信濃川治水紀功碑 ー大河を二分し巨碑は建つー

信濃川治水紀功碑
概  要

新潟県越後平野を流れる大河・信濃しなのがわ分水ぶんすい工事の顕彰碑。分水とは、北東方向に流れる同川において、新流路を北西へ開鑿かいさくし日本海に分かち流す大治水事業。信濃川はほうじょうをもたらす一方で洪水時の水害が甚大であり、豊富な水量を減じることが目指された。事業の端緒は江戸時代だが、時運の変遷で二百年近く滞留し、大正に至り漸く完工。分水路のみならず堰をも設けて、本川と分水路の流量が常に調整可能になった。竣功式典と同時に建碑。大工事にふさわしい巨大な碑が分水地にそびえ立ち、竣功までの長い歴史を語る。不撓不屈の至誠心が天をも動かし助力を加えたのだという。地図を見ても現地で眺めても、およそ人智人力が成し得たとは一見して思われず、このくだりにうなずく人もいるだろう。

資料名 信濃川治水紀功碑
年 代 大正13年(1924)
所 在 信濃川分水地点・信濃川大河津資料館前|新潟県燕市大川津
 北緯37°36’34″ 東経138°50’30”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 事業達成(治水)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0017_2309

目次

翻刻

「信濃(篆額)川治水紀功碑」
信濃川治水紀功碑   議定官元帥陸軍大将大勲位功二級仁親王篆額
大正十三年歳在甲子三月廿三日、後大河津治水工事告竣。閲歳十有八年、用工壱千餘万人、費財弐千参百拾四万壱千九百餘円。可謂盛矣。乃会朝野紳・県官吏関乎其事
者、大挙竣工之式。又建碑于口要処、以紀厥功、俾後人知其所由来焉。夫信濃川有二源。発武信岳者、曰千曲川、発岳者、曰犀川。至波島、合流以入越後、納衆流、資灌漑。々九
十四里、逕新潟注于海。沿岸数十里、地沃田濶、曠。所謂越後平野者、一旦河水氾濫、濁浪排空、村落廬舎、蕩々陥没。其害及八百餘村云。享保中、泊人本間数右衛門・河合某、策
渠大河津、導諸北海、以除其患。是時幕府秉政、諸藩自治、言莫能達、尓来屡訴願。幕府遣吏検之、然以所糜不貲、違不決者百餘年。明治戊辰(元年)、信濃川決壊隄防、洋如海。志・三島・
南蒲原・中蒲原・西蒲原五郡惨害殊甚。於是水議益起。発田藩、先訴之後府。々令崎・与板・村松・峰山・三日市・村上六藩、徴其意見。沢与左衛門等、入京師、陳於御門治河
揔督、事漸就緒。府乃設事務所于寺泊、以官費起工。未幾以国用不給止之。府知事生基修、慨然職曰、越之水患、莫甚乎信濃川。州民、屡乞幕府、欲鑿渠大河津、以殺水勢。而循不
