震災紀念碑 ―西濃地方 濃尾地震の記念碑―

震災紀念碑 ―西濃地方 濃尾地震の記念碑―
概  要

明治24年(1891)10月に美濃・尾張地方に起こった大地震(濃尾地震)の岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(現羽島市竹鼻町)における被害を記す。同町の真宗大谷派竹鼻別院内に立つ。助けを求めて叫ぶ声や、火災による煙や炎が耳目に留まって離れないという。死傷者を弔い慰め、また後世の人を戒めようと同町有志者の発意で建立。救助・復興や予防・減災より、むしろ死傷・困窮者を悼むことに重点が置かれ、大震災に対する諦念が認められる。

資料名 震災紀念碑
年 代 明治30年(1897)
所 在 真宗大谷派 竹鼻別院|岐阜県羽島市竹鼻町
 北緯35°19’25″ 東経136°42’03”
文化財指定     

資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
ID 0002_2306

目次

翻刻

〇オモテ面
「震災(題額)紀念碑」
 大震紀念之碑 正二位勲二等品川弥次郎
西濃之地、田野汗下〔汚〕、屢有洪水汎濫之患。故夏月之際、
常為居民之憂。而不図此地有大震之。城市村落顛覆傾
斜、屋瓦如雨、地裂水沸、塞。又有失火者、人心恟不
遑防之。毎郡死傷、以百数。云何其状之惨也。羽島郡个鼻
町曽中此厄矣。瞬息之間、家臺之尽崩潰者六百三戸、而其
半潰者五戸、又罹火災者六百三十四戸、圧死者二百六十
八人、重傷者五十四人、軽傷者二百八十三人。実明治二十
四年十月二十八日也。如此震害、古所未曽聞也。故在其
地者、毎憶之、毛髪為竪、其叫喚求救之声、煙焔漲天之状、尚
存于耳目、不能忘也。又為寡、為孤独、為疾、或散之四方
者、挙不知幾百人矣。生離死別、其情実可痛傷也。頃竹个
鼻町有志者、相謀欲立紀念碑、以弔慰之、併使後人有所警
誡、請銘于余。余郷垣亦均有此災、而竹个鼻町余所屢来
往誼不可辞。乃叙其梗概、系以銘。曰、
  地之変 不可豫測 況彼震災 忽覆家国
  為徳立善 祲庶息 鑑往誡来 視此石刻
  治三十年十二月 文学博士条文雄撰
          大教正 戸田氏貞書

〇ウラ面
震火災死亡人名誌
 (人名省略)

有志者
 (人名省略)

明治三十年十月廿八日建設
          発起人
          (人名省略)

現代語訳

〔1. 地震発生と被害状況〕
美濃西部の地は、田地平野が低地にあり、洪水で水があふれてしまう弊害がしきりにある。だから夏の時期のながあめは常に住民の心配のたねである。しかも思いもよらず、この地に大地震があった。街や村落の建物はあるいは倒れあるいは傾き、屋根瓦が雨のごとく落ちてきて、大地は裂け水が沸き、霧のように砂塵が立ち上り四方八方塞がれてしまった。また混乱で火事が起き、人々は恐れおののき防火・消火する余裕もなかった。死傷者は一郡で百人に上った。震災の状況はどれほど悲惨なものだったか。(岐阜県)羽島郡たけはな町は、この地震の被害に遭った。一瞬の間に全崩壊した建物は603戸、半壊は5戸、火災の被害をうけた建物は634戸、圧死者268人、重傷者54人、軽傷者283人。明治24年10月28日のことだった。
〔2. 地震被害の恐ろしさ、悲しさ〕
このように被害の大きな地震は太古の昔より未だかつて聞いたことがない。だからこの地の住人は、地震を思い出すたび(恐怖で)毛髪がさかだち、わめき叫んで救いを求める声や、空を覆いつくさんばかりの煙や炎が、今なお耳や目に留まって忘れることなどできない。また妻や夫を失った人、周りの者が亡くなって孤独となった人、身体に障害をこうむった人、そして四方に散っていった人は、美濃・尾張の国中で何百人いるか知られない。このようにして生き別れ死に別れた人々の気持ちを考えると、いたましく悲しいことである。
〔3. 記念碑の企画〕
このごろ竹ヶ鼻町有志のものが相談するには、紀念碑を立てて死者をとむらい遺族を慰め、合わせて(震災の実情を記すことで)後世の人の戒めにもしようと考えて、銘の作成を私に請うてきた。私の故郷大垣もここと同じく震災をこうむった。私はしばしば竹ヶ鼻町に来たことがあり、この依頼を断るべきではない。よって(以上のように)概略を述べきたり、これに銘(詩)をつなぐ。いわく、
〔4. 銘〕
  天地の大異変を、あらかじめ知ることはできない。
  ましてやかの震災が、家や国をたちまち覆すことなど。
  徳行をなし善行をつみ、願わくは災いの気が消えんことを。
  過去から学び未来の戒めとするには、この石碑を見なさい。
 明治30年12月 文学博士南条文雄が撰した
          大教正 戸田氏貞が書した

