安政飛越地震水害紀念碑  ーああ、悲しみ傷まざらんやー

安政飛越地震水害紀念碑
概  要

大地震とそれに伴う水害の記念碑。安政5年(1858)越中(富山県)で起きた地震はおおとんびやまとんび山を崩壊させてじょうがんがわをせきとめ、数ヶ月後に突如として決壊、下流域の富山平野に大量の土石流が流れ込んだ。時に同川左岸で用水への分水作業をしていた数十人が流され命を落とした。この悲惨な事実を後世に伝えようと三十三回忌に親戚・旧友が造立。一字一字思いを込めたかのように丁寧に太く深く彫り刻まれ、短文でありながら悲劇の大きさを伝えようとしている。最後の一文は読む者の心をうつだろう。

資料名 安政えつ地震水害紀念碑
年 代 明治23年(1890)
所 在 広田用水記念公園|富山県富山市荒川
 北緯36°41’57″ 東経137°15’02”
文化財指定      
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は碑文内容に基づく。題字は単に「紀念碑」。
ID 0016_2309

目次

翻刻

〇オモテ面
「紀念碑」(題字)
人生天地之間、戴天寄地以寧。苟遇天災
地変、即失民所其寧矣。于時安政五戊午
年二月二十五日、地大震。嶽為之崩壊、
願寺川、而水不流餘日。是以川
傍之村民、大恐愕焉。同四月廿六日、山嶽
鳴動如雷、浪漲天、俄然来。勤田・針原
分水役者、無所避水患、溺没者数十名矣。
今茲丁三十三回忌年、親戚・旧友相集、共
計誌石。為令往昔地変事実知後世。噫吁
不悲傷哉。  明治廿三年四月日

〇向かって右側面
明治二十三年四月二十六日
(人名略)

〇ウラ面(すべて追刻)
(人名略)
出水六十四年目
  大正十酉年九月二十五日移転ス
       世話人 (人名略)

〇台座銘
発起人
(人名略)

現代語訳

紀念碑
人は天地の間に生まれ出て、天をいただき大地によりそって安らかに暮らすことができる。それがかりそめにも天変地異にえば、民はその安らかに暮らすための拠り所を失ってしまう。時に安政5年(1858)2月25日、大地が大いに震動した。これによってだいとんびやまとんび山が崩壊し、(崩れた土砂が)常願寺川を塞ぎ、十日以上も水が流れなかった。そのため川沿いの村々の民は大いに恐れうろたえた。同4月26日、雷のような音をたて山々が鳴動し、天もあふれんばかりの濁水が波打ちながら突如として(常願寺川を)流れてきた。広田・針原用水のぶんすい作業の役を(常願寺川沿いで)つとめていた者達は、水害を避けるうる場所もなく、数十名が溺れ亡くなった。今ここに三十三回忌にあたり、親戚・旧友が集まり、皆で相談して(顛末を)石に刻むことにした。それは、過去の災害事実を後世の人々に知らせようと思うからである。ああ、嘆き悲しまないでいられようか。
明治23年(1890)4月日

訓読文・註釈

紀念碑
人、天地の間に生まれ、天をいただき地にりて以てやすんず。いやしくも天災へんへば、即ち民の其の寧んずる所を失なふ。時に安政五つちのえうま年二月二十五日、地、大いにふるふ。とんびたけ之が為に崩壊し、じょうがんがわようそくして水の流れざることじゅんじつここを以てかわそばの村民、大いに恐れうろたふ。同四月廿六日、山嶽の鳴動めいどう雷の如く、だくろう天にみなぎり、ぜんとして来たる。広田・針原ぶんすいの役を勤むる者、水患を避くるに所なく、溺れ没する者数十名なり。今ここに三十三回忌の年にあたり、親戚・旧友相い集まり、共に計りて石にしるす。おうせき地変の事実をして後世に知らしめんが為なり。噫吁ああ悲しみ傷まざらんや。  明治廿三年四月日

*鳶嶽 大鳶(おおとんび)山・小鳶(ことんび)山。常願寺川上流、旧富山県上新川郡大山町(現富山市)に突起した山だったが、碑文にもある通り、安政5年(1858)2月越中・飛騨を襲った大地震の際、全山崩壊し、その土砂が同川を塞ぎ止めた。3月10日・4月26日の2回にわたって決壊、鉄砲水は土石流となって富山平野に大災害をもたらした(大鳶崩れ)。

*壅塞 ふさぐこと。

*常願寺川 富山県東部・中央を流れ、富山湾に注ぐ川。

*旬餘日 十日以上。

*濁浪 にごった波。

*広田・針原分水役 常願寺川の水を広田・針原用水に分け流す役。補足参照。

画像

全景 (撮影:’23/08/28。以下同じ)
全景
オモテ面
側面
台座銘 その1
台座銘 その2
ウラ面
題字
広田用水記念公園
広田用水路(広田用水記念公園にて撮影)

その他

補足

  • 資料中の地名、死没者、建碑主体について簡単に述べておく。
    「広田・針原」とは、広田用水・針原用水のことである。富山平野を北に流れる常願寺川から取水する。取水口は同川左岸の現富山県富山市大場あたりで、下流域に散在し広田組・針原組と呼ばれる加賀藩領諸村のために利用された。
    水害が起きたのは旧暦4月末で、田地への引水に気を遣う時期である。碑文中の「分水」とは、同川から用水に水を引くための作業である。その「役」を「勤」め亡くなってしまったのは、両組諸村の人々と考えられる。彼らの親戚・旧友が碑を建てたとあるから、造立主体もこれら諸村の人々であろう。
  • 原文はすでに、立山カルデラ砂防博物館編報告書に掲載されている。
  • 安政年間(1854~60)頃には、巨大地震が何度か起こった。
    • いわゆる安政東海地震を刻む「志摩国浦村 地震・津波の碑」は、こちら
    • いわゆる安政江戸地震を刻む「安政江戸地震 横死者供養名号塔造立記」は、こちら

参考文献

  • 『富山市史 通史 上巻』(富山市、1987年)841~71頁、920~31頁、964~71頁、1222~4頁。
  • 立山カルデラ砂防博物館編『安政5年(1858)飛越地震被害の集落別新資料とフィールド・ワーク報告』(2012年)9頁。

所在地

安政飛越地震水害紀念碑 および碑文関連地 地図

所在
広田用水記念公園|富山県富山市荒川

アクセス
富山地方鉄道 本線 東新庄駅
下車 徒歩 広田用水記念公園内所在

編集履歴

2023年9月4日 公開
2024年3月4日 小修正

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