春日出新田(現大阪市此花区)の桜堤を再築した地主・清海安五郞翁の功績を刻んだ碑。明治19年(1886)翁は、幕末に廃絶した桜堤が海嘯(高潮)被害を防ぐのに不可欠と主張し、巨額費用を自弁して再び築造した。恩恵を受けた住人の発意で造立。時々に修築すべしとも刻んでおり、碑造立には災害予防啓発の目的もある。当時の風景は一変し、今は工場や遊興施設がみられ、桜堤も残っていないようだが、河海に接する同地が自然災害に向き合ってきた事跡を知ることができる。
資料名 重修桜隄碑
年 代 明治19年(1886)頃
所 在 春日出墓地|大阪府大阪市此花区春日出中
北緯34°40’34″ 東経135°26’46″
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 事業達成
備 考 資料名は篆額による。
ID 0012_2308
翻刻
「重修桜隄碑」
従一位三条実美公 篆額 五十川左武郎撰文
摂之西成郡春日出新田、旧有隄。曰桜隄。廃夷為田久矣。今重築之者何邪。蓋清海安五郞翁為永遠無
窮之図也。新田在大阪府治之西数十町、与四貫島・恩貴嶋・嶋屋・南四新田隣。東西北、則中津・澱二河環
之、南則接嶋屋・南二新田之海塘。故屡罹河溢海嘯之災。明治十八年大水、纔免其患。後官修沿河之隄
防也、五新田合議、出金以資其工費。以故防最崇厚堅固云。於是、翁告里正中谷徳恭及里之故老曰、自
今河溢之災、可以無大患。唯可虞者海嘯而已。子等尚記慶応丙寅・明治辛未之大災乎。嘗閲邨乗、吾春
日出、未嘗罹海嘯之患、而近時数罹者何也。非災有今昔之異、蓋桜隄之有無、職是之由耳。桜隄在我極
南界、与二新田之海塘相対、形如遙隄。是以雖有海嘯決潰之災、常阻格其潮勢。而天保十四年、代官築
山氏、貪目前之升合、開拓為田。是譬如存外門而徹内塀。若一旦颶風鼓怒、潮汐翻起、二新田之海塘、其
一不能自持焉。則蕩佚、而入内地、其□箕簸山立、無敢阻格者。宜矣、其災覃及他四新田也。然則築桜隄、
詎非興利除害之急務乎。而頻年風旱肆虐、黎庶困阨。恐貲用難弁。然不忍惜其費以留異日漂溺之災。
吾其独力代衆弁之。乃奮然剏工於十九年一月、告竣於其五月。隄長二千百零尺、高九尺、厚四十八尺。
而殺其上、得厚五分之一。実捐田二千七百五十歩、費金一千五百円也。於是衆庶抃舞曰、使吾等免沈
溺之患者、誠清海翁之力也。因欲伝其功於不朽、謀諸徳恭、徳恭乃持図与状、来請余記其事。余曰、昔欧
陽永叔、作偃虹隄記謂、慮民也深。故以百歩之隄、禦至険不測之虞、以恵利其民。宜記以伝後人。以余観
之、当時滕子京、身居太守之職。則其力何難弁之有。而其隄之長亦不過一千尺。比之翁以斉民独力成
此大工者、其難易固不可同日而語也。況於方今奔競功利為俗乎。孰有倹朴自奉、以興利除害、図永遠
無窮、如翁者。寧可無記耶。乃不辞而書之、□令後人時修挙而勿廃前功。 中邨正美謹書
大阪
石工松原嘉右衛門
現代語訳
〔1.春日出新田における氾濫・海嘯の危険性〕
重修桜隄碑
摂津西成郡の春日出新田には昔堤防(防潮堤)があった。桜堤といった。廃絶し田地となって久しい。今改めて堤防を築いたのはどんな訳があるか。思うに、清海安五郞翁による永遠不朽の企てに基づくものである。新田は、大阪行政の中心地から西に数十町(数キロメートル)の距離にあり、四貫島・恩貴島・島屋・南の四新田ととなり合っている。(これらの新田の)東西北は、中津川・淀川の二川が囲み流れ、南には島屋新田・南新田の防潮堤がある(つまり海に面している)。そのため、たびたび河川の洪水や海嘯の災害にあってきた。明治18年の大洪水では、辛うじてその被害を免れた。その後、官が河川沿岸の堤防を修築する際、五新田は協議して資金を出し合い工事費にあてた。そのため、当該の堤防はとても高く重厚で堅固という。
