明治29年(1896)に発生し激甚な被害を及ぼした三陸津波の記念碑。岩手県の釜石の被災状況について刻む。当地は鉱山と製鉄所を有し、全国の銑鉄生産高の多くを占めていた。被災から6年後に釜石町によって建碑。
資料名 海嘯紀念碑
年 代 明治35年(1902)
所 在 大只越公園|岩手県釜石市大只越町
北緯39°16’33″ 東経141°52’51”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 特になし
ID 0060_2501
翻刻
「海嘯紀念碑」
明治二十九年歳在丙申六月十五日后八点、突如轟然響、如巨礮
迅雷、劈耳駭神。尋海嘯大臻、巨濤激浪澎湃洶湧、抜樹倒巌、家屋漂
蕩、人畜浮沈、喚叫悲鳴、悽絶愴絶。須臾間然、滅泯海陸一空。惨極㤡
甚不可名状焉。此日、偶陰暦端午、朝来微雨蕭々不霽、黯雲濃霧、漠
々冥濛。地微震数次。人不肯駭、家々置酒団欒歓語。於是乎、親子之
愛、夫妻之情、兄弟之友、朋友之信、莫由頼□拯済、空肥魚鰕之腹、或
出万死而纔得一生者、挫手摧足、倏為鰥寡孤独。居無家室、衣無綿
袍、食無米蔬。病苦呻吟、暴□雨露、哭天慟地、却恨不同其死。可謂悲
惨之極焉矣。罹災戸数、八百四十一戸。溺死者、二千九百七十九口。
収入役金崎祐蔵、町会議員小軽米汪・磯田勘助・佐野政次郎・新沼
嘉藤□、区会議員山崎清助・佐野源次郎、区長山崎善八・川畑永松・
大坂忠兵衛、同代理者藤元金蔵・猪又安蔵・山崎梅太等十二氏、亦
歿。蓋三陸海嘯者、振古未曽有之惨害、釜石町為其最。町議欲勒而
存之、町長岩間喜十郎、需余文。余有縁於釜石町。誼不可辞。銘曰、
海伯怒号、 極目愴悽。 没斯家屋、 奪斯生黎。
於皇上帝、 厥徳洽兮。 生者愉恤、 逝者不𢞞(※)。
秦 実信撰並書
〇以下、卯花1991に拠る。
明治三十五年六月 方海嘯被害七周年 釜石町建之
※りっしんべんに「迷」。
現代語訳
〔1.津波のすさまじさ〕
海嘯紀念碑
明治29年(1896)6月15日午後8時、突如すさまじく響き渡ったその音は、巨砲あるいは雷鳴のようで、耳を打ち割き魂を驚愕させた。次いで大きな津波が押し寄せ、巨大な波、強大な波が、勢いよく湧き出て激しく音を立ててぶつかりあい、樹木を引き抜き岩石を押し倒し、家屋は波にもまれてただよい、人も家畜も浮き沈みする。そのわめき叫ぶ声、悲しみ鳴く声は、たとえようもないほどに凄まじく、痛ましいものだった。海陸のものは滅ぼし尽くされてなくなり、全くむなしい状態となった。それは、あたかも一瞬の出来事のようだった。極めて悲惨で嘆かわしいことであって、全く言葉で表現しようがない。
〔2.人々の苦しみ〕
この日はたまたま、陰暦で端午の節句(5月5日)に当たっていた。朝からうら悲しく小雨が降って晴れやらず、真っ黒な雲と深い霧が果てしなく広がり薄暗い日だった。大地が何度かわずかに揺れた。人々はさして驚きもせず、家々では酒宴が開かれ、打ち解けて楽しく語り合っていた。このような状況であったためか、親子間の愛情、夫婦間の愛情、兄弟間の敬愛、親友同士の信頼は、(平常時なら機能したものが)これらを保ったり頼ったりすることが叶わず、(親しい間でさえ人々はお互いを思いあうことができず遭難者を)救出することができず、(溺れ沈んで)空しく魚類の腹の中に収まり、ある者はどうにか万死に一生を得たが、手をくじき足を砕かれたり、(妻や夫、親などを失って)たちまちに寄る辺の無い独り者になってしまったりした。住もうにも家が無く、(寒冷期に)着ようにも綿袍(綿入れの上着)が無く、食べようにも米や野菜が無かった。病気に悩んでは苦しみうめき、露に濡れ雨にさらされ、天に泣いては地にも泣き、却って(同類と)同じように死ねなかったことを恨んだ。悲惨の極みと言ってよいだろう。
〔3.釜石町の被害〕
罹災戸数は841戸。溺死者は2979人。収入役金崎祐蔵(中略)ら12氏も亡くなった。この三陸津波は、恐らく往古以来未曽有の惨害で、釜石町(の被害)は最も大きかっただろう。
〔4.建碑の経緯〕
釜石町は議論して(津波災害について石碑に)彫って伝えていきたいと考え、町長岩間喜十郎が私に文章(の作成)を求めてきた。私は釜石町に縁があり、辞退すべきではない。銘は以下の通り。
〔5.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
海の神海伯が怒り叫び、見渡す限りなんと痛ましい。
家屋を没し、人々を奪う。
今上帝におかせられては、その徳あまねく広がる。
生きる者は恵みをよろこび、亡くなった者は迷うこともない。
秦実信撰ならびに書
明治35年(1902)6月 津波被害7周年に当たり、釜石町が建てた
訓読文・註釈
〔1.津波のすさまじさ〕
海嘯紀念碑
