澱河洪水紀念碑銘 ―明治18年淀川大洪水と、堤防「わざと切れ」―

澱河洪水紀念碑銘
概  要

明治18年(1885)の淀川大洪水を記した石碑。村(現大阪府枚方市)堤防が決壊し、摂津・河内の百村以上が水没し大きな被害があった。大阪府知事たてごうぞうが下流域で堤防を切開し(俗称「わざと切れ」)、溢れ水を淀川に戻して水勢を減じ、更なる水害を免れたという。復興した被害地の住民が、被害状況や「わざと切れ」の有効性などを伝えようと建碑を企図。切開堤防近くの櫻宮境内に立つ。建野の功績を記す事に強い力点があるが、水害のすさまじさ、住民の辛苦は少なからず読み取れる。

資料名 よどがわ洪水紀念碑銘
年 代 明治19年(1886)
所 在 櫻宮(神社)|大阪府大阪市都島区中野町
 北緯34°42’02” 東経135°31’25”
文化財指定     

資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0007_2307

目次

翻刻

「澱河(篆額)水紀念碑銘」
旱、天之降災国家代有。故雖以拱之治、不能俾之絶無。乃為之牧者、安得
不竭尽心力拯其墊乎哉。明治十八年乙酉夏六月、大雨霖、澱河暴漲、潰決田郡
賀邨堤防、漂没河諸郡百四十五邨。水勢々、目無際、尽成浸、士民竄、老弱号呼。
有乗屋避水者、有縁木求救者。走者泣者顛者蹶者、悲惨万状不可状。災地多属坂府
下。府事野君、聞警起曰、民命至重。是不可須臾舎也。即会井郡長与土木課員、議
決堤防。実六月十八日也。翌日午牌、知府事率其僚属数人、馳赴島、権設支局、便宜行事。
乃与臺将校戮力、発役夫千餘人、野田邨堤防、以殺水勢。其摂河諸郡人民、息得免
腹之葬者、未嘗不由此偉挙也。然而前害已除、後患継起。其二十九日、暴風甚雨、水量益
加。如駆万馬而闘百雷、径潰決宮堤防、勢氾濫、入市街。市街沈没、橋梁悉断。其惨、有
転甚前日者也。知府事豫慮小民罹水災者衣食或不給、為予糧食、救之。於是市井人民、
海外商、亦争給衣糧、頒財物、然従之。後又大起工役、理堤防、以救助貧民、始于七月、
竣于九月。災後窮民得免飢餓者、亦未嘗不由其力也。抑茨田・成二郡、決野田邨堤防免
水害者、上下百餘年間前後三次。一為享和二年。距今八十五年矣。一為文化四年。距今八
十年矣。独享和・文化之水災、水没庵堤、然後決矣。今者則先其未没而決矣。是以保其民
命、免水害。其々、有倍於前日者也。若夫因循不決、不独摂河諸郡被水害、其所波及、
有不可測者也。後之値澱河水災者、豈可不鑑而誡乎哉。今歲邨人民罹水災者、感其保
護之徳尤鉅、為建紀念碑、垂戒乎疆云。銘曰、
  来襄邱陵 微咸魚 漂産鼃 水上床十尺餘
  乗屋者縁木者 全家人悉居 府曰人命重 決堤防注
  土平服耟 〔山ヵ〕可樵水可漁 建豊碑勒功績 仁民者誰歟
   明治十九年丙戌第三月 建野府知事(ママ)篆額 池純撰文 田浩蔵

