

明治24年(1891)愛知県西部などに甚大な被害をもたらした濃尾地震の記念碑。中島郡西島村(現稲沢市)の恵日寺境内にひっそりと立ち、震災の恐ろしさや村人の被害を記す。建立主体は同村の人々であろう。碑面には篆額と漢詩を刻み、一見すると正格な漢文石碑かと思われる。しかし漢詩は規格から外れた擬漢詩で、しかも和歌と和文識語をも刻んでおり、特異な構成の碑文。撰者は、震災に「感泣」する余り文才の「拙さ」を顧みず「法外」の文章を成したといい、碑を遺そうとする切実さが読み取れる。文章全体に前途への期待は読み取れず、むしろ悲愴感に満ちており、詩歌による短い文章表現は、その情感をより強く読者に訴えかけてくる。
資料名 震災紀念碑
年 代 明治25年(1882)
所 在 恵日寺 境内|愛知県稲沢市西島
北緯35°15’24″ 東経136°44’43”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0043_2406
翻刻
「震災紀念碑」
于茲明治、 二十四載。 晩秋十月、 二十八日。
午前六時、 天地震動。 瞬時之間、 家倒人斃。
惨状言絶、 尾濃両国。 倒家幾万、 死者無数。
当邨即死、 男女十一。 嗚呼々々、 桑滄前度、
三□現見。 をそろしきなゐに残りし人も猶
残りなき世にのこる石ふみ
右は法外之文をかきて、感泣乃餘り□つたなさを顧みす、
識すものなり。 明治廿五年二月日 龍華□餘□人
〇ウラ面に発起人・取締人などの名前を刻む(省略)。
現代語訳
〔1.擬漢詩〕
震災紀念碑
ここに明治の、24年。
晩秋10月の、28日。
午前6時、天地が震れ動く。
一瞬の間に、家は倒れ人は死ぬ。
尾張・美濃の両国は、言語道断の惨状。
倒れた家屋は幾万棟、亡くなった人は数知れず。
当村(西島村)での死亡者は、男女11人。
ああ、桑畑が大海と変じるほどの大地変が過ぎ去ると、世界が壊滅に向かうかのように災いが現に起こっている。
〔2.和歌〕
恐ろしい地震に生き残った人達ですらも、いつかは亡くなって世の中に残ることはない。それでもこの石碑は(震災を記録したものとして)残り続けていくことよ。
〔3.識語〕
右に書いた文(漢詩)は規格からはずれたものであるが、(震災の悲惨さに対し)感涙にむせぶあまり、我が(文才の)拙さを顧みずこのようなものを記したのである。
明治25年(1892)2月日
訓読文・註釈
〇前半の漢文は、およそ二句ごとに改行した。
〇後半の和文は、読みやすさのため適宜改変しルビを振った。
〔1.擬漢詩〕
震災紀念碑
茲に明治、二十四載。
晩秋十月、二十八日。
午前六時、天地震れ動く。
瞬時の間、家倒れ人斃る。
惨状言に絶す、尾濃の両国。
倒れし家幾万、死ぬる者数ふる無し。
当邨の即ち死ぬるもの、男女十一。
嗚呼々々、桑滄前に度ぎ、三災現に見ゆ。
〔2.和歌〕
恐ろしき地震に残りし人もなお
残りなき世に残る碑
〔3.識語〕
右は法外の文をかきて、感泣の餘り我が拙さを顧みず、
識すものなり。 明治廿五年二月日 龍華夢餘老人
*尾濃 尾張国と美濃国。当時の愛知県と岐阜県。
*当邨即死 当邨は当村。本碑の所在する愛知県中嶋郡西島村(現稲沢市)。即死は、「即座に死ぬ」という意味にもとり得るが、ここでは「即ち死ぬるもの」と訓読し、本地震により直接的間接的に亡くなった人々を指すと解釈した。
*桑滄前度 桑滄は、「桑滄之変」すなわち桑畑が大海と変じるような世の中の激しい変化。ここでは大地震による地割れや液状化現象、家屋倒壊などの自然・人工物の激変を指すらしい。前度の解釈やや難。後句との対応から、現代語訳のように解釈した。
*三災現見 三災は、仏教的世界観による語。世界が壊滅する劫末(ごうまつ)のときに起こるという3つの災害。要するに、大地震の後に起きた、火災や疫病、飢饉などの災いを指すのだろう。現見は、今現在起こっている。
*なゐ 地震。
*石ふみ 石碑。この石碑を指す。
*法外之文 規格外の文章。碑文前半部は四言詩のように見えるが、押韻されていないので厳密な意味で漢詩とは言えない。
*感泣 深く心を動かされて泣くこと。
画像







その他
補足
- 特になし。
参考文献
- 特になし。
所在地
震災紀念碑 地図
所在:
恵日寺 境内|愛知県稲沢市西島
アクセス:
名鉄 尾西線 山崎駅 下車 徒歩 約15分
恵日寺境内に入り薬師堂を見て左手方向にあり。
編集履歴
2024年6月18日 公開