果、卒見去夏惨状。隄防潰決数十里、野無青草、日夜々、亡相踵。朝廷既以除民患為急。臣適〔在ヵ〕任。豈忍視哉。既命有司措弁、且奏聞取決。而廷議諉以帑不給。下民聞之、相率将
有所哀訴強請也。臣奉職状。狃于朝命、先発後聞、是上慢君也。妄発端、言興謗、是下欺民也。謹詣闕待命。願治臣罪、告之天下、以為官戒。諸藩及地方有志代衆、造京有所哀願。官
以其費百万円起工。既而使外人技師、察其地勢得失、復命阻之、亦終不果。十九年、用内務技師市公威説、改修隄防及河身、紓水患。廿九年・三十年、大水相継、其害尤鉅。分水議復起。
内務大臣海忠勝、大賛其挙。事将成、会国構難、師外征、不能復従事於土工也。四十年、官発案帝国議会、獲其協賛。乃襲鑿渠之計、始大起工。蓋信濃川至大河津、而地勢稍転、赴
新潟十四里。寺泊、則不過三里。於是断自大河津、鑿開一大水路、以至寺泊凡二里二十餘町、使河水放流于北海。但地有夷、随地施工、鑿為川。濶四百歩、狭至百五十歩。架二橋、以
便車馬来往。築堤八千三百五十歩。設𣹐于分水地。長四百八十尺、広六尺趾二十六基、其間隔十二尺、制限河水、導之本川。設其側。用鉄扉開闔、以通楫。閘室長二百尺、広三
十七尺、閘閾入水五尺有餘、可以通巨船。又渫新潟河口、長千二百歩、広百歩、深二十五尺。海港則長四百歩、広百歩、深達三十尺。築突堤、水面高十二尺、頂広二十四尺、長八百三十
四歩。湔堰以防流沙、開閘以便運。距湔堰二百五十歩、起堰隄于新川。広四百歩、劃百歩、以為在堰。用土造之。其堅如石、遮断水路。水高、則俯伏以通之、渴則阻止之、水皆向湔堰、
以保本川水量。平水、則流、纔及踵如可而渉焉。大河津上流平水、量一秒時二千五百。有奇而洪水、有至三万八百斛者。以此為準。是役也、内務技師工学博士渡辺六郎、専
督工事。衆工一心、運転機器、堰閘岸壁皆用凝土。故省労大而収功速也。且水害之惨、以蒲原三郡為最。其地湿、雨霖水漲、則汚水滞如沼沢、然其害殆過洪水。今分水工既成、百年
之患尽除、万世之利斯興。豈唯穀穣々云尓邪。嗚呼、自享保迨今二百餘年、時運変遷、政有得失、山河綿邈、水患荐臻、而民志不撓不屈、至誠動天、遂能成偉業、変洪水天之区、為
腹撃壌之域。此亦聖世之餘沢、而地方有志者亦与有力焉。宜刻諸金石、以伝於不朽也。乃頌其成功、繫以。々曰、
 民、 載衣載食。 不饑不寒、 々無息。 敬老撫幼、 励業養徳。 春種秋獲、 孰非力。 奈何洪水、 懐山襄陵。 々湖海、 即是塍。 邑里村宅、 害相仍。
 孰克拯之、 有賢有能。 瞻彼長川、 帆来往。 水皆帰常、 汚沢盪。 千里畝、 禾穀豊穣。 堵、 恵頼国帑。 大功既輯、 仰山河。 感懐今昔、 浩然以歌。
 刊石勒文、 万古不磨。
                         内務大臣正三位勲一等野錬太郎  田井鴻書  亀山藤太刻

