海嘯紀念碑 -岩手県宮古の三陸津波-

海嘯紀念碑
左から二基目
概  要

明治29年(1896)に発生し激甚な被害を及ぼした三陸さんりく津波の記念碑。岩手県のけい村(現宮古市)の被災状況について、当時を思い出すように刻んでいる。たんの節句の日、祝い酒に酔う中、弱震動の後に突如かいしょう(大津波)が襲い、「阿鼻叫喚・修羅」の世界が現出したという。七回忌に当たる年、子孫に伝えるべく同村の人々によって建碑。津波襲来までの状況を丁寧に述べるのは、減災啓発の意図があると考えられる。

資料名 かいしょう紀念碑
年 代 明治35年(1902)
所 在 公道脇|岩手県宮古市磯鶏石崎
 北緯39°38’01″ 東経141°57’46”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 特になし
ID 0057_2412

目次

翻刻

「海(題字)紀念碑」
恰当午佳節、家々酔酒之日、突如而来、忽現出
鼻叫喚修羅巷。明治二十九年六月十五日之海
嘯、豈夫不無残乎。今概記光景。此日陰雲暗〔澹〕、時々
雨。至於暮、感弱震数回。後遥聞如々遠雷異響。
人皆恠之。〔発ヵ〕濤、宛如疾風激来、迨両回。破砕
家屋、人畜、頗極惨矣本村其(磯鶏村)甚者、為浜・金
浜二区、及鶏区内石崎・飛鳥方・神林・白浜四所。流
失家屋百廿一戸、死者九十六名。海嘯区域、南自
前石巻、北至奥北郡。奪霊殆三万。可謂極悲惨
矣。今茲丁七年忌、為紀念磯鶏区民一同及友団
員相謀建碑、以伝後昆云爾。
 明治三十五年五月
    磯鶏区 横死者、男廿七人、女三十一人
        流失家屋、五十三戸、〔水没ヵ〕十戸

現代語訳

かいしょう(津波)紀念碑
あの日はちょうど端午の節句(陰暦5月5日)というおめでたい日に当たり、家々では祝い酒をのんで酔うていた。あれは突如として来たり、たちまちこの街は、惨苦に満ちた阿鼻叫喚の地獄、醜い争いのやまぬ修羅道の世界となってしまった。明治29年(1896)6月15日の津波は、ああ、残酷でないなどとどうしていえようぞ。今おおよそその光景を記しておく。この日は雲が空を覆って薄黒く陰気がたちこめ、時々雨が降っていた。日が暮れようとするころ、数回にわたり弱震が感ぜられた。その後、すさまじく鳴り響く遠雷のように異様な響きが遠くから聞こえてきた。人々はみなこれを不審に思った。思いもかけず巨大な津波が起こり、あたかも疾風のように激しく打ち寄せる。それは2回に及んだ。家屋を破り砕き、人畜の息の根をとめ、すさまじく残酷な事態となった。本村(磯鶏いけい村)において特に被害の大きかったのは、高浜たかはま金浜かねはまの2区、そして磯鶏区の内で石崎いしざき飛鳥方あすかた神林かんばやし白浜しらはまの4ヶ所だった。流失した家屋は121戸、死者は96名。津波の起こった地域は、南は陸前りくぜん石巻いしのまきから北は陸奥むつ北郡きたぐんにまで至る。奪われた生命はほぼ3万。悲惨を極めたといってよい。今ここに七回忌に当たり、記念のため磯鶏区民一同および愛友団員が協議して碑を建て、そうして子孫達に伝える。以上である。
 明治35年(1902)5月