訓読文・註釈

〔1.地震発生と被害状況〕
 大震紀念之碑 正二位勲二等品川弥次郎てんがく
西濃の地、田野し、屢ば洪水汎濫はんらんかん有り。故に夏月のさいりん常に居民の憂いとなる。しこうして図らざるも此の地に大震の変有り。城市村落、顛覆てんぷく傾斜して、おく雨の如く、地裂け水沸きて、黄霧さいす。又た火を失する者も有り、人心きょうきょうとして之を防ぐにいとまあらず。郡ごとに死傷するもの、百を以って数う。云何いかんぞ其の状の惨なる。しまたけはな町、すなわち此のわざわいにあたる。瞬息の間、家臺のことごとく崩潰ほうかいするは六百三戸にして、其の半潰するは五戸、又た火災にうは六百三十四戸、圧死する者二百六十八人、重傷の者五十四人、軽傷の者二百八十三人。実に明治二十四年十月二十八日也。
〔2.地震被害の恐ろしさ、悲しさ〕
此くの如き震害、しんより未だかつて聞かざるところ也。故に其の地に在る者、之を憶う毎に、毛髪ためち、其のきょうかんし救いを求むるの声、えんえん天にみなぎるの状、尚お耳目に存し、忘る能わざる也。又たかんとなり、孤独となり、はいしつとなり、或いは四方に散りく者、国を挙げて幾百人かを知らず。生離死別、其の情実、つうしょうすべき也。
〔3.記念碑の企画〕
このごろ竹个鼻町有志の者、相いはかりて、紀念碑を立て、以て之をちょうし、あわせて後人をして警誡するところ有らんと欲し、銘を余に請う。余のふるさと大垣も亦た均しく此の災い有り。而して竹个鼻町は余の屢ば来往するところにしてよろしく辞すべからず。乃ち其の梗概をべ、かくるに銘を以ってす。曰く、
〔4.銘〕
天地の変 あらかじめ測るべからず 況んや彼の震災の たちまち家国を覆すをや
徳をし善を立てて 氛祲ふんしんねがわくはまん きしを鑑み来たるをいましむるに 此の石刻せっこくを視よ
 明治三十年十二月 文学博士南条ぶんゆう
          だいきょうせい 戸田氏貞書

*篆額 題字は篆書ではないと思われる。

*汚下 低下する。または低地。本文は「汗」に作るが、「汙」が正しいと思われる。「汙」は「汚」の異体字。

*霖雨 ながあめ。

*変 異常の事件。

*黄霧 黄色のきり。ここでは砂塵の意か。

*四塞 四方をとりまくこと。

*恟恟 おそれおののくさま。

*竹个鼻町 現岐阜県羽島市竹鼻町。

*振古 おおむかし。

*鰥寡 妻を失った男と、夫を失った女。

*廃疾 身体の障害を伴う不治の疾病。

*国 ここでは美濃国・尾張国のこと。

*大垣 岐阜県大垣市。

*天地之変・・・ 四言詩。韻字、測・国・息・刻(入声十三職)。

*氛祲 わざわいの気。

*明治三十年十二月 これによると撰文が12月だが、他方ウラ面を見ると、同年10月に建設とある。石碑は普通、撰文→書写→刻字→建碑の工程を経る。この部分の記載内容が事実を反映しているか不明。

*南条文雄 1849~1927。明治から大正時代の真宗大谷派の学僧。仏教学者。

画像

全景 1(撮影:’23/03/04。以下同じ)
全景 2
オモテ面
ウラ面
竹鼻別院 山門
竹鼻別院 本堂

その他

補足

すでに不破義信『羽島市、羽島郡誌資料叢書(神社 旧跡 古文書 碑文)』(不破義信、1982年)のうち「旧羽島郡内碑文集」(1954年に刊行したもの)7頁に本文・訓読があり(ただし弊研究所作成のものと異同あり)、翻刻で参考にしたところがある。

参考文献

  • 不破義信『羽島市、羽島郡誌資料叢書(神社 旧跡 古文書 碑文)』(不破義信、1982年)

所在地

震災紀念碑

所在
真宗大谷派 竹鼻別院|岐阜県羽島市竹鼻町

アクセス
名鉄竹鼻線 羽島市役所前駅 下車 徒歩数分
竹鼻別院に入り本堂をみて左側に所在

編集履歴

2023年6月22日 公開

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