宝暦治水碑 -美濃・尾張・伊勢の三川と薩摩の治水-

宝暦治水碑
概  要

岐阜・愛知・三重三県を流れる木曽三川(木曽川・長良ながら川・揖斐いび川)の宝暦年間(1751~64)における治水の顕彰碑。薩摩藩による工事の概要と功績をのべ、工費増額の責任をとりじんしたという従事者藩士を義人として哀れむ。明治初年に再び始まった大規模治水工事がほぼ完成した同33年(1900)に、記念式典の開催と同時に造立。明治治水に先駆する功績、ならびに藩士達が死に代えて完遂したという歴史を隠滅させまいとする地元名士の発意による。貴賤多数が造立費を寄附し、従事藩士しょうこんさいを兼ねた建碑祭には内閣総理大臣山形有朋以下諸人が参列した。多くの人々の共感と協賛により造立されたのである。宝暦治水の要所にして象徴的な地であるあぶらじま(岐阜県内)に立つ。美濃・尾張・伊勢および薩摩に関連する宝暦治水は現代でもよく知られ、その象徴的存在として造立当初から今に至るまで著名な石碑。

資料名 宝暦治水碑
年 代 明治33年(1900)
所 在 堤防上(公道脇)|岐阜県海津市海津町油島
 北緯35°08’03″ 東経136°40’14”
文化財指定 国史跡「油島千本松締切堤」内所在
資料種別 石碑
碑文類型 歴史的人物顕彰
備 考 資料名は本文題による。
ID 0015_2309

目次

翻刻

〇オモテ面
「宝暦治(篆額)水之碑」
宝暦治水碑
     内閣総理大臣元帥陸軍大将正二位勲一等功二級侯爵県有朋篆額
     枢密院書記官長従三位勲二等牧昌業撰文 正五位下部東作書
濃二州之地、田野衍、厥土饒。有木曽・長良・揖斐三大川、南注入海、支川交錯、或合或分。邑散
在其間者、俗称中。毎雨、水出流、逓相淩、輒致溢・横決・汎濫。往往潰畝、漂舎。民之苦之也
久矣。宝暦年中、幕府命薩摩藩修治之。藩侯津重年遣其家老平田靱負・大目附伊集院十蔵等赴役。
以宝暦四年二月起工、至五月而止。以夏時長、不獲施功也。及九月復作、翌年五月而畢。費帑三十
万両、始克成。幕府嘉其功、賜重年服五十、其餘賚有差。是役也、藩士従事者、凡六百人。地亘十
餘里、画為四区。衆各分任其事。靱負為総奉行、十蔵副之。幕府亦遣吏監視。修隄防、疏渠、建排柵、築
堰累、或創設、或修補。遠近呼応、鍤相接。而其尤致力者、為島防堵、榑築堰。蓋油島当木曽・揖斐
両川相会処、洪流激甚、大榑川受長良川、地低湍急。故施工甚艱、随作随壊、頓支持、迄以成。按当時
経営之迹、其要在務使諸水各循其道、以防侵凌漲溢之憂、而其計莫急於斯二者。是其所以注全力于
此也。於是輪中十里之地、無復有惨害如往時者、民安其業、以至今日。世称之曰薩摩工事。来三川分
流之策、実基于此役。已竣総奉行平田靱負、俄自刃而斃。其他前後自殺者数十人。就葬龍・海蔵等諸
寺。事載其過去牒。顧其致死之由、旧記靡得而詳焉。土人伝言、工事艱鉅、出於料之外、功屡敗于垂成。
以致経費逾額、然勢不可中止。故寧決死成事、而謝擅増費之罪也。当時士風樸、人重紀律、崇
義。諸子既奉君命就功程、不遂則不已、苦心焦思之餘、計不得已以至于此。土人所伝、当不謬也。然則是
役事業之偉且艱、可以想見。而諸子之堅志不撓、舎身徇公、竟能全其守、以貽沢於後世。則可謂
所称、以死勤事、功徳加民者矣。豈不韙哉。尓来百五十年矣、居民猶頌薩摩工事而不衰、言及事者、則
欷泣下者。 皇治中興、度維新、凡興利除害之事、次第挙。三川分流之策、亦果施行、成功将在
近。茲地士、既感 聖世仁沢之洽、因念宝暦創始之功、又哀致命諸人之義烈、不忍使其没莫聞、胥
謀建石勒其功績、以垂永遠。来徴余文、余不能辞。乃為叙其梗概云。
明治三十三年二月                           井亀泉刻字