「大阪西横(石碑脇石刻字)堀(以下読メズ)
  石彫刻(以下読メズ)
   松原(以下読メズ)」

現代語訳

〔1.淀川の氾濫とその惨状〕
澱河洪水紀念碑銘
ぎょうの時代の洪水や、殷王朝・とう王の時の日照りなど、(理想的な古代聖帝の時代であっても)天が国家に災いを下すことは、それぞれの時代に発生する。そのためゆうていしゅんの時代のように、聖人君主がことさら策を施すこともなく自然に天下がよく治まっていても、天災を全く無くしてしまうことはできない。だから地方の行政官は、(天災が起きた時)精魂を傾け人民の困窮をどうして救わないでいられようか。明治18年夏6月、長く激しく続く雨に、淀川の水量が俄かに激増し、(大阪府、河内国の)まん村の堤防を決壊させ、摂津・河内の諸郡145村を水没させてしまった。あふれた水の勢いは強く、見渡す限り際限なく大地に覆い広がり、どこもかしこも湖のようになってしまった。(そんな中)住民は貴賤を問わず大水から逃げ隠れ、老人や弱者は大声で叫んで助けを求めた。屋根に上り水を避ける者もあったし、大木につかまり救助を求める者もあった。走る人、泣く人、倒れる人、つまずく人     人びとの悲惨さはあまりに千差万別であって、これらを言葉で表現することなどできまい。
〔2.府知事建野氏による応急治水処置〕
災害地の多くは大阪府に属していた。大阪府知事たてごうぞうは報せを聞いて決起し、「人民の命は重い。片時も放っておくことはできない」と述べた。そして、(東成郡および住吉郡の)郡長の桜井義起および土木課員と会談し、堤防を人為的に切開させようということになった。6月18日のことである。翌日の午の刻(正午ころ)、知事は、その配下数人をひきつれ網島に馳せおもむき、仮設の支部庁舎を設け便宜ここで事を司った。そして大阪鎮台の将校と力を合わせ、役夫千人余りを徴発し、野田村の堤防を切開させて(淀川上流にて大地に流出したあぶみずを本川にもどし溢れ水の)水勢を殺した(俗称「わざと切れ」)。水没して魚の腹に収まることもなく生命の危機を脱した摂津・河内諸郡人民が安息の思いをなすことができたのは、この優れた企てのお陰なのである。
〔3.再びの氾濫と被害窮民の救済〕
さてこのように前害は既に除かれたものの、後患が続いて起こってしまった。同月29日、暴風大雨で水量がどんどん増えてきた。万馬を駆使し百雷を集めたようなすさまじい勢いで、すぐに桜宮の堤防が決壊し、満ちあふれるような非常の勢いで川が氾濫し、わきでるように濁流が市街地に侵入してきた。市街は水没し、橋梁はことごとく断たれてしまった。その惨状は、かえって前日のそれよりひどい場合もあった。知事は、水害を被った庶民が衣食に不自由するのではと予め思慮し、そのために食料を配給し困窮から救った。ここに至り市井の人々や海外の豪商も争って衣食を寄せ資財を施し、草木が風になびくように知事の行動に従った。後にもまた大工事のため役夫を徴発して堤防を修理し、(水害で、生活の糧を得る手段を無くした)貧民を(工事の対価や糧食を与え困窮から)救った。工事は、7月に始まり9月に終わった。災害の後、困窮した人々が飢餓の危機を免れたのは、このような企てによるのである。
〔4.堤防切開の効用と府知事の功績〕
そもそも茨田・ひがしなり二郡で、野田村の堤防を切開させて水害を免れたことは、100年余りの間に(今回を含めて)前後3回ある。1度目は享和2年(1802)で、今から85年前のことだ。2度目は文化4年(1807)で、今から80年前のことだ。享和・文化の水害は、とくあんつつみが(淀川の溢れ水で)水没し、その後に(野田村堤防を)切開させた。今回は(徳庵堤が)水没するより先に(野田村堤防を)切開させた。これにより人民の生命を守り、水害を相対的に免がれることができた。その功労は明らかであって、前回の功績の倍ほどもある。もしぐずぐずして切開させなければ(または切開という決定をしなければ)、ただ摂津・河内諸郡が水害を被むるのみならず、その害がさらにどこまで波及したか測りかねない。今後淀川の水害対策に当たる者は、(知事のこのような処置や被害減少の結果を)深く考えて用心しないでいられようか。
〔5.石碑造立の企て〕
今年、水害を被り(知事の処置で)命や生活を保つことのできた村々の人達が、その功績と徳行の大きさに感じ入り、記念碑を建て(この度の被害・人為的切開処置・治水工事・救援活動などを記し、後代の人々に)永く警戒しそなえさせたいと言う(だから私は碑文を撰文した)。銘(詩)にいわく、
〔6.銘〕
大洪水が迫り来て岡や小山をのぼる。聖王、が治水の技術を施し伝えていなかったならば、人々はみな溺れて魚に食べられていただろう。
小さな家は濁流に漂い水没した家のかまどには蛙が生まれるよう。あふれ広がる洪水は、深さ10尺(約3メートル)にもなった。
屋根に上る者や大木につかまる者。家を全うできたのは、高い建物に住んでいた人たちだけ。
地方長官の建野君いわく「人命は重し」と。堤防を切開させ溢れた大水を大海に導く。
大地や河川が平らかに収まり、人々は鋤や鍬を持って農事にいそしむ。山へは木を伐りに行き、川へは漁に向かう。
大きな石碑を建てて功績を刻む。民たちに仁恵を施したのは誰だろうか。

