三陸大海嘯溺死者弔祭之碑  - 製鉄所の被災 -

三陸大海嘯溺死者弔祭之碑
概  要

明治29年(1896)に発生し東北地方に激甚なる被害を及ぼした三陸津波の碑。岩手県釜石かまいしの寺院境内に立つ。釜石の地には鉄鉱山があり(現在廃坑)、近世以来採掘や製鉄が行われてきた。明治初期に操業していた官営製鉄所を引き継いだ田中長兵衛は、民営の釜石鉱山田中製鉄所として再発足させ、苦心の末やがて全国の銑鉄せんてつ生産高の多くを占めるようになる(現在日本製鉄の運営)。この製鉄所の職員や工員・家族も津波によって被災し、百名以上が溺死。生き残った同僚によって、被災の顛末を刻む碑が翌年建てられた。彼ら非業ひごう死者の菩提ぼだいをとむらうため本碑自体がしょうこんの拠り所(招魂碑)とされ、折々に追善仏事をしていくこととされた。

資料名 三陸さんりくかいしょう溺死者ちょうさい之碑
年 代 明治30年(1897)
所 在 石応寺 境内|岩手県釜石市大只越町
 北緯39°16’32″ 東経141°52’50”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 特になし
ID 0059_2501

目次

翻刻

「弎(篆額)嘯溺死者祭之碑」
之大、莫過於死焉。死之惨、莫甚於罹水火杖震雷之災焉。況其屍
累以万数、可謂惨中之惨至此極矣。三陸之地、東方皆海、一望然、
無知際。明治二十九年六月六日初夜、雲掩海。俄然浪滔天、
湧飜倒、恰如万雷一時轟。劈山裂石秡樹摧船、勢所及、南北
百里。青森・岩手・宮城三県之地、尤蒙其。千戸万家、一時蕩、父子兄
弟、無遑相済、夫婦朋友、或同魚腹、或幽異途、死者無弔祭、生者無
屋宅衣食。老幼病弱、悲泣痛哭、却恨其免万死得一生。傷心目、何事
如之。手県釜石町(南閉伊郡)、亦罹害極甚。町有中製銕所。職員・夫及其
眷等、為之溺死者、一百三名。同僚存者、痛悼之情不能禁。与東京田中
本店及大阪田中支店諸員、謀欲建碑石於応寺境域、以為招魂
之処、時追弔、而祈冥福。寺主智賢長老、来請余文。余固悲彼惨死切
也。乃一偈、以薦一百三名、併回向諸溺死者云。偈曰、
 歿三万、 坤沈淪。 天子痛、 下詔賜金。 老幼得活、
 兆懐仁。 唯其死者、 噫奈神。 之檀度、 庶幾真。
 石説法、 刹刹塵塵。 遮大会、 無主無賓。 正偏転、
 〔願ヵ〕輪。  勅特賜性海慈船禅師平悟由撰
  明治三十年三月   藹藹居士内青巒書

