

尾張国内の合戦における徳川家康の足跡を明示する碑。織田信長が斃れた後、後継を巡って子息信雄と豊臣秀吉とが対立し、天正12年(1584)、信雄および同盟する家康と秀吉とが干戈を交えた。史上有名な小牧・長久手の戦いである。家康側は大きな戦果を挙げ、最終的に両陣営は和睦した。この合戦で信雄・家康は、織田氏と縁戚関係にあり同国小折村(現愛知県江南市)を領する生駒氏の自領・自邸に赴き、富士塚という小丘に登って敵勢を把握したという。同氏は家康の天下一統後も尾張藩主徳川氏に仕え、この地を領有し続けた。合戦から1世紀を経た天和年間(1681~84)、家康の聖跡と祖先とを顕彰する目的で生駒氏当主がその塚上に建碑。六角形の碑石は亀趺上に立ち龍を刻んだ笠を載せ、石造物としても見ごたえがある。
資料名 尾張国小折村富士塚碑
年 代 天和2年(1682)
所 在 丘上|愛知県江南市南山町
北緯35°18’57″ 東経136°52’49”
文化財指定 江南市指定文化財(工芸)「富士塚の碑」(昭和50年3月27日指定)
資料種別 石碑
碑文類型 歴史地理説明
備 考 年代は撰文年。建碑は同4年。
ID 0056_2412
翻刻
〇第一面(六角柱)
尾張国小折村富士塚碑誌并銘
天地者生之本也。先祖者類之本也。孝子・慈孫不可不知其本也。尾張国
士生駒主計利勝、為其祖建碑于小折村富士塚、而欲著其功、述其慶、揚
其名、聊記履歴、以請詞于余。余感其不忘本之志也。其家伝曰、在昔忠仁
公、建山荘于和州生駒郷、而其末流生生居焉、遂以生駒為氏也。其後裔
移居尾州領小折村。左京進生駒家広者、利勝六世之祖也。文明年中、頗
〇第二面
有声聞。其次加賀守豊政、其次蔵人家宗、其次八右衛門尉家長、相継為
国士。右大臣織田信長、娶家宗之女、生二男一女。其長則秋田城介信忠、
其次則内大臣信雄也。其女嫁岡崎三郎源信康。由是信長於家長、亦眷
遇不譾。天正十二年、信雄与相国豊臣秀吉有隙。信雄通志於
東照大神君、議軍事。
神君入尾州屯兵于小牧山。与信雄共赴小折村、到家長宅。時家長承信
〇第三面
雄之命、守勢州長嶋城。嫡子因幡守利豊年幼、庶兄右近善長在家拝迎
之。世以為栄。
神君自小折村登富士塚、察視敵境而帰小牧、遂成和議。同十八年、信雄
左遷。家長亦身老閑居。利豊応秀吉之命、仕関白豊臣秀次、叙従五品。慶
長五年、関原之役、利豊属左衛門大夫福嶋正則、自獲首級。同年、
神君一統闔国。貴胤従三位薩摩守源公領尾張国、利豊亦依命属従之。
〇第四面
其後及従二位大納言源敬公封于尾州、利豊優仕厚遇、采邑如故。利勝
者乃其子也。今黄門正三位襲封之後、特選利勝、為令嗣従三位中将之
傅。其世系如此。其事実如此。古曰、祖考之嘉名美誉、亦子孫之冕服牆宇
也。利勝嚮󠄃無祖先之餘慶、則豈得今日之庇蔭哉。今無奉先之孝、則世世
事業不垂於不朽也。可謂追遠継志者也。嗚呼百行皆有本也。本立而枝
繁葉密。猶於後昆有所期祝焉。詞既成。且係之以銘。
〇第五面
銘曰、
小折之村、 陟彼高丘。 富士不遠、 累累塚幽。 松林接影、
木曽入眸。 西顧淡海、 東指参州。 爰問絶景、 猶記昔遊。
藤県岩存、 李白憩休。 蠻国服信、 以祠武侯。 矧又此境、
神君停輈。 風払旌旗、 日照戈矛。 耀栄一時、 流誉千秋。
〇第六面
天和二年壬戌二月上旬 東武州学整宇主人林戇直民誌
〇中台座(六角柱)第一面。改行を「/」で示す。
古人不立碑。/曰、子孫不才、/徒為他人作/鎮石耳。斯□/謀其功乎。□/有沈于水□、/而豫推陵□/変遷者。斯□/謀其利乎。□/功利者、非道/義之当然也。/夫時有盈虚、
〇中台座第二面
物有消長。天/之数也、不察/時之不可失、/不窮物之不/可必、或可立/而不立之、或/不可沈而沈/之。乃其不知/道義之所有/也乎。董子曰、/正其誼不謀/其利、明其道/不計其功。由
〇中台座第三面
