明治40年(1907)7月に広島県安芸郡坂村(現同郡坂町)で起きた大水害を記す。救済や復興・防災工事に尽力した村長菅田氏の功績を水害の事実と共に後世に伝えようと村人の発意で建立。雨が何日も続く中、一度に大量の雨が降って総頭川・天地川が突如氾濫し家屋・人畜を押し流し両川沿いの住人が困窮したという。本碑は天地川沿いの小屋浦地区に立つ。同文の石碑が、総頭川沿いの坂八幡宮に立つ。
資料名 水害碑
年 代 明治43年(1910)
所 在 小屋浦公園|広島県安芸郡坂町小屋浦
北緯34°18’12″ 東経132°30’43”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
ID 0003_2306
備考 資料名は題字による。
翻刻
〇オモテ面
「水害碑
広島県知事〈正四位/勲三等〉宗像政」
安藝郡坂村之地、岡巒起伏東北、連延西南而入海。其高者、為総頭山。二水発源
焉。北谿曰総頭川、南谿曰天地川、本郷区傍総頭川、小屋区傍天地川。明治四十
年七月十五日、大雨二水汎濫。而事起倉卒、人々不暇逃避、為其所害。雨歇水退、
則傍岸人烟一空、満目磊砢、間見破器折梁、埋没沙中、漂蕩海面耳。先是淫霖連
旬、土壌為鬆。而一旦霈雨急漲崩崖、流域自壅、水勢積重及其一決、震盪山脚、転
巨石倒大木、滾々湯々所触、流溺家屋人畜、幾不可量。衆惋愕不知所為。里正菅
田君奔走激励指揮郷人、或探屍於濁流、或収拾器具於海中、不寝三昼夜、救済
尤力焉。事達 天聴、賑恤百三十餘金、府県捐資亦頗多矣。君処理得宜、罹災者
大悦。君又謀恢復、欲改築水陸雨路、以防水害於未発、諮之村会、得其賛襄。然村
費不給、乃陳情上司、有所請焉。辞意剴切、終獲県支五千五百円、郡支四百餘円。
而割石硝薬之費、実数百金、可以見其工事之難矣。工凡二年而竣。村人皆戴君
及議員之功焉。一日罹災者胥謀曰、如此災害固為希有。菅田君之徳亦不可諼。
其顛末豈可不伝哉。於是乎有建碑之挙、頃使君来告状請文。余当時聞其事、傷
二区之不吊偉菅田君之尽職矣。乃不辞而記其梗概、且併掲被害数及工費捐
額等云。
死者四十六人 傷者五十六人 家屋〈流失〉五十四棟〈倒潰〉六十九棟
田園荒廃五十町餘歩 工費二万七千三百餘円
捐額〈金〉一万千餘円〈物資〉二千二百餘点
明治四十三年二月 広島県事務官正五位勲四等桑原八司撰文
〇ウラ面
明治四拾三年建之
死者姓名
(人名省略)
村長菅田茂四郎
助役縫部禄郎
収入役森河信義
書記黒瀬福松
(以下九名省略)
現代語訳
〔1.水害の惨状〕
水害碑
安芸郡坂村の地理は、岡や山が東北の方角に隆起し、西南の方向に連なりのびて海に至る。高い山は、総頭山である。二つの川がここに源を発している。北の方の谷川は総頭川といい、南の方は天地川といい、本郷区は総頭川に、小屋区は天地川に沿ってある。明治40年7月15日、豪雨のため二つの川が氾濫した。事態は突然起こったために、人々は逃げ避る余裕が無く害を蒙った。雨がやんで水がひくと、河岸沿いの人家は姿を消し、見渡す限り岩石が重なっていて、割れた器や折れた家の材木が、砂中に埋没していたり海面に漂っていたりするのをうかがい見るばかりだった。これより前、雨が何十日と続き、土壌はそのためにゆるんでいた。そして短期間の大雨のために山が急に漲ぎって崖を崩し、川の流域は自然と塞がってしまった。塞がった流域に水がどんどんたまり遂に決壊して一気に流れ、山麓をふり動かすごとく、巨石を転がし大木をなぎ倒し、やむところなくあふれ出る激流は、家屋・人畜を流し溺れさせ、その実態は測りがたい。住人は嘆きあきれて何をなすべきかわからなかった。
〔2.村長指揮による救済・復興〕
村長の菅田君は奔走激励して村人を指揮し、あるいは濁流に遺体を探し、あるいは海中から(流された)器具類を探し求めた。三昼夜眠らず、人々の救済に最も力を尽くした。事情は天皇の知るところとなり、被災者救助のため130円余りを施し、広島や広島県下からの援助金もとても多かった。菅田君の処置はうまくいき、被災した者は大いに悦んだ。
〔3.水害防災の工事〕
菅田君はさらに復興をも企図し、河道や陸路、および雨水の排水路を改めて築き、水害を未然に防ごうと考え、このことを村の議会にはかると賛助を得ることができた。しかし村費では足りず、そのため上部機関に陳情して請願した。陳情内容はとても的を得ていたので、遂に広島県の支出金5500円、安芸郡の支出金400円余りを獲得した。岩石を破壊するための火薬の費用は数百円も要したが、これより工事の困難さが知られよう。工事はおよそ2年かかった。村人は皆、菅田君や村会議員の功績を仰いだ。
〔4.碑造立の経緯〕