  〇以下、卯花1991に拠る。
死亡者
 役員及家族
  (人名略)
   外 弐拾壱名
 職工及家族
  (人名略)
   外 弐百九拾名

建設者
 東京田中本店員一同
 釜石田中製鉄所員一同
 大阪田中出張店員一同

世話人 陸前石巻 丸山清平
石材出品人 陸前稲井 阿部勇之丞

現代語訳

〔1.万死にいたる災禍〕
三陸大津波溺死者をとむらい祭る碑
死よりまして非常な出来事など存在しない。洪水や火事、戦争、地震、雷の災禍を被って死ぬことほど、惨め極まりない死に方など存在しない。まして、おびただしい死体を一万体も数えなければならないとすれば、それはむごいことの中でもとりわけ惨いことが、遂に極まったものといってよい。
〔2.三陸津波の甚大さ〕
三陸の地は東がすべて海であり、一望すれば広々として果てしなく、どこまで続いているのか分かりようもない。明治29年(1896)6月16日のしょ(15日の午後8時頃)、真っ黒な雲が海を覆っていた。荒れ狂う大波が突如として天までみなぎり、勢いよくひっくり返って倒れてきた。それは、あたかも一万の雷が時を同じくして轟き響き渡るようであった。山を割き岩を砕き、樹木を払い船舶を砕き、その暴虐な勢いが及んだところは南北数十里から百里(約390キロメートル)にわたる。青森・岩手・宮城3県はその災禍を特にこうむったところである。千万の家々が時を合わせて水に漂い、父子や兄弟は救い合う余裕すらなく、夫婦や友人同士が、あるいはともに溺死して魚の腹に収まり、あるいは(生き別れ死に別れて)この世とあの世とで住む世界を変えてしまった。死者にとっては、彼を弔い祭る人が無く、生き残った者は住居・衣服・食事が無かった。老いた者や幼き者、病気や虚弱の人々は、悲しみに泣き叫び、万死に一生を得られたことを却って恨むほどだった。これほどに心痛ましく、またこれほど見るに忍びないことが、他にあるだろうか。
〔3.釜石製鉄所の溺死者〕
岩手県(南閉伊へい郡)釜石かまいし町においても、その被害は極めて大きかった。同町には田中製鉄所がある。職員・工事労働者やその身内の人々で、これがために溺死した者は103名。
〔4.建碑の経緯〕
生き残った同僚の人々は、哀悼の念が起こるのを禁じ得ないでいた。(そのため)東京田中本店および大阪田中支店の諸員と相談した。すなわち、碑石をせきおう境内に建ててここをしょうこんの場とし、年々また時々に(亡魂を)弔い祭って冥福を祈りたいと考えた。寺のあるじ智賢長老は私のもとに来て文の作成を求めてきた。もとより私は、(人々が)かように惨めに死んでいったことをひたすらに悲しんできた。だから(碑文作成を応諾し、鎮魂のための)(漢詩)を1首作成し、(この場で成す仏事で得られた功徳くどくを)主として103名に奉り、合わせて溺死諸人に振り向ける。以上である。偈は以下の通り。
〔5.偈〕
  〇以下押韻ごとに改行。
溺れ死んでいった3万の人々、天地の間に深く深く沈んでいった。
天皇はきゅうじょうにて心悩まし、詔勅を下して金銭をたまう。
老いも幼きも生きながらえて、万民その仁に感じ入る。
しかし、かの死んでいった者達よ、ああ、その魂をいかにせん。
法要の施主達は、(亡魂の)解脱げだつを切に願う。
はんきょうによって)無心の石にさえ法を説く(すると石はうなずく)。数限りない無数の石も(うなずく    それほどに経典は効果があるから、きっと亡魂にも効果がある)。
一切平等慈悲のこの法会は、主体もなければ客体もない(施主も亡魂もすべてが平等に功徳を受ける)。
まさにあまねく(仏法に)したがって、諸菩薩ぼさつが誓って成した法輪ほうりんに共に乗じよう。
  明治30年(1897)3月

訓読文・註釈

〔1.万死にいたる災禍〕
さんりくかいしょう溺死者ちょうさいの碑
へんの大なる、死よりぐるものし。死のさんたる、水火とうじょう震雷しんらいわざわひにかかるよりはなはだしきは莫し。いわんや其のしかばね累累るいるいとして万を以てかぞふるは、惨中の惨の、ここに至りてきわまるとふべし。

〔2.三陸津波の甚大さ〕
三陸の地、東方は皆海にして、一望すればびょうぜんとしてがいさいを知る無し。明治二十九年六月十六日しょあんうん海をおおふ。ぜんとしてろう天にはびこり、きょうゆう飜倒ほんとうし、あたかも万雷の一時にとどろくが如し。山をいわき樹をはらひ船をくだき、きょうせいの及ぶ所、南北数十百。青森・岩手・宮城三県の地、尤も其のどくこうむる。千戸万家、一時にひょうとうし、父子兄弟、相いすくふにいとま無く、夫婦朋友ほうゆう、或いはともぎょふくに葬られ、或いは顕幽けんゆうみちことにし、死者はちょうさい無く、しょうじゃは屋宅衣食無し。老幼病弱、きゅう痛哭つうこくし、かえって其の万死に一生をるすら恨む。傷心さんもく、何事か之にかんや。

〔3.釜石製鉄所の溺死者〕
岩手県釜石かまいし町も、た害にかかること極めて甚し。町に田中せいてつしょ有り。職員・こう及び其のけん等、之が為に溺死する者、一百三名。

〔4.建碑の経緯〕
同僚の存する者、痛悼つうとうの情、禁ずあたはず。東京田中本店及び大阪田中支店の諸員とともに、い謀りて碑石をせきおう境域に建て、以てしょうこんところし、さいついちょうし、しこうして冥福を祈らんと欲す。寺主智賢長老、きたりて余に文を請ふ。余、もとより彼のざんを悲しむこと切なり。すなわいちを打ち、以て専ら一百三名にすすめ、あわせてもろもろの溺死者に回向えこうすとふ。偈に曰く、

〔5.偈〕
  〇以下押韻ごとに改行。
溺れ歿ぬる三万、乾坤けんこん沈淪ちんりんす。
天子しんに痛み、みことのりを下して金を賜ふ。
老幼かつを得て、おくちょう仁をおもふ。
ただ其の死ぬる者は、ああしきしんをばいかんせん。
法のだんしんせんと庶幾こいねがふ。
がんせきに法を説く。刹刹せつせつじんじんに。
しゃだいに、しゅ無くひん無し。
正にひとえ宛転えんてんし、ともがんりんに乗らん。
        ちょくとく性海慈船禅師えいへい悟由撰す
  明治三十年三月   藹藹あいあい居士こじ大内青巒せいらん書す