〔2.桜堤と海嘯の関係〕
この時、翁は、村長中谷徳恭および村の古老に次のように言った。「これからは、洪水被害に対して大きな心配はする必要がないだろう。ただ恐ろしいのは海嘯だ。あなた方は、慶応2年(1866)・明治4年(1871)に起きた災害を今なお記憶しているだろうか。かつて村の記録を調べてみたとき、わが春日出は、(慶応より前)一度も海嘯の被害に遭ってこなかったが、近ごろたびたびその被害があるのはなぜだろうか。もし天災(の勢力)が今と昔で異なるということがないならば、恐らくその主な原因はまさに桜堤の有無に求められるだろう。桜堤は、(かつて新田の)南端にあり、二新田の防潮堤とあい対し、その形態は遙堤(二次堤防)のようなものだった。そのため海嘯により(一次堤防の防潮堤が)決壊しても、(二次堤防の桜堤が)常にその海嘯の勢いを妨げてきた。しかし天保14年(1843)、代官の築山氏が、一合一升程度の眼前の小利をむさぼろうとし、開拓して田地としてしまったのだ。これを(城郭の防備に)例えていえば、外門を頼みとして内側の塀を壊すようなもの。ある日、怒り狂ったように激しく音を鳴り響かせた暴風がやってこよう。もしそれが満ち潮で潮位があがる時に当たってしまえば、二新田の防潮堤の内、少なくとも一はおのずと維持できなくなるだろう。すると(水は)やりたい放題に内地に侵入し、その勢いは、(穀類をあおりふるって殻やごみをよりわける)箕が山のようにどっしりとそそり立ち迫ってくるようで、まったくこれを妨げるものがない。その海嘯被害が(春日出だけでなく)他の四新田にも波及するのは、いかにもあり得ることよ。
〔3.清海翁自弁による桜堤再築〕
だから、桜堤を(再び)築くことは、(新田民の)利を増し害を除くことであって、どうして急ぎ行わないでいられようか。しかし、このところ毎年毎年、暴風やひでりの被害がむごいほど大きく、住民は困窮している。恐らく工事費用を出すのは難しいだろう。そうすると、その工事費用を惜しんだことで、いつの日か(新田中の人も家も)水に溺れただよう災いの芽を残してしまうだろう。これは、わたしにとって耐えがたいことだ。皆に代わってわたし一人で工事費を支弁したい」。よって奮然として19年1月に工事を開始し5月に竣功した。堤防の長さは2100尺(約630メートル)、高さ9尺(約3メートル)、厚さ48尺(約14メートル)。上部をそぎけずり、最高部の厚さは底部の5分の1となった。損じた田地は2750歩(約1町弱、約9090平方メートル)、支出金1500円であった。
〔4.翁の功績と造碑の経緯〕
このため住民達は手をうって舞うように喜び、「水没や漂流の危険を我々から取り除いてくれたのは、まさに清海翁のおかげだ」という。そのためその功績を永遠に伝えたいと思い、これを中谷徳恭にはかった。徳恭は、図と文書を持って私のもとに来て、これらの事跡を文にしてほしいと求めてきた。私は答えた。「昔、欧陽脩は『偃虹隄の記』を作った。そこでは『(滕子京が)民を思う気持ちは深い。だから100歩の堤防で、きわめて危険な不測の事態にもそなえ、恩恵と利益が民の身に及ぶようにした。