与に力を協せ、高敞の地を択び以て之を建つ。蓋し其の徳に報ひんと欲するなり。嗚呼、君の人心を得るや、以て観るべし。詩に曰く、「鳳凰鳴く。于に彼の朝陽に」と。梧陵君、焉に有り。余乃ち之が銘を為して曰く、
〔10.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
広浦の上、松樹鬱蒼たり。
千歳の美徳、豈に一郷にのみ帯びんや。
明治二十六年四月 倉田績撰 池永直書
*勝安芳 勝海舟(1823~99)。幕末・明治時代の政治家。名は義邦。のち安芳。通称、麟太郎。幕府の海軍伝習生としてオランダ人から海軍諸術を学ぶ。海軍創設に尽力し軍艦奉行に就任。維新以後、参議、海軍卿、枢密顧問官などを歴任。伯爵。
*在田郡広邨 現和歌山県有田郡広川町広あたり。下記補足参照。
*家世 家の者代々。
*宏度明達 宏度は、心が大きく寛容なこと。明達は、聡明で物事によく通じていること。
*徂徠学 江戸時代の儒学者、荻生徂徠(1666~1728)の提唱した学問。古語の用法を実証的に研究する古文辞学によって儒学古典を解釈し、小なる道徳を捨てても大なる経世済民(けいせいさいみん)を目指すものであるべきだと主張した。
*宇内 天下。世界。
*徳威 徳の威力。
*所知一二有司 所知は、知り合いの。有司は、その職を行なうべき官司や官人。
*翼賛 助ける。輔佐する。
*遷延 長引くこと。
*慨然投袂 慨然は、(1)いきどおり、なげくさま、(2)心をふるいおこすさまの二の可能性があるが、後者をとる。投袂は、たもとを振って勢いよく起つ。
*教養 教え育てる。
*道徳経済 解釈やや難。道徳および経済の意とみる。経済には、(1)国を治め、民を救済すること、(2)社会上必要な物資の生産・交換・消費の活動の二つの可能性があるが、ここでは主として(2)の意味にとり、その根底に(1)の価値観があるものとして現代語訳した。
*一藩靡然 一藩は、紀伊和歌山藩の藩中。靡然は、ある勢力になびき従うさま。
*紀侯 紀伊和歌山藩主。当時は徳川茂承(もちつぐ、1844~1906)。
*釐革 改めかえること。
*擢任参政 擢任は、ぬきんじて任ぜられる。参政は、政治に参与する職。和歌山藩勘定奉行に当たると見られる。慶応4年(1868)正月の出来事。
*和歌山藩権大参事 和歌山藩は、明治2年(1869)の版籍奉還から同4年の廃藩置県まで存在した地方行政団体。政府は中央集権強化の方針から、府藩に画一的な制度を布き、知事の下に参事(大参事、権大参事、少参事、権少参事)を置いた。権大参事は、その一つ。梧陵が同職になったのは同3年12月の出来事。
*駅逓正及駅逓頭 駅逓正は、維新期中央官庁の一つで民部省や大蔵省の所轄である駅逓司の長官。同職に就いたのは、明治4年(1871)7月の出来事。駅逓司は、同4年8月に駅逓寮と改称。駅逓頭は、同寮の長官。同職に就いたのは、同年8月の出来事。
*和歌山県大参事 和歌山藩は、明治4年(1871)7月の廃藩置県によって和歌山県となった。大参事は、知事に継ぐ職。同年8月の出来事。
*再任同県参事尋罷 明治4年(1871)7月の廃藩置県の後、10月に知事・権知事の下に奏任の参事・権参事が置かれた。梧陵が参事となったのは、同年11月。辞したのが、翌5年2月。
*安政・・・海嘯 海嘯は、直訳すれば海鳴り。ここでは大地震のあとに発生した津波のこと。この地域に大地震が起こったのは、嘉永7年(安政元年、1854)11月5日午後4時頃のこと。グレゴリオ暦では12月24日で、日の入りはおよそ午後4時45分。
*聚落蕩然 聚落は、集落。蕩然は、少しも残らないさま。
*流離荒壊 流離は、流れそそぐこと。荒壊は、荒れ崩れること。
*洶々 恐れおののくさま。
*慰撫 人の心を慰めいたわること。
*田畝厚 田畝は、田と畑。厚は、広い、または地味が良い(収穫量が大きい)の二の可能性がある。後者をとる。
*隄障 堤防。ここでは防潮堤。
*重歛〔斂〕 歛(カン)は、斂(レン)の間違い。重斂は、重税。
*水火 水や火など、日常生活に必要で不可欠のもの。
