宝永地震津波 供養塔

宝永地震津波供養塔
概  要

全国的に甚大な被害が出た宝永4年(1707)の大地震・大津波の供養塔。紀伊半島の尾鷲おわせ(三重県)の地に立ち、銘文には、被害の様子や物故者への哀れみの情が記され、追善供養のため仏塔を立てると結ぶ。尾鷲湾は山に囲まれた海峡で、大海に向けて口を広げている。そのため津波が湾内に大量に侵入し、人々は逃げきれず流されたという。屍が山のように積まれ、住人が誰もいなくなったと記し、被害の激しさを語って余りある。七回忌に、尾鷲の僧徒によって造立。尾鷲だけでなく、すべての物故者を供養する。三百年以上を経ているが、太い石柱に大きな字で刻まれた長文からは、地震・津波の恐ろしさだけでなく、遺族の悲しみや追悼の情の深さも知ることができる。

資料名 宝永地震津波 供養塔
年 代 正徳3年(1713)
所 在 馬越まごせ墓地|三重県尾鷲市北浦西町
 北緯34°04’45″ 東経136°11’51”
文化財指定 三重県指定有形文化財(歴史資料)「宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)」
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は碑文内容に基づく。
ID 0021_2311

目次

翻刻

  〇正面(東面)
塚〉界万霊

  〇左側面(南面)
宝永丁亥(四年)冬十月初四日、海路地
大震。有邑山崩圧邑者、有郷波
起漂流村落者。殊鷲邑者、水道
於左右、前面海広、背後山高。故
面競起、而避無方。剋之間

   〇背面(西面)
而男女老幼溺死者、千有餘人。居民
靡有遺、屍積如山矣。嗚呼痛哉、無
霊、乃作下之人。于茲源嵒
上人、憐依之、興縁之慈、立塔
。由是乞銘於余。因為銘曰、
地震動、山崩海揚。怒濤圧邑、廻避

  〇右側面(北面)
無方。男女老幼、流漂大洋。然不返、
者断腸。老立塔、普度群亡。願依
此徳、同登場。
             良源絶嵒立石
 正徳癸巳(三年)孟冬四日    泉師心謹誌

現代語訳

〔1.地震・津波の被害〕
宝永4年(1707)冬10月4日、南海道諸国に大地震があった。山間部の村々の中には、山の崩壊で村全体が押しつぶされてしまったところがあり、海沿い・川沿いの漁村・農村の中には、波が起きて集落が(大海へと)押し流されてしまったところがあった。特に、尾鷲地域では、(尾鷲湾の)海峡が、左右に広がりながら広大な海へとつながり、(海岸の)背後には高い山がそびえている。そのため、いかり狂ったような大波が(陸地から東の方を見て前方および左方・右方の)三方面から競うように押し寄せてきたが、避けられるところなど無かった。その少しの間に、男女を問わず老人・幼児に限らず、千人余りの人が溺死してしまった。住民は少しも残っておらず、山のごとく遺体が積みあがった。無数の衆生がわずかの間に冥途におもむいてしまうとは、ああ、なんと痛ましいことであろう。
〔2.造立の経緯〕
さてりょうげん絶嵒ぜつがんしょうにんは、(冥途をさまよい来世に対して)たよれるものがない霊魂を哀れみ、(悪人も善人も、仏道に帰依していた人もそうでない人も)無差別平等に慈しむ心でもって、(追善供養のための)仏塔を建て(その功徳によって霊魂達を)あまねくさいしようとした。そのため私に銘の作成を請うてきた。よって以下のように銘を作った。
〔3.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
大地が震動し、山はくずれ海はもりあがる。
いかり狂ったような大波が村を押しつぶし、逃げ去るところとてない。
男も女も老いも若きも、押し流されて大海にただよう。
突如として帰らぬ人となり、(生者は海を)眺める    その憂さつらさは、はらわたを断ち切らんばかり。
絶嵒ぜつがん老僧は供養塔を建て、物故者をあまねく済度する。
願わくばこの功徳によって、(死者も生者も)同じく釈尊の悟りの境地に至らんことを。
                良源寺の絶嵒ぜつがんが石を建てた
 正徳3年(1713)10月4日   永泉えいせん寺のしんが謹んで撰した

訓読文・註釈

〔1.地震・津波の被害〕
きょうづか さんがいばんれい
宝永丁亥ひのとのい冬十月初四日、南海なんかいの地、大いに震ふ。山邑さんゆうの、山は崩れむらおさふるもの有り、すいきょうの、波起きて村落をただよひ流す者有り。こと尾鷲おわせむらは、水道を左右に開き、前面に海広く、背後に山高し。故にとう、三面より競ひ起きて、かいするにほう無し。きょうこくかんにして男女老幼の溺死するものせんゆうにんきょみんけつ有るく、屍の積ること山の如し。嗚呼痛ましきかな、無数のしょうりょうすなわせんの人にるとは。


〔2.造立の経緯〕
ここりょうげんがん上人、無依むえおにを憐れみ、えんいつくしみを興し、塔を立てあまねさんとす。これに由りて銘を余に乞ふ。りて銘をして曰く、


〔3.銘〕
大地は震動し、山崩れ海あがる。怒濤邑をおさへ、廻避するに方無し。男女老幼、大洋に流れ漂ふ。きょぜんとして返らず、見者けんじゃ断腸す。がんろう塔を立て、普くぐんぼうを度す。願くは此の徳に依りて、同じくかくじょうに登らんことを。
             良源絶嵒ぜつがん石を立つ
 正徳癸巳みずのとのみもうとう四日    永泉えいせんしん謹んで誌す