此観之、吁功/利之害其事、/可知焉。予知/己生駒利勝、/幹父之蠱於/此、立碑于富/士塚。窃寓峴/山之遺風、且/恭需林羅山/先生之嫡孫・/弘文院学士/之令子整宇/瑰儒之誌銘、
〇中台座第四面
鐫其祖考之/出自仕進。而/後家系燦然、/永応共金石/存矣。維道義/之当然、可立/而立之、不可/沈而不沈之。/豈暇謀其功、/謀其利耶。方/今無利勝之/盛挙、則富士/塚之
〇中台座第五面
台蹤不顕闔/国。有富士塚/之/台蹤、而無整/宇之宏才、則/利勝之盛挙、/不流累世也。/夫地之依人/興、人之依文/興、亦不在茲/乎。予駑鈍、不/与騏驥同轡。/然楊園之道、
〇中台座第六面
猗于畝丘。是/以強不拒利/勝之請。而謹/書于碑背。
天和二稔玄黙閹茂/三月仲浣
尾陽詞臣釣耕軒/並河魯山記
〇下部台座
関山派下/永泉野釈郡特門/謄写
天和四載甲子孟/春己卯日
尾陽長久寺現住/卓玄修地鎮法
京師石工来宮石見守/左衛門尉藤原広次流/尾州城下石工/井上長兵衛尉/藤原広則鐫之
天和四甲子稔孟春吉辰
現代語訳
〔1.建碑の経緯〕
尾張国小折村富士塚碑誌ならびに銘
天地は生命の根本である。先祖は人間の根本である。親孝行な子、孝心のある孫ならば、自身の根本を知らないわけにはいかない。生駒主計利勝は、尾張の国士すなわち一国の中で優れた人物である。その先祖のため小折村の富士塚に石碑を建てて、功績をあらわにし善行を明らかにしその名を世間に知らしめたいと思い、いささか来歴を記して(碑の)文章の作成を私に求めてきた。自身の根本を忘れまいとする気持ちに私は感動を覚えた(そのため碑文作成を応諾した)。
〔2.生駒氏 尾張国小折村への移住〕
その家伝は次のようである。むかし忠仁公藤原良房は、大和国生駒郷に山荘を建てた。その子孫は代々ここに居住し、遂に生駒を名字とした。その後裔が尾張国に居を移し小折村を領有した。左京進生駒家広は、利勝より6代前の先祖である。文明年間(1469~87)において世間からの名望が篤かった。その次代は加賀守豊政、その次は蔵人家宗、その次は八右衛門尉家長で、相い次いで国士となった。
〔3.織田氏との結びつき〕
右大臣織田信長は家宗の娘をめとり2男1女が生れた。その長男は秋田城介信忠で、次男は内大臣信雄である。娘は岡崎三郎源信康に嫁いだ。そのため家長に対する信長の待遇は殊に手厚いものだった。
〔4.小牧・長久手の戦いと徳川家康 富士塚の物見〕
天正12年(1584)、信雄と大臣豊臣秀吉との間に不和が生じた。信雄は東照大神君徳川家康に心を寄せその軍事を議した。神君家康は尾張に入部し兵を小牧山に駐留させた。(家康は)信雄とともに小折村におもむき家長の居宅に至った。時に家長は、信雄の命を受けて伊勢長嶋城を守っていた。嫡子因幡守利豊はまだ幼かったので、庶兄の右近善長が家にあって彼らをお出迎え申し上げた。世間の人はこれを名誉だと考えている。神君は小折村より富士塚に登ると敵地をよく観察した。そうして小牧に帰り、遂に和議を成した。同18年(1590)、信雄は(下野国烏山に)左遷された。年老いた家長は(左遷と同じタイミングで)隠居した(そして一線を退いた)。利豊は秀吉の命に応じて関白豊臣秀次にお仕えし、従五位に叙せられた。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いにおいて、利豊は左衛門大夫福島正則に属し自ら敵の首をとった。
〔5.尾張徳川家への臣従〕
同年、神君家康は全国を統一した。貴きご子息従三位薩摩守松平忠吉が尾張国を領有すると、利豊は(家康の)ご命令によって彼に仕えることとなった。その後、従二位大納言源敬公徳川義直が尾張国に封ぜられると、利豊は(義直に)お仕えすることを許され厚い待遇を受けるとともに、領地(小折村)は以前のまま変更がなかった。利勝は彼の子である。現中納言正三位の徳川光友が(義直の)封地を継承した後は、特別に利勝を挙げて後継ぎのご令息三位中将徳川綱誠の後見とした。家の系譜や事跡は以上の通りである。