訓読文・註釈

〔1.淀川の氾濫とその惨状〕
よどがわ洪水紀念碑銘
ぎょうの水、とうひでり、天の災いを国家にくだすやよ有り。故にだいすいきょうの治を以てすると雖ども、之をして絶えて無からしむること能わず。乃わち之が為、じんぼくいずくんぞ心力をけつじんし其のこんてんすくわざるを得んや。明治十八年乙酉きのとのとり夏六月、大りんに澱河にわかに漲ぎり、まん邨の堤防を潰決し、せっ諸郡百四十五邨を漂没せしむ。水勢浩々こうこうとしてきょくもく際無く、尽ごとくきょしんと成し、士民ほんざんし老弱ごうす。屋にのぼり水を避くる者有り、木にり救いを求むる者有り。走る者・泣く者・たおるる者・つまずく者、悲惨万状、めいじょうすべからず。

〔2.府知事建野氏による応急治水処置〕
災地多く大坂府下に属す。たて君、しらせを聞きけっして曰く、民命は至重なり。是れ須臾しばらくつべからざる也と。即わち桜井郡長と土木課員と会し、堤防を決せんと議す。実に六月十八日也。翌日午牌、知府事、其のりょうぞく数人をひきい、あみじまに馳せ赴むき、かりに支局を設け便宜に行事す。乃わち鎮臺の将校と力をあわせ、役夫千餘人をおこし、野田邨の堤防を決し、以て水勢を殺す。其の摂河諸郡人民の、そくして魚腹にこれ葬むるを免かるるを得る者、未だ嘗て此の偉挙に由らずんばあらざる也。

〔3.再びの氾濫と被害窮民の救済〕
然りしこうして前害ぜんがい已に除かるも、こうかん継ぎて起こる。其の二十九日、暴風甚雨に水量ますます加わる。万馬を駆して百雷をあつむる如く、ただちに桜宮の堤防潰決し、せい氾濫し、市街にふんにゅうす。市街沈没し、橋梁ことごとく断ず。其の惨、かえって前日よりはなはだしき者有る也。知府事、小民の水災をこうむる者の、衣食或いはらざるをあらかじめおもんぱかり、為に糧食をあたえ、之をしんきゅうす。ここに於いてせいの人民、海外のしんしょうも亦争いて衣糧を給し財物をわかち、ぜんとして之に従う。後にも又大いに工役を起し、堤防を修理し、以て貧民を救助すること、七月に始まり九月におわる。災後きゅうみんの飢餓を免かるるを得る者も、亦た未だ嘗て其の力に由らずんばあらざる也。

〔4.堤防切開の効用と府知事の功績〕
そもそも茨田・ひがしなり二郡の、野田邨の堤防を決し水害を免かるること、上下百餘年の間に前後三次。一は享和二年り。今をへだつること八十五年。一は文化四年為り。今を距つること八十年。だ享和・文化の水災は、とくあんつつみ水没し、然る後に決す。今は則わち先ず其の未だ没せずして決す。これを以て其の民命を保ち、水害を免かる。其のこうこう歴々として、前日に倍する者有る也。若し夫れいんじゅんして決せざれば、だに摂河諸郡の水害を被むるのみならず、其の波及する所、測るべからざる者有る也。後の澱河の水災にあたる者、豈にかんがみていましめざるべけんや。

〔5.石碑造立の企て〕
今歲、ごうそん人民の水災を罹むる者、其の保護のこうとくの尤もたっときに感じ、紀念碑を建て、けいかいきょうに垂れんとおもうと云う。銘に曰く、

〔6.銘〕
大水たいすい来りてきゅうりょうのぼる。はくかりせば人な魚ならまし。
しゃ漂よいかまどかえるを産し、水のそこよりたかきこと十尺餘り。
屋にのぼる者、木に縁る者。家を全する人ことごとろうきょ
めい曰くじんめい重しと。堤防を決しりょに注ぐ。
すい平らかにらいきょに服し、山はきこるべく水はすなどりすべし。
豊碑を建て功績をきざむ。みんに仁たるものそ。
   明治十九年ひのえいぬ第三月 建野府知事(ママ)てんがく 菊池純撰文 邨田浩蔵しょたん