*経塚 下記補足参照。

*三界万霊 下記補足参照。

*南海路 南海道。南海道は、紀伊国から土佐国にかけての六か国。尾鷲湾を含む一帯は、近世では紀伊国牟婁(むろ)郡に属す。

*山邑 山村のこと。山間の村。

*水郷 水のほとりにある里。ここでは、津波被害が及ぶ海沿いや(河口近くの)川沿いの集落の意。

*尾鷲邑 尾鷲湾にのぞむ現三重県尾鷲市中心部を指していると見られる。なお、下記補足参照。

*開水道於左右 水道は、海峡。尾鷲市中心部の海岸から東をみると、南北を山に囲まれた尾鷲湾は海峡とみなすことができる。海峡が東に向かって左右に広がり大海につながっている。

*怒濤 いかり狂うような大波。

*三面 解釈やや難。前文で、「水道」=海峡が左右に広がるとあることを参考にすると、海峡が大海と接する部分において、(尾鷲の海岸から東を見て)正面方向と、左および右の方向という意味と見られる。

*廻避 回避。よけさける。

*頃剋 しばらくの間。

*孑遺 わずかに残っているもの。

*生霊 衆生。

*泉下 死後、人の行くというところ。あの世。冥途。

*良源嵒上人 良源寺の絶嵒上人。良源寺は、紀伊国牟婁郡野地村(現尾鷲市野地町)にあった曹洞宗寺院。明治になり他寺に合併。「嵒」は、原文「嵓」に作るが、異体字の「嵒」に統一した。上人は、敬称と思われる。

*無依 たよれるものがないこと。

*鬼 死者の霊魂。

*無縁 すべてのものに対して無差別平等であること。

*度 済度すなわち救うこと。悟りの世界に導き入れること。

*大地震動・・・ 四言詩。韻字、揚・方・洋・腸・亡・場(下平声七陽)。

*遽然 にわかであるさま。突然。

*見者 直訳すると、見る者。「見者歓喜」のように仏典でよく使われる言葉。津波にさらわれた人を思いながら海を見る人という意味だろう。

*嵒老 嵒は、良源寺の絶嵒。老は、尊称。

*覚場 解釈やや難。覚王の場という意味か。覚王は、仏。撰者が禅宗の僧なので、釈尊の悟りの境地と現代語訳した。

*永泉師心 永泉寺の師心という名の僧侶。永泉寺は、紀伊国船津村(現三重県北牟婁郡紀北町船津)の曹洞宗寺院。現存。

画像

全景 (撮影日:’23/10/03。以下同じ)
左側面(南面)
背面(西面)1
背面(西面)2
右側面(北面)
上部
馬越墓地
尾鷲湾(天満浦から南方向に撮影)
尾鷲湾(天満浦から東方向、すなわち沖に向かって撮影)

その他

補足

  • 判読困難な箇所については、平賀1995を参考にした。
  • 石造物の性格について:
    本石造物は、正面に「〈経塚〉三界万霊」と記し、他の面に銘文があり造立経緯を語っている。
    銘文を読むと、「塔」を立てて、だれかれと差別することなく地震・津波の物故者を済度するとある。よって本石造物は(例えば五輪塔・宝篋印塔など)明瞭な塔の造形をとってはいないが、造立者は仏塔として建てたのであって、仏塔建立の功徳により物故者の追善供養をしようとしているわけである。資料名を「供養塔」としたのは、このような理由による。正面の「三界万霊」とは、供養の対象となる、あらゆる物故者の亡霊の意である。
    次に「経塚」について考えてみよう。経塚とは、仏教的作善行為として経典を埋納した場所のことである。正面に「経塚」とあるので、経典を埋納した上にこの石造物を立てたと考えられる。(経典の作成と)埋納の理由は、もちろん物故者の追善供養である。この石造物は、経塚の位置を示す石標でもあるわけである。なお銘文は、経典埋納の経緯について言及していない。
    このように、供養塔と経塚石標の二重の性格があるが、煩わしさを避けるため資料名は単に「供養塔」とした。
  • 銘文中の「尾鷲むら」について:
    近世において尾鷲村という言い方は一般的ではないと思われる。和歌山藩は行政上、現尾鷲市域の諸浦村を尾鷲組としていた。その中には、尾鷲湾一帯の浦村のほかに、須賀すがうら(現尾鷲市須賀利町)やうら(同市九鬼町)をも含んでおり、仮に「尾鷲むら」を尾鷲組と考えると銘文解釈に無理が生じる。他方、尾鷲湾の奥部の諸浦村(現尾鷲市中心部に当たる)を指すと考えるとはるかに自然に全文を解釈できるので、そのように考えた。

参考文献

  • 「天保国絵図紀伊国」(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号特083-0001、冊次0109)。
  • 『尾鷲市史 上巻』(尾鷲市、1969年)131頁ほか。
  • 平賀大蔵ほか「三重県下の海の石碑・石塔 (二) ―津波関係の碑・供養塔―」(『海と人間 海の博物館・年報』23、1995年)15~6頁。

所在地

宝永地震津波 供養塔

所在
馬越墓地|三重県尾鷲市北浦西町

アクセス
JR東海 紀勢本線 尾鷲駅 下車 徒歩
馬越墓地に入って左手に所在

編集履歴

2023年12月12日 公開

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