天明大火死者供養碑 -京都所司代の仁政-

天明大火死者供養碑
概  要

江戸時代中期、京都の大半を焼き尽くした天明の大火の碑。火災発生とほぼ同じ時期に着任したきょうしょだい・松平のりさだが、非業死者の供養仏事開催を浄土宗本山寺院・しょうじょういんに命じた。火災の約2か月後、同寺が末寺僧を招集して開催し、同時に死者の墓塔と、これらの顛末を記した本碑を造立。火災の甚大さ・悲惨さや、死者への哀悼の深さ、成仏の真摯な期待をしるす。加えて死者と生存者に対する新所司代の仁政を強く称賛する。やや落ち着きを取り戻しつつある中にあって、大災害に対する悲愴感と同時に、新たな行政官のもとでの復興への期待感も読み取ることができるだろう。

資料名 天明大火死者供養碑
年 代 天明8年(1788)
所 在 しょうじょういん|京都府京都市上京区北之辺町
 北緯35°01’32″ 東経135°46’05”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は碑文内容に基づく。題字はない。
ID 0019_2309

目次

翻刻

  〇南面
天明八年戊申春正月晦日平旦、京師大災。蓋川街、翌日入夜而止矣。火之所燬、無
家不及也。稽国史所載、遷都以来未曽有之殃矣。当此時也、転、木発屋、不可邇。人
人争逃、唬呼躪、焦骸累累。痛不可言。二月二十有五日、督松平泉州刺史(乗完)源朝臣、奉
台命至(平出)*武、翌日使者某、賜焼亡追悼之命。於此卜三月二十有四日至晦日、大集
寺・子院、修七日夜時念仏、弥陀経一千部、施餓鬼法要。願以此修勲一切焦類長出
  〇西面
輪、而浴波、四海識周化仁政。而祝 国家平。此挙也、雖侯所命乎、而意欲深蜜
之曰、嫌以之欲求名。然則予亦何負侯意而〔強ヵ〕乎。然事苟有義亦何隠乎。矧於術哉。是
以懇請数次、侯漸許之。因銘其事。曰、
旱、 豈厥免矣。 載胡載、 吁。 殿閣為燼、 天地為炉。 風相搏、 蒸烟盈衢。
粤逼火、 空墜躯。 天不吊、 胡至此荼。 都督源公、 泉州模。 克嫺済、 提仏掲儒。
  〇北面
彪相応、 万邦作孚。 乃奉台命、 □□□。 兆民〔徯ヵ〕、 公来〔蕪ヵ〕。 □□□□、 □□□〔声互呼ヵ〕
公顧焦原、 悲傷膚。 天之作孽、 □□□。 □□□□、 〔符〕。 仰彼□□、 □□□□〔佐此聖謨ヵ〕*
沢潤生民、 恩被焦屍。 載憐魂、 冥福□□。 □□□□、 憖命師。 縦我愧、 □□□□〔在茲ヵ〕
斯公之仁、 斯公之慈。 蔵有誓、 王豈欺。 速迎焼亡、 須浴池。 夫、 □□□〔衰ヵ〕
軍遠跡、 霊魂永綏。 因結板屋、 爰謹祠。 大集属寺、 法要遍施。 持万〔徳ヵ〕、 □□□〔期ヵ〕
  〇東面
露普灑、 雲永垂。 層浮屠、 石口碑。 頌章斯勒、 功績見辞。 維石不朽、 瞻無〔涯ヵ〕