〔6.祖先の余慶 子孫の追遠〕
古人はいう、遠い先祖の素晴らしい名声や立派な名誉のおかげで、子孫は貴い召し物を着、立派な家に住めるのだ、と。仮にもし先祖の成した善根が無ければ、利勝はどうしてこんにちのような手厚い待遇を得ることができただろうか。そして今、先祖の徳業を大切に思い守るという心が(利勝に)無いのならば、代々成されてきた(すばらしい)事跡が永遠に伝わることはないであろう。先祖の徳を追慕し前人の志しをよく継ぐ者といってよい。ああ、あらゆる行いにはその根本があるのだ。根本が立ち、そうして枝が茂り葉がふさふさと生える。(利勝の)子孫においても(その繁栄を)祝うことが期待できよう。碑文は以上である。加えてこれに銘(詩)をつなげる。銘は下記の通り。
〔7.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
小折の村、その高い丘にのぼる。
(そこから眺めると)富士山は遠くなく、いくつも連なり見える塚々は(木々に覆われて)ひっそりと静かだ。
(富士塚にしげる)松林では(幹と枝が交差して)その影がつながり、(その合間から北東に)木曽地方が眼に入る。
西に振り返れば近江が見え、東の方角へ三河を指さす。
ここの絶景を問うならば、古人の遊覧をしるすようなもの。
藤の多く生える(清国広西省梧州府の)藤県には巌があり、そこに詩人李白は憩うた(同じようにこの富士塚に憩えば藤の花が眺められる)。
(かつて)蛮族の国の人(=氐族出身で成漢の皇帝李雄)ですら諸葛孔明(の武徳)に敬意を表し、(成漢の本拠たる少城に)武侯廟を建てて彼を祀った。
ましてやこの地域は、(孔明のごとく武徳いちじるしい)神君家康公が(尾張小牧長久手の合戦において)戦いの跡を留めたもうたところなのだ(だから神君血族の尾張徳川氏が名古屋城内に東照宮を建てたのは当然のこと)。
(往時の富士塚の物見では)旗が風にはためき、武具が日に輝いていたであろう。
(そのように生駒氏は)ひと時の間に名声を輝かし、千年の先までその名誉を伝えるのである。
天和2年(1682)2月上旬 武蔵国の学校(=弘文館)林鳳岡がしるす
〔8.建碑と道義 -台座銘文 その1-〕
〇中台座
顕彰碑を立ててはならいと、或る古人はいう。それは、「その子孫が不才ならば(顕彰碑を守ることができず)、空しいことに他人によっておもしの石に使われてしまうからだ」というのである。つまり(そんな事態になるのは大した事跡もないのに)彼にあたかも著しい功績があると主張するからではなかろうか。また、山が谷に、谷が山になるほど遠い未来のことまでも考えをめぐらし、(石碑を谷底深く)水中に沈めた人がいた。(そんな事態を想定するのは)未来における利得の追求といえるのではなかろうか。ああ、功績だと主張したり利得を追求したりするのは、道義的に不適切なことである。(家や国家などは)繁栄する時代があれば衰退する時代もある。モノは、そのままでいる場合もあれば、消えていくこともある。(家が)時とともに衰退しないと察することができない人は、(碑を)建てるべきなのに建てることをしない。モノは(永遠には)あてにできるものでないと理解していない人は、(石が消えゆくにも関わらず、石碑を)沈むべきでないのに沈めてしまう。それが天下の趨勢である。つまりこのようなことをする人は、道義が示すものを知らないのではなかろうか。董仲舒は言う、「道理にかなうことを正しく行い、利得を求めず。人の進むべき道を明らかにして功績を成そうとは求めず」と。以上より考えると、ああ、功績を成そうと求めたり、利得を得ようと求めたりすることは、(道義的にみて)その人の行為の価値を減ずるのだと知るべきである。
〔9.富士塚碑建立の適切さ -台座銘文 その2-〕