明治二十九年歳丙申に在る六月十五日后八点、突如轟然として響くこと、巨礮迅雷の如く、耳を劈き神を駭かす。尋いで海嘯大いに臻り、巨濤激浪、澎湃洶湧として、樹を抜き巌を倒し、家屋は漂蕩し、人畜は浮沈し、喚叫悲鳴、悽絶愴絶たり。須臾間然として、海陸を滅泯して一に空たり。惨たること極まり㤡へ甚しく名状すべからず。
〔2.人々の苦しみ〕
此の日、陰暦端午に偶ひ、朝来微雨の蕭々として霽れず、黯雲濃霧、漠々として冥濛たり。地の微かに震ふること数次。人肯へて駭かず、家々置酒して団欒歓語す。是に於いてか、親子の愛、夫妻の情、兄弟の友、朋友の信、頼保拯済するに由莫く、空しく魚鰕の腹を肥やし、或いは万死より出でて纔かに一生を得る者は、手を挫き足を摧き、倏ちに鰥寡孤独と為る。居るに家室無く、衣るに綿袍無く、食ふに米蔬無し。病苦呻吟し、雨露に暴し霑れ、天に哭き地に慟き、却て其の死を同じうせざるを恨む。悲惨の極みと謂ふべし。
〔3.釜石町の被害〕
罹災戸数、八百四十一戸。溺死者、二千九百七十九口。収入役金崎祐蔵、町会議員小軽米汪・磯田勘助・佐野政次郎・新沼嘉藤治、区会議員山崎清助・佐野源次郎、区長山崎善八・川畑永松・大坂忠兵衛、同代理者藤元金蔵・猪又安蔵・山崎梅太等十二氏も、亦た歿す。蓋し三陸海嘯は、振古未だ曽て有らざるの惨害にして、釜石町は其の最為らん。
〔4.建碑の経緯〕
町議するに勒りて之を存せんと欲し、町長岩間喜十郎、余に文を需む。余、釜石町に縁有り。誼しく辞すべからず。銘に曰く、
〔5.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
海伯怒号して、極目に愴悽たり。
斯の家屋を没し、斯の生黎を奪ふ。
皇上帝に於いては、厥の徳洽し。
生くる者は恤みを愉こび、逝く者は𢞞はず。
秦実信撰並びに書
明治三十五年六月 海嘯被害七周年に方りて、釜石町之を建つ。
*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。「嘯」は、原文ではその籀字「歗」に作る。
*后八点 午後8時。
*巨礮迅雷 礮は、砲の正字。巨礮とは、巨大な火砲。迅雷は、はげしい雷鳴。
*神 精神。こころ。
*澎湃洶湧 澎湃は、水や波が音をたててはげしくぶつかりあうさま。洶涌は、水が勢いよくわき出るさま。
*悽絶愴絶 悽絶は、この上なくすさまじいさま。愴絶は、この上なく痛ましいさまとの意と見られる。
*滅泯 ほろんでなくなる。熟語として「泯滅」というのが普通。
*名状 物事の有様を言葉で言い表わすこと。
*端午 陰暦5月5日の節供。
*朝来 朝から。
*蕭々 ものさびしいさま。
*黯雲 真っ黒い雲。
*漠々冥濛 漠々は、広々としてはてしないさま。冥濛は、暗いさま。
*置酒 さかもりをする。
*友 兄弟間の敬愛。
*頼保拯済 頼保は、語義未詳。頼ったり保ったりする意と見られる。拯済は、救済する。
*魚鰕 原義は、魚とエビ。ここでは魚類一般。
*倏 すみやかに。
*鰥寡 妻のない夫または夫のない妻。
*綿袍 綿入れの上着。
*米蔬 米と野菜。
*呻吟 苦しみうめく。2字目は原文で「唫」に作るが、「吟」の異体字。
*暴霑 暴は、さらされる。霑は、ぬれる。
*三陸 明治初年に陸奥国を分割して設置された陸前・陸中・(新制)陸奥の三国。およそ現在の宮城県・岩手県・青森県に相当。
*釜石町 釜石町は、明治22年(1889)に成立。建碑当時は、岩手県上閉伊郡に所属。町域は、現釜石市の一部。鉱山や製鉄所があり製鉄業が主要産業。
*海伯怒号・・・ 四言詩。韻字、悽・黎・兮・𢞞(上平声八斉)。
*海伯 海を主宰する神。
*極目愴悽 極目は、見わたす限り。愴悽は、非常にいたましいさま。普通「悽愴」だが、押韻の都合上「愴悽」とした。
*生黎 人民。
*於皇上帝 皇上は、今上。皇上帝は、今上天皇(明治天皇)の意と見られる。於は、解釈やや難。「〇〇におかせられては」(〇〇は貴人)という日本語の語法を漢文に転用したものと考えておく。
*兮 語調を整えるための置字。
*生者愉恤、逝者不𢞞 愉は、楽しむ。恤は、めぐみ。前句の背景は、具体的には、天皇からの被災者への救済恩賜金を指すと見られる。逝者は、亡くなった人々。𢞞(※りっしんべんに「迷」。)は、まよう。前句に比べて、後句の背景は明瞭でない。恐らく、生存者が救済されることにより、遺族による供養仏事によって亡魂を救済することが可能になったと言いたいのだと思われる。
画像





その他
補足
- 判読困難な箇所は、卯花政孝1991を参考にした。
参考文献
- 卯花政孝「三陸沿岸の津波石碑 -その1 釜石地区-」(『津波工学研究報告』8、1991年)194頁。
所在地
海嘯紀念碑 地図
所在:
大只越公園|岩手県釜石市大只越町
アクセス:
三陸鉄道 リアス線 釜石駅 下車
徒歩約15分
大只越公園に入り右方にあり
編集履歴
2025年1月31日 公開
2025年2月19日 小修正