永井月丹居士石表辞 -長久手合戦の武勲 永井直勝の碑(1)-

永井月丹居士石表辞
概  要

小牧長久手合戦の武勲で有名な永井直勝の事績を刻んだ碑。織田信長、豊臣秀吉とのエピソードも交えつつ、若い頃から神君家康に付き従い幕府に忠節を尽くして功を積み、領地・爵位を賜ってきた様が描かれる。死後の一門の栄達や、文武兼備して幕府に尽くすさまも顕彰されている。寛永2年(1625)没。領地下総えいせいに葬られた。本碑が建つ京都宇治の古刹・こうしょう禅寺は、嫡男の淀城主なおまさが中興した同家の菩提寺。境内西の斜面の最高部、永井家の大きな墓塔がずらりと並ぶ中、ひと頭抜き出て建つ。碑頭には、鳥居の笠木にも似て優美に湾曲するぶ厚い雨覆いをいただき、年輪にも似た模様の碑面を蓮の彫刻が囲み荘厳する。直勝の供養塔(墓ではない)の隣に立ち、ここに詣でる者へ事跡を顕彰する意図で建てられたと考えられる。没後約20年後に尚政が建立。これと同一の筆写・撰文の石碑が、埋葬地永井寺の墓塔の横に立つ。

資料名 えいせいげったんせきひょう
年 代 慶安2年(1649)
所 在 興聖寺 永井家墓所|京都府宇治市宇治山田
 北緯34°53’26″ 東経135°48’48”
文化財指定 京都府指定史跡「淀藩主永井家墓所」内所在
資料種別 石碑
碑文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は篆額による。
ID 0009_2307

目次

翻刻

「永井(篆額)丹居士表辞」
右近大夫永井月丹居士石表辞              民部卿法印夕顔巷道春撰并篆額

居士大江姓永井氏、直勝其諱也。以永禄六年癸亥之歳、産于参州浜邑。祖広正嘗通志于 亞相源君広忠。故大浜邑上宮社田。考曰直吉嗣焉。□□□□□〔居士少仕 〕
東照大神(一字台頭)、経歴参・遠二州間。天正十年仲夏、 大神君赴江州安土、見平信長公。公甚悦慰之饗之、特請従者数輩于別席、飲食之。公手自執箸配葅。居士在□□□〔其列。既〕
而 大神君入洛、公亦到洛、勧 大神君遊覧泉南。翌月明智光秀弑公、京師乱。 大神君聞之欲誅光秀、而聴家臣諫、悟時不可、而発泉堺、過伊賀、聞路□□□□□〔多群盗、而自〕
伊勢乗舟、着参州大浜。直吉以舟迎之、即入其宅、因献膳、且令従者憩休焉。 大神君嘉之、直入崎城。是行居士不離其左右。旬後、光秀被戮。十二年季春、□□□〔信長子〕
雄与豊臣秀吉公構難、秀吉将撃之。信雄拠尾州洲城、請援兵。 大神君以信長旧交故聴之。秀吉使其将勝入(恒興)、以兵攻尾州、抜山城。 大神君□□□〔引軍、救〕
之、与信雄共在牧山。居士従行。秀吉既入犬山、孟夏九日、密遣勝入行、襲参州。 大神君聞之、即出小牧山、邀勝入、戦於久手。居士握鎗突出刺勝入、獲□□□〔其首、敵〕
大敗北。時居士年僅二十二、人皆尚其勇。勝入者秀吉之将也。以勝入所帯剣曰篠雪者、賜居士。其剣今猶在焉。居士之功居多矣。孟冬秀吉憚 大神君、遂□□□〔与信雄〕
解而去。其後 大神君之家臣若干、勅授従五位。居士亦在其中。若佗列老叙位者罕矣。文禄元年、秀吉撃朝鮮。聚兵于肥州護屋、 大神君往会。一日□□□〔秀吉詣〕
大神君営、見居士曰、彼何人哉。左右対曰、永井右近者也。秀吉曰、取勝入頭者是乎。僉曰然。曰嘻壮士也。聞者皆羨之。慶長三年仲秋、秀吉公館、国兵政悉入□□(二字欠字)
大神君之掌内。五年秋、石田三成作乱、 大神君自将伐之、使諸将先駆大戦于濃州関原。三成等就擒時、居士列于隊長。逮於 大神君之制外也、令居士□□□〔尋訪前〕
代柳営之儀式故事于玄旨、乃(藤孝、幽斎)繕写呈上。是為其随時宜沿革故也。十九年冬、坂之役、居士亦為隊頭。明年仲夏、大坂城陥、豊臣族滅矣。凱旋時、有戒命、□□□〔沙汰衆〕
隊、賞有功、罰背法。而其士之属居士者、任其進止。以定功罪、官令無。居士之名弥甚。元和二年初夏、 大神君群臣矣。居士自駿府到江戸、陪仕□□□□□□(六字欠字)
台徳院(一字台頭)大相国(徳川秀忠)乃賜常州間城、以増食邑。五年夏、 大相国在伏見城、嶋正則拘留江戸。以其違制修築広嶋塁故。令山陽・南海両道司、収安藝・備後二州。□□□〔時遣対〕
馬守藤重信与居士、往諭示正則家臣留守広島・原者。其軍装雖無敵于前、然備虞也。留守恐而伏従。乃取両城、収二州而還。正則罪所不赦。然以関原□□□〔軍労故、〕
減一等、於越之後州。八年、賜州最上郡于居氏、其旧刺史之士卒、猶守方城。時遣上野介多正純及居士、往諭之、鳥居氏既入山方城。会正純□□□□□〔有罪。時単使〕
二人持符馳来密告居士及鳥居氏、以旨督過。正純降于利。是年命居士改笠間、賜総州河城、益加采地。然常侍江戸、毎訟於庁、居士預聴。功名□□□□□〔愈顕、恩遇尤〕
渥。寛永二年乙丑、季冬二十九日病卒。時歳六十三。 大相国甚哀惜、人亦皆悲慕之。葬于古河井寺。嫡男従五位下信濃守政嗣封、益揚家声。預聞□□□□□〔政事有年矣。〕
十年季春、
大君幕(一字台頭)下、更改(徳川家光)古河、賜城州城。増其庾維億。尚政弟曰清、叙従五位下、任日向守、賜城州岡邑、以加其禄。次曰貞、任豊前守。次曰重、共叙従五位□□□□〔下。信州長〕
征承祖号、曰右近大夫。次曰保、共授従五位下。次曰庸、幼奉仕
大納言家(一字台頭)*、好(徳川家綱)聚群籍且読兵書。尚政往還武州・城州之間、或連年、或歳。皆莫不承旨。正保元年仲冬二十三日、授従四位下、且賜暇。拝命之辱、而還淀城。慶安□□□□〔二年孟秋〕
四日、改直清長岡、更賜摂州高槻城、愈増封戸。且令移長岡屋宅於高槻。余嘗応日州求而作士碑銘。其雄偉之盛、雖顕著于世、而猶欲其智名勇功伝于□□□□〔不朽也。今〕
復依信州請、而作石表詞、亦庶幾乎昔韓愈誌太原王公墓、而又作神道碑文、蘇軾書司馬温公行状、而又製碑銘。余素不及其万一。然居士之名也無涯。□□□〔而吾筆〕
也有涯。以有涯之筆、欲記無涯之名。雖韓・蘇無奈何耳、而今所刻石堅而不磷、可以無涯。遂系之以。辞曰、
  〇以下、韻に「◎」を注記する。
  昔社田所賜、報志之無中流之一壺、幸大浜之所。小牧之雋、鎗鳴于鉄。関原軍大坂役、在隊長出其。笠間古河塁、
  共拠湯之要。懿哉孝子友弟、増封爵以継。其忠勤之不已、守淀城而登四。既殿于此一邦、況之以五。常□□〔憶安〕不忘戦、廩実
  而多。嗚呼積善之家慶、世縄縄有武
 慶安二年輯己丑十月二十九日    従□□□□〔四位下永〕井信濃守尚政立

