

明治5年(1872)、浜田(現島根県浜田市)を襲った大地震の記念碑。復興を遂げた約20年後、被害の激しかった牛市地区の人々により同地に造立。家屋倒壊や火災による人畜・財産被害の甚大さを、具体的な数字を挙げて述べる。孤児・寡婦となった人や、家族が全滅した家もあるという。一郷悲しみで泣き叫んだとの記述は、強く読者の心を打ち誇張とは思わせない。後半で長老の見解を引用し、この地に地震が多いことや、中でも当該地震は特に惨かったこと、上下震動で家屋が倒壊したこと、地震前の自然現象などを列記し、減災啓発の意図がある。儒学を修めた撰者の文体は整っており、文学的な美しさを保ちつつも文飾は抑え、簡明な言葉で淡々と記す。より多くの読者に恐怖と警戒の心を起こさせようとの配慮があるらしい。「天変地異は必ず起こる。平常の生活でも天災を忘れず、準備を怠るな」というのが本碑の根本的主張であり、当地に限らず永遠不変の教訓。
資料名 震災紀念之碑
年 代 明治29年(1896)
所 在 浜田川左岸 相生橋の袂|島根県浜田市牛市町
北緯34°53’58″ 東経132°05’03”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は題字による。
ID 0047_2407
翻刻
「震災紀念之碑」
玄黄之変、何時乎不無焉。蓋要平生之備耳。明治五年二月六日、
地大震。浜田市街、地裂家倒、加之祝融四起、人畜死傷。繁華之区、
一日為墟。如我牛市、最為劇甚。戸数八十有三、或顛覆、或焼亡、其
残留者、僅三戸。人口三百有餘、或圧死、或火傷死者、四十有二名。
傷者、百有餘名。有死別之鰥、有生訣之寡、有亡親之孤、有失子之
独。甚則有一門絶滅之家。一閭之人、悲鳴哀号。住無地、居無家。幾
多之生命与財産、共帰烏有。父老曰、浜田之地、古来多地震。近之、
則有安政元年十一月五日、及六年九月九日之災。当是時、棟傾
#落、人人避難於野外。然而、明治五年之災、最惨尤劇。是日、曇天
無風、午後有微震、至日暮、而俄然大震、家屋忽倒。蓋如上下動者。
災後尚有微震、数月不止。前年之冬、井水涸、大雪降、東北之海上、
有赤気瀰天。今也、家屋櫛比、居民安堵、既無惨劇之跡。可謂能奏
回復之効。居治而不忘乱、在平生而不遺災異者、其庶幾乎。
明治二十九年二月
「#者、庇之刻誤也」
〇ウラ面
明治五□之災、距今二十有五年。某等、有所感、協本碑建設之
議。□尽微力、而漸見竣功。撰文者、大岡哲氏、□之者、永生□忠
氏、建之者、牛市人民也。
発起者 (人名省略)
「本記念碑移転竣功 主□□ (人名略)
大正十四年十一月 」
※「#」字は、まだれ「广」に「弘」。
現代語訳
〔1.浜田の大震災〕
震災紀念之碑
天地の変災が起こらずにいないのは、一体どれほどの時間の長さであろうか(それは永遠ではないし、必ず相応の時を経て変災は起こる)。(だから人間にできるのは)常日頃から(災害への)準備を求めていくことだけであろう。明治5年(1872)2月6日、大地が激しく震動した。浜田の町では、地割れが起こり家屋が倒壊した。そればかりか、火災がいたるところで発生し人や動物が死傷した。繁華な地域が一日で廃墟となってしまったのである。我が牛市のようなところは(その被害が)極めて大きかった。83ある戸は、あるものは倒壊しあるものは焼失し、(無傷で)残ったのは僅かに3戸だけだった。人口は300人余りいたが、そのうち圧死あるいは火事が原因で亡くなったものは42名、負傷者は100名余りいた。ある者は夫と死に別れて寡婦となり、ある者は生きながら(家族と)別れて独り者の弱者となり、ある幼な子は両親を亡くして孤独な身となり、ある老親は子を失って孤独な存在となってしまった。甚だしいものに至っては、家族が全滅してしまった家もある。村中の人々が悲鳴を上げ、死を悲しんで泣き叫んだ。家を建てようと思っても(地割れなどで)その土地もなく、住もうと思ってもその家も無い。(人間や動物の)生命も財産も、いったいどれほど灰塵に帰してしまったのだろうか。
