明治22年(1889)9月の暴風大雨による海嘯(高潮)を刻む。三河湾に面する吉田村(現愛知県内)の被害状況と、天皇の救済とを後世に伝えようと、村人の発意で村内に建立。災害の発生から村の復興までを格調高い漢文でつづる。特に住民の罹災や、溺死者の捜索、生存者の困窮の描写は胸をうつ。海嘯は予測不可能だとの諦念を示しつつ、一方で海水侵入で発生した害虫の駆除方法をも記しており後世に対して減災の意図を有する。
資料名 海嘯紀恩碑
年 代 明治28年(1895)
所 在 宝珠院|愛知県西尾市吉良町吉田石池
北緯34°47’45” 東経137°04’07”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0005_2306
翻刻
〇オモテ面
「海嘯紀恩碑」
海嘯之害物、甚於河水氾濫。河水警之、在於平時。浚河底修隄防、以備不虞、則其害不必大。海嘯則不然。其防禦非人
力所能及也。明治二十二年九月十日、風雲漸悪、至十一日黎明、東南風力加烈、大雨驟至、田疇如湖、偃禾折樹、頽牆
倒屋。此日属陰暦八月十七日。日暮昏黒不弁咫尺、俄然激浪澎湃、居家漂没、子不遑扶親、親不能救児、夫妻生別、兄
弟相失、数口之家、至無有孑遺、桑圃稲田蕩然為海。悲酸苦楚之状、不可勝言也。警官郡吏等、東奔西走、炊飯恤饑、以
救一時之急。県令勝間田稔君、聞報親巡覧荒地、施行救荒之法、直奏上惨状。越十九日侍従子爵東園基愛卿奉
勅巡視災地、撫恤窮民。 天皇賜金一千五百円、 皇后賜金五百円、以充救済。且勘査遭難之多寡、免地税自
二年至十有二年。困厄之中、有解倒懸之想、僉莫不感泣 天恩之優渥。而四方緇素亦恵与金穀衣服、不遑枚挙。既
免葬魚腹者、又免為餓莩。不幸中、復得伸愁眉焉。本県溺死者八百四十一人。独以我幡豆郡吉田村為最。海水高於
地一十五尺三寸。溺死者三百七十八人。負傷者不可殫□。流潰家屋三百二戸。物貨沈没不知幾千万金。家屋舟車
漂到富田村、又到饗庭村山麓者衆矣。於是役一男一女候潮間、索屍躰、随獲随火。遂有不能獲者、有獲之腐爛難弁
者。澣汚泥、視衣服、僅得識之、抱屍慟哭。呼声徹天、使人悚然。且瀕海堤防、多失原形、而日夜潮水来去不可不速。為之
修築也。故力役繁劇、身神倶疲、未有葬祭之暇。嗟乎亦何等之惨状也。伝聞、二百年前有海嘯之災、魚蟹上于饗庭村
金蓮寺堂上。居常以為虚誕。今又遭此災、果知不虚也。夫鹹水之害物、非淡水之比也。一入稲田、方言所謂潮蟲者生
焉。潮蟲生、則禾苗不育、非経十数年難復。近有殺蟲方。凡田一段擣爛野□薬百五十斤、加水少許細踏之、生白沫。更
加水稀釈洒之、蟲尽死、反可糞田。是亦一挙両得之方、姑記備他日之万一云。今也闔郷復業、田疇井然禾黍油油、鶏
犬之声、四隣相聞。村人胥謀、欲樹碑伝 皇恩於無窮、介加藤謙徴文予。予固不文、不能悉其概、辞再三不許。且曰唯
在使当時海嘯之惨状、与 皇恩之優渥知後人而已。因応之。又作銘曰、
嗟斯疾威 下民何冤 烈風飛石 大雨傾盆 海若乗虚 怒濤雷奔 殲我父子 奪我田園 艆□襄陵
水族躍原 坎蹇極矣 誰来牽援 聖皇在上 救恤黎元 維仁維恵 如子如孫 免租賜貲 載復闔村
爰耕爰漁 以殖以蕃 吁後之人 莫諼鴻恩 為記其状 以勒雲根
明治二十八年五月 従四位勲四等勝間田稔篆額 岡田希信撰并書
〇ウラ面
本村免租 宅地十年 田自九年至十二年 畑自七年至十年 塩田七年
溺死 三百七十八人中寓居六人滞留一人
□田久七□□
現代語訳
〔1.海嘯の到来〕
〇オモテ面