現代語訳

〔1.父祖と松平のつながり〕
右近うこんの大夫たいふえいせいげったんせきひょう              林どうしゅんが撰文し篆額を書した。
居士は大江姓永井氏で、その諱は直勝である。永禄6年(1563)に、三河国大浜村で生まれた。祖父の広正は、贈大納言松平広忠(徳川家康の父)に志を通じ主従関係にあった。そのため、大浜村の上の宮熊野神社の神田を(松平広忠から)安堵されて知行していた。父親は直吉と言い、広正の後を継いだ。
〔2.家康への忠義と長久手の大功 -前半生-〕
居士は若いころから東照大神君・徳川家康公に仕え、三河・遠江二国の間を行ったり来たりした。天正10年(1582)5月、神君家康は近江国安土におもむき、織田信長公にまみえた。信長公はたいそう喜んで(遠路おもむいた)神君を慰撫し、饗応してもてなし、(さらに神君の)従者数名だけを別席に招き(少人数で)食事をした。信長公は、てづから箸をとって酒の肴や漬物をお皿に盛りつけ皆に配った。居士・永井直勝もそのわずか数名の中に列席していたのだった。神君はやがて入洛し、信長公も京都に至って、神君を誘い和泉国の南を遊覧した。翌月、明智光秀が信長公を弑逆し京都は錯乱状態になった。神君はこの報を聞いて光秀を誅伐しようとしたが、家臣の諫言をきき入れ、時運の不利を悟り、和泉の堺を発した。伊賀国を過ぎるとき、進路に群盗が多いと聞き、伊勢から舟に乗り、三河国大浜に着いた。永井直吉は舟で神君を迎え、すぐに屋敷にお入りいただき、そしてお食事を献じ、さらに従者たちを休憩させた。神君はこのことに満足し、すぐに(本拠の)岡崎城に入った。これらの行程において、居士は神君のお側を離れることはなかった。わずか十日程の後、光秀は誅戮された。天正12年3月、信長公の子・信雄と豊臣秀吉公が対立し、秀吉が軍を率いて信雄を攻撃した。信雄は尾張清洲城に拠り、援軍を求めた。神君は、信長との旧交からこれを聞き入れた。秀吉は、配下の将軍・池田恒興を遣わし、猛兵をもって尾張を攻め犬山城を奪った。神君は軍を率いて信雄を救い、信雄と共に小牧山に陣をとった。居士はその行軍につき従った。秀吉はやがて犬山城に入り、4月9日、密かに池田恒興を遣わし、忍び行かせて三河を襲わせようとした。神君はこれを聞くと小牧山を出て、恒興を迎え撃ち長久手で戦った。居士は鎗を握り、勢いよく前に走り出て恒興を刺してその首を取ると、敵は大敗北を喫した。時に居士は年齢わずかに22歳     人々は彼の勇気を称えた。恒興は秀吉方の勇将である。恒興が帯びていた篠雪という剣を、神君は居士に与えたもうた。その剣は今でも存在している。居士の功績は甚大である。10月、秀吉は神君をおそれあやぶみ、遂に信雄と和を講じて進軍をとどめて退去した。その後、神君の家臣の一部に従五位が勅授された。居士もまたその一人だった。このように家老の身にありながら叙位されるのは稀なことである。文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮を攻撃した。軍兵を肥前国名護屋に召集した時、神君もそれに応じた。ある日、秀吉が神君の陣営に至り、居士を見て言った、「彼は何者か」と。「永井右近という者です」と左右の者が答える。秀吉はさらに言った、「恒興の首を取ったのはこいつか」。「そうです」と一同答える。秀吉は言った、「ああ、勇ましい男であることよ」と。話を聞いた者はみな羨ましく思ったことだった。慶長3年(1598)8月、秀吉公が亡くなり、全国の軍権・政権がことごとく神君の手中に入った。同5年の秋、石田三成が反乱を起こし、神君は自ら軍を率いてこれを討とうとし、諸将を先駆けさせ美濃関ヶ原で大いに戦わせた。三成らが捕らえられたとき、居士は隊長に列していた。(戦勝の後)それまでの統治範囲を超えて軍事・行政の権が広く及ぶようになったので、神君は居士に命じて、室町幕府の儀式体系や(軍事・政治の)故事を細川幽斎に尋ねさせた。居士は、(幽斎の回答文書の)過をけずり不足をおぎない写し直して奉呈した。これは、幕府軍政の変遷や、現在の事情を踏まえつつ(これからの軍事・政治を)行おうという意図からである。同19年冬、大坂の陣にも、居士は隊長の一人となった。翌年の五月、大坂城が陥落し、豊臣の一族は滅びた。凱旋の時、命があった。各軍隊を審査し、功績のある者を賞し、法に背いた者を罰するという。居士の軍に所属する武士については、(幕府でなく)居士の裁量にまかせられた。功ある者と罪ある者とが審議された時、幕府中枢から罪を指摘されることはなかった。居士の名声はますます高まった。元和2年(1616)の初夏、神君徳川家康は群臣を捨てるように(駿府にて)世を去った。
〔3.幕政の参画 -後半生-〕