   天明八年戊申三月    賜紫沙門誉聖道謹撰

  〇(参考)五輪塔地輪銘文
焼亡横死百五十人之墓

現代語訳

  ※原文が判読困難な部分は、現代語訳を明記せず、「」をもって明示した。
〔1.大火災の悲惨さ〕
天明8年正月末日(30日)早朝、京都は大いに燃えた。火は恐らくみやがわ町から起こり、翌日2月1日の夜になって止んだ。延焼範囲では、燃えない家などなかった。国史を読み考えてみると、平安遷都以来、未曽有の災害であることがわかる。この時に際し、くるくると回転するように大風が激しく吹き荒れ、大木を吹き倒し家屋を吹きくずし、(大風で火勢が増して)近づくこともできないほどだった。叫び合い怒鳴り合いながら(各々を)踏みつけて人々は争い逃げ、(あとには)焼死体が山のように積み重なっていた。その痛ましさは言葉で表現することなどできない。
〔2.京都所司代松平乗完による死者供養の達し〕
2月25日、京都所司代松平和泉守のりさだ侯が、将軍の命を奉じ江戸より至り、その翌日、役人某が(本寺に)派遣され、焼死者供養仏事開催のご命令を賜った。そこで末寺末院の僧侶を大々的に招集し、3月24日から末日(30日)の間、7日間昼夜の念仏、阿弥陀あみだきょう一千部(の書写または読経)、法要を行った。願わくはこのどくをもって、焼け死んでしまった一切しょうるいが、輪廻転生の苦しみの輪から永久に抜け出て、あまねく衆生を救うという仏菩薩の、海のように深く広い誓願の恩恵をうけとり(阿弥陀仏の浄土にいんじょうされ)、世の中の人々があまねく仁政に感化されんことを。さらに国家が太平に治まることを願う。仏事の開催は、のりさだ侯の命じたことかと思われるが、侯の発意であることを深く秘密にしたいとし、(その理由は)「このことを以って名声を求めることを良く思わないからだ」と言う。それならば私としても、乗完侯の意に背いて(仏事開催の主体を)強いて明らかにしてよいことがあろうか。けれども事を行うにあたって、もし道理にかなっているのであれば、どうして隠す必要があろうか。いわんや、仁に基づく行為、すなわち(念仏などの功徳を回向えこうすることによって焼死者に対して)恵みを与える行為であるならば猶更である。そこで何度かねんごろに請願したところ、ようやく侯はこれを(=仏事開催の主体を明示することを)お許しになった。したがって、そのことを(この石に)刻む。銘(詩)にいわく、
〔3.銘〕
  〇以下、二句ごとに改行。換韻に際し空白行を挿入。
古代中国の帝ぎょういん王朝の創始者・とうおう、彼ら聖天子の時代でさえ起る洪水や旱魃     どうして免れることができようぞ。
(天を)長くいただき、大火災はなんと嘆かわしいものか。
宮殿・楼閣でさえたきぎとなり、天地はいろりとなる。
よこしまな風がうちつけ、街中はあふれんばかりの灼熱の炎。
ここにほとばしる炎が迫り来て、(君主や国家に)忠心ある人民の命はむなしく失われる。
天は(人民を)憐れまず、どうしてこのような苦しみにいたらせたのだろうか。
京都所司代源朝臣、和泉守(乗完)は(まさに社会の)お手本。
国の統治、民の救済によく熟達し、仏教を手に持ち儒教を高く掲げる。
内は徳に満ちそれは外に徳行となって現れ、万国人民まことの行いをなす。
将軍のご命令を奉じ、□□□(京都?)に至る。
京中万民のりさだ公を待ち望み、公は(焼けつくした)荒れ地に来たった。
□□□□□□□□
公は焼け野原を見まわし、肌を引き剝がされ取るものも取りつくされたように疲弊した市民を悲しみ痛ましく思った。
天が災いを下す     □□をどうしたらいいだろう。
□□□□、ちょうど符節を合わしたように一致した。
(乗完公は)かの□□を仰ぎ、この聖天子のはかりごとを補佐する。