現代語訳

〔1.分水工事の竣功と建碑〕
信濃川治水紀功碑
大正13年(1924)3月23日、越後(新潟県)大河津おおこうづの治水工事が竣功した。年を経ること18年、工事作業者延べ1000万人余り、工費2314万1900円余り。大変な大工事だったといってよい。ここで、工事に関わりがあった中央・地方の高位高官者、新潟県職員が集い、大々的に竣工式を挙行した。また石碑を船着き場の要所に建てその功績を示し、後代の人に(工事完成までの)由来を知らせようと思う。
〔2.越後信濃川の地勢と水害〕
さて信濃川には二の水源がある。だけ(山梨・埼玉・長野県境)から流れ出ているのは千曲ちくまがわといい、鑓ケ岳やりがたけ(長野県)から流れ出ているのは犀川さいがわという。たんじま(長野県)に至り合流して越後に入り、いくつも支流が分かれて灌漑に利用されている。広々と静かに流れて94里(約370km)、新潟に至って海に注ぐ。沿岸の数十里(※10里=約40km)は、土地は肥沃で田地が広がり、見渡す限り平らで広々としている。(この)いわゆる越後平野は、一旦河川が増水し氾濫が起きれば、天にもいたらんばかりの濁水が波打ちせまり、村々家々は水没してあたり一面水面みなもに覆われてしまう。その被害は、800余村に及んでいたという。
〔3.享保期 分水計画の芽生え〕
きょうほう年間(1716~36)、てらどまりの本間数右衛門と河合某は、大河津の地から水路(ぶんすい路)を掘り開き、これを北の海にみちびき、(水量を減じて洪水の)危険性を除去しようと企てた。当時は、幕府が政権を握り、諸藩は(もろもろの領地を)自ら統治していたので、意見が(上まで)至ることがなく、以降しばしば訴願が繰り返された。幕府は、官吏を派遣し調査して検討したところ、成功裏の利益に比して費用が見合わないという理由で、曖昧な態度をとり続け結論を出さないまま百年余りが過ぎた。
〔4.明治期 右往左往の分水事業〕
明治元年(1868)、信濃川の堤防が決壊し、あたりは広々と水面に覆われあたかも海のようになってしまった。古志こし三島さんとうみなみかんばらなかかんばら西にしかんばらの5郡の惨状は特に甚だしいものがあった。ここに至り分水の議論がますます起こってきた。新発田しばた藩がまずこの事を越後府えちごふに訴えた。府は、高崎たかさき与板よいた村松むらまつ峰山みねやま三日市みっかいち村上むらかみの6藩に命令し意見を出させた。(越後古川村の名主)田沢与左衛門等は京都におもむき、治河ちか使の長官なかかどつねゆきに箇条書きにして陳情したことで、ようやく事業の端緒が開かれた。よって府は事務所を寺泊に設置し、官費を充当して工事を開始した。いまだいくらも経たないうちに、国の財源が不足しているため中止となった。府知事壬生みぶ基修もとながは(進退窮まって)憤り嘆き、次のように(朝廷に)申して職を辞した。
「越後の水害は、信濃川より激しいものはありません。国の人々はおりおりに幕府に請願し、大河津に水路を掘り開いて水勢を減じようと願ってきました。しかし(幕府は)既成のものにこだわって実行に移されず、ぐずぐずしているうちに遂に昨夏の悲惨な状況に至ってしまいました。堤防は数十里に渡って決壊し、野には夏草すら生えないありさまで、(住人は)日夜おそれおののき、(定住できず)次々に流浪してしまっております。(先に幕府から大政奉還をうけた)朝廷は、(幕府にかわって)民の憂いを除くことが急務であるとしました。わたくしは、たまたまこの任にあたり、どうして(この惨状を)黙って見過ごすことができましょうか。(だから)すでに官吏に命じて適切な措置を講じさせ、かつ奏聞して(そのことの事後的な)裁可を得ようとしました。しかし朝廷の会議では、国費が不足していることにかこつけて(裁可がなされません)。下々の民達は、これを聞きおよび、皆を引き従えまさに窮状を強訴しに向かおうとしています。わたくしは、奉職してからというもの、さしたる成果もありません。朝廷の命令にのみ従っていては、(地方官であるわたくしが)先ず(命令を)発し、しかるのちに(命令の事後承認を)奏聞するのは、上においては、陛下を侮辱することになります(したがって既にわたしは罪を犯しています)。(かといって)みだりに(大事業の)はじまりを告げるような命令を発し、後からそれを取り消せば(民の)非難は免れません。これは、下においては、民を欺くことになります(だから事業は継続すべきです)。謹んで(辞表を)朝廷に提出し(辞任許可や事業継続に関しての)下命を待ちます。願わくは、わたくしの罪を裁定し、(裁定の内容を)広く天下に告げて、今後官吏が守るべきいましめとして下さい」。
