赤井堤紀念碑  -明治の淀川大洪水と河内茨田郡-

赤井堤紀念碑
概  要

明治18年(1885)の淀川大洪水で損壊した赤井堤の修築を記念する碑。赤井堤は小川の堤で、かつて大阪府の茨田まんだ木屋こや村の北にあった。現在のがわ市と枚方ひらかた市の境界に東西にのび、西端で、南流する淀川の堤防に接続していた。本碑は洪水の翌年、接続地点に建立。この堤の損壊で茨田郡南部域(寝屋川市域)が被害を受けたので、堤近傍諸村を中心とし郡南諸村による資金援助・労働力提供や、ぐんちょうちょうの尽力で修築されたと記す。建立者の明記はなく「同志」とあるばかりだが、内容などから、木屋村を中心として郡南諸村が建立主体と考えられる。郡南部にとり本堤が水害時に重要なこと、官や郡南部の尽力で修築したことを、主張し明示するのが本碑の主眼。てんがくは大阪府知事のごう。建立関係者が、いわばお墨付きを求めたのだろう。堤は現在見る影もないが、史上稀に見る大水害の恐ろしさや防災への営みを正に発生現地で語り続け、災害伝承における本碑の価値は小さくない。

資料名 赤井堤紀念碑
年 代 明治19年(1886)
所 在 淀川左岸 堤防上|大阪府寝屋川市木屋元町
 北緯34°47’28″ 東経135°36’57”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 事業達成(治水)
備 考 資料名は篆額による。上記年代は、撰文の年。
ID 0030_2402

目次

翻刻

「赤井(篆額)堤紀念碑」
赤井堤紀念碑
明治十有八年夏六月、雨弥月、漲。其十七日、田郡伊〔加ヵ〕賀村堤防決者、八十餘歩。茨田・〔讃〕
成三郡尽成浸、漂没舎、父子叫奔〔竄ヵ〕知所措。初堤防之潰也、知事建野君、率土木
課員、視焉、親励人、奔走指揮。二十九日、雨又甚。七月一日、風益加焉。防禦垂成、又壊者、四十餘歩。
氾濫内若江・渋川・住吉諸郡、延及坂、水上〔屋ヵ〕者丈餘。至夜風雨益暴、水量益加。人畜鳴、其惨状不
可勝道。於是、官発舸、救漂溺、又設廬舎、給糧食、具状聞、 勅賜金三千円。内外商、亦争寄贈金穀、
救小民。府知事、又大募役夫、修理堤防、三閲月竣功。屋村之北、有堤防曰赤井、亦潰者二百餘歩、流
失家屋者三十五、良田淤。今歳丙戌(明治十九年)之春、修之。始於一月、竣於四月。其西畔五十歩、係于
岐荘六村之修築。其東若干歩、木屋村修之、而鞆呂岐荘五村亦補之。箇・八箇・大庭・門真・五箇之諸荘、
亦出七百金、助之。堤之西畔、原有水道。以其廃難修、別疏鑿之。先此、郡吏佐〔治ヵ〕則行・〔西ヵ〕尾八〔郎ヵ〕次、
課工役、鼓舞窮民。是以、窮民業省費頗鉅。抑赤井堤、在茨田郡之北、郡南諸荘安危所繋。然災後、窮
民尽失其資産。修之、則費不能支、不修之、則其害有不可測者。我長俣野君、大憂之。乃諭郡南諸荘、補
〔充ヵ〕其費。郡書記脇坂正太郎・長西邨吉三郎、与有力焉。又貸与若干金、以助修築。蓋其〔所ヵ〕費、殆万金云。
嗚呼、修理堤防、賑救窮民、雖世餘沢、令之然、抑自非府知事、子視此民之厚、安得至此乎哉。乃与同
志某某胥議、為建紀念碑、伝其深仁厚沢於□□〔疆云ヵ〕。銘曰、 旱疾疫、必祷鬼神。能済之者、弗負仁人。維
府、慈而能仁。周窮恤溺、沢在四民。
  明治十九年七月   大阪府知事従五位建野郷三篆額     西尾徳太郎撰
「大阪(右側面) 坂田友七鐫」

