

大正7年(1918)に新潟県の三俣村で起きた雪崩被害の記念碑。三俣村(現南魚沼郡湯沢町)は県南部の山間集落である。その冬は風雪ともに激しく、1月9日夜、突然巨大な雪崩が発生し、一村をほとんど埋めてしまう。村の勇士達による命がけの峠越えで諸方より人々が駆け付け、三昼夜、不眠不休の救助活動がなされた。遭難者180名のうち、助かったのは僅か22名。遺体は、村の川岸で荼毘に付され、その光景は実に凄惨だったという。郡長と村長を発起人とし、同年に建碑。雪崩の起きた山に向かって立つ。人命の救助や、義捐金などの救済活動を事細かに記しており、彼らへの謝恩が建碑の主目的だろう。石碑背面にびっしりと刻まれる150以上もの男女人名はその犠牲者に違いなく、彼らを忘れまいとする強い意思が感ぜられる。
資料名 雪災紀念碑
年 代 大正7年(1918)
所 在 公道脇|新潟県南魚沼郡湯沢町三俣
北緯36°53’52″ 東経138°46’39”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0048_2407
翻刻
「雪災紀念碑」
陸軍軍医総監正三位勲一等功三級男爵石黒忠悳篆額
新潟県南魚沼郡三俣村、越南之一蕭村也。大正七年一月、降雪連日、風
伯逞威、人心恟恟。九日夜半、前之平山巓数十丈堆雪、俄然崩落、殆埋没
一村。村民驚愕、欲告急求救、風雪狂暴、寸歩不能出。時有数箇壮漢決起、
蹈険徹夜、漸至芝原、依電話機、報急於湯沢。湯沢、伝之郡衙。市橋郡長与
楯山署長相議、更報之県庁、且促全郡青年団・在郷軍人団、並消防隊、急
遽出動。於是、遠近呼応、各負米携醤把鋤相踵至者、二千有餘。隣郡小千
谷警察署、亦依県命、遠来援之。時正寒気、在氷点下二十度。積雪氷結、堅
如石。衆協力発掘、不眠不息、実三昼夜也。当時、恰当水力電気工事各従
業者、亦大尽力。至十二日午後、事全了矣。倒壊、人家二十六、校舎一、土蔵
四、荘庫一、炊場一。半壊、人家二。遭難人員、一百八十。就中、免死僅二十二
人而已。所発掘死屍、悉列清津河岸、一炬付荼毘。其状凄又惨。日本赤十
字社新潟支部、亦派救護班、加療傷病者数日。事達 天聴、特下賜内帑
金三百五十円救恤。県知事渡辺氏、亦支出救護費一千百餘円、使県官
視察弔慰。加之、魚沼十日町、越佐・北越各新聞社、及郡中各町村競募義
財、以充弔慰与復旧之資。又本郡人士在京者、胥謀設救済会、為募義捐。
是等金額約迄一万三千円云。而吾各宗寺院、亦各修法要、弔霊薦福、無
所不咸尽。嗚呼、世之同情、噏然到此、何其深厚也。亡者可以瞑、存者可以
慰。今也、莅建碑、嘱銘于予。乃銘曰、
越之為国、 以雪名揚。 嗚呼雪也、 豊年嘉祥。 何事今歳、
戊午正陽。 大雪流害、 埋没辺郷。 家倒人亡、 満目荒涼。
如何善後、 唯要自強。 天命在我、 宜転慶殃。
大正七年十一月
禅臨済宗円覚寺派管長大教正釈宗演撰
従七位勲八等武田□書
〇側面
発起者
南魚沼郡長 市橋長治殿
三俣村長代理 山柴長太郎
世話人
(人名省略)
石工
(人名省略)
〇ウラ面
(一五〇名以上の男女人名省略)
現代語訳
〔1.連日の大雪と雪崩〕
雪災紀念碑
新潟県南魚沼郡三俣村は、越後南部にある寂しげな一村落である。大正7年(1918)の1月、雪が幾日も降り続き、風神の勢いの盛んなせいか強風が吹き荒れ、人々は恐れおののきびくびくしていた。9日の真夜中、前の平の山頂まで数十丈(30メートル以上)も積もった雪が突如として崩落し、この村をほとんど埋めてしまった。村民の驚きは尋常ではなく、危急を告げ救助を要請しようとしたが、荒れ狂う風雪のためほんの少しも歩いて出ていくことができなかった。
