江戸初期に河川事業に尽力した角倉了以の顕彰碑。伏見の地から洛中まで高瀬川を疎通し舟運が可能になった。洛中洛外の物流が盛んになり京都に経済的利益をもたらしたが、加えて舟運で船主など多くの人達が百年以上渡世し続けられたことも功績だと刻む。幕府は了以の事跡を認め、代々角倉家は高瀬川舟運の支配を委任された。維新で世襲的支配も廃止されたが、同家への旧恩を忘れまいと明治32年(1899)に伏見の船主達によって同地に造立。碑文も言及するように、鉄道敷設が進んでいた。実際舟運は造立の約20年後に廃止。船主達は予想される廃業の未来を見据え、自らの歴史を永遠に残そうとしたか。
資料名 角倉了以翁水利紀功碑
年 代 明治32年(1899)
所 在 濠川沿い|京都市伏見区三栖半町
北緯34°55’48″ 東経135°45’21”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 歴史的人物顕彰
備 考 資料名は題字による。
ID 0024_2312
翻刻
〇オモテ面題字。
角倉了以翁水利紀功碑
京都府知事従三位勲三等内海忠勝書(印影)(印影)
〇ウラ面。
角倉了以翁水利紀功碑
伝曰、太上立徳、其次立功。立徳最難、立功不易。況偉績著当時、利沢施後昆者乎。如
角倉了以翁、其克立功者耶。翁以名門支族洛西富豪、長於経済、尤明水理。相地勢、
測高低、鑿険夸阻、激者漫之、浅者深之、舟揖可遣漕路開通。近時官、追賞其功、賜以
金円曰、疏鑿諸川、投資財、督工事、開水陸運輸之便、以興国家之鴻益。其功績明著
矣。如吾京都高瀬川、是其一也。初豊臣氏之再建大仏也、艱運搬。翁建議、頼水力、以
曳巨材。観者偉之。慶長十六年、更請徳川幕府、開長渠於鴨川。北起二条、南達伏水、
長約弐千七百五拾四丈、広約弐拾壱尺。設閘量水、以制流勢。定綱規、置吏徒、以管
事務。凡運於京都者、関東由逢坂、関西由此渠。逢坂道路険悪、牛斃車敗、運輸甚苦。
此渠、則平川溶溶、深浅有常。舼船百艘、舳艫相銜、耶許之声、数里不絶。出入貨物、山
積阜堆。若一日不通、則京都物価為之騰貴。幕府喜其功、特召延見、専管其事者、殆
三百年。高瀬之利、被於京洛。而角倉氏益栄、居然素封、誠可謂盛矣。維新之初、旧物
悉革。而角倉氏之業亦罷。加之鉄軌交通、運搬益開。而此渠、則依然不廃、伏水舼主
等、相共継其業。仍為京都漕運之咽喉。為之衣食者、亦不下数百人。豈非偉績著当
時、利沢施後昆者耶。於是舼主等、胥謀欲建石於其会所之旧址、以永紀其事、来謁
題及文於予。按、了以当干戈未戢、海内凋弊之秋、深用心於経世公益、以開通水利、
克建此業。而利吾京都者、最多矣。其功豈可没乎哉。舼主等、不以時勢変換、而忘其
旧恩、能成此挙。是亦可嘉矣。故予不敢辞、為題其碑、且作之文。至其世系、及他事業、
則道春先生所撰碑文既備、此不復贅。嗚呼、世之観此碑者、其可以感興矣。
明治三十二年十二月 京都府知事従三位勲三等内海忠勝譔
京都府属山田得多書
京都□□□□彫刻
現代語訳
〔1.角倉了以 不朽の功績〕
角倉了以翁水利紀功碑
伝えるところによると「最も優れた人というのは立派な徳を立てて世に残し、その次に優れた人は立派な功績を挙げて世に残す」という。徳を立てるのは最も難しく、功績を挙げるのは簡単なことではない。成し遂げられたその当時から功績が優れたものとして世の中に顕著に認められ、さらに後世の人々に対しても利便をもたらし続けるというのは、まして簡単ではない。角倉了以翁のような人物は、そのように立派な功績を挙げた人ではないだろうか。翁は、名門の一族として洛西の裕福な家に生まれた。そのため経済活動に長けており、流水の土木工学的知識にとても明るかった。地勢をみはからい、高低を計測し、険しいところを穿ったり掘ったりし、川の流れの激しいところは(川幅を)押し広げ、浅いところは深くし、川舟が上下往来できる流路を開通させた。最近、国はその功績をさかのぼって褒賞し、「諸々の河川を開鑿し、財産を投じて工事を監督し、水上陸上の交通を便利にし、そうして国家に対して多大な利益をもたらした。その功績は著しい」と評して金銭を賜った。
〔2.高瀬川の開鑿〕
我が京都高瀬川は、その一つである。その起こりというのは、豊臣氏が(方広寺)大仏を再建する際、(材木の)運搬は難事業だった。翁は(豊臣氏に)建議して、水力を用いて巨材を引いてきた。これを見ていた人々は、すばらしいことだと感じた。慶長16年(1611)、さらに徳川幕府に請願し、長い運河(=高瀬川)を鴨川(の河原)に開き通した。北は二条から始まり、南は伏見に達した。その長さは約2754丈(約8262メートル)、川幅は約21尺(約6メートル30センチ)である。水門を設け流量を計測しながら水の勢いを制御した。規則を制定し役人を置いてその実務を司らせた。