私の知己生駒利勝は、父の跡を継いでここ(小折村)を領し、石碑を富士塚に建てる。中国の湖北省襄陽県には峴山という山がある(これは晋代に当地の長官だった羊祜が平生好んで登っていた山で、その死後彼を慕う人々により顕彰碑が建てられた)。(利勝は)ひそかにその峴山のごとき良き先例にならい、しかも林羅山先生の嫡孫で、弘文院学士林鵞峰のご令息・林鳳岡大先生に碑文をうやうやしくお頼みし、彼の先祖達の出自や仕官の状況を刻むのだ。こののち、家系は燦然と輝き、永遠に金石とともに存続していくであろう。これは、道義的にみて適切なことといえ、(石碑を)建てるべくして(その通りに)建て、(水中に)沈めるべきではないから(その通りに)沈めなかったわけである。(だから利勝は、先祖に)功績があったと主張し、また未来における利得を求めようとやっきになっているなどと、どうしていえようぞ(そんなわけはない)。まさに今、利勝のこのすばらしい事業が成されなかったならば、貴人(家康公)が富士塚に遺した事跡は天下に明らかにされることもなかっただろう。貴人が富士塚に遺した事跡があったとして、それに林鳳岡の広く大きな(文章の)才能が無かったとすれば、利勝のこのすばらしい事業は世代を重ねて広まっていくこともないであろう。ああ、土地というものは人によって引き立てられ、人というものは文章によって引き立てられるというが、それはこのことではなかろうか。愚鈍な私は、駿馬のごとき賢人とそろって走ることはできない。けれども低い土地に生える楊の園の道は、小高い丘に続く(そのように小儒の私が大儒林鳳岡に続けて名を連ねる)。そのため、強いて利勝の請願を拒まない。謹んで碑の背面に書す。
天和2年(1682)3月中旬
尾張藩に文学によって仕える臣並河魯山が記す
訓読文・註釈
〔1.建碑の経緯〕
尾張国小折村富士塚碑誌并びに銘
天地は生の本なり。先祖は類の本なり。孝子・慈孫、其の本を知らざるべからざるなり。尾張の国士生駒主計利勝、其の祖の為めに碑を小折村富士塚に建て、而して其の功を著し其の慶を述べ其の名を揚げんと欲し、聊か履歴を記し、以て詞を余に請ふ。余、其の本を忘れざるの志しに感ずるなり。
*尾張国小折村 尾張国北部にあった村。丹羽郡。現愛知県江南市小折町あたり。現在付近には、「生駒屋敷跡」(同町八反畑)、生駒氏の墓所「宝頂山墓地」(同)、同氏菩提寺の跡「嫩桂山久昌寺跡」(同市田代町郷中)などの史跡がある。
*富士塚 お亀塚とも。付近からは須恵器などが出土し、古墳時代の古墳と考えられている。近世前期に成立した『張州府志』は富士塚を「陵墓」と捉えており、比較的古くから墳墓と考えられていた。
*天地者・・・ 『荀子』(礼論篇第十九)で、「礼」について述べた部分からの引用。
*孝子慈孫 孝子は、親に孝行な子。慈孫は、孝心のある孫。
*国士 一国の中ですぐれた人物。
*利勝 生駒利勝(?~1694)。
*述其慶 善行を明らかにする。
〔2.生駒氏 尾張国小折村への移住〕
其の家伝に曰く、在昔忠仁公、山荘を和州生駒郷に建て、而して其の末流、生生焉に居し、遂に生駒を以て氏と為すなり。其の後裔、居を尾州に移し小折村を領す。左京進生駒家広は、利勝六世の祖なり。文明年中、頗る声聞有り。其の次加賀守豊政、其の次蔵人家宗、其の次八右衛門尉家長、相い継ぎて国士と為る。
*在昔 むかし。
*忠仁公 藤原良房(804~72)。平安前期の公卿。人臣最初の摂政。忠仁公はその諡号。
*和州生駒郷 和州は大和国。中世史料に「生駒郷」なる地名は見出しがたく、興福寺一乗院および仁和寺の荘園である生馬荘を指すと考えられる。現奈良県生駒市域。生駒山の東部。
*生生 代々。
*家長 生駒家長(?~1607)。
〔3.織田氏との結びつき〕
右大臣織田信長、家宗の女を娶り、二男一女生まる。其の長は則ち秋田城介信忠、其次は則ち内大臣信雄なり。其の女、岡崎三郎源信康に嫁ぐ。是に由りて信長の家長に於けるや、亦た眷遇譾からず。
*織田信長 1534~82。生前の極官は右大臣。没後、太政大臣を追贈。