海嘯による人的物的被害は、河川の氾濫より甚だしく大きい。河川の氾濫は平時に警戒することができる。川底をさらい堤防を修築して不慮の事態に備えれば、その害は必ずしも大きくはない。海嘯はそうではない。その害を完全に防ぐなど、人の力ではどうすることもできないのである。明治22年9月10日、風雲がだんだん激しくなり、11日の明け方に至り、東南の風がますます激しくなり大雨が突然降って、田畑が湖のようになり、稲穂がたおれ樹木が折れ、垣根がくずれ家屋が倒れた。この日は陰暦8月17日に当たる。日が暮れて真っ暗になり一寸先も見分けが付かないなか、突然大波がわき立つように現れて、住居はただよい沈み、子は親を救う余裕もなく、親は幼子を救うことができず、夫妻は生きながら別れ、兄弟はその片方を失い、小人数の家では家族が一人も生き残らないものもあり、桑畑・稲田は広々とした海に変わってしまった。このような痛ましい程悲しく苦しい様は言うにたえない。
〔2.救済活動と天皇の恩恵〕
警官や郡の役人達は、東奔西走して飯を炊き被災者の飢えを助け突然の変事から救った。愛知県令勝間田稔君は、報を聞いて自ら荒地を巡って視察し、救済のための方策を実施し、直接天皇に惨状を奏上した。19日には、侍従子爵東園基愛卿が天皇の命令をうけたまわって被災地を巡視し、困窮した被災者を哀れみ、いつくしみの心で接した。天皇からは1500円をたまわり、皇后からは500円をたまわって、これを救済の費用に当てた。さらに困窮の度合いを調査し、それに応じて2年間から12年間地税を免除させた。困窮した状態の中で苦痛の思いが和らぎ、天皇の厚恩に感じ入って泣かないものはいなかった。さらにまた各地の俗人・僧籍からも数えきれない程の金・穀物・衣服が恵み与えられた。大波に飲まれ魚の腹におさまることなく生きながらえた者は、さらに餓死をも逃れることができた。おかげで不幸の中でも憂いの気持ちはやわらいだ。
〔3.被害の詳細〕
本県の溺死者は841人。我が幡豆郡吉田村はその最である。(吉田村では)海嘯は地上より15尺3寸(約4メートル59センチ)高かった。(村内の)溺死者は378人。負傷者の数は正確にはわかるまい。流れつぶれてしまった家屋は302戸。沈没してしまった財物の価値は幾千万金かもわからない。多数の家屋や舟、車が、海嘯に流されて富田村に到ったり、また饗庭村の山麓にも到ったりした。
〔4.遺された者の悲苦 -溺死者の捜索 破損堤防の修理-〕
そこで、男女を(各家から)一人ずつ使役して海辺で死体を探し求め、発見しだい荼毘に付した。遂に発見できなかった人もあったし、発見しても腐敗していて誰なのかわかりがたい人もあった。汚泥を洗い着衣をみて、かろうじて誰なのかわかり、屍を抱いて悲しみの余り泣き叫ぶ者(遺族)もいた。(死者の名前を)呼びたてる声は天にも届き、きく者を恐れさせるほどだった。さらに沿海の堤防の多くが原形を失い、日夜海水が(潮の干満で堤防近辺に)寄せてはかえし、(このままでは内陸に)流入しないはずはなかった。よって(破損堤防を)修築することになった。このため住人に肉体労働が頻繁に課され、心身共に疲れてしまい、いまだ葬祭するほどの余裕すらなかった。伝承では、二百年前に海嘯の災害があって、魚や蟹など海の生物が饗庭村金蓮寺のお堂の上にすら到達したという。常日頃、人々はこれをデタラメだと思っていた。今まさにこの災いに遭い、果してデタラメではないことを知ったのだった。
〔5.害虫の対処法〕
さて海水が耕作地など人々の生活に及ぼす被害は淡水の比ではない。一度稲田に流入すると、方言にいう所の潮蟲なるものが生じる。潮蟲が生じると苗が育たず、十数年を経過しなければ元の状態に回復するのが難しい。近頃は殺虫の方法がある。およそ田一段ごとに、野山の薬草150斤をうちたたいて焼き、水を少し加え細かく踏めば白い泡が生じてくる。さらに水を加えて稀釈し田地にそそぐと潮蟲はことごとく死ぬ。有害な虫は、かえって(その死骸のため)田を肥やすことにもなるだろう。これは一挙両得の方法であり、ともかくもここに記して今後万一の災いに備えようと、(後述の、石碑建立を願う村人達が)言うのである。