諸藩および地方有志の代表者は、上京し哀願した。政府は、100万円の費用にて工事を開始させた。やがて外国人技師を派遣して、(工事をする上で)地理的な難易度を調査させたが、やがて復命してこの事業に懐疑的な意見を提出したので、ついに今回も(工事は)遂行できなかった。19年(1886)、内務省技師の古市ふるいちこうの説を採用し、堤防及び河道を改修し、水害の危険性を減少させた。29年・30年には大洪水が頻発し、その被害も甚大だった。そこで分水の議論がまた起こってきた。内務大臣内海忠勝は、その事業に大いに賛同した。ことが成就しようとしていた矢先、日露戦争が始まり皇軍が外征したので、土工工事を行うことなどできなくなってしまった。
〔5.大正期 分水工事の遂行〕
40年、政府が帝国議会に(工事計画の)案を上程したところ賛同が得られた。よって(分水すなわち)水路を掘り開くという計略を踏襲し、大工事を開始した。恐らく信濃川は大河津に至って地勢に変化があるためだろう、(流路を東にかえ)新潟に流れ、その長さは14里(約55km)だ。寺泊までは、3里(約12km)未満である。そのため、大河津から寺泊まで総じて2里20町(約10.0km)余りの一大水路を掘り開き、河水を北海(日本海)に放流させようと決した。但し、険しいところや平らなところがあるので、地勢にしたがって工事を実施し、掘り進めて新らしい川を通した。幅は、広いところでは400(約730m)、狭いところでは150歩(約270m)である。橋を二つ渡し、車馬の行き来に便利なようにした。築いた堤防の長さは、8350歩(約15.2km)。洗堰あらいぜきを分水の地点に設けた。長さは480尺(約150m)、広さ6尺(約1.8m)の橋脚が26基あり、その間隔は12尺(約3.6m)で、水量を制限しながら本川に導き流す。閘門こうもん(ロック)をその側に設けた。鉄の閘門扉(ロックゲート)を用いて開閉し、荷船を通行させるようにした。閘室こうしつ(ロック室)の長さは200尺(約60m)、幅は37尺(約11m)、閘室に入る水の深さは5尺(約1.5m)余り。これで巨船も通行できるだろう。また新潟の河口をしゅんせつした。その長さは1200歩(約2200m)、幅100歩(約182m)、深さ25尺(約7.6m)だった。新潟港(の浚渫)では、長さ400歩(約700m)、幅100歩(約180m)、深さは30尺(約9m)に達した。突堤とってい埠頭ふとうをきずいた。それは、水面高12尺(約3.6m)、先端の幅24尺(約7.2m)、長さ83四歩(約1520m)だった。洗堰は砂が(下流に)流れるのを防ぎ、閘門は扉を開き(舟を通して)舟運を便利にする。洗堰より250歩(約460m)隔たった新川上に堰堤えんていを設けた。長さは400歩(約730m)で、この内100歩分だけざいせきを設けた。コンクリートを用いてこれを造成した。それは石のように固くできており、流路を遮断する。水位が高ければ、(扇状の構造物を)うつむけさせて水がより通るようにし、逆に水量が少ない時には遮断してせき止め、水がみな洗堰の方に向かい本川に流れ出て本川の水量を保つようにする。平常時でさえ溢れんばかりに激しく流れる河水も、衣をたくし上げ辛うじて素足で渡ることができようかというほどになった。大河津の上流では、平常時の水量は1秒あたり2500石(約450キロリットル)である。不運にも洪水が起これば、3万800石(約5540キロリットル)に至る場合もある。(そのため)これを(非常時の)標準として(諸施設を設計した)。この事業では、内務省の技師工学博士渡辺六郎が主に工事を監督した。工事に携わる多くの人々は心を一にして機械を運転し、自在堰や閘門の岸壁をすべてコンクリートで造成した。そのため大いに労力を削減できより早く竣功することができた。さて蒲原3郡は、最も水害の悲惨な地域である。その土地は低くて湿気が多く、長雨で(信濃川の)水があふれ出れば、汚水がたまって沼や沢のようになり、洪水単体よりも被害の程度は大きい。今、分水の工事が成功し、百年の憂いはことごとく取り除かれ、未来万世に利益を受けることができるようになった。ただ実り豊かな穀物だけを指してそういうのではないだろう(例えば舟運、港湾の整備によって商売による利益も生まれる)。
〔6.過去を顧み未来に顕彰する〕
ああ、享保より今に至るまで二百余年、時運は移り変わり政治には善政・悪政があるなかで、山河ははるか悠久の昔から姿を変えず、(そのため)水害はしきりに起こってきたが、民の志はたわまず屈せず、誠の心が天をも動かし、ついに(天も)偉業に助成して、空もみなぎらんばかりの洪水が起こってきた土地は一変し、ふくげきじょうの領域となった。これは、すばらしい(天皇の)御代ゆえに享受できた恩恵であり、加えて地方有志の者の尽力の賜物でもある。以上のことを金石に刻み、永遠に伝えるべきである。よってその成功をたたえ、詩をつなぐ。詩にいわく、
〔7.詩〕
  〇以下押韻ごとに改行。換韻ごとに空白行を挿入。
天は万民にほどこす、食と衣服を。
飢えず凍えず、生き生きとして止むことなし。
(人はそうして)老人をうやまい幼児をやしない、生業にいそしみ徳を涵養する。
春には種を植え秋には実りを収める     天の子である帝王の力ぞ。