*信忠 織田信忠(1558~82)。信長の長子。本能寺の変において信長と時を同じくして討死。極官は左近衛権中将。
*信雄 織田信雄(1558~1630)。信長の次子。信忠と同じく母は生駒氏。極官は内大臣。天正18年(1590)の小田原討伐の後、秀吉は信雄を転封しようとしたが、信雄は尾張・伊勢の旧領にとどまることを望み転封命令を拒んだ。このため秀吉の怒りに触れ、所領を奪われて下野国烏山に配流。
*其女 徳姫(1559~1636)。織田信長の娘。
*岡崎三郎源信康 徳川(松平)信康(1559~79)。徳川家康の長男。
*眷遇 手厚くもてなすこと。
〔4.小牧・長久手の戦いと徳川家康 富士塚の物見〕
天正十二年、信雄と相国豊臣秀吉と隙有り。信雄、志しを東照大神君に通じ、軍事を議す。神君、尾州に入り兵を小牧山に屯す。信雄と共に小折村に赴き、家長の宅に到る。時に家長、信雄の命を承り、勢州長嶋城を守る。嫡子因幡守利豊は年幼く、庶兄右近善長、家に在りて之を拝迎す。世以て栄と為す。神君、小折村より富士塚に登り、敵境を察視して小牧に帰り、遂に和議を成す。同十八年、信雄左遷せらる。家長も亦た身老いて閑居す。利豊、秀吉の命に応じ、関白豊臣秀次に仕へ、従五品に叙せらる。慶長五年、関原の役に、利豊、左衛門大夫福嶋正則に属し、自ら首級を獲る。
*東照大神君 徳川家康(1542~1616)。没後、東照大権現との神号を贈られ、神として祭られた。
*小牧山 尾張国北部の山(現愛知県小牧市堀の内)。永禄6年(1563)、美濃攻めの拠点として織田信長が同国清須から小牧山に居城を移し、全山を砦とした。翌年には稲葉山城(岐阜城)に移った。碑文の通り、小牧長久手の戦いでは、織田・徳川連合軍が同山に布陣し、秀吉軍と対峙した。
*勢州長嶋城 伊勢国桑名郡にあった城(現三重県桑名市長島町西外面)。天正11年(1583)、それまで滝川一益が領していたが、織田信雄の領するところとなり、同18年、豊臣秀吉との不和により没収され、秀吉の甥秀次が領したという。
*利豊 生駒利豊(?~1670)。
*拝迎 うやうやしく貴人を出迎えること。
*世 世人。
*察視敵境 察視は、しらべる。よくみる。敵境は、敵地。
*豊臣秀次 1568~95。秀吉の甥。天正19年(1591)、秀吉の長男鶴松が死に、養子に迎えられて関白となった。文禄2年(1593)の秀頼誕生の後寵愛を失い、高野山へ追われ自殺。
*従五品 従五位。
*福嶋正則 福島正則(1561~1624)。織豊・江戸初期の武将。尾張の人。関ヶ原の戦いで徳川方につき、安芸広島城主となった。
〔5.尾張徳川家への臣従〕
同年、神君、一に闔国を統ぶ。貴胤従三位薩摩守源公の尾張国を領するや、利豊亦た命に依りて之に属従す。其の後、従二位大納言源敬公の尾州に封ぜらるるに及ぶや、利豊優仕し厚く遇せられ、采邑故の如し。利勝は乃ち其の子なり。今黄門正三位の襲封の後、特に利勝を選び、令嗣従三位中将の傅と為す。其の世系此の如し。其の事実此の如し。
*闔国 全国。
*貴胤 貴い家柄の子弟。
*従三位薩摩守源公 松平忠吉(1580~1607)。徳川家康の第四子。慶長10年(1605)、尾張国清洲城とともに尾張一国を領した。同12年、病没。男子なく、家康九男の義直が甲斐国より入部して遺跡を継いだ。
*源敬公 徳川義直(1600~50)。家康の九男。尾張徳川家の祖。慶長12年(1607)、尾張に封ぜられた。源敬は、その諡号。
*優仕厚遇 優仕は、良い待遇で仕えさせる意と見られる。厚遇は、手厚くもてなす。
*采邑 領地。
*今黄門正三位 当時正三位権中納言の徳川光友(1625~1700)。徳川義直の長男。慶安3年(1650)、尾張藩主徳川家第2代。
*令嗣従三位中将之傅 令嗣は、優秀な後継ぎ。従三位中将は、徳川綱誠(つななり、1652~99)。藩主徳川光友の長男で、建碑ののち、尾張藩主徳川家第3代。傅は、後見。