*澱河 淀川。

*尭水 中国古代の伝説上の帝王たる尭(ぎょう)の時代の洪水。『孟子』滕文公章句上の「当尭之時、天下猶未平。洪水横流、氾濫於天下」。

*湯旱 殷王朝創始の湯王の時代のひでり。

*虞代 中国古代の伝説上の帝王たる舜(しゅん)の時代。有虞氏と称する。

*垂拱 君主がことさら策を施すこともなく、自然に天下がよく治まる。

*人牧 地方の人民を治める人。

*昏墊 おぼれ苦しむ。『書経』皋陶謨の「禹曰、洪水滔天、浩浩懐山襄陵、下民昏墊」を踏まえる。

*茨田郡 河内国(大阪府)の西北部にあった郡。現枚方市の南西部、寝屋川市の西部、大東市の西部、大阪市鶴見区の東部、門真・守口両市の全域にあたる。

*伊加賀邨 伊加賀村。現大阪府枚方市伊加賀本町などの地域。旧茨田郡。淀川左岸。

*摂河 摂津国・河内国。

*浩々 水のみなぎり広がっているさま。

*極目 見わたす限り。

*巨浸 非常に多量の水。

*奔竄 にげかくれること。

*名状 物事のありさまを言葉で表現すること。

*大坂府 大阪の近世における表記は「大坂」だが、石碑建立当時の公的な表記は「大阪」が支配的だったと思われる。

*知府事 大阪府知事。

*建野君 建野郷三(1841~1908)。幕末~明治時代の武士、官僚、実業家。豊前小倉藩藩士。大阪府知事、アメリカ公使兼メキシコ公使をつとめた。

*蹶起 決起。勢いよく立ち上がること。

*桜井郡長 東成および住吉郡長の桜井義起(『東成郡誌』)。

*網島 現大阪市都島区網島町近辺。当時の淀川(現在の大川(旧淀川))左岸。旧大阪府東成郡。

*鎮臺 明治前期の陸軍の官衙。ここでは大阪鎮台。

*決野田邨堤防 野田村は、旧大阪府東成郡。現大阪市都島区東野田町近辺。野田邨堤防とは、当時の淀川(現在の大川(旧淀川))左岸の堤防を指すと思われる。「決」とは人為的に堤防を切り開いたこと。以下、河川増水による堤防の破壊を「決壊」といい、人為的な堤防の破壊を「切開」と表現する。

*蘇息 生気がよみがえること。

*魚腹之葬 水死する。『楚辞』漁夫の「寧赴湘流、葬於江魚之腹中」を踏まえた表現。

*桜宮 現大阪市都島区中野町(旧東成郡内)にある神社。当時の淀川(現在の大川(旧淀川))左岸にあり、天照皇大神・八幡大神・仁徳天皇を祀る。

*餘勢 非常な勢い。

*坌入 坌は、わきでるの意。洪水がわきでるように市街地に流入した。

*賑救 施し物をして、災害、貧困などから救うこと。

*紳商 りっぱな商人。豪商。

*靡然 風に草木などがなびくように、ある勢力になびき従うさま。

*修理堤防、以救助貧民 堤防を修理して水害から貧民を救ったともとれるが、むしろ水害で生業を失った貧民に対して公共工事を実施して仕事を与え、労働対価を与えて飢餓から救ったと解釈する方が適当か。

*東成 東成郡。摂津国(大阪府)南東部にあった郡。現在の大阪市旭区・都島区・城東区・東成区・生野区・天王寺区・阿倍野区の全域または一部にあたる地域。

*徳庵堤 現大阪市鶴見区徳庵近辺にある、寝屋川に沿って続く堤防。北の淀川からの溢れ水がここまで到達し徳庵堤が水没すると、寝屋川が氾濫し寝屋川以南の土地も水没する危険性がある。ここでは、その危険を排除したという功績を念頭に置いていると考えられる。