生き残った人々には(公の政治により)恵みが行き渡り、焼け死んでしまった者達は(念仏などの回向えこうにより)恩をこうむる。
弔う人もない亡魂をあわれみ、冥福は□□
□□□□、つとめて(仏事の)導師をお命じ下さる。
我が恥ずべきをお許しになり、□□□□
ああ公の仁、ああ公のいつくしみ。
法蔵ほうぞう菩薩は(衆生を救うという)誓いと願いをもち(阿弥陀如来になったので)、阿弥陀如来はどうして(その誓いに)背くということがあろうか。
(阿弥陀如来は)速かに焼死の者達を(浄土へと)お迎えにきて、必ず(彼らは、浄土にあって金色こんじきに輝くという)おうごんに沐浴できるだろう。
ああ涅槃ねはん□□□□
悪魔の軍勢のごとき生死しょうじてんの迷いは跡形もなくなり、霊魂は永遠に安らかであろう。
板葺き屋根の(粗末な)屋舎を設け、ここに今春つつしんで祭儀をいとなむ。
大いに末寺を招集し、供養仏事を行い(その功徳を)あまねく(亡霊に)振り向ける。
万徳のを持し、□□□□
仏のありがたい教えが甘露のごとく(亡霊に)ふりそそぎ、仏法が雲のごとく永遠に(亡霊を)覆うであろう。
五層の仏塔たる五輪塔、(その傍らの)一石の碑     そこに刻まれている(乗完公への)賛辞はどんな人も口にしていて、これからも絶えず永く話題に上るだろう。すなわち人々の自体がなので、この一石に刻むまでもないほどだ。
称賛の文章を彫り、功績は以上の文に明らか。
この石は朽ちず、衆人は共に(公を)見上げ尊んで際限がない。

   天明8年(1788)3月   仰誉聖道が謹んで撰した。

訓読文・註釈

〔1.大火災の悲惨さ〕
天明八年つちのえさる春正月晦日みそか平旦へいたんけい大いにゆ。けださいみやがわ街にり、翌日ついたち、夜に入りて止む。火のく所、家として及ばざる無きなり。国史に載す所をかんがふるに、遷都以来、未曽有のわざわひなり。此の時に当たるや、狂風旋転せんてんし、木を折りあばき、むかちかづくべからず。人人逃ぐるを争ひ、唬呼ここじゅうりんして、しょうがい累累るいるいたり。痛み、言ふべからず。

*災 火災。

*宮川街 宮川町。京都の鴨川の東岸、四条通と松原通の間にあった私娼街。現京都市東山区宮川筋。

*朔 一日(ついたち)。月の初日。

*狂風 荒れくるう風。

*旋転 くるくると回ること。

*折木発屋 『史記』項羽本紀第七「大風従西北而起、折木発屋」を踏まえた表現。ここでは、項羽の軍勢が劉邦を囲んだ際、大木を吹き折り家屋を吹きくずすような大風が起きて項羽軍を乱れさせ、劉邦は辛くも逃れることができたことを記す。

*嚮邇 『書経』盤庚「若火之燎于原、不可郷(嚮)邇」を踏まえた表現。

*蹂躪 ふみにじること。

〔2.京都所司代松平乗完による死者供養の達し〕
二月二十有五日、とく松平せんしゅう源朝臣、たいめいを奉じとうより至りて、翌日謁者えつしゃなにがし使つかいして、焼亡追悼ついとうの命を賜ふ。ここに於いて三月二十有四日乃至ないし晦日をぼくし、大いに属寺・子院を集め、一七日夜のべつ念仏、阿弥陀あみだきょう一千部、だい法要を修す。願はくは此のしゅうくんを以て、一切しょうるい、長くりんでて、がんかいおんに浴し、四海がんしきあまねく仁政にされんことを。しかも国家しょうへいねがふ。此の挙や、こうの命ずる所かといえども、、深く之をひそかにせんと欲して曰く、之を以て名を求めんと欲するを嫌へばなりてへりしかれば則ち、予も亦何ぞ侯の意にそむきて之をひんや。しかるに事、いやしくも義有れば亦何ぞ隠さんや。いわんやじんじゅつに於いてをや。是れを以て懇請すること数次、侯ようやく之を許す。因りて其の事を銘す。銘に曰く、