*世系 系譜。
〔6.祖先の余慶 子孫の追遠〕
古に曰く、祖考の嘉名美誉、亦た子孫の冕服牆宇なり、と。利勝、嚮󠄃し祖先の餘慶無くんば、則ち豈に今日の庇蔭を得んや。今奉先の孝無くんば、則ち世世の事業、不朽に垂れざるなり。遠きを追ひ志しを継ぐ者と謂ふべきなり。嗚呼、百行皆本有るなり。本立ち而して枝は繁しく葉は密なり。猶ほ後昆に於いて期祝する所有るがごとし。詞既に成る。且つ之に係くるに銘を以てす。銘に曰く、
*祖考 遠い先祖。
*冕服牆宇 冕服の原義は、貴人が礼式に着用する冠と衣服の意で、牆宇は、かきと軒の意。要するに、立派な衣服・住宅のこと。この辺りは、『顔氏家訓』(名実篇第十)の引用。
*餘慶 祖先の善根によって、子孫が報われること。
*庇蔭 おかげをこうむること。
*奉先之孝 先祖の徳業をよく受け守ること。
*追遠継志 追遠は、先祖の徳を追慕する。継志は、よく前人の志しをつぐ。
*百行 あらゆる行ない。
*期祝 解釈やや難。生駒家の今後の繁栄は確定してはいないが、大いに期待できるので予め祝うとの意と解釈しておく。
〔7.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
小折の村、彼の高丘に陟る。
富士は遠からず、累累たる塚は幽なり。
松林影を接し、木曽眸に入る。
西は淡海を顧み、東は参州を指す。
爰に絶景を問へば、猶ほ昔遊を記すがごとし。
藤県に岩存し、李白、憩休す。
蠻国服信し、以て武侯を祠る。
矧や又た此の境、神君輈を停む。
風は旌旗を払ひ、日は戈矛を照す。
栄を一時に輝かし、誉れを千秋に流す。
天和二年壬戌二月上旬 東武州学整宇主人林戇直民誌す
*小折之村・・・ 四言詩。韻字、丘・幽・眸・州・遊・休・侯・輈・矛・秋(下平声十一尤)。およそ2聯(4句)ごとに文脈の切れ目があると考えられる。
*富士不遠、累累塚幽 下記補足参照。
*松林接影、木曽入眸 塚上からの眺望を表現した聯。生い茂った松の枝が絡まり合い、その隙間から木曽方面(北東方向)が眺められることを述べた。近世では富士塚に松が生い茂り(『尾張名所図会』)、これらは戦時中に伐採され(『江南市史』)、現在は雑木ばかりである。
*顧淡海 顧は、ふりかえって見る。淡海は、近江国。
*指 ゆびでさし示す。
*爰問絶景・・・李白憩休 解釈難。下記補足参照。
*蠻国服信・・・神君停輈 解釈難。下記補足参照。
*風払旌旗、日照戈矛 家康・信雄が物見をした当時の状況を想像して述べた句と見られる。
*東武州学整宇主人林戇直民 林鳳岡(ほうこう、1644~1732)のこと。江戸中期の幕府御儒者。林羅山の孫で、鵞峰(がほう)の次男。諱は戇(とう)、信篤。字は直民。鳳岡、整宇と号す。「東武」は、武蔵国。「州学」は、州に設けられた学校。すなわち林家の私塾弘文館(弘文院。のちの昌平坂学問所)。
〔8.建碑と道義 -台座銘文 その1-〕
〇中台座
古人、碑を立てず。曰く、「子孫不才なれば、徒に他人に鎮石と作さるるのみ」と。斯ち其の功を謀るに非ずや。又た、水中に沈め、而して豫め陵谷の変遷するを推す者有り。斯ち其の利を謀るに非ずや。吁、功利は、道義の当に然るべきものに非ざるなり。夫れ時に盈虚有り、物に消長有り。天の数や、時の失すべからざるを察せず、物の必すべからざるを窮めず、或いは立つべくして之を立てず、或いは沈むべからずして之を沈む。乃ち其れ道義の有る所を知らざるかな。董子曰く、「其の誼しきを正し其の利を謀らず、其の道を明らかにし其の功を計らず」と。此に由りて之を観れば、吁功利の其の事を害ふや、知るべし。
*古人不立碑・・・鎮石耳 鎮石は、おもし。『隋書』(巻四十五・列伝第十・秦孝王俊)に基づく表現。隋・文帝楊堅の三男楊俊が亡くなった際、建碑の動きがあったが、楊堅は許さなかった。「子孫が家を保てなければ、碑は他人によって「鎮石」にされる」と述べ、暗に楊俊とその子孫の無能さを指摘し不許可の理由とした。