〔3.舟運による恩恵〕
おおよそ京都へ荷を運送する場合、関東であれば(陸路の)逢坂山を経由し、関西であればこの運河を経由する。逢坂山の道路は、険しく粗悪であって、牛は疲れて倒れ伏し車は破損してしまうほどで、運送は困難を極めた。この運河は、平らかな水が広々と静かに流れ行き、その深さは一定である。百艘もの舟が、船首(へさき)と船尾(とも)が前後触れ合うほど盛んに行き来し、(舟を引っぱる時の)エイヤという掛け声は数里にわたって絶えることがない。洛中に入りまた洛外へと出る貨物は、山のように積まれ岡のごとくうずたかくなっている。もし一日でも舟運が不通になれば、京都の物価は上がってしまう。幕府は、その功績を誉め、特別に召して拝謁を許し、その実務を(角倉氏に)ほぼ三百年にわたり専管させ続けた。高瀬川による利益は、京都洛中に普く及んだのである。だから角倉氏はますます栄え、いながらにして満ち溢れる富を有することになった。
〔4.碑造立の経緯 -伏見船主らの江戸回顧-〕
明治維新に際し、旧物はことごとく改められることになった。そのため角倉氏のこの家業も停止された。さらに鉄道が次々に開通し、いよいよ流通が盛んになってきた。しかしこの運河は依然として廃されず、伏見の船主達はみんなその生業を(江戸時代と変わらず)継続してきた。(伏見の地は)京都舟運で必ず通らなければならない重要な場所だからである。そのため(舟運に関連して)渡世するものは、数百人を下回らない(それほど多いのだ)。(先に言及した)「成し遂げられたその当時から功績が優れたものとして世の中に顕著に認められ、さらに後世の人々に対しても利便をもたらし続ける」とは、このことでないことがあろうか。そこで船主らは相談し、会所の跡地に石を建てこれらの事を永く記し残したいと考え、碑題と文章の作成を私に請願しに来た。考えてみると、了以は、戦乱が未だ止むことなく、天下が疲弊している時に際し、どうすれば世の中がよく治まか、何をすれば多くの人々に利益をもたらすかを心に深く考え、そうして(高瀬川という)新たな水利をもたらし、この生業(=伏見の舟運業)を生み出したのだ。(高瀬川舟運が)我が京都にもたらす利益は実に大きい。その功績は、どうして埋没させてよいことがあろうか。船主らは、時勢が移り変わったにもかかわらず、(了以や角倉家に対する)旧恩を忘れず、この企てに及んだわけである。これまた称賛されるべきことだ。それゆえ私は敢えて辞退せず、碑の題字を書き、さらに碑文を作成した。(了以や角倉一族の)系譜や他の事業については、林羅山先生の作成した碑文に既にしるされているので、ここでは不必要に繰り返さない。ああ、この碑を見る者よ、心に感じ入り奮い立たれんことを。
明治32年(1899)12月
訓読文・註釈
〔1.了以不朽の功績〕
角倉了以翁水利紀功碑
伝へて曰く「太上徳を立て、其の次に功を立つ」と。徳を立つるは最も難く、功を立つるは易からず。況んや偉績の当時に著はれ、利沢の後昆に施す者をや。角倉了以翁の如き、其の克く功を立つる者か。翁、名門の支族、洛西の富豪なるを以て、経済に長け、尤も水理に明らかなり。地勢を相し、高低を測り、険しきを鑿ち阻しきを夸り、激しきは之を漫げ、浅きは之を深くし、舟揖の遣るべき漕路開通す。近時、官、追って其の功を賞し、賜ふに金円を以てして曰く「諸川を疏鑿し、資財を投じて工事を督し、水陸運輸の便を開き、以て国家の鴻益を興す。其の功績、明著なり」と。
〔2.高瀬川の開鑿〕
吾が京都高瀬川の如き、是れ其の一なり。初め豊臣氏の再び大仏を建つるや、運搬を艱くす。翁建議して、水力に頼り、以て巨材を曳く。観る者、之を偉とす。慶長十六年、更に徳川幕府に請ひ、長渠を鴨川に開く。北は二条に起り、南は伏水に達し、長さ約弐千七百五拾四丈、広さ約弐拾壱尺。閘を設け水を量り、以て流勢を制す。綱規を定め、吏徒を置き、以て事務を管らしむ。
*角倉了以 1554~1614。江戸初期の土木事業家。名は光好。京都嵯峨の人。大堰川・富士川・天龍川・高瀬川など諸川の疎通に尽力し舟運を開く。生前、大堰川を見下ろす嵐山に大悲閣千光寺を建てた。遺言により建てられた、儒学者・林羅山撰文の顕彰碑がある。