〇ウラ面
(死没した藩士の名前が列挙。省略)

現代語訳

〔1.三川の地勢と水害〕
宝暦治水碑
尾張・美濃二国の地勢は、田地・平野がひろびろと広がり、その土地はよく肥えていて作物がよくとれる。木曽川・長良ながら川・揖斐いび川の三大河川があり、南へと流れ伊勢の海に注ぎ入る。支流が乱れるように交わり、あるところでは合わさり、またあるところでは分かれる。それらの間に散在する街や村を、俗に輪中わじゅうといっている。長雨のたびに、多くの川で水かさが増し、互いに(本流を)超えて(他川に)流れこみ、たちまち(諸川が)みなぎりあふれ、堤防を決壊させ、大地は広々と水で覆われてしまう。往々にして田畑は損なわれ、家々は流される。民は長いあいだこのことに苦しんできた。
〔2.宝暦の薩摩藩治水工事〕
宝暦年中(1751~64)、幕府は薩摩藩に命じて治水を行わせた。藩主島津重年しげとしは、家老の平田靱負ゆきえ・大目附のじゅういん十蔵等を派遣して工事を行わせた。宝暦4年(1754)2月に工事を開始したが、5月に至って中断してしまった。夏には水深が深く広々と流れ続けており、工事実績が上がらないからだった。9月になりまた再開し、翌年の5月に終わった。費やした藩財は30万両にものぼり、(これだけの巨費にして)ようやく竣功できたのだった。幕府は、その功績をほめ、重年にふく50かさねをたまい、それ以外の人には(各人で)差をつけて褒美をたまわった。この工事で従事した藩士はおよそ600人。範囲は10里余りにわたり、これを区画して四区とした。従事者は、おのおの分任して工事にあたった。靱負は総奉行となり、十蔵はこれを補佐した。幕府も官吏を派遣し監視させた。堤防を修理し、溝を掘り通し、水門を建てるには柵を並べ、せきを築くには(土を運ぶための)カゴを重ね用い、あるところでは創設し、あるところでは補修した。(土を掘りくずすための)スキや(ものを運ぶための)カゴが(絶えず)となりあうように、遠近の人々が呼応して作業した。さて工事で最も注力したのは、あぶらじまに堤を築いたことと、大榑おおぐれ(川)に堰を築いたことだった。恐らく、油島においては木曽・揖斐両川の合流地点に当たり水流が激しかったろうし、長良川から分かれた大榑川においては、標高が低減する傾斜地に当たっており水の流れがとても速かったであろう。そのため工事はとても難しく、作ってはまた壊れるの繰り返しで、(造成した堤や堰を)保持するのがとても難儀だったろうが、遂に成功をおさめた。当時の事業の事跡から勘案すると、その要点は、諸河川が各々その(本来の)流路を流れるようにし、洪水や氾濫の憂いを取り除こうとすることにあり、その方向の計略においては、かの二地点(油島・大榑)は最も緊急度が高かった。これら二地点に全力を注ぐのは、そのような理由からである。(工事完成ののち)輪中10里の地では、往時に匹敵するような惨害が起こることはなくなり、住人の生業は安定し、今日に至っている。世間ではこれを薩摩工事と称している。後の三川分流治水計画は、実にこの工事に基づくものである。
〔3.治水藩士の自刃と顕彰〕
(治水工事が)終わると、総奉行平田靱負は、俄かにじんして亡くなってしまった。そのほか前後して自殺する者が数十人いた。安龍・海蔵等諸寺に埋葬した。その事は、これらの寺の過去帳に載っている。彼らが死に至った原因を考えてみると、そのことが詳しくわかるような旧記は得られていない。土着の住人が伝えるところによると、「工事の困難さは予測外のことで、完成を目前にするも一転して失敗に帰すことがしばしばあった。そのため経費が(規定の)額を超過するに至り、それでも中止することなどできない形勢だった。だから(中止してその責任を負ったり、あるいは辞任したりするよりも)むしろ死を決意して事業を成功させ、そしてほしいままに費用を増額させた罪を償ったのである」という。おもいめぐらせば、当時武士の気風はすなおで人情に厚く、人々は規律を重んじ、気概(困難にくじけない強い意思)や義俠心(正義を守り、弱いものを助ける)を尊んだ。彼らは君主の命を拝し職務に就くと、遂行するまでは止まず、心に苦しみ、あれこれと思い悩んだ余り、(死をもって罪を償うのは)やむを得ないと判断しこのようなこと(自殺)に至ったのだろう。住人の伝承することは、誤りではないだろう。そのため、この治水工事が優れたもので、しかも大きな困難を伴ったであろうことは想像できる。しかも彼らの堅い意思はたわむことなく、身を捨てて公に従い、遂にその職分を全うし、そうして恩恵を後世に残したのだ。つまり古に称賛される所の、死に代えて事業を完遂し、(末永く)民に恩恵を施した者というべきだろう(それは祭祀の対象にすら値する)。どうして褒め称えないでいられようか。以来150年が過ぎてもなお住人は薩摩工事を称えてやまず、このような一大事業に(彼らが)亡くなったことに話題が及ぶと、すすり泣き涙の下るものもいる。
〔4.明治三川分流工事と建碑の経緯〕
(王政復古によって)天皇の政治が中興し、法律・制度が改まり、およそ興利除害の事業は次第次第に遂行されていく。三川分流の治水工事計画もついに実行に移され、その竣功の期は近づきつつある。この地の名士は、すばらしい御代に(天皇の)仁恵があまねく行き渡っていることに感じ入っている。そのため(現代の三川分流工事の基礎をなした)宝暦年間の功績を顧み、さらに命をささげた諸人の強烈な正義心をあわれみ、これらがあとかたもなくなって話頭に上らなくなってしまうことが忍びがたく、(そのため)石を建てその功績を刻み、永遠に伝えようと企図した。私のところに来て碑文の作成を求めてきたが、私は辞退することができない。よって、その概略を記したのだ。
明治33年(1900)2月