*都督松平泉州刺史源朝臣 京都所司代の松平和泉守乗完(1752~93)。三河(愛知県)西尾藩主大給(おぎゅう)松平家第2代。奏者番、寺社奉行を経て、天明7年(1787)12月、京都所司代任命。翌年正月の天明の大火ののち、碑文にあるように、2月京都に着任。京都所司代は、江戸幕府が京都に設けた出先機関の長官。朝廷・公家・社寺に関する庶務、京都および周辺諸国の司法・民政を担当した重職。

*台命 将軍(時に徳川家斉(いえなり))の命令。

*東武 東方の武蔵国。つまり江戸。

*謁者 四方に使いする役人

*乃至 ・・・から・・・まで。

*属寺子院 清浄華院の末寺末院。清浄華院は、浄土宗本山寺院の一つ。現京都市上京区北之辺町に所在。貞観年間(859~77)清和天皇の勅願により創建という。のち法然が中興、浄土宗に改めた。

*一七日夜 7日間の昼夜。

*別時念仏 日時を限って行う念仏。

*阿弥陀経一千部 阿弥陀経は、浄土教・浄土宗の根本経典の一つ。その一千部をもって火災死没者を供養した。ここでは同経の写経または読誦の二つの可能性があり確定できない。

*大施餓鬼法要 施餓鬼は、餓鬼道におちて飢餓に苦しむ亡者に飲食物を施す意。ここでは、このような意図を以って無縁の焼死者のために催す法要。

*苦輪 生死輪廻の苦からのがれられないこと。

*願海 仏や菩薩の誓願の深く広いことを海にたとえた語。

*恩波 波のように行き渡る恵み。

*含識 衆生(しゅじょう)。仏語。

*昇平 世の中が平和に治まっていること。

*者 発言の末尾に記し、その終わりを示す字。テヘリと読む。

〔強ヵ〕 原文の字形は、人偏に「強」の旁のように見える。文脈上は「強」として矛盾がないと思うので、しばらく「強」として訓読・現代語訳を行った。

*仁術 仁を施す行為。人に恵みを与える行為。乗完の命により、焼死者に対して念仏供養や施餓鬼法要をすることを、乗完の「仁術」というわけである。

*銘 ここまでの散文に対して、「銘」以下の文は詩。四字を一句とし、偶数句末に韻を踏む韻文となる。

〔3.銘〕
ぎょうすいとうかんれ免かれんや。すなわいただながく載き、大災何ぞうれはしき。殿閣たきぎと為り、天地いろりと為る。逆風げきふう相いち、じょうえんちまたつ。
ここほうせまり、空しく忠躯うしなふ。旻天びんてんあわれまず、なんぞ此のくるしみに至る。都督源公、泉州の軌模きぼ。克く経済けいざいならひ、仏をり儒をぐ。
ほうひょう相い応じ、万邦ばんぽうまことす。すなわち台命を奉じ、□□□に至る。ちょうみん公をち、公其のに来たる。□□□□□□□〔声互呼ヵ〕
しょうげんかえりみ、はだをもはがるるを悲しみ傷む。天のわざわひを作すや、□□いかんせん。 □□□□宛然えんぜんとしてごうす。彼の□□を仰ぎ、此のせいたすく。

*尭水湯旱・・・ 四言詩。全64句。判読困難な字をのぞき韻字を示すと、吁・炉・衢・躯・荼・模・儒・孚・蕪・呼・膚・苻(符)・謨(上平声七虞)、屍・師・茲・慈・欺・池・衰・綏・祠・施・期・垂・碑・辞・涯(上平声四支)。第32句の前後で換韻。なお、第2句末字「矣」の韻は、上平声七虞でなく上声四紙。

