

江戸末期の外国人殺傷事件として著名な生麦事件を記す碑。
文久2年(1862)8月、江戸から京都へと東海道を進む島津久光はじめ薩摩藩の行列は、武蔵国生麦村(現横浜市鶴見区)あたりで、リチャードソンら騎乗姿の英国人4人に遭遇する。そこに藩士数人が無礼として斬り掛り、リ氏は絶命、2人が重傷を負った。この悲惨な事件は幕府をも巻き込み甚大な国際問題に発展する。翌年には鹿児島沖において薩英間の戦闘が起きた(薩英戦争)。相当の損害を受けるも英国の実力を認めた薩藩は、戦後英国に接近し武備の購入や留学生の派遣を行う。強大な実力を身に付けた薩藩が、倒幕・尊王の主導的立場となったのは周知の通りだ。
本碑は、当地の住人が史跡の荒廃・忘却を恐れ明治16年(1883)に造立したもの。撰文は中村正直。正直は漢学の素養が深く、英国への留学経験もあり、ミル『自由論』などの翻訳・刊行により明治初期における自由民権思想の普及に功績があった。英国に関わる本事件の撰述に相応しい人物である。
碑文には事件の具体的記述が少なく、代わりに楚辞風の漢詩を手短に記す。その意図するところはスケールが大きく、一人の死が基因となり、薩藩の強大化、王政の復興、文明の開化、民権思想の醸成へと、要するに日本が良い方向へと進んできたと主張する(折しも建碑の2年前、国会を開設すべきとの詔勅があった)。正直は、「史」つまり一歴史家として、このように歴史的な意義を彼の死に下す。全体として本碑は、その非業の死が無駄ではなかったと主張し、リ氏亡霊を慰める意図がある。
資料名 旧蹟碑(生麦事件碑)
年 代 明治16年(1883)
所 在 公道脇(旧東海道沿い)|神奈川県横浜市鶴見区生麦1丁目
北緯35°29’29″ 東経139°39’50”
文化財指定 横浜市登録史跡「生麦事件碑」(昭和63年11月1日登録)
資料種別 石碑
銘文類型 歴史的事件
備 考 篆額は「旧蹟」。
ID 0055_2411
翻刻
「旧蹟」
文久二年壬戌八月二十一日、英国人力査遜、
殞命于此処。乃鶴見人黒川荘三所有之地也。
荘三乞余誌其事。因為之歌。々曰、
君流血兮此海壖。我邦変進亦其源。強藩□□
王室振。耳目新兮唱民権。擾々生死疇知□□
国有史君名伝。我今作歌勒貞珉。君其含笑□
九原。
明治十六年十二月 敬宇中村正直撰
現代語訳
旧跡の碑
文久2年(1862)8月21日、英国人リチャードソンはこの地で命を落とした。ここは鶴見の人黒川荘三が所有する土地である。荘三が、この事跡を(漢文で)記すことを私に求めてきた。そこでこのことについて歌(漢詩)を作る。歌は以下の通り。
〇以下押韻ごとに改行。
君は血を流す、この海辺に。
我が国の変化と進歩、その源もここなのだ。
(リ氏殺害により惹起した薩英戦争にて英国の強大さを思い知った薩摩藩は、英国から西洋文明を摂取して)強大な藩が勃興し、(尊王をかかげる薩摩藩などが倒幕・王政復古を成し遂げ)皇室の勢いは盛んになった。
(英国はじめ西洋から摂取した文明によって我々は)耳目を新たにし、人民参政の権利も主張され始める(こうした変化と進歩の根源にはリ氏の死があるのだ)。
騒々しく乱れ乱れて死んでいった彼のことを、いったい誰が知っていようぞ(だれも知らない)。
どんな国であっても歴史家はいる(英国にも、日本にも)。(ここ日本では私が歴史家として)君の名を(後世に)伝えよう。
(そのため)いま私は歌をつくり、(永遠に朽ちない)固く美しい石に刻む。
君よ、黄泉の世界で心安らかにほほえまれんことを。
明治16年(1883)12月 中村正直撰す
訓読文・註釈
旧蹟
文久二年壬戌八月二十一日、英国人力査遜、命を此の処に殞す。乃ち鶴見の人黒川荘三所有の地なり。荘三、余に其の事を誌さんを乞ふ。因りて之が歌を為す。々(歌)に曰く、
〇以下押韻ごとに改行。
君は血を流す、此の海壖に。
我が邦の変進も、亦た其れ源なり。
強藩起こりて、王室振るふ。
耳目新たに、民権唱へらる。
擾々たる生死、疇か知聞せんや。
万国に史有り、君が名を伝へん。
我今歌を作し、貞珉に勒む。
君其れ笑ひを九原に含め。
明治十六年十二月 敬宇中村正直撰す
*旧蹟 旧跡。歴史的な事件や物事のあった場所。
*力査遜 リチャードソン。香港在留の英国商人。この時避暑と観光のため来日していた。
*此処 この場所。東海道沿いにあり、事件当時は武蔵国橘樹郡生麦村。建碑当時は神奈川県同郡同村(現横浜市鶴見区生麦)。
*鶴見人黒川荘三所有之地 下記補足参照。
*君流血・・・ 七言古詩。韻字、壖・源・振・権・聞・伝・珉・原(下平声一先と上平声十三元と上平声十一真と上平声十二文の通押)。
*海壖 海辺。
*変進 変化と進歩。あまり見ない熟語で、撰者の造語らしい。
*源 「変進」の「源」=根源が、リ氏の死だったということ。
*強藩起兮王室振 生麦事件により惹起した薩英戦争ののちの経過を述べた句と見られる。「強藩」とは、具体的には薩摩藩を指す。戦争ののち、英国の強大さを思い知った薩摩藩は、英国に接近し軍備・知識などの摂取につとめて強大化し、尊王討幕の主たる藩の一つとなっていった。「王室振」とは、幕府が倒されて新政府が立つと共に王政復古が成し遂げられたことを指す。
*耳目新兮唱民権 維新以後の状況を示す句。西欧文明によって開化された状況や、民権(人民参政の権利)が主張され始めた状況を述べる。自由民権運動の高まりにより、明治14年(1881)すなわち撰文の2年前に、10年後を期して国会を開設する旨の詔勅が発せられた。本句の背景には、当時の民権意識の高まりがある。なお、撰者中村正直の訳出した英人ミル著『自由之理』は、運動に大きな影響を与えたと言われている。
*擾々 みだれておちつかないさま。ごたごたしているさま。
*知聞 知るの意と見られる。
*史 解釈やや難。「史」には「ふびと」と訓んで史官の意があるが、撰者中村正直はその身分ではないので、ここでは一歴史家の意と考えられる。
*貞珉 固く美しい石。
*含笑 ほほえむ。
*九原 黄泉。あの世。
*敬宇中村正直 1832~91。幕末から明治時代の漢学者、洋学者、教育家、政治家。江戸の人。敬宇はその号。昌平黌教授方、東京帝大教授などを歴任。慶応2年(1866)英国に留学。『西国立志編』やミル『自由之理』(『自由論』)を訳出するなどして、文明開化と啓蒙思想の普及に努めた。
画像






