江戸時代前期に淀川水系の治水を行った河村瑞賢の顕彰碑。淀川と海を有する大阪は、水運と海運により多くの物資が集散する。そこに経済的利益が生れ街は発展してきた。他方淀川は、古より度々氾濫し水害を及ぼし続けてきた。そこで幕府の命により瑞賢主導のもと、貞享元年(1684)以来治水が行われ著しい成果があった。特に河口域の改変は大々的で、氾濫の温床である河道の屈曲を改め、直線的に開鑿して海につなげ排水を良くした。現在も流れる安治川である。後世漕運に利用され、水害の除去とともに水利が生じた。船から自動車へと運送主体は変化したが、今でも沿岸には運送業・倉庫業等の施設が密集する。明治末に事跡が褒賞され正五位が追贈。功績と追贈を顕彰するため、大正時代、大阪府知事の発意で安治川左岸に建碑された。
資料名 贈正五位河村瑞賢紀功碑
年 代 大正4年(1915)
所 在 安治川 左岸|大阪府大阪市西区安治川
北緯34°40’48″ 東経135°28’20”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 歴史的人物顕彰
備 考 資料名は題字による。正面に題字を、ウラ面に碑文を刻む。
ID 0027_2402
翻刻
〇オモテ面
「贈正五位河村瑞賢紀功碑」
〇ウラ面
贈正五位河村瑞賢紀功碑
大阪、自古為中外通航要津。其地帯淀河、而臨摂海、得舟車運載之便、以収物貨集散之利。所以既庶且富也。然
有利斯有害。水為尤甚。淀河之於大阪、為無窮之利、而氾濫潰決、其害不測。是以、難波奠都、乃鑿堀江。厥後濬治
相踵。而効績尤著者、為貞享治水之役。先是、幕府欲救水患、天和末、派吏巡視河水源、委河村瑞賢従焉。瑞賢、名
義通、称平太夫、以号行江戸市人。有智略、開陳治水事宜、幕府納之、委以河工。瑞賢以謂、施工宜首海口。乃募役
夫、備器具、鑿九条島、以開新流、河口用楗制水。水乃急駛、自無淤塞之虞、而全河沛然注于海。工程有法、二旬告
成。安治川是也。積其所挑之土於南岸、樹松以防波濤、兼表航路。世称瑞賢山。尋設囤与楗於中津川岐頭、均分
二水、以令本流不浅淤。又分土佐堀川之水、以救堂島・曽根崎二川之堙廃。最後治大和川、俊鑿而疏導之。京橋
以西、撤沿岸市廛、令河道深闊。自貞享元年興役四載、而訖功。本支安流、害除利興。事具于新井君美畿内治河
記。後二百餘年、内務省改修淀河。雖或開或廃、而安治川、仍為海口出入之要路。運載集散、永蒙其利、可謂恵沢
久遠矣。明治四十四年、 特旨追褒瑞賢遺功、贈正五位。而大阪未有金石寿世之設。頃者、府知事大久保君利
武、謀於諸有志者、取浚河所獲之石、為立紀功之碑、属予書其事。予観夫海外大都之夸雄富者、概皆在河口、与
我大阪相似。顧其規模、大小不同耳。方今、富国之術、在貿易。而大阪人、固長於商業、又得地之利。宜竭智殫力、争
雄海外。則益講水利、恢廓前功、以資于長計者、豈非後人之責耶。乃書以勧勉云。
大正四年八月 西村時彦撰 伊藤清書
現代語訳
〔1.大阪と淀川の水利水害〕
贈正五位河村瑞賢紀功碑
古より大阪は、国の内外から船舶が往来し交通・商業の面で重要な土地である。その地理は、淀川が流れ摂津の海に面しており、(水運や海運に携わる)船舶や荷車の貨物運送に便利な土地柄のため貨物が集まっては送られ(商業・製造業はじめ運送業や倉庫業などの)利益が生まれる。こんにち既に多くの人が住み街が豊かなのはこうしたわけである。しかし(土地から)利益が生まれれば、害もまた生まれるものである。水はその最たるものだ。淀川は大阪に対して際限なく利益をもたらし続けるが、一方で氾濫して(堤防が)決壊すればその被害は測りがたいものがある。そのため(仁徳天皇は)難波に遷都すると(治水のため都の北に)堀江(という人工河川)を開鑿した。その後、川底を浚う治水工事が相継いだ。