居士は駿府を発して江戸に至り、徳川家忠に仕え、常陸笠間城を賜り領地を増した。5年の夏、将軍家忠は伏見城にいて、在江戸の福島正則を拘留させた。その理由は、制禁を犯して広島城を修築したためである。そこで山陽道・南海道の大名に命じて安芸・備後二国を(正則から)接収した。当時、対馬守安藤重信と居士を派遣し、領地の広島や三原に留守居している正則の家臣達を説諭させた。その時の軍備は無敵ではあったが、それは不慮の事態に備えるためであった。留守居の家臣達は恐れて伏し従った。そこで広島・三原両城を接収し二国を取り上げて帰還した。正則の罪は許される類のものではない。しかし、関ヶ原の戦の功労のため、減刑されて越後に追放された。同8年、鳥居氏が出羽国最上もがみ郡を賜ったが、同地の旧領主の士卒はそれでも山方城(山形城)を守り立ち退かなかった。そこで、上野介本多まさずみと居士が遣わされ、彼らを説得したので、鳥居氏はやがて山方城に入ることができた。この時偶然にも正純を罰せよとの幕命があった。そのため使者2人が命令書を持って馳せ来たり、密かに居士と鳥居氏に告げて、将軍の命令通りに(正純に対して)過ちを咎めさせた。その結果、正純は(出羽国)由利に左遷された。この年、居士に幕府から辞令があり、笠間を改め上総城を賜り、領地石高が増加した。それでも常に江戸にて将軍に侍り、訴訟の判決を下す時、いつも居士は(将軍から)諮問を受けた。このように、これまで手柄を立ててきたので、その名声はますます顕著となり、(それに対して将軍からの)待遇もとても厚いものがあったわけである。寛永2年(1625)12月29日、病で亡くなった。時に63歳。将軍家忠は非常に悲しんでその死を惜しみ、人々も皆泣いて亡き人を恋しく思った。古河のえいせいに埋葬された。
〔4.一族の栄達〕
嫡男の従五位下信濃守尚政は、(幕府から認可されて)遺領を継ぎ、家の名声をさらに高めた。長年、幕政に参与してきた。同10年3月、現将軍徳川家光の命により、古河が改められ、山城国淀城を賜わった。収穫物で倉がいっぱいに満ちるほど、領地の石高は増加した。尚政の弟である直清は、従五位下に叙せられ、日向守に任じられ、山城国長岡を賜り、その禄を増やした。直清の弟は直貞といい、豊前守に任じられた。直貞の弟は直重といい、直貞・直重ともに従五位下に叙せられた。信州尚政の長子尚征は、祖父の号右近大夫を継いだ。その弟は尚保といい、尚征・尚保ともに従五位下を授けられた。尚保の弟はなおつねといい、幼い頃から徳川家綱に仕え、好んで群書を集め兵書を読んだ。尚政は、あるいは毎年、あるいは隔年、武蔵江戸と山城の淀とを往還して幕府に仕えた。この間、幕令に従わないことはなかった。正保元年(1644)11月23日、従四位下を授けられ、さらにお暇を賜った。かたじけなくその命を拝し淀城に帰った。慶安2年(1649)7月4日、(幕令があり)直清に対し、山城国長岡を改めて、摂津高槻城を賜い、石高を増加させ、さらに長岡の住居を高槻に移させた。
〔5.朽ちぬ勲と再びの建碑〕
私は以前、日向守(直清)の求めに応じて居士の碑銘を撰した。居士のたいそうしく優れたさまは広く世に知れ渡っているが、それでも(日向守直清は父直勝の)智将の名声や武勇の手柄を永遠に伝えたいと思ったわけである。さらに今信濃守(尚政)の求めに応じて石表詞を作ったのは、昔唐のかんが太原王公(おうちゅうじょ)の墓誌銘を作り次いでしんどう碑文をも作ったことや、宋のしょくこうぎょうじょうを作りさらに碑銘をも作ったという事実に近いものである。私は、もとより彼らの(才能・功績の)万分の一にも及ばない。そして居士の名声は、(これまで述べてきたように偉大であって)限り無く未来永劫伝わっていくだろう。一方(才能のない)私の文章は、限りが有りそのうち朽ちて伝わらないだろう。つまり、有限の撰文を以て、無限の名声を記そうと思っているわけだ。韓愈や蘇軾の立派な文体にはどれほど努力しても到達できないだろうが、今刻もうとしている石は堅くそして擦り減らない、つまり限り無く永遠に残っていくだろう(だから居士について書いたこの碑文も残り続けていくだろう)。よって以上の序文に(詩)をつなぐ。辞にいわく、
〔6.辞 -文武兼備の忠心-〕
  〇以下、韻を踏むごとに改行。
ああ昔(松平広忠公が)神田を(居士の祖父広正に)安堵したのは、ふた心なき忠節心に応えたからだ。
難船のとき浮き袋となるひさごには千金の価値がある     この故事のように、光秀反乱の一大事、神君家康は伊勢から船出して、辛くも家臣永井の地三州大浜に流れ着くことができたのだ。大浜では(父直吉が)ご休憩の屋宅をご用意し、お着きになってお休みになる。
俊逸なる猛将・池田恒興を小牧でうちとる。鉄の騎兵と打ち合う刀鎗がなり響く、その中で。
関ヶ原の戦い、大坂の陣。同類に抜きん出て隊長をつとめる。
笠間の城堀、古河の城郭。守りが固く難攻の城に拠る。
よきかな、親孝行の子供たち、仲の良い兄弟。領地や官位を増して居士の跡を継ぐ。
将軍への忠勤はやむことなく、(嫡子尚政は)淀城を守り四位にも登った。
現に(将軍から領地安堵をうけて日本国の)一部を文政によって治める(それは将軍への忠勤)。ましてや、国家存亡の一大事たる兵制を常におもんぱかり、幕府への軍事的奉公の気持ちを忘れないのは勿論のこと。
常に領地や国が安らかであることを願いつつ有事の際の戦いに絶えず思いを致す。米や穀物で倉は満ちても、多くの兵器を保ち常につくろい磨きを怠らない。
ああ積善の永井家、そこにあふれる慶福。いつの世も絶えず慎重な心で、いくさの備えあることよ。