〔6.建碑の経緯〕
今や村全体が各々の業を回復し、田地は整然と広がり穀物はつやつやと美しく実り、鶏と犬の鳴き声があちらこちらから聞こえて来るほどに村には家々が建ち並んだ。村人は相談して、石碑を立てて皇族からうけた厚恩を永遠に伝えようと望み、加藤謙を介して撰文を私に求めてきた。私は元々文才に乏しく、(恐れ多くも皇族の厚恩の)概要をきちんと伝えることなどできない。辞退の申し出を再三したが許されなかった。さらに(村人が)言うには、我々の思いはただ、当時の海嘯の惨劇と(それに対する)手厚い皇恩とを後代の人に知らしめようとすることにあるという。それならばと私は許諾した。さらに銘(詩)を作っていうことには、
〔7.銘〕
ああ天の災い、地上の民に何のぬれぎぬだろうか(何も罪など犯していない)。
激しい風は石をも飛ばし、急な大雨は盆を傾けたよう。
海神がここぞとばかり虚をついて、荒れ狂う大波を雷のごとく勢いよく走らせる。
我が父子を亡ぼし、我が田園を奪う。
海船が丘にのぼり、海辺の生き物が原野に踊る。
険難極まり、誰が我々を助けに来てくれようぞ。
(そんな時)聖天子は民の上にあって、人民を助けて恵みを与えくれる。
思いやりの心、そしてあわれみ あたかも御自分の子や孫のように接して下さる。
租税を免除し資金をたまわり、そうして全村を復興させた。
耕やしたり漁りしたりして、産物が多くなり人口も増える。
ああ後世の人よ、厚恩を忘れてはならない。
そのためこれまでの事情を記して、石に刻むのだ。
明治28年5月 従四位勲四等勝間田稔が篆額を作った。 岡田希信が撰しかつ書した。
〇ウラ面
本村での租税の免除は、宅地にかかるものは10年間、田地は(損害の度合いによって)9年間から12年間、畑地は7年間から10年間、塩田は7年間だった。
溺死した者378人のうち、本村に仮住まいしていた者6人、本村で客死した者1人。
嶺田久七が字を刻んだ。
訓読文・註釈
〔1.海嘯の到来〕
〇オモテ面
「海嘯紀恩碑」
海嘯の物を害なうや、河水の氾濫より甚し。河水、之を警むること平時に在り。河底を浚い隄防を修し、以て不虞に備うれば、則わち其の害必ずしも大ならず。海嘯、則わち然らず。其の防禦、人力の能く及ぶ所に非ざる也。明治二十二年九月十日、風雲漸く悪しく、十一日の黎明に至り、東南の風力加烈しく、大雨驟かに至り、田疇湖の如く、禾を偃し樹を折り、牆を頽し屋を倒す。此の日、陰暦八月十七日に属す。日暮れ昏黒として咫尺も弁えざるに、俄然として激浪澎湃して居家漂没し、子は親を扶うに遑あらず、親は児を救う能わず、夫妻生きながら別れ、兄弟相い失い、数口の家、孑遺有ること無きに至り、桑圃稲田、蕩然として海と為る。悲酸苦楚の状、言うに勝うべからざる也。
〔2.救済活動と天皇の恩恵〕
警官・郡吏等、東奔西走、炊飯して饑えより恤い以て一時の急を救う。県令勝間田稔君、報を聞きて親ら荒地を巡覧し、救荒の法を施行し、直に惨状を奏上す。越に十九日、侍従子爵東園基愛卿、勅を奉りて災地を巡視し、窮民を撫恤す。天皇金を賜うこと一千五百円、皇后金を賜うこと五百円、以て救済に充つ。且つ遭難の多寡を勘査し、地税を免ずること二年より十有二年に至る。困厄の中、倒懸の想いを解くもの有りて、僉な天恩の優渥なるに感泣せざるなし。而も四方緇素の亦た金穀・衣服を恵み与うること、枚挙するに遑あらず。既に魚腹に葬るを免かるる者は、又た餓莩と為るも免かる。不幸の中、復た愁眉を伸ばすを得たり。
〔3.被害の詳細〕