〔2.過去との比較 -父老の言-〕
村の長老は言う。
「浜田の地は昔から地震が多い。近い時期でいえば、安政元年(1854)11月5日、および6年(1859)9月9日に震災があった。当時、棟木が傾き庇が落下し、人々は野外に難を避けた。そして明治5年の震災は、最も残酷で特に激しいものがあった。この日は曇天で風が吹かず、午後に微震動があり、日が暮れるに及び突如として大震動が起き、家屋はすぐさま倒れてしまった。(震動は)恐らく上下に動いていたようだった。大震災の後も微小な地震(余震)が数ヶ月止まなかった。その前年の冬、井戸水が涸れ大雪が降ったし、東北の海上では、空が赤色に染まったことがあった」。
〔3.未来への提言〕
今や、櫛の歯のように家屋は立ち並び、住人は安住の場所を得て最早惨害の跡形もない。復興事業はうまくいったと言って良いだろう。治安が保たれている時には、(非常時に備え)乱世(の恐ろしさ)を忘れず、(それと同じように)平常の時においては、非常の大災害を忘れないようにする そう切に望むことよ。
明治29年(1896)2月
〔4.建碑の経緯〕
〇ウラ面
明治5年の災害は、今をさかのぼること25年。我々(発起者)は心に思うところがあって、石碑の建設を協議した。少しではあるが微力をつくし、ようやく竣功が叶った。文章の作成は大岡哲氏、文を書いたのは永生万忠氏、これを造立したのは牛市の人々である。
訓読文・註釈
〔1.浜田の大震災〕
震災紀念之碑
玄黄の変、何時か無きことあらざらん。蓋し平生の備へを要むるのみ。明治五年二月六日、地大いに震ふ。浜田の市街、地裂け家倒れ、加之祝融四に起り、人畜死傷す。繁華の区、一日にして墟と為る。我が牛市の如き、最も劇甚たり。戸数八十有三、或いは顛覆し、或いは焼亡し、其の残留するは、僅かに三戸。人口三百有餘、或いは圧死し、或いは火に傷死する者、四十有二名。傷つく者、百有餘名。死別の鰥有り、生訣の寡有り、亡親の孤有り、失子の独有り。甚しきは則ち一門絶滅の家有り。一閭の人、悲鳴哀号す。住せんに地無く、居せんに家無し。幾多の生命と財産とや、共に烏有に帰す。
〔2.過去との比較 -父老の言-〕
父老曰く、「浜田の地、古より地震多し。之に近くあれば、則ち安政元年十一月五日、及び六年九月九日の災有り。是の時に当たりて、棟傾き庇落ち、人人難を野外に避く。然り而して、明治五年の災、最も惨く尤も劇し。是の日、曇天にして風無く、午後に微震有り、日暮に至りて、俄然として大いに震へ、家屋忽ち倒る。蓋し上下に動く者の如し。災後、尚ほ微震有りて、数月止まず。前年の冬、井水涸れ、大雪降り、東北の海上に、赤気の天に瀰る有り」と。
〔3.未来への提言〕
今や、家屋櫛比し、居民安堵して、既に惨劇の跡無し。能く回復の効を奏すと謂ふべし。治に居して乱を忘れず、平生に在りて災異を遺れざるは、其れ庶幾ふかな。
明治二十九年二月
〔4.建碑の経緯〕
〇ウラ面