訓読文・註釈

〔1.父祖と松平のつながり〕
右近うこんの大夫たいふえいせいげったん せきひょう              民部卿法印夕顔巷林どうしゅん撰并篆額

居士大江姓永井氏、なおかつは其のいみな也。永禄六年みずのとのいの歳を以て、参州大浜邑に産まる。祖の広正、嘗て志を贈しょう源君広忠に通ず。故に大浜邑の上宮社田をむ。考は直吉と曰いこれを嗣ぐ。

*永井月丹居士 永井直勝(一五六三~一六二五)の戒名。「永井月丹居士」で一つの戒名と考えられるので、「永井」はナガイではなくエイセイと読んでおく。居士は、仏教の在家信者のこと。

*石表辞 石表は、石標。文字を刻んだ石。辞は、中国の古典文学の一ジャンル。韻はふむが規則はきわめてゆるい。韻文は、末尾3行に刻まれている、「惟昔社殿」から始まり「有武備」でおわる部分。その前の文章は、この韻文たる「辞」を導く序文に当たる。補足も参照のこと。

*林道春 林羅山(1583~1657)。江戸初期の儒者。京都の人。名は忠または信勝。家康の命で剃髪して道春と号す。藤原惺窩に朱子学を学ぶ。徳川家康の顧問となり、次代も引き続き幕府に仕えて政治・文教に参画。幕府御儒者林家(りんけ)の祖。