けれども洪水をばいかんせん、山をも抱き丘にも上る。
海や湖のように果てしなく広がる水面みなも水底みなそこしずむ田んぼのあぜ道。
村々家々、憂いも害も絶ゆる時なし。
誰が彼らを救ったのか     それは賢こき人、能ある人。

かの長河を眺めやると、(閘門を通り)雲のように白い帆をかけ舟が行き交う。
もう川の水は溢れず渇かず、やっかいな湿地も一掃された。
千里もつづく田んぼのみぞ●●あぜ●●、五穀の実りも豊か。
もろもろの民たちは心やすらかに家業をいとなみ、租税はふえて国庫をあます。

大功なったこの土地で、仰いでは山を眺めうつむいては河を見やる。
昔と今を思うと心は動き、気持ち晴ればれと詩を歌うのだ。
石に文を刻み、(文章も治水の功績も)永遠に摩滅せず。
内務大臣正三位勲一等水野錬太郎が撰した。  比田井鴻が書した。  亀山藤太が刻んだ。

訓読文・註釈

〔1.分水工事の竣功と建碑〕
信濃川治水紀功碑   ていかん元帥陸軍大将大勲位功二級ことひと親王篆額
大正十三年歳きのえに在る三月廿三日、越後大河津おおこうづ治水工事、おわるを告ぐ。歳をみすること十有八年、用工壱千餘万人、費財弐千参百拾四万壱千九百餘円。盛と謂ふべし。乃ち朝野しんしん・県官しょの其の事に関はる者を会し、大いに竣工の式を挙ぐ。又た碑をしんこうようしょに建て、以ての功をしるし、後人をして其の由来する所を知らしむ。
〔2.越後信濃川の地勢と水害〕
れ信濃川に二のみなもと有り。だけに発するは、千曲ちくまがわと曰ひ、槍岳やりがたけに発するは、犀川さいがわと曰ふ。たんじまに至り、合流し以て越後に入り、しゅうりゅうおくり、灌漑かんがいに資す。溶々として九十四里、新潟にいたり海に注ぐ。沿岸数十里、地はえ田はひろく、ぼうするにへいこうなり。所謂いわゆる越後平野は、一旦河水氾濫すれば、だくろう空にせまり、村落しゃ蕩々とうとうとして陥没す。其の害、八百餘村に及ぶと云ふ。
〔3.享保期 分水計画の芽生え〕
きょうほう中、てらどまりの人本間数右衛門・河合某、大河津に鑿渠さくきょし、これを北海に導びき、以て其の患を除かんとはかる。の時、幕府政をり、諸藩みずからおさめ、言の能く達する莫く、らいしばしば訴願す。幕府、吏を遣はし之をかんがみるに、しかるについやす所あがなはざるを以て、依違いいして決せざること百餘年。

*載仁親王 閑院宮載仁親王(1865~1945)。明治~昭和時代の皇族、軍人。陸軍大将、元帥、参謀総長などを歴任。

*越後大河津 現新潟県燕市大川津近辺。北向きに流れてきた信濃川が東の方向に流路をかえる地点で、碑文にある通り、明治・大正期の分水工事によって、ここから北西に向かって日本海に流れる新水路(大河津分水路または新信濃川)が開鑿された。