現代語訳

〔1.淀川の氾濫〕
赤井堤紀念碑
明治18年(1885)6月、ひと月ほども長雨が続き、にわかに淀川がみなぎってきた。17日、まん郡の村の堤防が80歩(約260平方メートル)余り決壊した。茨田郡・讃良ささら郡・ひがしなり郡はことごとく洪水でみたされ、家屋は流されたり沈んだりし、父も子も老いも幼きも泣き叫んで走り逃れ、どこが安全な場所かわからなかった。最初に堤防が決壊した時、大阪府知事建野ごうぞう君は、土木課の職員を率いて駆けつけ(現地を)実検し、自ら住人をはげまし走り回って(現場を)指揮した。29日も激しい雨がふり、これに加えて、7月1日、ますます風が強くなった。(氾濫の)備えがまさに完成しようとしていた矢先、40歩(約130平方メートル)余り、ふたたび決壊してしまった。河内のわか郡・渋川しぶかわ郡・住吉すみよし郡に氾濫し、ついでさらに大阪市街に及び、建物が1丈(約3メートル)余り浸水してしまった。夜になり風雨はますます激しくなり、水量がどんどん増えてきた。人も動物も悲鳴の声をあげた。そんな悲惨な状況を十分に言い尽くすことなどできない。

〔2.府知事の救助・復旧〕
そこで官は小舟をやって漂い溺れる者を救出し、また(被災用の)住居を設け食事を支給し、状況を詳細に記して奏聞すると、天皇の勅があり金3千円が下賜された。国内外の豪商も争って金銭穀物を寄附し人民を救った。府知事も、大々的に人夫を募集して堤防を修理し、3ヶ月を経て竣功した。

〔3.赤井堤の復旧〕
(茨田郡)木屋こや村の北には赤井堤という堤防があるが、これまた200歩(約660平方メートル)余り決壊して、35戸の家屋が流失し、良田は砂と泥に埋もれてしまった。今年ひのえいぬ(明治19年)の春、これを修築した。1月に始まって4月に竣工した。その西側50歩(約170平方メートル)は、ともぎのしょう六村(木屋・こおりたいいし田井たい平池ひらいけ各村)が修築した。その東の若干歩は木屋村が修築し、さらに鞆呂岐荘五村(木屋村以外の五村)もこれを補った。九箇くか八箇はっか大庭おおば門真かどま・五箇の諸荘も700金を拠出し助成した。堤防の西側にはもともと水道があった。くずれ荒れてしまい修理するのが困難なので、別に(新たな水道を)うがち通した。これより先、郡役人の佐治則行、(茨田郡の第十四戸長役場)戸長の西尾八郎次は、工事の遂行を取り仕切り、(工事に関わるよう)困窮住民を励まして奮い立たせた。そのため、困窮民は生業を得て(労賃を取得し)諸々の費用を抑えることができ、その度合いは実に大きかった。そもそも赤井堤は茨田郡の北にあって、郡南部諸村の安危と結びついている。災害の後、困窮住民達はその資産をことごとく失ってしまった。修築を行おうとすれば、その費用を支弁することができず、修築を行わなければ、その被害は測りがたいものがある。我が郡のぐんちょう俣野君は、大いにこのことを憂えていた。だから郡南諸村に言い聞かせて納得させ、その費用を補ってもらった。郡書記の脇坂正太郎、(茨田郡の第十三戸長役場)戸長の西邨にしむら(西村)吉三郎は、ともにこのことに尽力するところがあった。さらに金若干を貸与して修築を助成した。(貸与され)費用に充当された額は、恐らくほぼ金1万円に及ぶという。