*大浜邑 三河国の大浜村。三河湾に突出た半島状の村。大浜郷とも。江戸時代には大浜湊という湊があった。現愛知県碧南市の中南部で、大浜上町などの地域。

*贈亞相源君広忠 松平広忠(1526~49)。戦国時代の武将。岡崎城主。徳川家康の父。亞相は大納言の唐名。贈亞相とは、没後大納言を贈られたとの意。

*食大浜邑上宮社田 上宮は、大浜の熊野神社のこと(現愛知県碧南市大浜上町)。その神田を永井広正が松平広忠に安堵されて知行していたということ。

〔2.家康への忠義と長久手の大功 -前半生-〕
居士、わかくして東照大神君(徳川家康)に仕え、参・遠二州の間を経歴す。天正十年仲夏、大神君、江州安土に赴むき、たいらののぶなが公にまみゆ。公、甚はだ悦びて之を慰さめ之をえし、だ従者数輩のみを別席に請じ、之と飲食す。公、手自てづから箸を執り肴葅を配す。居士其の列に在り。既にして大神君入洛し、公も亦洛に到り、大神君に勧めて泉南を遊覧す。翌月明智光秀、公をしいけい乱る。大神君、之を聞きて光秀を誅せんと欲するも、家臣のいさめを聴きて、時の不可なるを悟りて、いずみさかいを発し、伊賀を過ぐるに、路に群盗多しと聞きて、伊勢より舟に乗り、参州大浜に着す。直吉、舟を以て之を迎え、即わち其の宅に入れ、因りて膳を献じ、且つ従者をしてけいきゅうせしむ。大神君之をみし、ただちに岡崎城に入る。の行に、居士其の左右を離れず。しょうじゅんの後、光秀りくせさる。十二年季春、信長の子のぶと豊臣秀吉公と難を構え、秀吉きて之を撃つ。信雄、尾州きよ城に拠りて、援兵を請う。大神君、信長旧交を以っての故に之を聴く。秀吉、其の将池田しょうにゅうをして、ていへいを以て尾州を攻めいぬやま城を抜かしむ。大神君、軍をみちびきて之を救い、信雄と共にまき山に在り。居士、行に従がう。秀吉、既に犬山に入り、孟夏九日、密かに勝入を遣わして間行し参州を襲わしむ。大神君之を聞きて、即わち小牧山を出でて、勝入をむかながに戦かう。居士、鎗を握りて突出し勝入を刺し、其の首を、敵大いに敗北す。時に居士、年僅かに二十二、人皆な其の勇をとおとぶ。勝入は秀吉のぎょうしょう也。勝入所帯の剣のしのゆきと曰う者を以て、居士に賜う。其の剣、今も猶お在り。居士の功きょなり。もうとう、秀吉、大神君に憚かりて、遂に信雄とこうかいして去る。其の後、大神君の家臣若干、じゅを勅授せらる。居士も亦其の中に在り。の若く国老に列し叙位せらるるはまれなり。文禄元年、秀吉朝鮮を撃つ。兵を肥州あつめ、大神君往きて会す。一日秀吉、大神君の営にいたり、居士を見て曰く、彼れいかなる人かなと。左右こたえて曰く、永井右近なる者也と。秀吉曰く、勝入の頭を取るはこれかと。な曰くしかなりと。曰くああそう也と。聞く者皆な之をうらやむ。慶長三年仲秋、秀吉公えんかんし、こうこくの兵政ことごとく大神君の掌内に入る。五年秋、石田三成、乱を作し、大神君みずからひきいて之を伐たんに、諸将をしてせんし大いに濃州関原に戦かわしむ。三成等しゅうきんの時、居士隊長に列す。大神君のこんがいを制するにおよぶや、居士をして前代りゅうえいの儀式・故事を細川げんに尋ねわしめ、乃わち繕写して呈上す。是れ其の沿革に随わんがための故也。十九年冬、大坂の役にも、居士、亦隊頭と為る。明年仲夏、大坂城陥ちて、豊臣の族滅す。凱旋の時、戒命有りて、衆隊を沙汰し、功有るものを賞し法に背くものを罰す。しこうして其の士の居士に属する者は、其の進止に任す。以て功罪を定むるに、官令、あげつらうこと無し。居士の名いよいよせきじんたり。元和二年初夏、大神君、群臣を棄つ。

*東照大神君 徳川家康(1542~1616)。戦国時代の武将。江戸幕府初代将軍。岡崎城主松平広忠の長男。はじめ、今川義元、ついで織田信長と結び、のち豊臣秀吉と和睦して天下統一に協力。関ケ原の戦勝後、征夷大将軍。慶長10年(1614)秀忠に将軍職を譲り、大御所として駿府で幕府の土台固めにつくした。死去の翌年、東照大権現との神号を贈られる。

*肴葅 肴は酒の肴。葅は漬け物の意

*岡崎城 現愛知県岡崎市にあった城。15世紀に、西郷稠頼が築城。のち、徳川家康の祖父松平清康が攻略して居城としたという。

*浹旬 一旬。10日間。「浹」はひとめぐりの意。

*信雄 織田信雄(1558~1630)。安土桃山時代の武将。信長の次男。「のぶかつ」とも。信長の死後、尾張清洲城主。徳川家康の助けを得て一時豊臣秀吉と戦う。

*清洲城 愛知県清須市にあった城。15世紀、織田敏定が居城とし、のち織田信長の居城となった。信長の死後、次男の信雄の居城となる。清須城とも。

*池田勝入 池田恒興(1536~84)。安土桃山時代の武将。尾張に生まれる。美濃大垣城主。織田信長、豊臣秀吉に仕える。尾張長久手の戦いで徳川家康の軍に敗れ討死。

*逞兵 たくましく強い兵。

*犬山城 愛知県犬山市、木曽川南岸の丘にある城。天文6年(1537)織田信康が築いたという。

*小牧山 愛知県小牧市にある小高い山。小牧・長久手の戦いで徳川家康の主陣地となった所。

*間行 ひそかに隠れて行くこと。

*長久手 尾張西部の地名。現愛知県長久手市。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの戦跡。

*驍将 たけだけしく勇ましい大将。

*講解 なかなおりする。

*国老 家の重臣、家老の意味で用いられているとみられる。このあたりの文意、やや難。

*名護屋 肥前国の地名。現佐賀県唐津市鎮西町。東松浦半島の北西端にあり、壱岐海峡に面する。文禄・慶長の役の際には、本営として名護屋城が築かれた。

*捐館 死去。

*闔国 国じゅう。

*閫外 境界の外。とくに境外の軍務。ここでは、関ヶ原の合戦で勝利した家康によって新たに獲得された支配領域を指す。

*細川玄旨 細川幽斎(1534~1610)。安土桃山時代の武将、歌人。本名藤孝。剃髪して玄旨・幽斎。三淵晴員の次男。伯父で和泉半国守護の細川元常の養子となる。足利義晴、義輝、義昭に仕え、義昭追放後は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。広く芸道に通じた文化人といえる。