*搢紳 官位が高く身分のある人。

*胥吏 地位の低い役人。

*津口 渡し場。船着き場。

*甲武信岳 山梨、埼玉、長野の県境にある山。千曲川などの水源となる山。

*槍岳 長野県北西部、富山県との境にある山。鑓ケ岳。

*丹波島 現長野県長野市丹波島あたり。

*溶々 水の広々として静かに流れるさま。

*弥望 広く見渡す。

*平曠 平らで広々している。

*寺泊 新潟県中部の地名。現長岡市寺泊大町あたり。江戸時代は北国街道の宿駅、西回り航路の寄港地として繁栄。

*鑿渠 みぞを掘る。

*依違 態度がはっきりしない。

〔4.明治期 右往左往の分水事業〕
明治戊辰、信濃川、ていぼうを決壊し、汪洋おうようとして海の如し。古志こし三島さんとうみなみかんばらなかかんばら西にしかんばら五郡の惨害、殊にはなはだし。ここに於いて分水の議、ますます起こる。新発田しばた藩、先ず之を越後府えちごふに訴ふ。府、高崎たかさき与板よいた村松むらまつ峰山みねやま三日市みっかいち村上むらかみ六藩に令し、其の意見をもとむ。田沢与左衛門等、けいに入り、なかかど治河ちか揔督そうとくじょうちんし、事ようやく。府、乃ち事務所を寺泊に設け、官費を以て工を起す。未だいくばくならずして国用のたらざるを以て之をとどむ。府知事壬生みぶ基修もとなが慨然がいぜんとして職を辞して曰く「越の水患、信濃川より甚しきは莫し。州民、しばしば幕府に乞ひ、大河津に鑿渠し、以て水勢をがんと欲す。しこうしていんじゅんして果たさず、ついに去夏の惨状を見る。隄防の潰決かいけつ数十里、野に青草無く、日夜洶々きょうきょうとして、りゅうぼう相いぐ。朝廷、既に民患を除くを以て急と為す。臣、たまたま任に在り。するに忍びんや。既にゆうをしてべんせしめ、且つ奏聞して決を取らんとす。而してていかこつくるにこくたらざるを以てす。下民、之を聞きて、相い率して将に哀訴きょうせいする所有らんとするなり。臣、職を奉ずるもぼうじょう。朝命にれ、先ず発し後にぶんするは、是れ上には君をあなどるなり。みだりたんを発し、しょくげんしてそしりを興すは、是れ下には民を欺くなり。謹んでけついたして命を待つ。願はくは臣の罪をし、之を天下に告げて、以て官戒と為せ」と。諸藩及び地方有志代衆、京にいたりて哀願する所有り。官、其の費百万円を以て工を起す。既にして外人技師をして、其の地勢の得失を察せしむるに、復命して之をあやしみ、亦た終に果さず。十九年、内務技師古市ふるいちこうの説を用ひ、隄防及びしんを改修し、水患をゆるむ。廿九年・三十年、大水相い継ぎ、其の害尤もおおし。分水の議、復た起こる。内務大臣内海忠勝、大いに其の挙に賛ず。事、将に成らんとするに、露国と難を構ふるに会ひ、おう外征し、復た土工に従事する能はざるなり。

*汪洋 水が豊かで、水面が広々としているさま。

*古志・三島・南蒲原・中蒲原・西蒲原五郡 すべて越後国(新潟県)中央部の郡。いずれも域内に信濃川が流れる。

*分水 新しい流路を河川に開削して、一つの流れを二つに分けること。

*新発田藩 越後国、新発田(現新潟県新発田市)周辺を領有した藩。なお新発田の地は、信濃川流域を含んでいない。

*越後府 明治初年、明治新政府によって旧幕領経営のため越後国(新潟県)におかれた地方行政機構。

*高崎・与板・村松・峰山・三日市・村上六藩 高崎藩は、上野国高崎(現群馬県高崎市)を本拠地とした譜代藩。与板藩は、越後国三島郡与板(現新潟県長岡市与板地区)を本拠地とした譜代藩。村松藩は、越後国蒲原郡村松(現新潟県五泉市村松地区)を本拠地とした外様藩。峰山藩は、丹後国峰山(現京都府京丹後市峰山町)と本拠地とした外様藩。三日市藩は、越後国蒲原郡三日市(現新潟県新発田市)を本拠地とした譜代藩。村上藩は、越後国村上(現新潟県村上市)を本拠地とした藩。

*田沢与左衛門 1823~83。幕末~明治時代の治水家。越後国古川村(現新潟県新潟市)の名主。信濃川治水のため大河津分水工事を主張。

*条陳 箇条にわけて説き述べること。

*中御門治河揔督 中御門は、中御門経之(1820~91)。幕末~明治時代の公家・官僚。会計官知事、造幣局掛などを歴任。治河揔督とは、当時新政府に置かれていた治河使(または治河掛。治水関連の機関)の長官。

*壬生基修 1835~1906。幕末~明治時代の公家、華族。急進尊攘派で、文久3年(1863)の政変により、七卿落ちの一人として長州におもむく。新政府が発足すると、越後府知事、東京府知事などを歴任。