*謀其功 大きな功績があると主張する。
*有沈于水中・・・変遷者 『晋書』(巻三十四・列伝第四・杜預)に基づく表現。晋の学者杜預(どよ、222~84)は、功績を後世に残そうと顕彰碑を作り、谷が岡になるようなはるか未来まで考慮して谷に沈めた。
*盈虚 繁栄と衰退。
*消長 ここでは、消えていくことと、そのままでいることの意。
*数 いきおい。
*窮物之不可必 「窮」は理解する、「必」はあてにするの意と見られる。
*董子曰・・・不計其功 董子は、前漢の儒学者・董仲舒(とうちゅうじょ、BC176頃~BC104頃)。『漢書』(巻五十六・董仲舒伝第二十六)「夫仁人者、正其誼不謀其利、明其道不計其功」からの引用。
〔9.富士塚碑建立の適切さ -台座銘文 その2-〕
予の知己生駒利勝は、父の蠱を此に幹し、碑を富士塚に立つ。窃かに峴山の遺風に寓せ、且つ恭しく林羅山先生の嫡孫・弘文院学士の令子整宇瑰儒の誌銘を需め、其の祖考の出自・仕進を鐫る。而して後に、家系燦然として、永く応に金石と共に存すべし。維れ道義の当に然るべくして、立つべくして之を立て、沈むべからずして之を沈めず。豈に其の功を謀り、其の利を謀るに暇あらんや。方に今、利勝の盛挙無くんば、則ち富士塚の台蹤は闔国に顕れず。富士塚の台蹤有りて、而も整宇の宏才無くんば、則ち利勝の盛挙、累世に流れざるなり。夫れ地の人に依りて興るや、人の文に依りて興るや、亦た茲に在らずや。予駑鈍にして、騏驥と轡を同じくせず。然るに楊園の道は、畝丘に猗る。是を以て強ひて利勝の請を拒まず。而して謹んで碑背に書く。
天和二稔玄黙閹茂三月仲浣
尾陽詞臣釣耕軒並河魯山記す
〇下部台座
関山派下
永泉野釈郡特門謄写す
天和四載甲子孟春己卯日
尾陽長久寺現住卓玄、地鎮法を修す
京師石工来宮石見守左衛門尉藤原広次流
尾州城下石工
井上長兵衛尉藤原広則、之を鐫る
天和四甲子稔孟春吉辰
*幹父之蠱 父の跡を継ぐ。『易経』蠱に基づく表現。
*峴山之遺風 「峴山」は、中国湖北省襄陽県の南にある山。晋代にここの長官となった羊祜(ようこ、221~78)が好んで登ったと伝える。後人は彼を慕って碑(堕涙碑)を建てた。「遺風」は、後世にのこる昔の風習。
*林羅山 1583~1657。江戸初期の儒者。京都の人。幕府御儒者林家の祖。
*弘文院学士 林鵞峰(1618~80)。江戸前期の儒者。羅山の子。弘文院は、「*東武州学・・・」参照。学士は、高官碩儒に授与された称号。
*瑰儒 博雅な儒者。
*仕進 官に仕えること。
*台蹤 貴人の足跡。ここでは徳川家康の足跡。
*宏才 広く大きい才能。
*駑鈍 才が鈍く知恵が足りないこと。
*騏驥 賢人。
*楊園之道猗于畝丘 『詩経』小雅・巷伯からの引用だが、解釈難。小儒並河魯山が大儒林鳳岡に続けて名を連ねる意か(『江南市史』)。
*玄黙閹茂 玄黙は、「壬」の意と見られる。閹茂は、戌。
*仲浣 中旬。
*尾陽詞臣釣耕軒並河魯山 尾陽は、尾張(「陽」は国名・地名の後に美称として付けて用いる語)。詞臣は、文学侍従の臣。並河魯山(1629~1710)は、江戸前期の儒者。名は子健。字は徳脩。別号に釣耕軒。尾張藩主徳川光友・綱誠に仕える。
*関山派下永泉野釈 関山は、鎌倉後期・南北朝期の禅僧で、妙心寺開山の関山慧玄(かんざんえげん、?~1360)。派下は、その法孫。永泉は、尾張国犬山の臨済宗妙心寺派景徳山永泉寺と考えられる(現愛知県犬山市裏之門)。
*長久寺 名古屋城下の真言宗長久寺と考えられる(現名古屋市東区白壁)。
*地鎮法 建造物建立に先だつ仏教式の地鎮祭。
画像






















その他
補足
- 本碑文は、すでに『江南市史』はじめ各種文献に収載されている。判読困難な箇所はこれらを参考とした。
- 「富士不遠、累累塚幽」について:
前句の富士は、富士山のこと。前句の解釈には、(一)塚上からの眺望が良いので、遠方の富士山も近くに見える、(二)「富士塚」を富士山と見なし、ここに登れば実は富士山が遠くなかったの2通りある。前者をとる。
後句は、富士塚上からの眺めを表現したと考えられる。この付近には、富士塚を含め「小折古墳群」と称される大小古墳(既に消滅もあり)の遺跡があり、生駒氏族や同時代人の墳墓があった。小牧山程度のやや遠方に目を向けても古墳が点在している。この地域は基本的に濃尾平野と呼ばれる平野である。以上を参考とすると、木々に覆われて「幽」すなわちひっそりと静かな「塚」=墳丘が、富士塚上から、「累累」すなわちいくつも連なり見える状況を表現したと考えられる。 - 「爰問絶景、猶記昔遊。藤県岩存、李白憩休」について:
この2聯は、富士塚から見える「絶景」を、中国の地理・伝承を用い装飾しつつ説明していると考えられる。「藤県」は、清国広西省梧州府にある藤県(現中国広西チワン族自治区梧州市藤県)。清代成立の地歴書『読史方輿紀要』(巻一百八・広西三)によれば、藤県は、藤が多く自生することから名付けられた県で、李白が通ったという「李白巌」が県内にある。
ゆえに撰者は、富士塚から藤の花の絶景が見られることを陰に述べたと見られる。ただし、その藤の花の景色がどこを指していたのか未詳。
なお生駒氏は藤原氏なので、殊更に「藤」を銘に詠みこんだと考えられる。 - 「蠻国服信、以祠武侯。矧又此境、神君停輈」について:
前聯は、蛮族ですら諸葛孔明(諱は亮。諡号は忠武侯)の武徳を慕って廟を建てた故事を述べる。『方輿勝覧』(宋代成立。巻五十一)によれば、孔明(181~234)の没後、人々は各自に彼を祀ってきたが、五胡十六国時代に至り、チベット系の氐族出身で成漢の初代皇帝李雄(274~334)が、四川を制圧し成都王を称するに及ぶと、少城(成都の内)の中に廟を築き孔明を祀った。これが現代にも続く武侯祠(武侯廟)である。
後聯は、前聯を踏まえ、尾張の地に東照宮が建てられたことを述べたものと見られる。家康は、小牧長久手の戦いにより尾張の地に重要な足跡を遺した(「停輈」は兵車のながえをとどめる、すなわち戦争の足跡を遺すの意)。その尾張の地の名古屋城内において、元和5年(1619)、一族の尾張徳川氏により天下一統の武勲を慕い東照宮が建てられた(後に戦災で焼失、移転)。
なお一読すると、生駒氏によって小折村の地に東照宮が建てられたかのように読めるが、その事跡は確認できないので、ここでは名古屋東照宮を指すと考えた。同国内とはいえ小折村と名古屋城は随分遠いように見えるが、江戸に住む林鳳岡にとっては、巨視的に同じ地域だと思えたのだろう。
参考文献
- 『江南市史 資料二 文献編』(江南市、1977年)175~8頁。
- 『江南市史 資料四 文化編』(江南市、1983年)67~70、81~5頁。
- 『江南市史 本文編』(江南市、2001年)56~61頁。
- 『新釈漢文大系 6 荀子下』(明治書院、1969年)548~54頁。
- 『新釈漢文大系 111 詩経中』(明治書院、1998年)361~5頁。
- 加藤常賢編『世界教育宝典 中国教育宝典(下)』(玉川大学出版部、1972年)186~7頁。
- 『尾張名所図会 下巻』(大日本名所図会刊行会、1919年)424~31頁。
- 『張州府志 四』(名古屋史談会、1914年)53~4頁。
- 『士林泝洄』巻第五十九・生駒(『名古屋叢書続編 第十九巻 士林泝洄(3)』(名古屋市教育委員会、1968年)136~9頁)。
所在地
尾張国小折村富士塚碑および碑文関連地 地図
所在:
「富士塚」丘上|愛知県江南市南山町
アクセス:
名鉄犬山線 布袋駅 下車
徒歩約5分
「富士塚」と明示する、江南市教育委員会設置の看板あり
編集履歴
2024年12月6日 公開
2025年2月19日 小修正