(事跡を)記して後世の人に伝えるのがよい』とある。私がこれを評価するならば、当時(堤防を造った)滕子京は太守の職(中国宋代岳州巴陵郡の長官)にあった。だからその労働力を調達するなど、どうして難しいことがあろうか。さらにその堤防の長さも、1000尺(約300メートル)に及ばない。これを、清海翁が平民の身で独力で以ってこの大工事を成就させたことと比べれば、(二つの工事の)難易度は同日の論ではない(それほど大きな差がある)。いわんや、功績や利益を競って争うことが常態化してしまった現代においては(翁の行為がどれほど困難なことか)。翁のように、質素倹約を宗とし永遠に(民の)利益をはかり害を除こうとする姿勢の人は他にいるのだろうか。どうして撰文しないということがあろうか」。よって辞退せずに文を書き、後世の人が(この碑文を読むことで桜堤を)時々に修築して(翁の偉大な)功績を無くしてしまうことがないようにしよう。
訓読文・註釈
〔1.春日出新田における氾濫・海嘯の危険性〕
重修桜隄碑
従一位三条実美公 篆額 五十川左武郎撰文
摂の西成郡春日出新田に旧し隄有り。桜隄と曰う。廃夷して田と為ること久し。今重ねて之を築きしは何ぞ。蓋し清海安五郞翁、永遠無窮の図りごとを為せば也。新田、大阪府治の西の数十町に在りて、四貫島・恩貴嶋・嶋屋・南四新田と隣る。東西北は、則わち中津・澱の二河、之に環り、南は則わち嶋屋・南二新田の海塘に接す。故に屡しば河溢・海嘯の災に罹う。明治十八年の大水、纔かに其の患いを免かる。後に官の、沿河の隄防を修するや、五新田合議して、出金して以て其の工費に資す。故を以て防、最も崇厚にして堅固と云う。
〔2.桜堤と海嘯の関係〕
是に於いて、翁、里正中谷徳恭及び里の故老に告げて曰く、「今より河溢の災、以て大患無かるべし。唯だ虞るべきは海嘯のみ。子等、尚お慶応丙寅・明治辛未の大災を記すや。嘗て邨乗を閲みするに、吾が春日出、未だ嘗て海嘯の患いに罹わざるも、近時数しば罹うは何ぞや。災の今昔に之異なること有るに非ざれば、蓋し桜隄の有無、職として是れに之由るのみ。桜隄、我が極南の界に在りて、二新田の海塘と相い対し、形は遙隄の如し。是れを以て海嘯決潰の災有ると雖ども、常に其の潮勢を阻格す。而して天保十四年、代官築山氏、目前の升合を貪ぼり、開拓して田と為す。是れ譬えば外門存りて内塀を徹つが如し。若し一旦、颶風鼓怒し、潮汐翻起すれば、二新田の海塘、其の一は自から持つ能わざらん。則わち蕩佚として内地に入り、其の勢、箕簸山立し、敢えて阻格する者無し。宜なるかな、其の災、他の四新田に覃及するや。
〔3.清海翁自弁による桜堤再築〕
然れば則わち桜隄を築くこと、詎ぞ興利除害の急務に非ざるや。而して頻年風旱肆虐して、黎庶困阨す。恐るらくは貲用弁じ難からん。然れば、其の費を惜しみ以て異日漂溺の災を留むるを忍びず。吾れ其れ独力にて衆に代わりて之を弁ぜん」と。乃わち奮然として工を十九年一月に剏め、竣りしを其の五月に告す。隄の長さ二千百零尺、高さ九尺、厚さ四十八尺。而して其の上を殺ぎ、厚さ五分の一を得たり。実に田を捐ずること二千七百五十歩、費金一千五百円也。
〔4.翁の功績と造碑の経緯〕