〔4.府知事の仁徳と建碑の経緯〕
ああ、堤防が修理され困窮民が救われたことは、天皇が世の中を清らかに治めておりその恩恵が及んだためである。しかし、このようになったそもそものわけは、府知事が、自身の赤子のように(いつくしみの心で)深く人民を見ようとしなかったとしたら、今のこのような状況にどうして至ることができただろうか。だから同志の人々とともに相談しあい、記念碑を造り建て、その深い仁(おもいやり)のこころと厚い恩沢を永遠に伝えようと思うのである。銘(詩)にいわく、

〔5.銘〕
  〇以下初句および押韻の次句に改行。
洪水、日照り、疫病    (起こらないよう、ひどくならないよう、未然に我々は)必ず鬼神に祈る。
(しかし起こってしまったあと)こんな状況を救えるのは、仁にもとる人であるはずがない。
ああ府知事よ、いつくしみとよく思いやるこころ。
行き詰まる者を救い困難におちいった者にあわれみのこころを持ち、いかなる民にもその恩恵は及ぶ。
 明治19年(1886)7月

訓読文・註釈

〔1.淀川の氾濫〕
赤井堤紀念碑
明治十ゆう八年夏六月、りん月をわたり、よどがわぼうちょうす。其の十七日、まん村の堤防の潰決かいけつすること、八十餘。茨田・讃良ささらひがしなり三郡、ことごと巨浸きょしんと成り、しゃひょうぼつし、父子老弱、ごうきょうほんざんして、く所を知らず。初めて堤防のついゆるや、府知事たて君、土木課員をひきゐ、馳せてこれみずかじんはげまし、奔走指揮す。二十九日も、雨又はなはだし。七月一日、風ますます焉にくわはる。防禦のるになんなんとするに、又やぶるること、四十餘歩。河内のわか渋川しぶかわ住吉すみよし諸郡に氾濫するを経て、びて大坂に及び、水の屋に上ることじょう餘り。夜に至り風雨益すあらく、水量益す加はる。人畜めいし、其の惨状、あげふべからず。

〔2.府知事の救助・復旧〕
ここに於いて、官、けいを発し、ひょうできするものを救ひ、又廬舎を設け、りょうしょくを給し、状をつぶさにしてぶんするに、勅して金三千円をたまふ。内外のしんしょうも、また争ひて金穀を寄贈し、しょうみんしんきゅうす。府知事も、又大いにえきつのり、堤防を修理し、三たび月をけみして竣功す。

〔3.赤井堤の復旧〕
木屋こや村の北に、堤防の赤井と曰ふもの有りて、亦ついゆること二百餘歩、家屋を流失すること三十五えん、良田はおちいりて沙淤さよる。今歳こんさいひのえいぬの春、之を修す。一月に始まり、四月におわる。其の西せいはん五十歩は、ともぎのしょう六村の修築にかかる。其の東の若干歩は、木屋村、之を修し、しかも鞆呂岐荘五村も亦之におぎなふ。九箇くか八箇はっか大庭おおば門真かどま・五箇の諸荘も、亦七百金をいだし、之を助く。堤の西畔に、もと水道有り。其の頽廃たいはいして修し難きを以て、別に之をとおうがつ。これに先んじて、郡吏佐治則行・戸長西尾八郎次、工役をとくし、きゅうみん鼓舞こぶす。ここを以て、窮民のなりわいを得てついえをはぶくことすこぶおおし。そもそも赤井堤は、茨田郡の北に在りて、郡南諸荘の安危のつながる所なり。しかるに災後、窮民、尽く其の資産を失ふ。之を修すれば、則ちついするあたはず、之を修せざれば、則ち其の害、測るべからざるもの有り。我がぐんちょう俣野君、大いに之を憂ふ。乃ち郡南諸荘を諭し、其の費えを補充せしむ。郡書記脇坂正太郎・戸長西邨にしむら吉三郎、ともに焉につとむること有り。又若干金を貸与し、以て修築を助く。けだし其の費やす所、ほとんど万金と云ふ。