*大坂之役 大阪の陣。徳川家康が豊臣氏を攻め滅ぼした戦い。

*論 罪をあげつらう、指摘する。

*藉甚 評判が高いこと。

*棄群臣 家康が逝去したということ。

〔3.幕政の参画 -後半生-〕
居士、駿府より江戸に到り、台徳院大相国にばいし、乃わち常州かさ城を賜わり、以てしょくゆうを増さしむ。五年夏、大相国、伏見城に在りて、福嶋正則、江戸に拘留せらる。其の制に違い広嶋の塁を修築するを以っての故なり。山陽・南海両道ぼくをして、安藝・備後二州を収めしむ。時に対馬守安藤重信と居士とを遣わし、往きて正則家臣の広島・三原に留守する者をせしむ。其の軍装、すすむに敵無しと雖ども、しかに備うる也。留守恐れて伏し従がう。乃わち両城を取り、二州を収めて還る。正則の罪、ゆるされざる所なり。しかるに関原の軍労を以ての故に、一等を減じ、越の後州にざんせらる。八年、羽州最上もがみ郡を鳥居氏に賜わるに、其の旧の士卒、猶お山方城を守る。時に上野介ほんまさずみ及び居士を遣わし、往きて之をさとさしめ、鳥居氏既にして山方城に入る。たまたま正純罪有り。時にひとえ使つかい二人、符を持ちて馳せ来りて密かに居士及び鳥居氏に告げ、旨を以てとくせしむ。正純、こうせらる。是の年、居士に命ありて笠間を改め、総州城を賜い、さいを益し加う。然るに常に江戸に侍し、庁にだんしょうする毎に、居士、聴くに預かる。功名愈いよ顕われ、恩遇尤も渥し。寛永二年きのとのうしとう二十九日病に卒す。時に歳六十三。大相国、甚はだあいせきし、人も亦皆な之を悲慕す。古河のえいせいに葬むる。

*台徳院大相国 徳川秀忠(1579~1632)。江戸幕府第二代将軍。家康の三男。慶長10年(1605)将軍となる。

*笠間城 現茨城県笠間市笠間にあった城。ここを藩庁とした笠間藩について碑文に関係する事項を挙げておくと、慶長17年(1612)松平康長が入封し、元和2年(1616)に上野高崎に移ったのち、永井直勝が入封。同8年、下総古河に転封。

*福嶋正則 福島正則(1561~1624)。安土桃山・江戸初期の武将。尾張に生まれる。豊臣秀吉に仕えた。小牧・長久手の戦い、九州・小田原征伐などで活躍。関ヶ原の戦いで徳川方につき、安芸広島城主となったが城修築でとがめをうけ、所領を没収。

*牧司 大名。

*安藤重信 1557~1621。織豊・江戸前期の大名。三河の人。徳川家康・秀忠につかえ、小牧・長久手の戦い、関ケ原の戦い、大坂の陣で功をたてた。幕府老中。

*三原 備後三原城は、広島県三原市にあった城。天正年間(1573~92)小早川隆景が構築。のち福島氏、浅野氏の支城となる。

*不虞 思いがけないこと。

*竄 追放する。追いはらう。

*羽州最上郡 最上郡は、出羽国南部の郡。現山形県内。ここを領していた最上氏は、足利一門の斯波氏の一流と称する武家。関ヶ原の戦いでは最上義光が徳川方につき山形57万石に封ぜられ、山形城を居城とした。しかしその領国体制は未熟で、義光の死後内紛が激化。元和8年(1622)幕府は最上義俊の所領を没収し、近江大森に転封して一万石を与えた。

*鳥居氏 鳥居忠政(1566~1628)。安土桃山・江戸時代前期の武将。

*山方城 「*羽州最上郡」の項参照。

*本多正純 1565~1637。江戸初期の大名。家康の信任厚く権勢をふるった。宇都宮城主となったが幕臣の反感をかい、出羽国(秋田県)に流された。

*左降 左遷。

*由利 出羽国の地名。

*古河城 茨城県古河市にあった城。

*断訟 うったえをさばくこと。

*永井寺 永井直勝の菩提をとむらうため、死没翌年の寛永3年(1626)、子の尚政が古河に建てた寺(現茨城県古河市西町)。境内には直勝が葬られた塚と墓塔、石碑がある。

4.一族の栄達〕
嫡男従五位下信濃守なおまさ、封を嗣ぎ、益ます家声を揚ぐ。政事を預かり聞くこと年有り。十年しゅん、今大君幕下ばっか、古河を更改し、城州よどじょうを賜う。増す所、其のくらつ。尚政の弟、直清と曰い、従五位下に叙せられ、日向守に任じ、城州長岡邑を賜わり、以て其の禄を加う。次は直貞と曰い、豊前守に任ず。次は直重と曰い、共に従五位下に叙せらる。信州の長子ひさゆきだいの号をぎ、右近大夫と曰う。次は尚保と曰い、共に従五位下を授けらる。次はなおつねと曰い、幼なくして大納言家に奉仕し、好く群籍を聚め且つ兵書を読む。尚政、武州・城州の間を往還すること、或いは連年、或いは間歳。皆なうけたまわざるなし。正保元年仲冬二十三日、じゅを授けられ、且つ暇を賜わる。拝命をこれかたじけなくして、淀城に還る。慶安二年もうしゅう四日、直清の長岡を改めて、あらたに摂州高槻たかつき城を賜い、愈いよ封戸を増さしむ。且つ長岡の屋宅を高槻に移さしむ。

*尚政 永井尚政(1587~1668)。江戸時代前期の大名。永井直勝の長男。二代将軍徳川秀忠の近習。寛永3年(1626)、父の遺領をつぎ、下総古河藩主をへて、同10年、山城淀藩主永井家初代。宇治興聖寺(京都府宇治市宇治山田)に葬られる。