訓読文・註釈

かいしょう紀念碑
あたかたんせつに当り、家々しゅくしゅに酔ふの日、突如として来り、たちまきょうかん修羅しゅらちまたを現出す。明治二十九年六月十五日の海嘯、れ無残ならざらんや。今おおむね光景を記さん。此の日、陰雲暗澹あんたんとして、時々にあめふる。はくに至り、弱震を感ずること数回。後に遥かに殷々いんいんたる遠雷の如き異響を聞く。人皆な之をあやしむ。たまたま大こうとうおこり、あたかも疾風の如く激しくきたること両回におよぶ。家屋をさいし、人畜をたふし、すこぶさんきわむ。本村の其の害の最も甚きは、高浜たかはま金浜かねはま二区、及びけい区内石崎いしざき飛鳥方あすかた神林かんばやし白浜しらはま四所り。流失家屋百廿一戸、死者九十六名。海嘯の区域、南は陸前りくぜん石巻いしのまきより、北は陸奥むつ北郡きたぐんに至る。しょうりょううばふことほとんど三万。悲惨をきわむとふべし。今ここに七年あたり、紀念のめ磯鶏区民一同及び愛友団員、相い謀りて碑を建て、以てこうこんつたふとしかふ。
 明治三十五年五月

*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。

*端午佳節 端午は、陰暦5月5日の端午の節供。津波の起こった明治29年(1896)の太陽暦では6月15日。

*祝酒 祝い酒。

*阿鼻叫喚修羅 阿鼻叫喚は、阿鼻地獄に陥った者が泣き叫ぶように、惨苦に陥って号泣し救いを求めるさま。修羅は、修羅道のこと。醜い争いや闘いの絶えない世界。どちらも仏教的世界観による表現。

*薄暮 暮れ方。

*殷々 音が大きく鳴り響くようす。

*偶数 意味不明。「数」は、「発」(旧字「發」)を誤って刻んだと考える。

*洪濤 巨大な波。

*斃 死滅させる。

*本村 岩手県東閉伊(ひがしへい)郡磯鶏村。現宮古市磯鶏ほか。北に閉伊川が流れ、東に宮古湾を面する。

*最 「最上の」とすると文意を整合的には把握し難いので、「ことさらに」と訳した。

*高浜・金浜二区 どちらも磯鶏村内の地名(現岩手県宮古市高浜および金浜。「*本村」も参照)。どちらも宮古湾に面する。

*磯鶏区内石崎・飛鳥方・神林・白浜 「磯鶏区」は、磯鶏村の中心部(「*本村」参照)。「石崎」は、現岩手県宮古市磯鶏石崎。「飛鳥方」は、飛鳥潟ともいい、「石崎」と「神林」との中間を指すと見られる。「神林」は、現同市神林。「白浜」は、現同市白浜。すべて宮古湾に面している。

*陸前石巻 陸前は、旧国名。明治元年(1868)太政官布告により、(旧制)陸奥国を五分割して設置された国の一。ほかに陸中・(新制)陸奥などがある。同4年の廃藩置県で行政上意味を成さなくなった。現宮城県の大部分。石巻は、宮城県牡鹿郡石巻町(現同県石巻市)。

*陸奥北郡 陸奥は、(新制)陸奥国(「*陸前石巻」参照)。現在の青森県にほぼ相当。北郡は、同国に設置されていた郡。廃藩置県の後の明治11年、上北・下北の二郡に分割された。現在の青森県東部。

*生霊 生きもの。仏教語。

*愛友団 未詳。

画像

全景 (左から二基目。撮影日:’24/11/20。以下同じ)
碑面
上部
国道45号線沿いにあり。南向きに撮影。
左に防潮堤が見える。
石碑前から国道45号線を南向きに撮影
右手奥が磯鶏石崎
石碑背面の高台から東方向に宮古湾を撮影
比較的新しい防潮堤がみえる

その他

補足

  • 本碑文は、『宮古市の石碑』に収載されている。判読困難な箇所はこれを参考とした。

参考文献

  • 『宮古市の石碑』(宮古市教育委員会、1984年)78頁。

所在地

海嘯紀念碑(岩手県宮古)および碑文関連地 地図

所在
公道脇|岩手県宮古市磯鶏石崎

アクセス
三陸鉄道 リアス線 磯鶏駅 下車
徒歩約5分
南北に通る国道45号線の西側にあり

編集履歴

2024年12月10日 公開

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