〔2.河村瑞賢の治水(1)〕
そして最も実績があったのは貞享年間(1684~88)の治水工事だった。これより前、幕府は、人々を水害から救おうと考え、天和(1681~84)の末年、官吏を派遣し川の水源を巡視させた際、(これを)河村瑞賢に委任して(官吏達を瑞賢に)従わせた。瑞賢の名は義通、通称は平太夫である。(瑞賢という)号にて江戸で商人をしていた。才知に富み賢く計画を練ることができるので、治水工事の有効性を(幕府に)開陳すると、幕府はこれを納受し、河川工事を委任したわけである。「工事は河口付近を重要視すべきである」と瑞賢は考えた。よって人夫を集め器具を用意し、九条島を掘って新しい流路を開鑿し、河口域ではその水勢を制御するため(河岸に)楗(=竹のしがらみ)を用いた。すると水は(両岸にあふれることなく)急流を保ち、(急流自体が川底を浚うので)自然と堆積や滞留の恐れがなくなり、膨大な流量を保ったまま川水はすべて海に注ぐようになった。工程は理にかなっており、20日で竣功した。これが安治川である。掘って得た土を南の岸に積み上げ、松を植えて波(の侵食)を防ぐとともに航路の目印にした。代々瑞賢山と称している。
〔3.河村瑞賢の治水(2)〕
ついで囤(=蛇籠)と楗を、(淀川とその支流の)中津川との分岐地点に設け、二川(に流れる流量)を均等にし、そうして淀川の本流に泥が堆積して浅くならないようにした。さらに土佐堀川を開鑿して分流させ、そうして堂島川・曽根崎川に流れる水量を減らし泥の堆積で流れが塞がってしまう恐れを除去した。最後に大和川に治水をほどこした。浚ったり掘ったりして滞りなく水が流れるようにした。京橋より西では(淀川の)沿岸の商店を撤去し、河道を深くかつ広くした。貞享元年(1684)より工事を始め4年で竣功した。本流も支流も流れが安定的になり、害は除かれ利が生まれたのである。これらのことは新井白石の『畿内治河記』に詳しい。
〔4.安治川の水利〕
二百年あまり後、内務省は淀川を改修した。(諸河道が)あるいは開鑿されあるいは廃されたが、それでも安治川は、(大阪市街と)海をつなぐ漕運の主要路とされた(だから改変されなかった)。(安治川を通じて)品物が集まっては送られていく。(瑞賢の開鑿以来安治川は)長きにわたって(大阪に)利益をもたらしてきた。(瑞賢の築きあげた)恵みは永遠のものといってよいであろう。
〔5.建碑の経緯〕
明治44年(1911)、天皇の特別なおぼしめしがあり、瑞賢が後世に残した功績を賞して正五位が贈られた。大阪では、これを金石に刻み幾世代にもわたって伝えていこうとする営みは未だなされていない。最近大阪府知事の大久保利武君は、諸々の有志の人達と相談し、川を浚って得られた石に功績を刻み碑を造立しようと企てた。それについての撰文を私に依頼した。私の見るところ、富裕を誇る海外の大都市は、概してみな河口に所在していて我が大阪と似ている。考えてみれば(その河川や港の)規模が大きいか小さいかの違いがあるばかりである。現在は、富国の方途は貿易にある。そして大阪の人はもともと商業に長けており、そのうえ地の利も有しているのである。海外と雌雄を争うには、知恵や力を尽くさなければならない。だからますます水運の有利さを主張し、(瑞賢がなした)前代の功績を広く世の中に広め、そうして遠く未来にまで及ぶ(富国の)はかりごとに資することは、後代の人の責任であろう。だから(私はその責任を全うするため)撰文し、そうして(学問や事業など富国のはかりごとをなせるよう碑の読者を)勧め励ますのである。