〔4.府知事の仁徳と建碑の経緯〕
嗚呼、堤防を修理し、窮民を賑救するは、せいせいたくいえども、之をしてしからしむるは、そもそも府知事の、せきのごとく此の民を視ることこれ厚きに非ざるよりは、いずくんぞここに至るを得んや。乃ち同志某某と与にい議し、紀念碑をつくり建て、其の深仁厚沢こうたくきょうに伝ふと云ふ。銘に曰く、

〔5.銘〕
  〇以下初句および押韻の次句に改行。
すいかんしつえき、必ず鬼神にいのる。
く之をすくものは、仁にそむく人し。
めいにして能くじんたり。
きわまるものをすくおぼるるものをうれへ、たくみんに在り。
  明治十九年七月   大阪府知事従五位たてごうぞうてんがく     西尾徳太郎せん
「大阪(右側面) 坂田友七る」

*霖雨 ながあめ。

*澱川 淀川。

*暴漲 にわかに水がみなぎること。

*茨田郡伊加賀村 茨田郡は、河内国(大阪府)の西北部にあった郡。現枚方市の南西部、寝屋川市の西部、大東市の西部、大阪市鶴見区の東部、門真・守口両市の全域にあたる。伊加賀村は、現大阪府枚方市伊加賀本町などに相当。

*潰決 決壊。

*讃良 讃良郡は、河内国(大阪府)にあった郡。現寝屋川市の東部、四條畷市の全域、大東市の東部などにあたる。

*東成 東成郡は、摂津国(大阪府)にあった郡。現大阪市の東成区などにあたる。

*巨浸 非常に多量の水。

*廬舎 住居。

*老弱 老人と子ども。

*号叫奔竄 号叫は、泣き叫ぶこと。奔竄は、走りのがれる。

*不知所措 どこに身を安んずればよいかわからない、との文意と見られる。

*府知事建野 大阪府知事の建野郷三(1841~1908)。幕末~明治時代の武士、官僚、実業家。豊前小倉藩藩士。

*馳 かけつける。

*土人 土着の人。

*経 語義やや難。現代語訳は試案。

*河内若江・渋川・住吉諸郡 若江は、河内国(大阪府)にあった郡。現東大阪市の東部、八尾市の中部にあたる。渋川は、河内(大阪府)にあった郡。現大阪市の東部、東大阪市の西部、八尾市の西部にあたる。住吉は、摂津国(大阪府)にあった郡。現大阪市住吉区などにあたる。

*大坂 大阪の近世における表記は「大坂」だが、石碑建立当時の公的な表記は「大阪」が支配的だったと思われる。

*悲鳴 驚いた時や恐ろしい時などに高く声を上げること。

*軽舸 小船。

*以聞 奏上する。

*紳商 りっぱな商人。豪商。

*賑救 施し物をして、災害、貧困などから救うこと。

*木屋村 大阪府茨田郡に属していた村。碑文作成当時(明治19年)、茨田郡・交野郡・讃良郡三郡内の153ヶ町村は、三郡連合の枚方郡役所に統轄され、計36の戸長役場(こちょうやくば)にまとめられていた。同村および点野(しめの)村・太間(たいま)村・石津(いしづ)村の計4村は、第十四戸長役場が担当。現大阪府寝屋川市木屋元町などに相当。

*煙 戸数をかぞえるのに用いる。

*陥 うずまる。

*沙淤 沙と泥。

*鞆呂岐荘六村 中世の皇室領荘園・鞆呂岐荘に淵源を持つ6村で、木屋村のほか郡・太間・石津・田井・平池各村のこと。淀川中流域左岸に位置。当時茨田郡に所属。6村すべて現大阪府寝屋川市内に相当し、それぞれ木屋元町・郡元町・太間町・石津元町・田井町・平池町の付近。