ある日被災した人々が「このような大きな災害は往古より稀有のことである(だから忘れるべきではない)。また菅田君の徳のある行いも忘れてはならない。これらの顛末をどうして未来に伝えないでいられようか」と相談し合い、それゆえか石碑建立を企て、この頃菅田君を私に遣わして事の顛末を告げて碑文作成を請うてきた。私は当時災害や復興・防災工事のことを聞いて、菅田君が職務に尽力したにも関わらず二区住民が(その功績を)誉めたたえてこなかったことを痛ましいと思っていた。だから依頼を断らずそのあらましを記し、かつ合わせて被害数および工費・寄付金額等を掲げる。
(中略)
明治43年2月 広島県事務官正五位勲四等桑原八司撰文
(後略)
訓読文・註釈
〔1.水害の惨状〕
水害碑
安藝郡坂村の地、岡巒東北に起伏し、西南に連なり延びて海に入る。其の高きは、総頭山たり。二水、源を焉に発す。北の谿は総頭川と曰い、南の谿は天地川と曰い、本郷区は総頭川に傍い、小屋区は天地川に傍う。明治四十年七月十五日、大いに雨りて二水汎濫す。しかも事倉卒に起こり、人々逃げ避るに暇らず、其の害する所と為る。雨歇み水退けば、則ち傍岸の人烟一空し、満目磊砢にして、破器・折梁の、沙中に埋没し海面に漂蕩するを間い見るのみ。是に先じて淫霖連旬し、土壌為に鬆む。しこうして一旦の霈雨急に漲ぎりて崖を崩し、流域自から壅がりて、水勢積み重なり其の一決に及び、山脚を震盪し、巨石を転がし大木を倒し、滾々湯々として触す所、家屋・人畜を流し溺すこと、幾んど量るべからず。衆惋き愕ろきて為す所を知らず。
〔2.村長指揮による救済・復興〕
里正菅田君奔走激励して郷人を指揮し、或いは屍を濁流に探し、或いは器具を海中に収拾し、寝ざること三昼夜、救済尤も焉に力む。事天聴に達し、賑恤すること百三十餘金、府県の捐資も亦頗る多し。君の処理宜しきを得、罹災する者、大いに悦ぶ。
〔3.水害防災の工事〕
君又た恢復をも謀り、水陸雨路を改め築き、以って水害を未発に防がんと欲し、之を村会に諮るに、其の賛襄を得たり。然るに村費給らず、乃ち上司に陳情して請う所有り。辞意剴切にして、終に県支五千五百円、郡支四百餘円を獲たり。しこうして割石硝薬の費、実に数百金、以って其の工事の難きを見るべし。工凡そ二年にして竣る。村人皆、君及び議員の功を戴く。
〔4.碑造立の経緯〕
一日罹災する者胥謀りて曰く、此の如き災害、固より希有たり。菅田君の徳も亦諼るべからず。其の顛末、豈に伝えざるべけんやと。是においてか碑を建つるの挙有りて、頃君を使して来りて状を告げ文を請わしむ。余、当時其の事を聞きて、二区の菅田君の職を尽くすを吊偉せざるを傷む。乃ち辞せずして其の梗概を記し、且つ併せて被害数及び工費・捐額等を掲ぐと云う。
死者四十六人 傷者五十六人 家屋〈流失〉五十四棟〈倒潰〉六十九棟
田園荒廃五十町餘歩 工費二万七千三百餘円
捐額〈金〉一万千餘円〈物資〉二千二百餘点
明治四十三年二月 広島県事務官正五位勲四等桑原八司撰文
(後略)
*坂村 現広島県安芸郡坂町(さかちょう)。
*岡巒 丘と山。
*一空 なにもなくなる。
*磊砢 大小の石が重なるさま。
*折梁 折れた梁の意か。現代語訳では、「折れた家の材木」とした。
*淫霖 長い間降り続く雨。
*霈雨 大雨。
*一決 一度堤防がきれて水があふれる。
*震盪 ふり動かすこと。
*山脚 山のふもと。
*滾々 水がさかんにわき出るさま。
*湯々 水勢の強くはげしいさま。
*里正 里の長。村長。
*水陸 水路と陸路。
*賛襄 助けて事を行うこと。
*剴切 非常によく当てはまること。
*硝薬 火薬。
*吊偉 意味未詳。頌徳の意か。
画像











その他
補足
- 平成30年(2016)、豪雨により本碑の近辺で大規模な土砂災害が発生した。住人は「石碑があるのは知っていたが、関心を持って碑文を読んでいなかった」という。国土地理院が「自然災害伝承碑」の情報を整備するきっかけになった(以上、安喰靖2020より)。
- 国土地理院の自然災害伝承碑に指定(ID:34309-002)。
- 全文は、すでに『坂町郷土誌』に翻刻されている。
- 本碑は、かつて「坂町役場前」にあったと思われる(『坂町郷土誌』)。
- 原文・訓読文・現代語訳は、すでに藤本理志他2016に掲載されているが、訓読や文意の解釈で本稿と少なからず相違がある。
参考文献
- 坂中学校編『坂町郷土誌』(坂町、1950年)117~9頁。
- 藤本理志他「広島県内における水害碑の碑文資料」(『広島大学総合博物館研究報告』8、2016年)
- 安喰靖「自然災害伝承碑の取組」(『国土地理院時報』133、2020年)。※ネット閲覧はこちら(国立国会図書館)。
所在地
水害碑
所在:
小屋浦公園|広島県安芸郡坂町小屋浦
アクセス:
JR西日本呉線 小屋浦駅 下車 徒歩
小屋浦公園内に所在
編集履歴
2023年6月27日 公開