訓読文・註釈
〔1.大阪と淀川の水利水害〕
贈正五位河村瑞賢紀功碑
大阪、古より中外通航の要津たり。其の地、淀河を帯びて摂の海に臨み、舟車運載の便を得、以て物貨集散の利を収む。既に庶くして且つ富む所以なり。然るに利有れば斯ち害有り。水は尤も甚しきものたり。淀河の大阪に於けるや、無窮の利を為すも、而も氾濫潰決すれば、其の害測らず。是を以て、難波に奠都して、乃ち堀江を鑿つ。厥の後、濬治相い踵ぐ。
〔2.河村瑞賢の治水(1)〕
而して効績の尤も著るるは、貞享治水の役たり。是れに先んじて、幕府、水患を救はんと欲し、天和の末、吏を派し河の水源を巡視せしむるに、河村瑞賢に委ねて焉に従はしむ。瑞賢、名は義通、平太夫と称し、号を以て江戸の市人に行ぶ。智略有りて、治水の事宜を開陳するに、幕府之を納れ、委ぬるに河工を以てす。瑞賢以謂く「施工、宜しく海口を首とすべし」と。乃ち役夫を募り、器具を備へ、九条島を鑿ち、以て新流を開き、河口に楗を用ひて水を制す。水乃ち急駛し、自から淤塞の虞れ無くして、全河、沛然として海に注ぐ。工程、法有りて、二旬にして告成す。安治川、是れなり。其の挑ぐる所の土を南岸に積み、松を樹ゑ以て波濤を防ぎ、兼ねて航路を表はす。世よ瑞賢山と称す。
*河村瑞賢 1618~99。江戸時代前期の商人、土木・海運業者。伊勢の人。若くして江戸に出、車夫、人夫、漬物屋、人夫頭などをしたのち、材木商、土木請負を始めた。寛文11年(1671)、土木家として幕府に召し出され御家人となり(のち旗本)、東廻航路、西廻航路、金山開発、小笠原島開発、新田開発に従事。碑文も言及する通り、淀川水系の水患を救治するため貞享元年(1684)以降、安治川を開削し、さらに中津川、土佐堀川、堂島川の水量調整工事を行い、大和川の修築工事を行った。
*紀功 功績をしるす。
*中外 大阪の内外と、日本の内外と、文脈上どちらも解釈しうる。後者をとった。
*要津 交通・商業などの面で重要な土地。
*摂海 摂津の海。
*庶 人が多い。
*潰決 決壊。堤防が決壊すること。
*難波奠都、乃鑿堀江 記紀にみえる仁徳天皇の事跡を述べる。即位の後、天皇は難波の高津宮に遷都し、北の大地を掘り川水を引いて海に通じさせ、その人工河川を「堀江」と称した。
*濬治 川底を浚って水利を良くすること。
*効績 功績。
*行江戸市人 市人は、商人。行は、列するの意と思われる。
*事宜 事が適当であること。程よいこと。
*以謂 考えるには。
*楗 新井白石『畿内治河記』の当該部分には「新河(=安治川)接海処、水渙散、而無涯際。因多下竹篠、分挿接樹、以為楗、凡一百八十餘丈。拘制河道、以達于海、俾水勢急駿而自濬深也」とあり、竹でつくった、しがらみを指すと見られる。河岸に構築して川水の侵食を防いだと考えられる。
*急駛 はやく走ること。ここでは水の流れが速いこと。
*淤塞 水底に泥が堆積し水流がふさがる。
*沛然 大きいさま。盛大なさま。
*旬 10日間。
*告成 竣功。
*瑞賢山 防波の役目を果したことから波除山とも。削平されて現存しない。跡が現大阪市港区弁天五丁目にある。
〔3.河村瑞賢の治水(2)〕
尋で囤と楗とを中津川の岐頭に設け、二水を均分し、以て本流をして浅淤せざらしむ。又た土佐堀川の水を分け、以て堂島・曽根崎二川の堙廃するを救ふ。最後に大和川を治し、俊ひ鑿ちて之を疏導す。京橋以西は、沿岸の市廛を撤き、河道をして深闊ならしむ。貞享元年より役を興すこと四載にして功を訖ふ。本支流れを安んじ、害は除かれ利は興る。事、新井君美の畿内治河記に具さなり。