*辞職曰 これ以降「以為官戒」までの文章は、壬生基修の辞表の内容とみられる。

*因循 旧例にこだわって改革をしないこと。

*洶々 おそれおののくさま。

*流亡 定住することなく、さまよいさすらうこと。

*坐視 黙って見ているだけで、手出しをしないこと。

*国帑 国家の財産。

*亡状 よい行状がない。

*事端 事柄のいとぐち。事件のはじまり。

*食言 前に言ったことと違うことを言う。

*古市公威 1854~1934。明治~昭和時代前期の土木工学者。帝国大学工科大学学長、内務省土木局長などをつとめた。

*内海忠勝 1843~1905。明治時代の官僚。長野県、神奈川県、大阪府、京都府などの知事をつとめた。第一次桂内閣内務大臣。

*露国構難 ロシアと干戈を交える。日露戦争のこと。

*王師 天皇の軍隊。官軍。

〔5.大正期 分水工事の遂行〕
四十年、官、帝国議会に発案し、其の協賛をたり。乃ち鑿渠の計を襲ひ、始めて大いに工を起す。けだし、信濃川は大河津に至りて、地勢や転じ、新潟に赴むくこと十四里。寺泊は、則ち三里に過ぎず。是に於いて、大河津より、一大水路を鑿開さくかいし、以て寺泊に至るまで凡そ二里二十餘町、河水をして北海に放流せしむと断ず。但し地にけん有れば、地に随がひて施工し、うがちて新川を為す。ひろきは四百歩、狭きは百五十歩に至る。二橋をけ、以て車馬の来往に便びんならしむ。築堤、八千三百五十歩。湔𣹐あらいぜきを分水の地に設く。長さ四百八十尺、広さ六尺のきょう二十六基、其の間隔十二尺にて、河水を制限し、之を本川に導く。こうを其の側に設く。鉄扉を用ひて開闔かいこうし、以てしゅうしゅうを通ぜしむ。閘室こうしつの長さ、二百尺、広さ三十七尺、こういきの水を入るること五尺有餘、以て巨船を通ずべし。又た新潟の河口をしゅんせつすること、長さ千二百歩、広さ百歩、深さ二十五尺。海港は、則ち長さ四百歩、広さ百歩、深さは三十尺に達す。突堤とっていを築くこと、水面高十二尺、頂広二十四尺、長さ八百三十四歩。湔堰は以て流沙を防ぎ、閘を開きて以てそううんに便なり。湔堰よりへだたること二百五十歩、堰隄えんていを新川に起す。広さ四百歩、百歩をかくして、以てざいせきを為す。ぎょうを用ひて之を造る。其の堅きこと石の如く、水路を遮断す。水高ければ、則ちふくし以て之を通ぜしめ、渴すれば則ち之を阻止し、水皆な湔堰に向かひ、以て本川の水量を保つ。平水なれば、則ちかくかくたるまんりゅうも、わずかに踵の、かかげてわたるべきが如きに及ぶ。大河津上流の平水、量は一秒時に二千五百こく。奇にして洪水有れば、三万八百斛に至る者有り。此を以て準と為す。是の役や、内務技師工学博士渡辺六郎、専ら工事を督す。衆工心を一にして、機器を運転し、堰閘の岸壁、皆な凝土を用ふ。故にしょうろう大にしてしゅうこうすみやかなり。且つ水害の惨なるは、蒲原三郡を以て最と為す。其の地湿しつにして、りんに水みなぎれば、則ち汚水淹滞えんたいしてしょうたくの如く、しかも其の害、殆んど洪水に過ぐ。今、分水の工既に成り、百年の患ことごとく除かれ、万世の利すなわち興る。豈に唯にこくじょうじょうなるのみをしかはんや。

*険夷 けわしいことと、たいらなこと。

*新川 現在、大河津分水路または新信濃川と呼ばれている。

*湔𣹐(湔堰) 洗堰(あらいぜき)。木や石などを以って川を横断してせき止め、その上を水があふれて流れるようにしたもの。川の水量を適当に保つために築く。ただし、この洗堰の上には橋脚があり橋の構造が存在した。

*橋趾 洗堰の上に設けられた橋の橋脚。

*閘 閘門。ロック。水位差のある水面間で船舶を通航させるための構造物。洗堰造成に伴い、信濃川を上下する船舶航路が途絶するため設けられた。

*舟楫 舟を使って物を運ぶこと。水運。

*浚渫 水底をさらって深くすること。分水路の開通によって信濃川本流の水量が減り、下流の新潟湾の水位が下がるため、船舶往来に支障を出さないための処置。

*漕運 船で物を運ぶこと。

*自在堰 分水路に設けられた堰。左岸300歩は固定式の堰だが、右岸100歩分は、橋脚で区切られ、ここに各々自在に動かせる扇状の構造物があり、これを以って流水量を調節する。