*尭水 古代中国の帝王・尭の時代に起きた洪水。

*湯旱 殷王朝の創始者・湯王(とうおう)の時代に起きたひでり。

*斯載胡載 文意難解。載は、いただくと訓じ、天をいただくの意味に解した。胡は「嘏」と通じ、永いの意味があるので、この意味に解した。

*大災 ここでの災は、火災の意。

*何吁 『詩経』国風「云何吁矣」に基づく表現。なんと嘆かわしいものか。

*殿閣 宮殿と楼閣。

*逆風 よこしまな風。ある方向と逆向きに吹く風という意味ではない。

*逬火 ほとばしる火。

*忠躯 意味やや難。さしあたり君主や国家に忠心(まごころ)ある人民の体と解釈した。

*旻天 そら。天。

*軌模 お手本。規範。

*経済 経世済民。国を治め、民を救済すること。

*弸彪相応 『法言』君子巻第十二「君子言則成文、動則成徳。何以也。曰、以其弸中而彪外也」に基づく表現。弸は、満ちる、彪は、あきらかになるの意味。内にあふれんばかりの徳がある人は、それに応じて、自然に徳のある言動となって外に現れてくるという文意。

*至 3字分が判読困難。しかし京都所司代松平乗完が京都に至ったという文意と推測される。なお、この句の末字で押韻しているはずなので、前後の押韻(上平声七虞)と共通する字を探すと、例えば京都の「都」がある。

〔徯ヵ〕 公の前字は半欠。右半分「奚」が判別でき、左半分は行人偏のように見える。該当する字「徯」は、まちうけるの意味で、前後の文意と矛盾がないので、「徯」として訓読・現代語訳した。

*其〔蕪ヵ〕 其の後字は半欠。上半分の草冠が判別でき、下半分は「無」のように見える。「蕪」ならば、前後の文意と矛盾がない。またこの位置に配される字は、押韻の字と考えられ、韻は上平声七虞。「蕪」も同韻なので、押韻の点からも適当。「蕪」として訓読・現代語訳した。

*剥膚 肌を剝がされるまでに取るものを取りつくされ、住人が疲弊困窮した状態。韓愈「鄆州谿堂詩序」の「剝膚椎髓、公私掃地赤立、新旧不相保持、万目睽睽」に基づく表現(『唐宋八大家文読本』巻四所収)。

*奈 判読困難な字があるが、「奈」は「奈何」の「奈」で、「〇〇を奈何(いかん)せん」のような文章と推測される。

*宛然 そっくりそのままであるさま。

*合〔符〕 「苻」は、本来「符」。合符は、一致する。

□□□□〔佐此聖謨ヵ〕 聖謨は、天子のはかりごと。京都所司代松平乗完が、天子のはかりごとを補佐したとの意。

〔3.銘 続き〕
たくせいみんうるおし、恩しょうこうむる。すなわこんあわれみ、冥福□□□□□□なまじいどうに命ず。我が愧ほしいままにし、□□□□〔在茲ヵ〕
れ公の仁、斯れ公の慈。法蔵ほうぞう誓ひ有り、がんおう豈にあざむかんや。速かにしょうぼうを迎へ、すべからこんに浴すべし。泥洹ないおん□□□〔衰ヵ〕
ぐん跡を遠ざけ、霊魂永くやすらかならん。因りていたを結び、ここしゅんつつしむ。大いに属寺を集め、法要あまねほどこす。万徳のを持し、□□□〔期ヵ〕
かんあまねそそぎ、ほううん永くれん。五層の浮屠ふと、一石のこうしょうしょうり、功績に見ゆ。れ石朽ちず、せんかぎり無し。

   天明八年戊申三月   賜紫しし沙門しゃもん仰誉聖道謹んで撰す。

*孤魂 弔う人もない魂。

*導師 法会・供養などに、衆僧の首座となって儀式を行う僧。

*法蔵 法蔵菩薩。法蔵比丘とも。衆生を救うという誓願を立てて修行し、ついに阿弥陀如来となった。

*願王 阿弥陀如来のこと。法蔵菩薩が、四十八の誓願を立てて修行し阿弥陀如来になったことに基づく名。

*金池 黄金池のこと。阿弥陀如来の浄土にあるという黄金にかがやく池。『無量寿経』巻上「内外左右有諸浴池(中略)清浄香潔、味如甘露。黄金池者、底白銀沙」に基づく表現。浄土でも特に池(での沐浴)が取り上げられているのは、亡魂が火の熱さに苦しんだことに撰者が思いを致したことによる。