本県の溺死する者、八百四十一人。独だ我が幡豆郡吉田村を以て最と為す。海水の地より高きこと一十五尺三寸。溺死する者、三百七十八人。負傷する者、殫くは述ぶべからず。流潰家屋、三百二戸。物貨の沈没するもの、幾千万金かを知らず。家屋・舟車の、漂よいて富田村に到り、又た饗庭村の山麓に到るもの衆し。
〔4.遺された者の悲苦 -溺死者の捜索 破損堤防の修理-〕
是において一男一女を役して潮間に候り屍躰を索めしめ、随がいて獲、随がいて火やす。遂に獲る能わざる者有り、之を獲るも腐爛して弁え難き者有り。汚泥を澣い、衣服を視て、僅かに之を識るを得、屍を抱き慟哭す。呼声天に徹き、人をして悚然たらしむ。且つ瀕海の堤防、多く原形を失いて、日夜潮水来去して速かざるべからず。之が為、修築する也。故に力役繁劇にして、身神倶に疲れ、未だ葬祭の暇有らず。嗟乎亦た何ぞ之の惨状に等しきか。伝え聞く、二百年前、海嘯の災有り、魚蟹饗庭村金蓮寺堂上に上ると。居常以て虚誕と為す。今又此の災に遭い、果して虚ならざるを知る也。
〔5.害虫の対処法〕
夫れ鹹水の物を害なうや、淡水の比に非ざる也。一たび稲田に入れば、方言に所謂潮蟲なる者生ず。潮蟲生ずれば、則わち禾苗育たず、十数年を経るに非ざれば復し難し。近殺蟲の方有り。凡そ田一段に、野山薬百五十斤を擣爛し、水を少許加え細かに之を踏めば白沫生ず。更に水を加えて稀釈し之に洒げば、蟲尽く死に、反て田を糞すべし。是れ亦た一挙両得の方、姑らく記して他日の万一に備うと云う。
〔6.建碑の経緯〕
今や闔郷業を復し、田疇井然、禾黍油油として、鶏犬の声四隣に相い聞こゆ。村人胥い謀り、碑を樹て皇恩を無窮に伝えんと欲し、加藤謙を介して文を予に徴む。予固より不文にして、其の概を悉す能わず、辞再三なれども許されず。且つ曰く、唯だ当時海嘯の惨状と皇恩の優渥なるとをして後人に知らしむるに在るのみと。因りて之に応ず。又た銘を作して曰く、
〔7.銘〕
嗟斯の疾威、下民何の冤ぞ。烈風石を飛ばし、大雨盆を傾く。海若虚に乗じ、怒濤雷奔す。我が父子を殲ぼし、我が田園を奪う。艆䑼陵に襄り、水族原に躍る。坎蹇極まり、誰来りて牽援せんや。聖皇上に在りて、黎元を救恤す。維れ仁維れ恵、子の如く孫の如し。租を免じ貲を賜い、載わち闔村を復せしむ。爰に耕やし爰に漁りし、以て殖やし以て蕃やす。吁後の人、鴻恩を諼るなかれ。為めに其の状を記し、以て雲根に勒す。
明治二十八年五月 従四位勲四等勝間田稔篆額 岡田希信撰并びに書
〇ウラ面
本村租を免ずること、宅地十年、田は九年より十二年に至る。畑は七年より十年に至る。 塩田七年。
溺死 三百七十八人中、寓居六人、滞留一人。
嶺田久七、字を刻む。
*紀恩 「紀」は「記」の意。恩を記す。
*海嘯 海鳴りを伴いながら海岸に波が押し寄せて来る現象。特に満潮の際、暴風などのために上昇した海水が内陸に進入する現象。
*田疇 田畑。
*昏黒 日が没して、周囲が暗くなること。
*咫尺 距離の近いこと。
*澎湃 水がわき立つさま。
*数口 5、6人の小家族。ここでは、小人数の家と訳した。『孟子』梁恵王章句上の「百畝之田、勿奪其時、数口之家、可以無飢矣」を踏まえる。
*孑遺 わずかに残っているもの。
*苦楚 苦痛。辛苦。
*勝間田稔 1842~1906。幕末から明治時代の武士、官僚。周防山口藩士。維新後、山口県大属などをへて、愛知、愛媛、宮城、新潟の県知事を歴任。
*東園基愛 1851~1920。幕末から大正時代の公家(藤原氏中御門家流、羽林家)、華族。明治天皇につかえ侍従、掌典次長をつとめた。宮中顧問官。子爵。
*倒懸 手足をしばって、さかさまにつるすこと。転じて、非常な困苦・苦痛のたとえ。
*葬魚腹 海や川で水死することのたとえ。『楚辞』漁夫の「寧赴湘流、葬於江魚之腹中」による。
*餓莩 餓死の状態。
*吉田村 現愛知県西尾市吉良町吉田近辺。南は海に臨む。矢作古川の河口にあり、江戸時代から干拓新田を次々に開いて今日の姿に至った。また入浜式製塩が盛んだった。