訓読文・註釈

〔1.三川の地勢と水害〕
宝暦治水碑
     内閣総理大臣元帥陸軍大将正二位勲一等功二級侯爵山県有朋てんがく
     すうみついん書記官長従三位勲二等小牧まさなり撰文 正五位日下部くさかべ東作書
尾濃二州の地、田野こうえんにして、の土よくじょうなり。木曽・長良ながら揖斐いびの三大川有りて、南のかた勢の海に注ぎ入り、せん交錯こうさくして、或いは合ひ或いは分かる。ゆうの其の間に散在するは、俗に輪中わじゅうと称す。りん毎に、水しゅうりゅうで、たがひに相いしんりょうし、たやすちょういつおうけつ・汎濫を致す。往往おうおうでんつぶし、しゃ漂よふ。民の之に苦しむや久し。
〔2.宝暦の薩摩藩治水工事〕
宝暦年中、幕府、薩摩藩に命じて之を修治せしむ。藩侯はんこう島津重年しげとし、其の家老平田靱負ゆきえ・大目附じゅういん十蔵等を遣はし役に赴むかしむ。宝暦四年二月を以て工を起こし、五月に至りてむ。夏時に水の長く、施功するをざるを以てなり。九月に及びし、翌年五月におわる。はんを費やすこと三十万両にして始めてこくせいす。幕府、其の功をみし、重年にふく五十かさねを賜ひ、其の餘のしょうらい差有り。の役や、藩士の従事する者、凡そ六百人。地は十餘里にわたり、画して四区と為す。衆各おの其の事を分任す。靱負は総奉行と為り、十蔵は之にふ。幕府も亦を遣はし監視せしむ。隄防を修し、こうきょとおし、ひのくちを建つるに柵をつらね、せきを築くにかごかさね、或いは創設し、或いは修補す。遠近呼応して、ほんそう相い接す。しこうして其のもっとも力を致すは、あぶらじまかきを防ぎし、大榑おおぐれに堰を築きしり。けだし油島は木曽・揖斐両川の相い会する処に当たり、洪流激甚にして、大榑川は長良川を受け、地ひくまりたんきゅうならん。故に施工甚はだかたく、随ひて作り随ひてこわれ、支持に困頓こんとんするも、ついに以てゆうせいなり。当時経営のあとを按ずるに、其のぬみ、諸水をして各おの其の道にしたがはしめ、以てしんりょう漲溢の憂を防ぐを務むるに在りて、しかも其の計、の二より急なる者はし。是れ其の全力を此れに注ぐ所以ゆえんなり。ここに於いて輪中十里の地に、復た惨害の往時にく者有る無く、民其の業を安んじ、以て今日に至る。世、之を称して薩摩工事と曰ふ。後来こうらいの三川分流の策、実に此の役に基づく。
〔3.治水藩士の自刃と顕彰〕
已におわれば、総奉行平田靱負、俄かにじんしてたおる。其の他前後して自殺する者数十人。安龍・海蔵等諸寺に就葬す。事、其の過去牒に載す。其の致死の由をおもふに、旧記に得て詳びらかにするものし。じん伝へて言はく、「工事の艱鉅なること、りょうの外に出で、功しばしば成らんとなんなんとするにやぶる。以て経費の額をゆるを致し、しかるに勢、中止すべからず。故に寧ろ死を決して事を成し、而して増費を専擅せんせんするの罪を謝するなり」と。想ふに、当時士風じゅんぼくにして、人、紀律を重んじ、気義を崇とぶ。諸子既に君命をうけたまはり功程に就くに、遂げざれば則ちまず、苦心しょうの餘り、已むを得ざると計り以て此に至らん。土人の伝ふる所、まさあやまらざるべきなり。然れば則ち、是の役事業の偉にして且つ艱きこと、以てそうけんすべし。而も諸子の堅志たわまず、身をて公にしたがひ、ついに能く其のしょくしゅを全ふし、以て沢を後世にのこす。則ち古のたたふる所の、死を以て事を勤め、功徳こうとく民に加はる者と謂ふべし。豈にならざらんや。らい百五十年、居民、猶ほ薩摩工事をたたへて衰へず、言の事に死する者に及べば、則ちきょなみだ下る者有り。
〔4.明治三川分流工事と建碑の経緯〕
皇治中興し、ひゃくれ新たに、凡そ興利除害の事、次第に修挙す。三川分流の策も亦果たして施行せられ、成功まさに近きに在らんとす。の地のじん、既に聖世仁沢のあまねきに感じ、因りて宝暦創始の功をおもひ、又た致命諸人の義烈をも哀れみ、其の泯没みんぼつして聞くこと莫からしめんを忍びず、石を建て其の功績をきざみ、以て永遠に垂れんとはかる。来りて余に文をもとむるに、余、辞すあたはず。乃ち為に其のこうがいを叙すと云ふ。
明治三十三年二月                           井亀泉刻字

