両石海嘯紀念碑  -涙は凝りて貞珉と成る-

両石海嘯紀念碑(右から二基目)
概  要

 明治29年(1896)に発生し甚大な被害を及ぼした三陸さんりく津波の記念碑。岩手県釜石かまいし市のりょういし地区に立つ。両石は三陸海岸沿いの村で、山林に囲まれ耕作地の少ない谷間に人家が密集する。狭い谷はそのまま海に落ち込んで水深の深い良港を形成し、村民は漁業・海産物交易を生業とし、港は当地の産出鉄の移出港ともなった。生業を生み出すリアス式海岸の地形は、津波ではアダとなりその力が増幅される。碑文によれば村の生存者204名に対し、罹災死者は790名。すさまじい被害だった。「生者の涙が凝り固まり碑となった」と刻むが、この詩的表現は誰しも否定しがたく、加えて読む者の涙すら催す。「たとえ碑文が苔むし摩滅しても、子孫よ、被災内容を口伝えに伝えていけ」との一文も極めて印象的。津波発生から6年後に村民によって建碑されたと考えられる。建碑と同時に追善供養の仏事も修された。

 撰者は北海ほっかい居士こじ(広田北海)と名乗る岩手遠野とおのの学者。末尾の漢詩は、ごう死者の霊魂に呼びかけて輪廻りんねからのだつを願う鎮魂歌で、津波被災のありようと類似する語句を仏典とりわけ禅籍中に求めて使用し、悲劇的な事実と、解脱という肯定的な願望とが重層的に一詩中に表現されている。平成23年東日本大震災においても、この地区は甚大な津波被害があった。碑は、百年経った現在でも減災啓発の点でその存在意義を失っていない。

資料名 りょういしかいしょう紀念碑
年 代 明治35年(1902)
所 在 公道脇|岩手県釜石市両石町
 北緯39°18’44″ 東経141°53’05”
文化財指定     
資料種別 石碑
銘文類型 同時代的事件(災害)
備 考 年代は撰文の年。
ID 0058_2412

目次

翻刻

嘯紀念碑
碑可滅矣。此恨不可滅也。縦令雨洗苔蝕碑字磨滅、
子孫、伝碑長語明治二十九年六月十五日海嘯
之災。当時災水之所波及、〔渉〕陸沿海百里之地。以
両石一邨、猶喪七百九十人。其全生於瀾之中者、僅
二百四人而已。何其惨也。弩射潮、而難殺若之威、
衛填海、不能減鬼之恨。今也生者之涙、凝成珉、
刻文祭、以修冥福。石雖小、而其功徳也大。〔然ヵ〕
可滅矣。此碑不可滅也。銘曰、
**踢踢翻、 這辺那辺。 波万頃、 好箇墓田。
生死岸、 棹無底船。 兮其瞑、 月朗海天。
明治三十五年七月  海居士広田忠蔵撰并書