是に於いて衆庶抃舞して曰く、「吾等をして沈溺の患を免ぜしむる者は、誠に清海翁の力也」と。因りて其の功を不朽に伝えんと欲し、諸を徳恭に謀るに、徳恭、乃わち図と状とを持ち、来りて余に其の事を記さんを請う。余曰く、「昔欧陽永叔、偃虹隄の記を作りて謂く『民を慮るや深し。故に百歩の隄を以て、至険不測の虞れに禦え、以て其の民を恵利す。宜しく記し以て後人に伝うべし』と。余を以て之を観れば、当時滕子京、身は太守の職に居る。則わち其の力、何ぞ弁じ難きこと之有らんや。而も其の隄の長さも亦一千尺に過ぎず。之を、翁の斉民の独力を以て此の大工を成す者と比ぶれば、其の難易、固より日を同じくして語るべからざる也。況んや方今功利に奔競するを俗と為すに於いてをや。孰れか、倹朴を自から奉じ興利除害を以て永遠無窮に図ること、翁に如く者有らんや。寧ぞ記すこと無かるべけんや」と。乃わち辞せずして之を書き、以て後人をして時に修挙して前功を廃す勿からしむ。
*隄 堤と同義。堤防。
*三条実美 1837~91。幕末・明治時代の公卿、政治家。
*五十川左武郎 五十川訒堂(いそがわじんどう、1835~1902)。幕末・明治時代の儒者。備後福山藩士。江戸の昌平黌(しょうへいこう)にはいり、助教。明治14年(1881)大阪師範学校教諭。名は淵。字は士深。通称は左武郎。
*摂 摂津国。
*春日出新田 現大阪市此花区春日出北一~三丁目・春日出中一~三丁目・春日出南一~三丁目・梅香三丁目に相当。元禄11年(1698)大坂の雑賀屋七兵衛が開発したという。以来幕府領。明治22年(1889)の町村制施行によって、他の新田と合併して川北村となる。
*清海安五郞 大阪の豪商。豊島屋。春日出新田地主。当時の住所は、大阪府北区堂島中通。文政2年(1819)の生まれか(「新田開墾雑纂」)。
*府治 府は、人や事物の多く集まるところ。ここでは大阪のこと。治は、役所の所在地。すなわち大阪行政の中心地の意。
*四貫島 現大阪市此花区四貫島一~二丁目などの地域に相当。春日出新田の東に隣接。碑文では「新田」とあるが、当時の行政区分上は四貫島村。寛永元年(1624)に開発された地という。以来幕府領。
*恩貴嶋 恩貴島新田。現大阪市此花区春日出中三丁目などに相当する地域。春日出新田の西に隣接。元禄年間(1688~1704)の開発という。以来幕府領。
*嶋屋 島屋新田。現大阪市此花区島屋二~五丁目などに相当する地域。春日出新田の南西、恩貴島新田の南西に位置。宝暦2年(1752)恩貴島新田を買得した島屋市兵衛がその地先を開拓し始めたものという。開発以来幕府領。
*南 南新田。現大阪市此花区春日出南三丁目などに相当する地域。春日出新田の南西、島屋新田の南に位置。明和年間(1764~72)開発という。以来幕府領。
*東西北則中津澱二河環之 下記の補足参照。
*海塘 海岸沿いにある堤防。防潮堤。
*河溢 洪水で河川があふれること。
*海嘯 海鳴りを伴いながら海岸に波が押し寄せて来る現象。特に満潮の際、上昇した海水が暴風などのために内陸に進入する現象。
*明治十八年大水 明治18年(1885)に起きた淀川の大洪水。
*崇厚 高く厚い。
*里正 村長。
*中谷徳恭 1851~1922。春日出新田に同地支配人の子として生まれる。西成郡書記、四貫島村外八ヶ村戸長、西成郡川北村村長(明治22年以降)、大阪市会議員、大阪府会議員、衆議院議員を歴任。
*遙隄 中国清代の潘季馴の黄河治水思想にもとづく表現とみられる。それは二重堤防、すなわちまず縷堤(一次堤防)を築き、その外側に遥堤(二次堤防)を築き氾濫被害を減じようとする考え。
*阻格 さまたげとどめること。
*代官築山氏 幕府大坂鈴木町代官所(支配地は摂津・河内・播磨)の代官築山茂左衛門。