*今大君幕下 三代将軍徳川家光(1604~51)。

*淀城 京都市伏見区淀にあった城。戦国時代に細川氏が創建。その後廃されるも、寛永2年(1625)、松平定綱が伏見城を解体した材料で構築。永井・石川・松平氏を経て稲葉氏が入封。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで焼失。

*所増其庾維億 『詩経』小雅・谷風之什・楚茨の「我庾維億」を踏まえた表現。

*直清 永井直清(1591~1671)。江戸時代前期の大名。永井直勝の次男。山城長岡藩主をへて、慶安2年(1649)摂津高槻藩藩主永井家初代。京都所司代代理、大坂城代代理をつとめた。日向守。墓所は、京都府京都市東山区の泉涌寺悲田院。同地には、直清が正保4年(1647)に立てた直勝の石碑(「永井月丹居士碑銘」)がある。撰文は林羅山。

*長岡邑 「*長清」の項参照。

*直貞 永井直貞(1600~68)。直勝の三男。豊前守。幕府から武蔵国に千石を賜り、直勝遺領のうち上総国に約三千石をわかち賜る。

*直重 永井直重(1604~82)。直勝の子。直貞の弟。式部少輔。直勝遺領のうち下総国に約三千石をわかち賜る。

*尚征 永井尚征(1614~73)。江戸時代前期の大名。永井尚政の長男。山城淀藩藩主永井家二代。寛文9年(1669)、移封されて丹後宮津藩藩主永井家初代となる。

*乃祖 祖父。ここでは永井直勝。

*尚保 永井尚保(1619~73)。永井尚政の子。尚征の弟。

*尚庸 永井尚庸(1631~77)。江戸時代前期の大名。永井尚政の子。明暦4年(1658)、兄尚征が山城淀藩主になった際、河内に二万石を分与される。若年寄をへて、京都所司代。『本朝通鑑』編修の奉行もつとめた。

*大納言家 徳川家綱(1641~80)。江戸幕府第四代将軍。

*間歳 隔年。

〔5.朽ちぬ勲と再びの建碑〕
余、嘗て日州の求めに応じて居士の碑銘を作る。其の雄偉の盛んなる、世に顕著なりと雖ども、猶お其の智名勇功を不朽に伝えんと欲する也。今復た信州の請に依りて、石表詞を作るは、亦た昔唐かんの太原王公墓に誌して又たしんどう碑文をも作りし、宋しょく司馬しばおんこうの行状を書して又た碑銘をも製せしに庶幾ちかし。余、素より其の万一にも及ばず。然るに居士の名や、かぎり無し。而して吾が筆や、涯り有り。有涯の筆を以て、無涯の名を記さんと欲す。韓・蘇、奈何いかんともする無しと雖ども、今刻む所の石堅くしてひすらがず、以て涯り無かるべし。遂に之に系くるにを以てす。辞に曰く、
〔6.辞 -文武兼備の忠心-〕
  〇以下、韻を踏むごとに改行。
  惟れ昔社田を賜わる所、先志の無弐に報ゆ。
  彼の中流のいっ、大浜のやすむ所にいでます。
  小牧のしゅんを獲るや、刀鎗、鉄騎に鳴る。
  関原せきがはらいくさ、大坂の役、隊長に在りて其の類に出ず。
  笠間のほり、古河のとりで、共にきんとうの要地に拠る。
  きかな孝子・友弟、封爵を増し以て継嗣す。
  其の忠勤これまず、淀城を守りて四位に登る。
  既に此の一邦を殿しずむ。況んや之をはかるにを以てするをや。
  常に安きをおもうも戦を忘れず、そうりんちてしか多し。
  嗚呼積善のけいせいせいじょうじょうとして武備有り。
 慶安二年りょうしゅうつちのとのうし十月二十九日    従四位下永井信濃守尚政立つ

*居士碑銘 「*直清」の項参照。

*唐韓愈誌・・・ 韓愈(768~824)は中国唐代の文人、政治家。太原王公(王仲舒)という一人の人物に対して、墓誌と神道碑文の二つの文を撰した(「故江南西道観察使贈左散騎常侍太原王公墓誌銘」、「唐故江南西道観察使中大夫洪州刺史兼御史中丞上桂国賜紫金魚袋贈左散騎常侍太原王公神道碑」、ともに『昌平叢書 韓文 巻二十八之三十八』巻之三十三所収)。

*宋蘇軾書・・・ 蘇軾(1036~1101)は中国北宋の文人、政治家。司馬光(1019~86)に対して、行状と神道碑銘の二つの文を撰した(「司馬温公行状」(『皇朝文鑑』巻第一百三十七所収)、「司馬温公神道碑銘」(『撰定中学漢文 巻七』所収))。

*辞 「*石表辞」参照。

*惟昔社田・・・ 雑言詩。構成は、下記の補足参照。韻字、弐・呬・騎・類・地・嗣・位・事・器・備(去声四寘)。

*先志 先祖の志。ここでは直勝の父の広正の志。

*彼中流之一壺 故事「一壺千金」、すなわち『鶡冠子』学問の「中流失舟、一壺千金。貴賤無常、時使物然」を踏まえた表現。難船のとき浮き袋となるひさごには千金の価値があるように、普段とるにたらない物でも時を得ると貴重になることのたとえ。家康が、光秀反乱という困難に際し、本拠岡崎を目指す過程で海路、家臣永井の領する大浜郷に着岸でき、ついで岡崎に無事に入ることができた。