*弎陸 三陸は、明治初年に陸奥国を分割して設置された陸前・陸中・(新制)陸奥の3国。およそ現在の宮城県・岩手県・青森県に相当。

*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。

*弔祭 死者の霊をとむらいまつること。

*変之大 非常な出来事。

*刀杖 通用の意は、刀剣のたぐいの総称。ここでは戦争の意と見られる。

*累累 つらなるさま。

*渺然 広々として果てしないさま。

*涯際 はて。かぎり。

*十六日初夜 初夜は、現在の午後8時頃。なお三陸津波の起こったのは、15日午後8時頃。撰者は、日没により日が改まると考えていたらしい。

*黯雲 真っ黒い雲。

*怒浪滔天 怒浪は、荒れ狂う大波。滔天は、天までみなぎる。

*洶湧飜倒 洶湧は、水が勢いよくわき出るさま。飜倒は、ひっくり返りさかさまになる。

*兇勢 1字目は、原文で「𠒋」に作るが、「兇」と判断した。兇勢は、暴虐なる勢い。

*数十百里 数十里から百里。100里は、おおよそ390キロメートル。

*毒 わざわい。

*漂蕩 水にただよう。

*葬魚腹 水中に溺死する。

*顕幽 顕界(この世)と幽界(あの世)。生と死。

*惨目 目に痛ましい。

*岩手県釜石町 釜石町は、明治22年(1889)に成立。当時は、南閉伊郡に所属。町域は、現釜石市の一部。

*田中製銕所 釜石にある民営製鉄所で、現在の日本製鉄株式会社 北日本製鉄所 釜石地区(現釜石市鈴子町)の前身。生産の起源は幕末だが、一時廃絶。明治7年(1874)、明治政府は工部省釜石製鉄所を設置して再興をはかるも失敗。田中長兵衛(1834~1901)が払下げを受け、同20年には民営の釜石鉱山田中製鉄所として再発足した。やがて全国の銑鉄生産高の過半を占めるに至る。長兵衛は、幕末・明治時代の実業家・商人。上記製鉄業経営のほか、幕末・明治期に薩摩藩・宮内省・陸海軍と諸物品の取引があった。本店は江戸・東京の京橋にあった。

*工夫 工事に従事する労働者。

*家眷 一族の者とそれに付き従う者。

*胥謀 相談する。

*石応寺境域 石応寺は、釜石にある曹洞宗寺院。境域は、境内。

*歳時追弔 歳時は、年ととき。追弔は、死者の生前をしのんでとむらうこと。

*打一偈 打は、つくる。偈は、仏家のいう韻文。

*専薦・・・溺死者 解釈やや難。「招魂之処」である本碑にて、「歳時」に供養仏事をして得られた功徳(くどく)を、主として製鉄所関係者の亡魂に奉り、あわせて他の溺死者にも奉るとの意と考えられる。

*溺歿三万・・・ 四言詩で、全16句。偶数句末で押韻。韻字、淪・仁・神・真・塵・賓・輪(上平声十一真)。ただし第4句「下詔賜金」も末字で押韻すると考えられるが、「金」の韻が上平声十一真であるか未詳。しばらく偶数句末押韻として訓読・現代語訳を試みた。

*乾坤沈淪 乾坤は、天地。沈淪は、深く沈む。

*宸 帝王の居処。

*億兆 万民。

*識神 たましい。

*法之檀度 解釈やや難。法は、追善供養の仏事、檀度は、施主の意と解釈した。

*帰真 仏教語で、原義は真実の理法に帰すること。ここでは、輪廻から解脱し成仏するの意と見られる。

*頑石説法、刹刹塵塵 解釈難。現代語訳は試案。「頑石」は、石のこと。「刹刹塵塵」は、刹塵(数の多いこと)を言い換えたもの。本聯は、「頑石点頭」の故事を踏まえたものと見られる。すなわち、中国東晋代の僧道生が、『涅槃経』の説く万人成仏の考えを無数の石に説いたところ、頷いて承認したという。

*無遮大会 解釈難。無遮大会は、道俗・貴賤・上下を遮ることなく平等に財・法の二施を行ずる法会のことだが、ここでは生者・死者の別なく法会による施行を受けるの意か。

*宛転 したがうさま。別の解釈もあり得る。

*同乗願輪 解釈やや難。「同」は、ともに。生者として供養仏事を行う人々と、津波に亡くなった亡者と、ともに。「願輪」は、回転する輪のように絶えることのない、菩薩が衆生を解脱させんとする誓願。それに「乗」とは、誓願を信じること。

*永平悟由 森田悟由(1834~1915)。明治時代の曹洞宗僧。号は大休。明治24年(1891)、永平寺貫主。

*大内青巒 1845~1918。明治から大正時代の仏教学者。陸奥仙台の人。号は藹々など。曹洞宗僧のもとで出家するも、のち還俗。大正3年(1914)、東洋大学学長。

画像

全景 (撮影日:’24/11/21。以下同じ)
碑面
上部・篆額
石応寺 山門
石応寺 本堂
釜石港から釜石湾をみる

その他

補足

  • 特になし。

参考文献

  • 卯花政孝「三陸沿岸の津波石碑 -その1 釜石地区-」(『津波工学研究報告』8、1991年)193頁。

所在地

三陸大海嘯溺死者弔祭之碑および碑文関連地 地図

所在
石応寺 境内(墓地)|岩手県釜石市大只越町

アクセス
三陸鉄道 リアス線 釜石駅 下車
徒歩約15分
大只越公園に入り左方の墓地にあり

編集履歴

2025年1月22日 公開
2025年2月19日 小修正

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