*山県有朋 1838~1922。明治時代の軍人、政治家。長州の人。内閣総理大臣。

*小牧昌業 1843~1922。幕末~大正時代の漢学者、官僚。薩摩藩士。首相秘書官などをへて奈良県知事、枢密院書記官長などを歴任。大正天皇に漢学を進講。貴族院議員。

*日下部東作 日下部鳴鶴(めいかく、1838~1922)。明治・大正時代の書家。もと彦根藩士。明治初期、太政官大書記官となるも辞職。書家として身を立てる。その書は明治の書道界を風靡。その筆になる碑文が全国各地に残る。

*尾濃 尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)。

*広衍 ひろびろとしていること。

*沃饒 肥沃で作物がよくできること。

*勢海 伊勢の海。

*市邑 街と村。

*輪中 集落と農地を沿川の洪水から守るため、周囲に堤防を築き巡らした地域。

*霖雨 ながあめ。

*衆流 多くの川。

*侵淩 侵は、おかす。淩は、こえる。後出の「侵凌」も同義。

*漲溢・横決・汎濫 漲溢は、みなぎりあふれること。横決は、堤防の決壊。汎濫は、水があふれひろがること。

*田畝 田と畑。

*廬舎 住居。

*島津重年 1729~55。江戸時代中期の大名。寛延2年(1749)薩摩藩主島津家七代となる。宝暦5年6月死去。

*水長 范仲淹「桐廬郡厳先生祠堂記」(『古文真宝』後集 巻之上 記類 所収)の「雲山蒼蒼、江水泱泱、先生之風、山高水長」を踏まえていると見られる。川が深く広く流れ続けているさまと解釈した。

*藩帑 藩の財産。

*告成 完成する。

*時服 四季それぞれの時候に応じて着る衣服の意か。

*襲 上下そろいの衣服。

*賞賚 褒美として賜わるもの。

*溝渠 水を流すためのみぞ。

*閘 水門。具体的には、船頭平閘門(せんどひらこうもん)を想定していると見られる。愛知県愛西市立田町に現存し、国指定重要文化財。

*籠 土石を運ぶためのカゴ(ふご、もっこ)の意とみられる。

*畚鍤 畚も鍤も、肉体労働に使う道具。畚は、なわや竹を編んで作った、土や石などを運ぶカゴ。鍤は、農作業や土木工事に使うスキ。

*油島防堵 油島は、現岐阜県海津市海津町油島に相当。本碑が立つ場所。かつて、上流で合流した木曽川・長良川が、ここで揖斐川と合流していた。水害多発地帯だったため、宝暦治水工事によって、油島以南で締切堤がつくられ両流の分離が行われた。「防堵」は、堤をつくってせき止める意。