*凝土 コンクリート。

*㶁々 激しく流れる水の音の形容。

*漫流 あふれんばかりの流水。

*掲 衣をかかげる。

*斛 体積の単位、石(こく)。

*卑湿 土地が低くて湿気の多いこと。

*淹滞 長くつかえたり、たまったりすること。

*禾穀穣々 禾穀は、穀物の総称。穣々は、実りがおおいさま。

〔6.過去を顧み未来に顕彰する〕
嗚呼、享保より今におよぶまで二百餘年、時運変遷し、政には得失有るも、山河は綿邈めんばくとして、水患しきりにいたれども、民志たわまず屈せず、至誠天をも動かし、遂に能く偉業に賛成し、洪水滔天とうてんの区を変じて、ふくげきじょうの域と為す。此れ亦聖世の餘沢にして、地方有志の者も亦あずかりて力有るなり。宜しくこれを金石に刻み、以て不朽に伝ふべきなり。乃ち其の成功をたたへ、つなぐに詞を以てす。詞に曰く、
〔7.詩〕
 天のじょうみんくだすに、すなわち衣載ち食。饑えず寒からず、生々としてむ無し。老いを敬まい幼なきをで、なりわいを励まし徳を養ふ。春には種ゑ秋にはり、いずれかていりょくにあらざらん。洪水をば奈何いかんせん、山をいだおかのぼる。びょうびょうたる湖海、即ち是れ田のあぜ。 ゆう村宅、患害相いる。
 れか克く之をすくはん、賢有り能有り。彼の長川をながむるに、うんぱん来往す。水皆な常に帰し、たくできとうす。千里のけんこくほうじょうなり。ぐんれい安堵し、恵みこくあます。大功既にあつまり、山河をぎょうす。今昔を感懐し、浩然と以て歌ふ。
 石にけずり文をきざみ、万古すりへらず。
                         内務大臣正三位勲一等水野錬太郎せん  比田井鴻書  亀山藤太刻

*綿邈 悠遠。ここでは、はるかに遠い昔から山河は姿を変えていないという文意。

*賛成 物事がうまくいくように助力をすること。ここでは、天が人間の治水事業に助力するということ。

*滔天 天までみなぎること。

*鼓腹撃壌 政治がゆきとどき、人々が太平を楽しむさま。

*詞 詩。

*天降烝民・・・ 四言詩。韻字、食・息・徳・力(入声十三職)、陵・塍・仍・能(下平声十蒸)、往・盪・穣・帑(上声二十二養)、河・歌・磨(下平声五歌)。

*烝民 もろもろの民。

*生々 いきいきしていること。

*帝力 天の子である帝の力。

*渺々 広くはてしないさま。

*田塍 田のあぜ道。

*患害相仍 心配事も実害も、昔と変わらず続く。

*雲帆 雲のように白い帆。また船をいう。

*滌盪 洗い流す。

*畎畝 田のみぞとあぜ。

*群黎 もろもろの民。

*安堵 土地に安心して住み、家業に安んずること。

*俛仰 うつむくことと、仰ぐこと。

*水野錬太郎 1868~1949。明治~昭和時代の政治家。出羽久保田藩藩士の子。

*譔 撰。

*比田井鴻 比田井天来(てんらい、1872~1939)。書家。本名象之。通称は鴻。長野県出身。書家の日下部鳴鶴に師事。古碑法帖を研究し、独自の書風を開く。

画像

全景 1 (撮影:’23/08/28。以下同じ)
全景 2
全景 3(右側は信濃川大河津資料館)
オモテ面
ウラ面
上部・篆額 1
上部・篆額 2
上部・篆額 3 (奥は大河津分水路)
碑と大河津分水路
旧洗堰
信濃川 本流

その他

補足

  • 本資料の訓読文に近いものが『信濃川大河津分水誌 第2集』にすでに掲載されている(原文・註釈・現代語訳はない)。ただし弊研究所の訓読文といくつか相違がある。
  • 国土交通省 信濃川大河津資料館ホームページでは、写真や図で分かりやすく信濃川分水について解説している。合わせて参照して下さい。

参考文献

  • 『信濃川大河津分水誌 第2集』(北陸地方建設局長岡工事事務所、1969年)192~4頁。
  • 建設省北陸地方建設局編『信濃川百年史』(北陸建設弘済会、1979年)605~22頁。
  • 松浦茂樹・藤井三樹夫「明治初頭の河川行政」(『土木史研究』13、1993年)150頁。

所在地

信濃川治水紀功碑 および碑文関連地 地図

所在
信濃川分水地点・信濃川大河津資料館前|新潟県燕市大川津

アクセス
JR越後線 分水駅 下車 徒歩3km
信濃川大河津資料館前

編集履歴

2023年9月7日 公開

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