*殫□ □は判読困難。「述」としたが、「乏」「亡」の可能性もあり。
*富田村 現愛知県西尾市吉良町富田。吉田村の北。西に矢作古川が流れる。
*饗庭村 現愛知県西尾市吉良町饗庭。吉田村の北。西に矢崎川が流れる。
*一男一女 各家につき男女一人ずつと解釈した。
*腐爛 くさってくずれること。
*呼声 呼びたてる声。
*悚然 恐れてびくびくするさま。
*金蓮寺 現愛知県西尾市吉良町饗庭七度ヶ入に所在。山号は青竜山。曹洞宗。弥陀堂は鎌倉時代の仏堂で、国宝に指定。文中の「堂上」は、弥陀堂を指すか。
*鹹水 海水。
*潮蟲 具体的に何を指すか不明。
*擣爛 うちたたいて焼くとの意か。
*少許 すこしばかり。
*闔郷 全村。村中全部。
*油油 油が光るように、つやつやと美しいさま。
*鶏犬之声四隣相聞 鶏と犬の鳴き声があちらこちらから聞こえて来るの意で、村里が家つづきになっている様子。『老子』独立第八十「鄰国相望、鶏狗之声相聞」による。
*嗟斯疾威 四言詩。韻字、冤・盆・奔・園・原・援・元・孫・村・蕃・恩・根(上平声十三元)。
*疾威 天が民に災禍を下すこと。
*冤 無実の罪。ぬれぎぬをきる。
*海若 海の神。
*艆□ 海船。
*坎蹇 険難があって進むことができず止まる、との意か。
*黎元 庶民。
*蕃 人口が増えるの意に解釈した。
*雲根 (雲が山の岩石の間から生じるように感じられるところから)山の岩石。石。
*岡田希信 1835~1912。三河(愛知県)幡豆郡の医師。号竹沙。同郡保定村(明治22年、吉田村・宮崎村と合併して吉田村)の人。
*寓居 仮に身を寄せること。吉田村本来の住人ではなく、仮に村に住んでいた者を指すか。
*滞留 海嘯の時、他所の者が旅先の吉田村にいたという意か。
画像








その他
補足
- 原文の□で注記したところは、『吉田村史』、『三河金石文字集』、『台風十三号による幡豆地方災害誌』を参考とした。
- 本碑は、当初西尾市吉良町吉田伝蔵荒子の地に建造され、ついで吉田小学校に移され、昭和28年(1953)、現在地に移された(『吉田村史』、『吉良町誌』)。
- すでに『吉田村史』(1915年)、『三河金石文字集』(1919年)に原文が掲載。また『吉良町誌』(1965年)、『台風十三号による幡豆地方災害誌』(1955年)に訓読文が掲載(原文はなし)。ただし弊研究所作成のものと相違がある。
- 上記刊本は資料名をすべて「海嘯紀念碑」または「海嘯記念碑」としている(恐らく篆額の「恩」を「念」と読み違えたか)。しかし篆額には「海嘯紀恩碑」とあり、さらに全文の意図、すなわち天皇等からの恩恵を記すという目的からしてもこちらの方が資料名として適切だろう。
参考文献
- 浅井岩次郎編『吉田村史』(吉田村、1915年)33~5頁、203~5頁。
- 「岡田希信翁寿碑」(明治37年撰、上記『吉田村史』所収)。
- 三河全国高等小学校長会編『三河金石文字集』(三河全国高等小学校長会、1919年)36~7頁。
- 『台風十三号による幡豆地方災害誌』(愛知県幡豆郡町村会、1955年)343~5頁。
- 『吉良町誌』(国書刊行会、1981年、1965年刊行の複製)256~7頁、494~7頁、556~8頁。
- 『西尾幡豆医師会史』(西尾幡豆医師会、1963年)140~2頁。
- 『西尾市史 一 自然環境・原始古代』(西尾市、1973年)573~91頁。
- 『愛知県災害誌』(愛知県、1970年)125~7頁。
所在地
海嘯紀恩碑
所在:
宝珠院|愛知県西尾市吉良町吉田石池
アクセス:
名鉄蒲郡線 吉良吉田駅 徒歩
宝珠院 山門横にあり
編集履歴
2023年6月29日 公開
