明治期に琵琶湖疏水を開通させた北垣国道を顕彰する銘文。琵琶湖疏水は、琵琶湖から京都市街に流れる人工水路。水利の重要性を主張した北垣京都府知事によって推進され、明治23年(1890)に完工(第一疏水)。水力発電、舟運、飲料・工業用水に供され、京都の近代化に大きく貢献した。恩恵を永遠に忘れまいと京都市参事会によって疏水の船溜に銅像が造立され、銘文が台座に刻まれた。
資料名 北垣国道銅像台座銘
年 代 明治35年(1902)
所 在 琵琶湖疏水 夷川船溜(京都市上下水道局疏水事務所敷地内)|京都市左京区聖護院蓮華蔵町
北緯35°00’57″ 東経135°46’33”
文化財指定
資料種別 石碑(銅像台座銘文)
碑文類型 同時代人物顕彰
備 考 当初の銅像は戦中に供出され、戦後新たに鋳造。
ID 0029_2402
翻刻
正三位勲二等男爵北垣国道
君、曩為京都府知事也。主講水
利、広諭都下人士、起琵琶湖疏
水之工自明治十八年八月、至
廿三年四月、告竣。疏鑿三里、導
流一道、而水力之用、運輸之利、
極大矣。於是、衆咸頌其功、胥謀
銅鋳君像、立于水上、以表永遠
懐恵之意云。
明治卅五年八月建 京都市参事会
現代語訳
正三位勲二等男爵の北垣国道君は、かつて京都府知事だった。水路がいかに多くの利益をもたらすかを専ら主張し、広く京都の人々に教えさとした。(そうして)明治18年(1885)8月より琵琶湖疏水の工事を開始し、23年4月に至って竣工した。3里(約12キロメートル)の距離を掘り通し、(琵琶湖の水を)導いて一本の水道に流した。(発電など)水力が役立つ機会や、水運が生み出す利益は、極めて多かった。そのため、(京都の)人々は皆その功績を褒め称え、共に北垣君の銅像を鋳造して水上に立てる運びとなり、いつまでも彼の恩恵に思いを致さんとする意志を表明するのである。
明治35年(1902)8月に建てた 京都市参事会
訓読文・註釈
正三位勲二等男爵北垣国道君、曩に京都府知事為るなり。主に水利を講じ、広く都下人士を諭し、琵琶湖疏水の工を明治十八年八月より起し、廿三年四月に至りて告竣す。三里を疏し鑿ち、一道に導き流し、而して水力の用、運輸の利、極めて大なり。是に於て、衆咸な其の功を頌へ、胥い謀りて君の像を銅鋳し、水上に立て、以て永遠懐恵の意を表すと云ふ。
明治卅五年八月建つ 京都市参事会
*北垣国道 1836~1916。明治時代の官僚。但馬の人。維新後、高知・徳島の県令などを経て、明治14年(1881)京都府知事となる。のち北海道庁長官、枢密顧問官、貴族院議員。
*主 もっぱらの意と見られる。
*人士 (1)地位や教育のある人々、(2)広く、世間のひとびとの両義の可能性があるが、後者をとる。
*琵琶湖疏水 琵琶湖から京都市内へ通じる水路。田辺朔郎 (さくろう) の設計、施工による。第一疏水と第二疏水からなり、本銘文が言及するのが前者で、後者は明治末に着工・完成。舟運、発電、上水道などに供された。現在は浄水供給が主たる機能。
*告竣 竣功。工事が終わる。
*懐恵 恵みを思う。
*京都市参事会 市参事会は、市における市会の補助議決機関。市長・助役および議員の中から選挙される10名の参事会員により組織。昭和22年(1947)廃止。銅像造立当時(明治35年)の京都市長は、内貴甚三郎。
画像
その他
補足
- 北垣像と同時期に京都嵯峨に建造された角倉了以の銅像についてはこちら。
了以は、北垣と同様水利事業に大きな功績を残した近世初期の人物。
所在地
北垣国道銅像台座銘 および関連地 地図
所在:
琵琶湖疏水 夷川船溜(京都市上下水道局疏水事務所敷地内)|京都市左京区聖護院蓮華蔵町
アクセス:
京阪 神宮丸太町駅 下車 徒歩
疏水南岸を東に進むと、対岸の水道局の隣に所在。
編集履歴
2024年2月15日 公開