*築隄防・・・敷地 田圃は、田と畑。藩の課税明細帳簿に田畑の地目として載る土地に防潮堤を造設し、帳簿上ではその地目を屋敷地に変更すること。帳簿上で田畑地積が減ったので、課税額は減少する。海水をかぶり塩分濃度が上がって耕作困難となった土地を有効活用する面もあると考えられる。
*重賦 重税。
*鉅貲 巨額の資財。
*董役 工事を監督する。
*租税不輸地 租税を負担する必要のない地。
*闔邨 村中。全村。
*徳 恩恵に感じる。ありがたく思う。
*県会 県政における議決機関。昭和22年(1947)地方自治法施行以前の称で、現在の県議会に当たる。
*輿望 世間一般の人望。衆望。
*同友会 梧陵によって設立された政治結社、木国同友会のこと。
*軽躁 思慮の浅く、軽々しく騒ぐこと。
*諄々 よくわかるように、繰り返し話して聞かせるさま。
*闔県 一県中。全県。
*英気鬱勃 英気は、活動しようとする気勢。元気。鬱勃は、意気が盛んにわき起ころうとするさま。
*十九年五月決然欲航欧米 19年は、17年の間違い。
*裨益 たすけとなる。役に立つ。
*北米一邦 北米大陸の一国。アメリカ合衆国のこと。
*新約客館 新約は、ニューヨーク。客館は、客を泊める建物。
*明治二十年 梧陵死没の年は、20年ではなく18年。
*経世有用 経世は、世の中をおさめること。有用は、役に立つこと。有益であること。
*忽卒 突然に変わるさま。
*狼狽 思いがけない出来事にあわてふためく。
*出逃 抜け出す。逃亡する。
*出走 逃げ出す。
*田畔禾稈 田畔は、田のあぜ。禾稈は、稲のわら。
*少壮 年の若いさま。
*恍乎 恍然すなわち「まるで・・・のようだ」の意で用いていると見られる。
*頃者令嗣勤太 頃者は、このごろ。令嗣は、すばらしい後継ぎ。勤太は、梧陵の孫。九代儀兵衛。
*价人 人を介して。本来「介人」とあるべきか。
*生平 平常。平生。
*巌谷修 巌谷一六(いわやいちろく、1834~1905)。明治時代の書家。近江国水口に生まれる。日下部鳴鶴と並び明治時代の書名をうたわれる。
*欣慕 よろこんで慕う。
*高敞 土地が高く、広く、見はらしのよいさま。
*詩曰・・・君有焉 衒学的で解釈難。現代語訳は試案。全体として石碑建立地の「高敞之地」を、中国古典に基づき意義あらしめようとしていると思われる。引用部分は、『論衡』(講瑞第五十)で、『詩経』(大雅・巻阿)の漢詩を引用しているところである。すなわち「梧桐生矣、于彼高岡。鳳皇鳴矣、于彼朝陽」とある(なお『詩経』の通行のテキストでは句の順序に違いがある)。梧桐はアオギリ、朝陽は朝日のかかる山の端の意。
*広浦之上・・・ 四言詩。韻字、蒼・郷(下平声七陽)。
*松樹 防潮堤を補強するために植えられた松。
画像







その他
補足
- 広村について:
広川の左岸にあり、西は湯浅湾に面する。中世には比呂荘の一部で、古くから開発がなされてきた地域。熊野街道が通り人・モノの往来が多かった。すでに近世前期には人家が連なって町の様相を呈する。近世の間、五島列島などの西国や房総半島などの関東へ漁民や魚商人が多く出稼ぎしており、当地はますます発展した。広村生まれの梧陵が、下総銚子(現千葉県銚子市)で家業の醤油醸造にたずさわり浜口儀兵衛商店(現ヤマサ醤油)を継いだのは、当村の生業のあり方と無関係ではない。 - 本碑文はすでに『和歌山県内の津波碑』(海洋研究開発機構地震津波海域観測研究開発センター、2016年)によって紹介されている。ただし本ページのものと異同があり、また碑陰は言及されていない。
- 広村堤防(碑文中では「隄障」)上に立つ「感恩碑」は、こちら。
参考文献
- 杉村広太郎編『浜口梧陵伝』(浜口梧陵銅像建設委員会、1920年)1~5頁、「系譜及年譜」。
- 『新釈漢文大系 112 詩経 下』(明治書院、2000年)174~81頁。
所在地
梧陵浜口君碑および碑文関連地 地図
所在:
廣八幡宮|和歌山県有田郡広川町上中野
アクセス:
JR 紀勢本線 湯浅駅 下車
徒歩約30分
編集履歴
2024年10月25日 公開
2024年11月2日 小修正