*泥洹 涅槃。

*魔軍 仏道を妨げる煩悩やいっさいの障害。悪魔の軍勢にたとえた表現。

*春祠 春の祭。

*甘露 仏の教え。

*法雲 仏法の雲。仏法を、すべてを覆う雲にたとえた表現。

*五層浮屠 五層の仏塔。ここでは本碑の隣に立つ五輪塔を指す。「焼亡横死百五十人之墓」と刻むので、天明の大火の死亡者の墓塔である。

*一石口碑 文意やや難。口碑には、いくつか解釈がある。その一つに、「みなが口にする賛辞」があり、これで一句の解釈を試みた。

*具瞻 衆人が見上げ尊ぶこと。

*仰誉聖道 浄土宗の僧。この時、清浄華院の住職。在職、天明元年(1781)~寛政4年(1792)。享和元年(1801)没。

画像

全景 供養碑(左)と墓塔(右)
(撮影:’23/01/17)
南面 (撮影日:同上)
西面 (撮影日:同上)
北面 (撮影日:’23/09/02)
東面 (撮影日:’23/09/03)
部分 1 (撮影日:同上)
部分 2 (撮影日:同上)
清浄華院 山門 (撮影日:’23/01/17)

その他

補足

  • すでに、ホームページ「京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都」の「京都のいしぶみデータベース」で翻刻・大意(ただし前半部分のみ)が示されている。判読困難な箇所は、このページを参考にした。
  • 碑文では、特に後半の「銘」において、京都所司代・松平乗完による死者・生存者への仁政の賛辞が目立つ。非業死者に対する供養仏事の開催命令は、死者に対する仁政だとして賛美するのは理解しやすい。しかし、生存者に対しては、「克く経済けいざいならひ」とか、「たくせいみんうるおし」とか、抽象的な表現ばかりで具体的な記述がなく、この碑文だけから理解するのは困難である。実際、どのような政治を行ったのだろうか。また本当に仁政といえるものだったのだろうか。
    そこで他史料により、このころの所司代や、その膝下の京都町奉行の活動を挙げてみる:
    -米穀の買い占めや、高値による販売を禁制
    -材木の高値による販売を禁制
    -大工労賃の高騰の抑制
    -遊女の婚姻斡旋を促す
    上三点は、相応以上の利得を抑制することで、万民の食事・住居の早期充足を目指したものである。これらからは、強いもの・富めるものより、弱いもの・下のものに対する政治的配慮がうかがえる。丹羽にわぶんという儒者はこのころ在京していた。この人は乗完に召し抱えられていて、そのような人の評価ではあるが、「克く庶政を修む。是れを以て災後、人民離散せず、居を営み生(=生業)をやすんずるをぐ」(原文漢文)といい、復興時の民政に関して肯定的な評価をしている。また大火の同年冬に刊行された『ひの用心ようじんはな紅葉もみぢみやこばなし』は、乗完の総合的な評価として「御仁政」と記している。
    したがって、碑文撰者だけでなく、このころ少なからぬ人々が、所司代の火災後の政治を仁政と評価していたことがうかがえる。
  • 天明の大火について言及する「天明年中大災横死諸霊供養塔」は、こちら

参考文献

  • 「松平乗完朝臣の履歴并行事一斑 夢ものがたり并京都町奉行へ申進」(『江戸』15、江戸旧事采訪会、1916年)。
  • 「清浄華院誌要」五十五世聖道大僧正条(『浄土宗全書 第20巻』(浄土宗典刊行会、1931年)361頁)。
  • 『火用心花紅葉都噺』(天明8年(1788)刊、『新撰京都叢書 第10巻』(臨川書店、1985年)所収)。
  • ホームページ「京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都」の「京都のいしぶみデータベース」の「天明大火横死者供養碑 KA063」。

所在地

天明大火死者供養碑

所在
清浄華院|京都府京都市上京区北之辺町

アクセス
京阪 出町柳駅 下車 徒歩
清浄華院 大殿 前

編集履歴

2023年9月20日 公開
2024年3月16日 小修正

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