*升合 升も合も容積の単位。それぞれ石(こく)の百分の一、千分の一の単位で、少量の得分の意味合い。
*颶風 強く激しく吹く風。
*鼓怒 音をたてて激しく鳴り響くこと。
*潮汐 海水。
*其一不能自持 二つの堤防(防潮堤)のうち、(1)二つとも保持できない、(2)二つのうち一つが保持できないの2通りの解釈が可能。ここでは後者をとっておく。
*蕩佚 節制がなく気まま勝手にすること。放逸。
*箕簸山立 山立は、どっしりと立つこと。箕簸の意やや難。箕も簸も「み」すなわち穀類に混じったほこりやもみ殻などを分けのぞく農具の意とみられる。
*頻年 このところ毎年毎年。
*肆虐 ほしいままにむごいことをすること。
*黎庶 庶民。
*困阨 くるしむこと。
*貲用 費用。
*一千五百円 現代の貨幣価値に換算すると、およそ一千万円前後か(※当時と現在における玄米の貨幣価値の比率から粗く計算)。
*抃舞 喜びのあまり手を打って舞うこと。
*欧陽永叔 欧陽脩(おうようしゅう、1007~72)。中国北宋の文学者・政治家。
*偃虹隄記 欧陽脩撰文による記。中国宋代・岳州巴陵郡の長官・滕子京が人々の便益をはかり堤防「偃虹隄」を建設したことを記す。『唐宋八大家文読本』巻十二所収。
*太守 長官。
*斉民 一般の人民。
*修挙 修築の意とみられる。
画像








その他
補足
- 本碑の撰文・造立の確実な年は不明。碑文中で一番新しい月日は、再築工事が完了した明治19年5月なので、これ以降である。冒頭に「今重ねて之(桜隄)を築く」とあるので、撰文は明治19年か、それ以降のあまり遠くない時期の可能性が高い。
- 本碑文は、撰者の文集『竹雨山房文鈔』に収載されている(訓点あり)。判読困難な箇所は、これを参考にした。また『此花区史』に訓読文が収載されている(ただし弊研究所のものと相違がある)。
- 碑文には「東西北、則中津・澱二河環之」とあるが、碑文作成の時点(明治19年頃)における春日出新田を含む五新田の立地をもう少し正確にいうと次のようになる。北東から流れてきた中津川が分かれて五新田の北と東を流れ(現在の正蓮寺川および六軒家川)、東から流れてきた淀川(安治川)が五新田の南を流れる。そして、西と南が海に面している。
- 「新田開墾雑纂」に関連史料が収載されている。
参考文献
- 『竹雨山房文鈔』巻二(明治三十年刊)十三~十六頁。
- 大阪市此花区役所編『此花区史』(1955年)262~4頁、16頁付帯地図、72頁付帯地図。
- 堀田暁生「中谷徳恭とその日記」(大阪市史編纂所編『中谷徳恭戸長日記 大阪市史史料第五輯』(大阪市史料調査会、1982年))。
- 郭濤(鏑木孝治・高橋裕訳)「潘季馴における治黄思想」(『にほんのかわ』31、1985年)9~10頁。
- 宮嵜洋一「清代十七~十八世紀の黄河治水事業とその背景」(『九州大学東洋史論集』24、1996年)56~7頁。
- 『唐宋八大家文読本』巻十二(『新釈漢文大系 72』(明治書院、1996年)258~64頁)。
- 「新田開墾雑纂」(大阪商工会議所所蔵の写本。大阪経済史料集成刊行委員会編『大阪経済史料集成 第11巻』(大阪商工会議所、1977年)135~42頁)。および同史料の解説(『同』592~6頁)。
所在地
重修桜隄碑
所在:
春日出墓地|大阪府大阪市此花区春日出中
アクセス:
JR 安治川口駅 下車 徒歩
春日出墓地内 東南隅
編集履歴
2023年8月14日 公開