〔4.安治川の水利〕
後二百餘年、内務省、淀河を改修す。或いは開き或いは廃すと雖ども、安治川は、仍ほ海口出入の要路と為す。運載集散し、永く其の利を蒙るは、恵沢の久遠なるものと謂ふべし。
〔5.建碑の経緯〕
明治四十四年、特旨ありて瑞賢の遺功を追褒し、正五位を贈る。而して大阪に未だ金石寿世の設け有らず。頃者、府知事大久保君利武、諸有志者に謀りて、河を浚ひて獲る所の石を取り、紀功の碑を為り立てんとし、予に其の事を書かんを属む。予、夫の海外大都の、雄富に夸る者を観るに、概して皆な河口に在りて、我が大阪と相い似たり。其の規模を顧みるに、大小同じからざるのみ。方今、富国の術は貿易に在り。而も大阪の人、固より商業に長け、又た地の利も得。宜しく智を竭し力を殫し、雄を海外と争ふべし。則ち益す水利を講じ、前功を恢廓し、以て長計に資するは、豈に後人の責に非ずや。乃ち書し以て勧勉すと云ふ。
*囤 新井白石『畿内治河記』の当該部分には「編木多作大囤。(中略)中実以石」とあり、蛇籠(じゃかご)を指すと考えられる。蛇籠とは、中に栗石、砕石などを詰めた、粗く編んだ長円形の竹の籠(現在は鉄線製)。河川の工事で用いる。
*中津川 長柄(ながら)川とも。もと淀川下流の分流の一つ。通称三ッ頭(現大阪市北区)で淀川本流と分れ大阪湾に注いでいた。明治期の淀川改修工事で廃川となった。
*岐頭 分かれめ。
*二水 淀川と中津川。
*浅淤 水が浅く、泥がたまること。
*土佐堀川 大阪市の都心を東から西に流れる河川。大川(旧淀川)の一部をさす。大川は中之島を挟んで北の堂島川と南の土佐堀川に分かれ西流して合体し、安治川と木津川を分流する。
*堂島・曽根崎二川 堂島川は、「*土佐堀川」参照。曽根崎川は、堂島川の北を流れていた川。蜆川(しじみがわ)とも。埋め立てられ現存しない。
*堙廃 川底に泥がつもり塞がってしまう意とみられる。
*大和川 奈良県北部に源を発し、奈良盆地、大阪平野を経て大阪湾に注ぐ川。
*京橋 大阪市の中央区と都島区の境を流れる寝屋川にかかる橋。寝屋川が旧淀川(現大川)に合流するあたりにかかる。
*市廛 まちなかの店。
*新井君美 新井白石(1657~1725)。江戸中期の儒者、政治家。君美(きんみ)は名。
*畿内治河記 新井白石の著作。天和3年(1683)より始まった、幕府による畿内治水事業の顛末を漢文体で述べる。
*特旨 天皇の特別なおぼしめし。
*金石寿世之設 解釈やや難。幾世代も朽ちない金石に文章を刻み、遠く未来へ伝えていこうとする営みという程度の意味と思われる。
*頃者 このごろ。
*大久保君利武 大久保利武(1865~1943)。明治~大正時代の官僚。大久保利通の三男。台湾総督府、内務省に勤務。鳥取県・大分県・埼玉県・大阪府の知事を歴任。
*雄富 豪富。
*勧勉 学問や事業などを勧め励ますこと。
画像




その他
補足
- 判読困難箇所は、『碩園先生遺集 第二』を参考にした。
- 河村瑞賢と同様に治水面で大阪に貢献をなしたとされ、本碑と同時期に建てられた安井道頓の顕彰碑は、こちら。
形状が類似し、建碑発意者、撰文者ともに同じ。
参考文献
- 『碩園先生遺集 第二』(懐徳堂記念会、1936年)四〇~四一丁。
- 『畿内治河記』(『新井白石全集 第三』(国書刊行会、1906年)585~92頁所収)。
所在地
贈正五位河村瑞賢紀功碑 および碑文関連地 地図
所在:
安治川 左岸|大阪府大阪市西区安治川
アクセス:
JR・阪神電鉄 西九条駅 または 大阪メトロ 九条駅 下車
徒歩 約10分
安治川左岸の公道沿いにあり。
編集履歴
2024年2月1日 公開