*大榑築堰 大榑川において、大榑の地点(現岐阜県安八郡輪之内町下大榑あたり)に洗堰(あらいぜき)を築くこと。同川は、大榑あたりで長良川から分かれ流れ、南西に向かい揖斐川に注いでいた約9キロの河川。洗堰とは、川を横断する堤防で、完全遮断をせず、水が一定以上を超えた場合、越水させるよう高さを調整したもの。

*困頓 困りはてること。

*有成 成功する。『詩経』小雅黍苗「原隰既平、泉流既清、召伯有成」を踏まえるか。

*後来三川分流之策 明治時代に行われた木曽三川分流工事計画のこと。これは、複雑に交わり枝分かれする三川の流路を、堤防の増築や新流路の開削などをして大きく三本に整えるもの。本碑建造時にも継続中。明治45年(1912)竣功。

*安龍・海蔵等諸寺 安龍は、三重県桑名市堤原にあった曹洞宗寺院・安龍院。海蔵は、同市北寺町の曹洞宗寺院・法性山海蔵寺。

*意料 思いはかること。想像すること。

*専擅 自分の思うままにすること。

*想 おもいめぐらす。「計不得已以至于此」までがその内容。

*淳樸 すなおで人情が厚い。

*気義 意気(困難にくじけない強い意思)と義俠(ぎきょう、正義を守り弱いものを助ける)。

*職守 つとめ。職分。

*古之所称以死勤事功徳加民者 『礼記』祭法第二十三「聖王之制祭祀也(中略)以死勤事則祀之(中略、禹の治水事跡などを挙げる)此皆有功烈於民者也」を踏まえた記述。意訳すると、死をいとわず国事に勤め、後世恩恵を民に施すほどのものは神霊として祭る対象となり得るという。平田靫負以下の人々が祭祀の対象になり得ると言外にほのめかしていると推測される。「三川分流碑」によれば、事実この時「設祭於油島、以慰薩摩義士之霊」とある。

*死事 事すなわち治水事業に死す。

*歔欷 すすり泣くこと。

*百度 多くの法律・規則。

*修挙 立派に職務を遂行すること。

*人士 名士。具体的には、三重県桑名郡多度村の西田喜兵衛という人物が主導。

*泯没 滅びること。

画像

全景 (撮影:’23/03/01。以下同じ)
全景
全景
オモテ面
篆額
ウラ面
「紀念碑建設寄附者姓名」碑 その1
「紀念碑建設寄附者姓名」碑 その2
東側を流れる長良川 碑前から北向きに撮影
西側をながれる揖斐川 碑前から西向きに撮影

その他

補足

  • 本碑のかたわらに「紀念碑建設寄附者姓名」と題する碑があり、「公爵島津忠重」はじめ貴賤の名が多数列挙されている。
  • 碑文に「顧其致死之由、旧記靡得而詳焉」つまり死に至った原因を明らかにできるような古い史料は見つかっていないという。また、死因について、文献史学の立場から再検討がなされている。以上を留意して現代語訳をお読み下さい。
  • 国土交通省の設置した案内板に現代語訳が載っている。原文と比べると省略・付加・意訳した部分がある。また弊研究所の現代語訳と比べ、解釈においていくつか相違がある。

参考文献

  • 石川忠久『新釈漢文大系 112 詩経 下』(明治書院、2000年)28頁。
  • 『海津町史 通史編 下』(海津町、1984年)132~4頁ほか。
  • 『岐阜県治水史 下巻』(岐阜県、1953年)363~5頁ほか。
  • 西田喜兵衛編『濃尾勢三大川宝暦治水誌 附紀念碑関係 下』(私家版、1907年刊、国立国会図書館所蔵、請求記号246//11)第一丁~第七丁。

所在地

宝暦治水碑

所在
堤防上(公道脇)|岐阜県海津市海津町油島

アクセス
公共交通機関でのアクセスは容易でない。
自家用車またはタクシーで向かうのが無難。

編集履歴

2023年9月2日 公開

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