幕末に起こった安政東海地震と津波の碑。碑のある浦村は、志摩国鳥羽の漁村(現三重県鳥羽市浦村町)。普段は波も穏やかで、鏡のような浦を抱き小高い山が囲んでいる。潮騒もかすかな集落奥のやや高所に禅寺・清岩庵があり、小ぶりな碑は山門脇にさりげなく立つ、というより置かれている。小さく細い字で一字ずつ丁寧に刻まれた漢文には約150年前の大災害が記され、この地で起こったこととは俄かには信じがたい。地震の後には津波が来るとか、満潮時に津波が来たとか、未来への教訓を冷静に淡々と記し、隠微な碑ながら当時の村人の強い防災意識がうかがえる。
資料名 志摩国浦村 地震・津波の碑
年 代 安政5年(1858)
所 在 清岩庵|三重県鳥羽市浦村町
北緯34°26’31″ 東経136°53’22”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は碑文内容に基づく。題字はない。
ID 0018_2309
翻刻
〇オモテ面
嘉永七年甲寅十一月四日、
天気陰惨、卯時地大震、巳時
滄海潮湧、白浪如山、須臾至、
前村中央、直衝山腹。入寺門
者三寸許。此時民屋□裂、財
物尽亡。男女老少、只以免死
為幸。或構草舎、或苫覆、而待
震之定、殆一月餘。其辛苦、豈
可言哉。諺曰、震動之後、海嘯
必至。今果遭是災。因記大略、
以示将来者。
安政五戊午年五月
現住文鳳起焉
〇ウラ面
為村中安全
世話人
谷川□□□□
現代語訳
〇オモテ面
嘉永7年(1854)11月4日、天気は薄暗く曇っていた。午前6時頃、地面がはげしく震動した。午前10時頃、青々とした海原に潮が盛んに満ちてきて、山のように巨大な白波が、ほんのわずかの間に(こちらまで)おしよせ、村の中心部まで進んでくると、ただちに(村の)山にぶつかった。(やや高所にある清岩庵でさえ海水が)寺域に浸水し深さ3寸(約9cm)ほどになった。この時、民家は倒れたり破られたりし、財産となる物はすべて失なわれた。男も女も老いも若きも、ただ死を免れたことだけを幸いと感じた。あるいは草ぶきの簡易な建物をつくり、あるいは苫で(屋根を)覆い(仮の住居とし)、ほぼ一ヶ月もの間、揺れがおさまるのを待った。その時の辛さ苦しさは、どうして言葉で表現することができようぞ。諺に「地震の後には、必ず海嘯(津波)が来る」という。今はたしてこの災いに遭った。だからその概略を記し、(いましめのため)未来の人々に示すのである。
安政5年(1858)5月 (清岩庵の)現住職文鳳がこれを立てた。
〇ウラ面
村中安全のため(これを立てた)。
世話人
谷川又右衛門
訓読文・註釈
〇オモテ面
嘉永七年甲寅十一月四日、天気陰惨、卯の時、地大いに震ふ。巳の時、滄海に潮湧き、白浪の山の如き、須臾に至り、村の中央に前み、直に山腹を衝く。寺門に入る者三寸許。此の時、民屋頽れ裂られ、財物尽く亡ふ。男女老少、只だ死を免かるるのみを以て幸と為す。或いは草舎を構へ、或いは苫に覆ひて震への定まるを待つこと、殆んど一月餘り。其の辛苦、豈に言ふべけんや。諺に曰く、震動の後、海嘯必ず至ると。今果して是の災ひに遭ふ。因りて大略を記し、以て将来の者に示す。
安政五戊午年五月
現住文鳳焉を起つ。
〇ウラ面
村中安全の為
世話人
谷川又右衛門
*陰惨 陰気で暗い。
*卯時 午前6時ころ。
*巳時 午前10時ころ。
*滄海 青々とした海。
*潮湧 潮位が盛んに満ちてくる。詳しくは、下記補足説明参照。
*白浪 白い波。しらなみ。漢語ではなく、和語にもとづく表現。
*須臾 わずかの間に。仏語。
*前村中央 解釈やや難。まず「村」は、志摩国答志郡浦村(うらむら、現三重県鳥羽市浦村町)のこと。当時鳥羽藩領。志摩半島の北東部にあり、生浦(おうのうら)湾を隔てて東岸に本浦(もとうら)、西岸に今浦(いまうら)の二集落がある。「前」をススムと解釈し、浦村の中心部まで「白浪」が及んできたと解釈した。
*山腹 山の中腹。
*寺門 生浦山清岩庵(曹洞宗)の門。寺は、浦村の本浦にある(「*前村中央」参照)。本浦集落の中ではやや高所にある。
*草舎 くさぶきの小屋。わらや。要するに粗末な仮の住居。
*苫覆 解釈やや難。苫とは、菅(すげ)、茅(かや)などを編み、小家屋の屋根おおいや和船上部のおおいなどに使用するもの。「苫覆」とは、苫にて葺いた仮の住居とみられる。「草舎」と合わせて、要するに粗末な仮の住居。
*海嘯 海鳴りを伴いながら海岸に波が押し寄せて来る現象。ここでは地震に伴う津波のこと。
画像
その他
補足
- 文中「潮湧」について補足しておく。盛んに満ちて来る潮のことを、湧潮(わきしお)という。近世から一般的に使われ出したと思われる和語である(『日本国語大辞典』参照)。「潮湧」とは、和語「湧潮」を漢文的に表現したもので、「しおわく」と読み、潮位が満ちている状態を表すと考えられる。
さて、碑文によると、地震発生は卯刻(午前5時から7時の間)で、巳刻(午前9時~11時の間)に「潮湧」つまり潮位が盛んに満ちているとしるす。そこで科学的知識を用いて碑文にしるす嘉永7年11月4日(グレゴリオ暦1854年12月23日)の潮位を推定算出してみると(海上保安庁ホームページ「潮汐推算」使用。地点は「鳥羽」)、午前2時頃を干潮としてそれ以降上がり続け、およそ午前9時過ぎに満潮に至るので、碑文の記述と符合する。
地震は上げ潮時に発生し、満潮とともに「海嘯」つまり津波が浦村に到来したといえそうである。碑文は、大地震の後に津波が来ることに加えて、津波到来時刻と満潮時刻とが重なることも伝えようとしていると思われる。 - 本資料は、僧侶が撰文し、しかも当初から寺院内に設置されてきたものである。そのため地震・津波による死者がいれば当然亡魂供養の文言があってしかるべきだが、一切言及がない。したがって、本村の犠牲者は皆無か僅少だったと考えらえる。
- 本資料は、『年報 海と人間』23にすでに翻刻されている。また『安政東海地震と津波の遺訓』に、解説文付きで紹介されている。本資料は解釈の難しい部分があるので、弊所研究所が作成したものと合わせて参考にして下さい。
- 安政年間(1854~60)頃には、巨大地震が何度か起こった。
参考文献
- 海の博物館資料室・平賀大蔵「三重県下の海の石碑・石塔(二) ―津波関係の碑・供養塔―」(『年報 海と人間』23、1995年)3頁。
- 志摩市立磯部図書館・郷土資料館編『古文書にみる江戸時代の志摩 二 安政東海地震と津波の遺訓』(志摩市教育委員会、2007年)32頁。
所在地
志摩国浦村 地震・津波の碑
所在:
清岩庵|三重県鳥羽市浦村町
アクセス:
自動車で向かうのが無難
清岩庵の山門を入り、すぐ左手にある
編集履歴
2023年9月12日 公開
2024年3月4日 小修正