碑は首都高速道路の下にある

碑の立つ辺りから東に撮影
その他
補足
- 本碑は著名で、『鶴見町誌』はじめ多くの書籍に紹介・活字化されている。判読不明の字は、これらを参考とした。
- 黒川荘三と建碑:
黒川荘三は、碑文の通り鶴見の人。神職。鶴見村は、事件のあった生麦村の東北に隣接する村で、両村ともに東海道が通る。荘三は、その日記(『横浜市史稿』所収)によると明治7年(1874)、神奈川県第三大区四小区の副戸長に任ぜられ、地租改正に伴う土地調査のため生麦村を訪れた際、事件現場の存在を知ったという。同区は、大区・小区制度(明治11年廃止)のもとでの行政区画で、両村ともそこに含まれていた。このとき史跡の所在が不明になることを恐れて建碑を思い立ち、約10年後の明治16年、当該の土地を購入し、碑文撰述を中村正直に頼み、終に碑を建てた。中村正直は、『西国立志編』など英国人の著作を訳出して有名であり、渡英経験もあった。荘三が中村正直に撰文を依頼したのは、彼の英国との関係の深さによるだろう。
参考文献
- 西山忠三編『鶴見町誌』(1925年)75~82頁。
- 『横浜市史稿 地理編』(名著出版、1973年、初版1932年)915~8頁。
所在地
旧蹟碑(生麦事件碑)および碑文関連地 地図
所在:
公道脇(旧東海道沿い)|神奈川県横浜市鶴見区生麦1丁目
アクセス:
京急 京急本線 生麦駅 下車
徒歩約5分
編集履歴
2024年11月12日 公開
2025年2月19日 小修正