*紀功 功績をしるす。
*太上立徳、其次立功 古代中国春秋時代において、魯の穆叔が晋の范宣子に対して「不朽」(死んでも朽ちないもの)を尋ねた時、「大(太)上有立徳。其次有立功」(最上の徳をそえた聖人は立派な徳をたてて世に残し、その次の人は立派な功績をあげて世に残す)と答えた(『春秋左氏伝』襄公二十四年条)。
*後昆 後の世の人。
*経済 経済活動のこと。前後との文脈上、「経世済民」を略した「経済」すなわち国を治め民を救済する意味ではないと思われる。
*水理 土木工学における流水の知識。
*相 物事の姿や有様をみて、その実体を判定する。
*夸 掘る。
*金円 金銭。
*鴻益 大きな利益。
*豊臣氏之再建大仏 豊臣秀吉が発願・創建するも損壊してしまった方広寺大仏殿を、子の秀頼が再建したこと。慶長14年(1609)頃から工事が始まり同18年頃に完成。
*開長渠於鴨川 高瀬川を開削したということ。鴨川の河原に運河を通し、それが後世高瀬川と呼ばれるようになったわけである。
*閘 水門。
〔3.舟運による恩恵〕
凡そ京都に運ぶ者は、関東は逢坂に由り、関西は此の渠に由る。逢坂の道路、険悪にして、牛斃れ車敗れ、運輸甚だ苦し。此の渠は、則ち平川溶溶として、深浅常有り。舼船百艘、舳艫相い銜み、耶許の声、数里に絶えず。出入の貨物、山のごとく積まれ阜のごとく堆し。若し一日も通ぜざれば、則ち京都の物価、之が為騰貴す。幕府、其の功を喜みし、特に召して延見し、其の事を専管せしむる者、殆ど三百年。高瀬の利、京洛に被ふ。而して角倉氏益す栄え、居然として素封なること、誠に盛んなりと謂ふべし。
〔4.碑造立の経緯 -伏見船主らの江戸回顧-〕
維新の初め、旧物悉く革る。而して角倉氏の業も亦た罷む。加之鉄軌交も通じ、運搬益す開く。而して此の渠は、則ち依然として廃されず、伏水の舼主等、相い共に其の業を継ぐ。仍ち京都漕運の咽喉為るなり。之が為衣食する者、亦数百人を下らず。豈に「偉績の当時に著はれ、利沢の後昆に施す」者に非ずや。是に於いて舼主等、胥い謀り石を其の会所の旧址に建て、以て永く其の事を紀さんと欲し、来りて題及び文を予に謁ふ。按ずるに、了以、干戈の未だ戢まず、海内凋弊の秋に当りて、深く心を経世公益に用ひ、以て水利を開通し、克く此の業を建つ。而して吾が京都を利するは最も多し。其の功、豈に没すべけんや。舼主等、時勢の変換を以て其の旧恩を忘れず、能く此の挙を成す。是れ亦嘉みすべし。故に予、敢へて辞せず、為に其の碑に題し、且つ之が文を作す。其の世系、及び他の事業に至りては、則ち道春先生撰する所の碑文に既に備はり、此に復た贅せず。嗚呼、世の此の碑を観る者、其れ以て感興すべし。
明治三十二年十二月 京都府知事従三位勲三等内海忠勝譔
京都府属山田得多書
*逢坂 逢坂山。近江大津から京都洛中に入るときに経る山。
*平川 水面が平らかな川という意だろう。
*溶溶 水の広々として静かに流れるさま。
*舼船 版本『羅山林先生文集』巻第四十三に収める「吉田了以碑銘」には、「舼船」という漢字に対して「タカせフ子」との読み仮名がある。高瀬舟(高瀬川舟運に適した構造を持つフネ)のこと。
*舳艫相銜 前の船の艫(とも)と、後ろの船の舳先(へさき)とが触れ合う意で、多くの船が続いて進む様子。
*耶許之声 大勢の人が力を合わせて重い物を動かすときの声。
*延見 呼び寄せて面会すること。
*居然 いながらにして。
*素封 位や領地がなくても諸侯に等しい富を持っていること。
*鉄軌 鉄道。
*伏水 伏見。
*舼主 高瀬舟の船主。
*咽喉 重要な通路。必ず通らなければならない場所。
*衣食 生活を維持してゆくこと。
*凋弊 すたれ衰えること。
*経世 世の中をおさめること。
*道春先生所撰碑文 「*角倉了以」参照。
*感興 感動して奮い立つ。普通「物に感じて興がわく、興味を感じる」を意味するが、恐らくこの意味ではない。
*内海忠勝 1843~1905。明治時代の官僚。長野県、神奈川県、大阪府、京都府などの知事を歴任。
画像







その他
補足
- 碑のややいびつな形は高瀬舟船首を模したものか。
- 副碑に碑造立寄付者を刻む。
- 本資料に関連する弊研究所作成データは下記の通り:
所在地
角倉了以翁水利紀功碑
所在:
濠川沿い|京都府京都市伏見区三栖半町
アクセス:
京阪 中書島駅 下車 徒歩
濠川沿いにあり
編集履歴
2023年12月19日 公開
2024年1月15日 小修正