明治五年の災、今を距つること二十有五年。某等、感ずる所有りて、本碑建設の議を協す。聊か微力を尽し、而して漸く竣功を見たり。文を撰するは、大岡哲氏、之を書するは、永生万忠氏、之を建つるは、牛市の人民なり。
*玄黄 天地。
*何時乎不無焉 文意は「(天災は)いつかは起こる」となるはずだが、訓読と文意との接続が難しい。原文と書写文・刻字文との間であるいは齟齬があるか。
*浜田 島根県西部に位置する町(現浜田市)。石見国浜田藩の城下町だった。碑文作成当時(1896年)の行政区画は島根県那賀郡浜田町あたり。
*祝融 火事。
*区 その地域。
*牛市 島根県那賀郡浜田町(当時)の一地名。現浜田市黒川町。
*劇甚 非常に激しいこと。
*火傷死 複数の訓読・解釈の可能性があるが、ここでは火事によって傷つき亡くなること。
*死別之鰥 以下「失子之独」までの列挙は、地震によって家族を失い経済的な弱者にならざるを得なかった人を指すと考える。鰥には「やもめ」と「やもお」の二義あるが、ここでは前者すなわち夫と死別した妻。後者すなわち妻と死別した夫も、地震が生み出した憐れむべき存在だが、前者の方がはるかに弱者である。
*生訣之寡 生訣は、生き別れ。寡は、独り者の弱者。例えば、夫や親が地震で仕事を失い他所に移らざるを得なくなったために残された妻や幼子を指すと考えられる。
*亡親之孤 両親を失った幼い子供。
*失子之独 働き手の子を失った老親。
*一門 家族。
*一閭 村落中。
*哀号 人の死を悲しんで泣き叫ぶこと。
*烏有 火災で滅びる。
*父老曰 父老は、年取った男子の敬称。老翁。父老の発言は、「有赤気瀰天」まで続くと考えた。ここでは維新前の地震と比較しつつ明治五年地震について述べていて、これは年長者でないと難しいと考えられるからである。
*最惨尤劇 形容の二字「惨劇」を、「最」と「尤」とを付け加えることでより強調したもの。「最」は、最上に。「尤」は、特に。撰者は「惨劇」を、通用の意味「悲惨なできごと」で使っていない。というのは「劇」は「演劇」の「劇」ではなく激しいの意で、ここでの「惨劇」は、すさまじく悲惨なさま。
*蓋如上下動者 震動の向きについて述べたものと考えられる。
*櫛比 くしの歯のように、すきまなく並ぶこと。
*安堵 堵(カキ)の内に安んじて居るように、その土地に安心して住むこと。
*惨劇 「*最惨尤劇」参照。
*大岡哲 大岡盤谷(1846~1921)。儒学者。父は石見国津和野藩の家老大岡平助。藩校養老館ついで長州藩の明倫館に学び、帰国後藩校の教員となる。維新後は中学校などの教員となるも、病弱のため帰郷し悠々自適の生活を送りつつ子弟を養育。栄達を求めなかったという。
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その他
補足
- 本資料は『随筆 石見物語』『浜田市誌』に収載され、拓本が『写真集はまだ』に掲載されている。判読困難な箇所はこれらを参考とした。
参考文献
- 木村晩翠『随筆 石見物語』(島根評論社、1932年)198頁。
- 『浜田市誌 下』(浜田市、1973年)269~70頁。
- 『写真集はまだ』(浜田市、1982年)125頁。
- 「大岡盤谷墓」(谷口廻瀾『島根儒林伝』(1940年)61~2頁)。
所在地
震災紀念之碑 地図
所在:
浜田川左岸 相生橋の袂|島根県浜田市牛市町
アクセス:
JR 山陰本線 浜田駅 下車 徒歩 約20分
浜田川左岸の相生橋の袂にあり。ここで山陰本線が交差する。
編集履歴
2024年7月3日 公開
2024年8月30日 小修正