現代語訳

りょういしにおける津波の記念碑
この碑は消えて無くなってしまうだろうか。(もしそうなったとしても)この恨みが消えて無くなることはあるまい。たとい雨水に濡れて苔むし、石を蝕んで刻字が摩滅してしまったとしても、このこと(=刻字内容)を口伝えに伝えて明治29年(1896)6月15日の津波災害を永遠に語り継ぎなさい。当時、災いをもたらした大水(=津波)の及んだところは、三陸沿海の百里の地にわたった。両石の一村においてさえ790人もの命が失われた。大波の荒れ狂いさかまく中でも命を全うした者は、わずかに204人だけだった。なんと悲惨なことだろう。強い大弓をもってうしおを射抜いたとしても、かいじゃく(=海の神)の威力は殺ぎかねるし、かのせいえい(=古代中国の想像上の鳥)がいくら木石をくわえて海を埋めたとしても、罪なく命を奪われた霊魂の恨みを和らげることはできない。生き遺された人々の涙が凝り固まったかのように、今や固く美しい碑ができあがり、そこに文を刻みつけ、祭典を設けて死者を供養する。石は小さくはあるけれども、(この石碑の前で死者の追善供養をすることは)大きな功徳くどくがある。そのため、この恨みは消えて無くなっていくだろうか。(もしそうなったとしても)この碑が消えて無くなることがあってはならない。銘は以下の通り。
  〇以下押韻ごとに改行。
一蹴りに(海水が)ひるがえる、ここもかしこも。
青々とした波はどこまでも広がる。(津波により大海へと流されていった村人の)お墓にするにはいかにも好ましかろう。
(人々は津波に流され村の岸を離れて遠い彼方に船出していった。そのように死者は、)生き死にを繰り返し輪廻りんねして苦悩するこの世の岸を(碑前の追善供養によって)離れ船出し、解脱げだつの境地へと漕ぎゆくであろう。
(海中の)霊魂よ、暗くてよく見えないのではなかろうか(=非業の死を恨んで煩悩がつきないのではなかろうか)。海上の明月は影一つなくあまねく照らしているよ(=解脱の境地は他にあるのではなく自身が内包しているよ)。
明治35年(1902)7月

訓読文・註釈

りょういしかいしょう紀念碑
此の碑、滅すべきか。此の恨み、滅すべからざるなり。縦令たとい、雨の洗ひ苔のむしばみて碑字磨滅するとも、子孫よ、之を口碑こうひに伝へとこしへに明治二十九年六月十五日の海嘯のわざわひを語れ。当時さいすいの波及する所、三陸さんりく沿海百里の地にわたる。両石一邨いっそんを以てすら、ほ七百九十人をうしなふ。其のせいきょうらんの中に全ふする者は、わずかに二百四人のみ。何ぞ其のさんたるなり。きょうもてうしおを射るも、かいじゃくの威をぎ難く、せいえいの海をうずむも、えんの恨みをげんあたわず。今やせいじゃの涙、りて貞泯ていびんと成り、文を刻み、さいを設け、以て冥福めいふくを修す。石は小なりいえども、しこうして其の功徳くどくや大なり。しかれば則ち、此の恨み滅すべきか。此の碑、滅すべからざるなり。銘に曰く、
  〇以下押韻ごとに改行。
ひとりにひるがえす、這辺ここ那辺そこも。
へきばんけいにして、こうでん
しょうの岸を離れ、ていの船にさおささん。
こんよ其れくらからん、月は海天かいてんほがらかなり。
明治三十五年七月  北海居士こじ広田忠蔵撰ならびに書

*両石 明治29年(1896)震災および建碑当時の行政区分は岩手県南閉伊郡鵜住居(うのすまい)村で、両石はその一地区(現同県釜石市両石町)。両石村など4村が明治22年に合併して鵜住居村が成立した。

*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。

*此碑可滅矣。此恨不可滅也 この冒頭の二文は、末尾の二文(「此恨可滅矣。此碑不可滅也」)と合わせて解釈難。「可」「矣」をどう解釈するか、前後文の接続関係をどう見るかで、いくつか解釈があり得る。ここでは前後両文の「可」を推量ととり、「矣」を疑問の助辞ととり、前文を逆接仮定条件として後文が接続すると解釈した。他方末尾の二文は、「矣」と前後文の接続関係は冒頭と同じで、前文の「可」を推量、後文の「可」を義務ととった。

*之 この碑の文章を指す。

*口碑 言い伝え。石碑の文章が後まで長く残るのになぞらえた言い方。

*三陸沿海百里之地 三陸は、明治初年に設置された陸前・陸中・(新制)陸奥の三国。およそ現在の宮城県・岩手県・青森県に相当。百里は、おおよそ390キロメートル。

*狂瀾 荒れ狂う波。

*強弩 強い大弓。

*海若 海の神。

*精衛填海 精衛は、古代中国の想像上の鳥。炎帝の女が東海に溺死して化したもの。常に西山の木石をくわえて東海を埋めようとしたという。この辺りは、海を恨んでもどうすることも叶わないことを述べている。