*功効 てがら。功労。業績。

*歴々 明らかなこと。

*闔邨 村中すべて。ここでは、被害を受け、また知事の処置によって水害被害を少なくできた村々(碑文の「摂河諸郡百四十五邨」)の意と思われる。

*功徳 功績と徳行(徳の高い行い)。

*烱戒 強くいましめること。はげしく訓戒すること。

*無疆 永遠に。

*大水来襄邱陵・・・ 六言詩。韻字、魚・餘・居・閭・漁・歟(上平声六魚)。

*大水来襄邱陵 『書経』皋陶謨を踏まえる(「*昏墊」参照)。

*伯禹 禹の尊称。

*人咸魚 『楚辞』漁夫の「葬於江魚之腹中」を踏まえていると思われ、人々はみな魚に食べられていただろう、と解釈した。

*廬舎 小さな家。

*竈産鼃 故事「沈竈(ちんそう)蛙(あ)を産す」を踏まえる。かまどが水中に没して、そこから蛙(かえる)が生まれる。ひどい洪水のたとえ。

*楼居 たかどのに住む。

*明府 地方長官の敬称。ここでは大阪府知事。

*尾閭 大海の底にあって絶えず海水を漏らしているという穴。ここでは単に(野田村堤防を人為的に切開して、溢れ水を本来流れ着くべきところである)海に流すという意味に取った。

*水土平 水と土地が平らかにおさまっている。『史記』五帝本紀第一の「舜曰(中略)禹汝平水土」を踏まえる。

*耒耟 鋤(すき)の刃。転じて、農具。

*斯民 この人民。親しみの気持ちをこめた言い方。

*菊池純 菊池三渓(1819~91)。幕末~明治時代の漢学者。紀伊国の人。

*邨田浩蔵 村田海石(1835~1912)。幕末から明治時代の書家。大阪の人(以上、『和漢五名家千字文』『大阪人物誌 巻四』)。

*書丹 碑文の字を書したということ。

画像

全景 (撮影:’23/04/23。以下同)
オモテ面
篆額
石碑脇石
櫻宮(神社)
櫻宮近辺から大川(旧淀川)を望む

その他

補足

  • 明治18年淀川大洪水については、『淀川百年史』参照。
  • 『明治碑文集 一』に「摂河泉洪水紀念碑」として訓点付きで掲載されている。ただし全文掲載ではなく、タイトルはじめ異なる箇所もままある。
  • 判読困難な箇所は、『明治碑文集』を参考にした。
  • 建立場所に関する情報は碑文に明示されていないが、櫻宮は、建野が人為的に切開したという野田村堤防に近いため、ここが建立場所に選ばれたと考えられる。
  • 建立の経緯が具体的には示されておらず、費用や建立の主体がどこにあったかはわからない。民より官の側の関与が大きかったか。
  • 瀧川政次郞1957は「腐儒諂諛の文読むべからずと雖も、災害の概況は略これによって知られる」と評している。確かに、古典からの文飾が少なくなく、文才をてらっているとみられてもおかしくない。また、洪水やその被害の具体的な状況よりも、むしろ府知事建野の功績を記すことに強い力点が置かれていて、おべっかと捉えられても無理はない。そのため却って建野の功績に疑問を生じる人もいると思われる。建野の堤防切開やその他の処置がどれほど有効であったか別途検証が必要で、碑文だけを鵜呑みにするのは危険と考えられる。
  • 他方、水害による住民の辛苦さは少なからず読み取ることができ、大洪水被害の「紀念」としての意義は十二分に果たしていると思われる。
  • 明治18年淀川洪水について記した「赤井堤紀念碑」は、こちら

参考文献

  • 佐藤平次郎編『明治碑文集 一』(明治24年(1891)刊、国立国会図書館蔵)六十~六十一丁。
  • 大阪府東成郡編『東成郡誌』(大阪府東成郡、1922年)342頁。
  • 石田誠太郎『大阪人物誌 巻四』(石田文庫、1927年)8~9頁。
  • 瀧川政次郞「明治十八年の淀川大洪水と上代の難波」(『史迹と美術』273、1957年)。
  • 井土霊山編『和漢五名家千字文』(文海堂、1967年)8頁。
  • 淀川百年史編集委員会編『淀川百年史』(建設省近畿地方建設局、1974年)304~9頁。

所在地

澱河洪水紀念碑銘

所在
櫻宮(神社)|大阪府大阪市都島区中野町

アクセス
JR西日本 大阪環状線 桜ノ宮駅 下車 徒歩
櫻宮(神社)境内にあり

編集履歴

2023年7月7日 公開
2024年2月27日 小修正
2024年6月17日 小修正
2024年7月8日 小修正

目次