*九箇・八箇・大庭・門真・五箇之諸荘 九箇荘(九個荘・九ヶ所とも)は、茨田郡の地域呼称。碑文作成当時(明治19年)は、黒原村(第十戸長役場の所轄)・高柳村・神田村・大利村(第十二戸長役場)・仁和寺村・対馬江村・葛原村・池田村(第十三戸長役場)・点野村(第十四戸長役場)の9村のあたり。現大阪府寝屋川市内の黒原旭町・高柳・下神田町・大利町・仁和寺本町・対馬江西町・葛原・池田旭町・点野の近辺に相当。この9村は、明治22年の町村制施行にともない、「九個荘村」となった。八箇荘(または八箇所)は、茨田郡の地域呼称。碑文作成当時は、三ツ島村のあたり。現大阪府門真市三ツ島の近辺。大庭荘は、茨田郡の地域呼称。碑文作成当時は、大庭一番村などに当たると思われる。現大阪府守口市大庭町の近辺。門真荘は、茨田郡の地域呼称。碑文作成当時は、門真一番上村などにあたる。現大阪府門真市に相当。五箇荘は未詳。

*頽廃 くずれ荒れること。

*戸長西尾八郎次 木屋村などを管轄する第十四戸長役場(「*木屋村」参照)の戸長。西尾八郎次は、同村の人(『寝屋川市誌』)。

*督課 課役の遂行を取り締る。

*得業省費 文意やや難。生業による収入を得て、生活費の支出を抑えることができたとの文意と見られる。

*郡長俣野君 茨田・交野・讃良三郡を統轄する枚方郡役所の郡長・俣野景孝。

*戸長西邨吉三郎 枚方郡役所(「*木屋村」参照)の所轄で、仁和寺(にわじ)村・対馬江(つしまえ)村・葛原(くずはら)村・池田村の計4村を担当する第十三戸長役場の戸長・西村吉三郎。4村すべて茨田郡内。それぞれ現大阪府寝屋川市仁和寺本町・対馬江西町・葛原・池田の付近に相当。

*清世 清らかによく治まっている世。太平の世。

*赤子 あかご。

*無疆 永遠。

*水旱疾疫・・・ 四言詩。韻字、神・人・仁・民(上平声十一真)。

*明府 地方長官の敬称。ここでは大阪府知事。

*西尾徳太郎 木屋村の人。碑文にある通り、明治19年当時、同村を管轄する第十四戸長役場(「*木屋村」参照)の戸長は西尾八郎次という人物だった。西尾徳太郎は、翌20年に戸長だったことが知られる(『寝屋川市誌』)。

画像

全景 (撮影日:’23/02/08。以下同じ)
全景
オモテ面
篆額
右側面
碑正面から淀川堤防を望む

その他

補足

  • 赤井堤が強固なら、その南側は水害を防ぎやすい一方で、北側は逆に排水が困難になる。このように南北両地域は、排水や水利の面で利害が相反し、江戸時代より対立することがあった。本碑を理解する上では、この点をご留意下さい。
  • 明治18年淀川洪水について記した「澱河洪水紀念碑銘」は、こちら

参考文献

  • 井上正雄『大阪府全志 巻之四』(大阪府全志発行所、1922年)1176~7頁、1087~8頁。
  • 東光治編『河内九個荘村郷土誌』(九個荘村、1937年)186~7頁、227頁。
  • 『門真町史』(門真町、1962年)30頁。
  • 『寝屋川市誌』(寝屋川市、1966年)407~8頁、476頁、479~80頁。
  • 淀川百年史編集委員会編『淀川百年史』(建設省近畿地方建設局、1974年)1770~1頁。
  • 寺前治一編『寝屋川を歩く』(寝屋川市教育委員会、1985年)101~2頁、128~9頁。

所在地

赤井堤紀念碑 および碑文関連地 地図

所在
淀川左岸 堤防上|大阪府寝屋川市木屋元町

アクセス
京阪 光善寺駅 下車
国道1号線を南下し、交差点「木屋元町」を右折
西へ進むと淀川の堤防上にあり

編集履歴

2024年2月27日 公開

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