*冤鬼 無実の罪で死んだ人の霊。

*貞珉 固く美しい石。

*設祭以修冥福 この石碑の前で祭壇を設け、被災者の亡霊を招魂して追善供養の仏事を行ったということ。

*此恨可滅矣。此碑不可滅也 「*此碑可滅矣。此恨不可滅也」参照。

*一踢踢翻・・・ 四言詩。韻字、辺・田・船・天(下平声一先)。

*一踢踢翻、這辺那辺 「踢」は、ける。「這辺那辺」は、ここかしこ。地面の水たまりを蹴ると水が翻って一面に飛び跳ねるように、大海の大津波がいたるところに到達したことを表現する聯。前句は、「一踢踢翻鸚鵡洲」(『碧巌録』巻二)など類似表現が禅籍で良く見られる。「這辺」も「那辺」も禅籍で頻出する語句。

*碧波万頃、好箇墓田 「碧波」は、青々とした波。「万頃」は、広々としていること(「頃」は中国の地積の単位)。「好箇」は、ちょうどよいこと。適当なこと。「墓田」は、墓となる地。本聯は、津波によって大海へと流され死んでいった人々の墓所として、広々とした大海は墓所として好ましいといっており、非業死者や遺族に対しての慰めの言葉と理解できる。

*離生死岸、棹無底船 「生死岸」は、生々流転(るてん)を繰り返す迷いの世界。此岸(しがん)。「棹」は、棹を水底に突き立てて舟を進める。「棹無底船」とは、自由無礙の解脱の境地に入る。「無底船」は、禅籍でしばしば見られる語句。人々は津波によって陸から海へと去っていったわけだが、本聯は、その悲劇的な事実を、仏教語ないし禅語を用いて置き換え、追善供養により彼らが解脱の境地に入るとの肯定的な状況ないし願望を表現しようとしている。

*魂兮其瞑、月朗海天 解釈難。「魂兮」は、亡魂に対しての呼びかけ。『楚辞』(招魂)に頻出する表現。「瞑」は、暗いとの意と見られる。海に流されて沈んだ亡魂に対して、「暗いのではないか」と問いかけるとともに、非業の死を恨んで煩悩の闇に包まれているのではないかとの意味も含ませていると考えられる。「月朗」は、月が明るい。「海天」は、海上の空。後句は、『臨済録』の一文「海月澄無影、遊魚独自迷」を念頭に置いていると見られる。海上ではいたるところを照らす月光をたよりに、解脱の境地へと至れと亡魂に対して励ましているらしい。

*北海居士広田忠蔵 広田北海(1867~1927)。岩手県の遠野(とおの)の人。学者。北海はその号。居士は、在俗の仏教信者。銘には、禅籍を典故とする語句が複数あるので、禅宗に傾倒していたと思われる。

画像

全景 (右から二基目。撮影日:’24/11/21。以下同じ)
碑面
背面から国道45号線を撮影。
「過去の津波浸水区間」の標識が立つ。
国道45号線沿いの両石の集落。
東日本大震災後の新築住宅群。
両石の集落から海を見る
両石の海
防潮堤が見える

その他

補足

  • 正確な解釈を施すことが困難な箇所がいくつかあります。現代語訳は参考程度にお読みください。
  • 判読困難な箇所は、卯花政孝1991を参考にした。

参考文献

  • 卯花政孝「三陸沿岸の津波石碑 -その1 釜石地区-」(『津波工学研究報告』8、1991年)190頁。
  • 『遠野市史 第四巻』(遠野市、1977年)第三章人物「広田北海」。

所在地

両石海嘯紀念碑 地図

所在
公道脇|岩手県釜石市両石町

アクセス
三陸鉄道 リアス線 両石駅 下車
北西に徒歩約15分
高架する三陸鉄道の線路を過ぎ、国道45号線の北側にあり

編集履歴

2024年12月27日 公開
2025年2月19日 小修正

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