*獲雋 雋は優れるの意。優れた武将・池田恒興を打ち取ったとの意。

*刀鎗鳴于鉄騎 『古文真宝 前集』巻之九・白居易「琵琶行」の「鉄騎突出刀鎗鳴」にもとづく表現。

*隍 城壁のまわりのほり。

*金湯 「金城湯池(きんじょうとうち)」の略。守りが非常に固く、攻めるのが難しい城。

*殿于此一邦 「殿」は、鎮と通じ、しずめる。「一邦」は、幕府から賜った領地。『春秋左氏伝』襄公十一年の「義以処之、礼以行之、信以守之、仁以励之、而後可以殿邦国、同福禄、来遠人」などを踏まえていると思われるので、武断ではなく文治によって領地をしずめるとの意が含まれているとみられる。

*経之以五事 『孫子』計編の「兵者国之大事也。死生之地、存亡之道、不可不察也。経之以五事」を踏まえる。

*倉廩実 ここの解釈は、(一)永井諸家のクラが満ち満ちている、(二)『管子』牧民の「倉廩実、則知礼節」を踏まえ、領民たちのクラが収穫物で満ちていて彼らは礼節をわきまえているの二通り考えられる。ここでは(一)で解釈する。

*利器 鋭利な兵器・武器。

*世世縄縄 「縄縄」の意は、(一)注意深くし、慎重にするさま、(二)きわまりないさま、の二通り考えられるが、ここでは両方の意を含ませていると解釈した。

*龍輯 歳次。

画像

全景および永井家墓所 1 (撮影:’22/12/10)
全景および永井家墓所 2 (撮影:’23/6/30)
石碑右隣宝篋印塔が永井直勝供養塔
全景および永井直勝供養塔 (撮影:’23/7/15)
石碑右隣宝篋印塔が永井直勝供養塔
オモテ面(撮影:’23/7/15)
オモテ面 下部(撮影:’22/12/10)
ウラ面(撮影:’23/6/30)
篆額および雨覆い(撮影:’23/7/15)
篆額(撮影:’23/7/15)
碑面の模様(撮影:’23/7/15)
碑面まわりの蓮の彫刻(撮影:’23/7/15)
墓所全景(撮影:’23/6/30)
最上段に石碑が建つ。
興聖寺山門

その他

補足

  • 鈴木成元『永井直勝』によれば、本資料の右隣に直勝の宝篋印塔が立つと報告している。弊研究所で実物を調査したところ、摩耗が激しく刻字すべての判読は困難なものの、判読できた字から推して直勝のそれと判断してよいと思う。さて、碑文には、直勝が古河永井寺に葬られたと書かれてあるものの、本碑が立つ場所つまり興聖寺については何も語っていない。よって自然に考えれば、まず第一にこの宝篋印塔は墓塔ではなく供養塔とみなすべきだろう。第二に、本碑が直勝の供養塔の隣に建てられた理由は、供養塔に詣でる者に対して事跡を顕彰する意図があるためと考えられる。
  • すでに下記の版本・書籍で全文が収載されている(訓読・現代語訳・註釈はない)。
    『羅山林先生文集』巻第四十一、『越後史集 地』、『古河市史 資料 別巻』。
    すべて訓点がつき、前記二件は仮名が付されている。
    本碑の判読不能な部分は、上記ならびに拓本を参考として補った。また、訓読の参考としたところがあるが、相違もかなり多い。
  • 文末の雑言詩「辞」の構成は下記の通り(韻を踏んだ字は「◎」で示す)。
    韻:去声四寘
    1:6字+6字  惟昔社田所賜  報先志之無
    2:6字+6字  彼中流之一壺  幸大浜之所
    3:5字+6字  小牧之獲雋   刀鎗鳴于鉄
    4:6字+6字  関原軍大坂役  在隊長出其
    5:6字+7字  笠間隍古河塁  共拠金湯之要
    6:6字+6字  懿哉孝子友弟  増封爵以継
    7:6字+7字  其忠勤之不已  守淀城而登四
    8:6字+6字  既殿于此一邦  況経之以五
    9:6字+7字  常憶安不忘戦  倉廩実而多利
    10:7字+7字 嗚呼積善之家慶 世世縄縄有武
  • 碑文中にも言及されているが、本碑と同じ林羅山撰文で先行して撰された「永井月丹居士碑銘」が、京都泉涌寺の悲田院に立つ(京都市東山区泉涌寺山内町)。永井直清が正保4年(1647)に立てたものである。
  • 墓域の写真撮影をする際には、被葬者・祭祀者に対し敬意をもって行った。

参考文献

  • 『羅山林先生文集』巻第四十一(早稲田大学図書館所蔵、請求記号:ヘ16/1533/17)二十八丁~三十二丁。
    京都史蹟会編『羅山林先生文集 巻二』(平安考古学会、1918年)44~7頁所収。
  • 黒川真道編『越後史集 地』(越後史集刊行会、1916年)150~4頁。
  • 鈴木成元『永井直勝』(一行院、1964年)。
  • 『古河市史 資料 別巻』(古河市、1973年)531~3頁。
  • 「永井直勝頌徳碑拓本」(興聖寺蔵、『碧南が生んだ戦国武将 永井直勝とその一族』(碧南市藤井達吉現代美術館 展示図録、2012年)38頁)

所在地

永井月丹居士石表辞

所在
興聖寺 永井家墓所|京都府宇治市宇治山田

アクセス
京阪宇治線 宇治駅 下車 徒歩約20分
興聖寺の山門を入り、境内西の斜面の最高部

編集履歴

2023年7月17日 公開

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