〔2.救援要請の峠越え〕
その時、固く意を決した屈強な男達数人がいた。彼らは難所を冒し夜通し進んでやっと芝原に到着し、電話機を使って緊急事態であることを湯沢に報じた。湯沢はこれを(六日町にある)南魚沼郡の郡役所に伝達した。市橋郡長は(六日町警察署の)楯山署長と相談して、さらに県庁に報告し、加えて一郡中の青年団・在郷軍人団および消防隊にすぐさま出動するよう促した。
〔3.三昼夜の救助活動〕
すると、人々は遠近呼応して各々米を背負い味噌を携え鋤を手に持ち相次いで到着した。その数、2千人余り。隣郡(北魚沼郡)小千谷警察署も県命を受け遠くより来村して救助活動を行った。その時の空気はとても冷たく、氷点下20度であった。降り積もった雪は凍りつき、石のように固くなっていた。皆が力を合わせて不眠不休の掘り起こし作業を続け、それは実に三昼夜にも及んだ。当時まさに(湯沢発電所の)水力電気工事がなされており、その各従業者も大いに力を尽くしてくれた。12日午後にいたり、作業は全て終わった。
〔4.清津川の荼毘〕
倒壊した建物は、人家26、校舎1、土蔵4、村の倉庫1、炊事場1。半壊は、人家2。遭難者、180人。その内、死を免れたのは僅かに22人のみ。掘り起こした遺体は、ことごとく清津川の岸に並べられ、そして一本のたいまつの火が燃え広がって荼毘に付された。その様子は、痛ましく、そして見るに耐えないものだった。
〔5.諸方からの救済〕
日本赤十字社新潟支部も救護班を派遣し、数日のあいだ負傷者・病人の治療を行った。事態は天皇のお耳に入ることとなり、特別に皇室財産から350円が下賜され(被災者の)救済に当てられた。県知事渡辺氏も救護費1100円余りを(県の財源から)支出し、県職員を派遣して視察させるとともに、弔慰すなわち死者をとむらい遺族を慰めさせた。こういったことに加えて、中魚沼郡の十日町や、越佐新報社・北越新報社および郡中各町村は、競って義捐金を募り、弔慰と復旧の費用に充当させた。また本郡出身の在京者は、相談して救済会を設立し、救済のための義捐金を応募した。これらの金額は、約1万3千円に及ぶという。そして我々各宗寺院もそれぞれ法要を執り行い、みな真心を込めて亡霊を弔い福徳をたてまつった。ああ、(被災者・犠牲者救済の)気持ちを同じくする世の人々が、吸い寄せられるように各地からここに到った (その心の)なんと深く厚いことであろうか。亡くなった人々は、(僧侶の追善供養により)安らかにあの世に行けるだろうし、生き残った人々は、(励まされたりして義捐金をもらったりして)心が慰められるであろう。今や、碑を建てるに当たり、銘文の作成を私に求めてきた。銘は以下の通りである。
〔6.銘〕
〇以下原則として押韻ごとに改行。
越後の国は、雪によりその名が知れわたる。
ああ雪よ、それは豊作の瑞相。
今年は何事ぞ、戊午の年のその正月。
大雪が害を降り流し、この辺境を埋めしは。
家は倒れ人は滅び、見渡す限りに荒れはてる。
未来に向けてどうすればよいのだろう。ただただ自ら努力することが必要ぞ。
天命(天罰)は我々に下った。(徳行や善行を積み重ね)災いを転じて幸いをもたらそう。
大正7年11月
訓読文・註釈
〔1.連日の大雪と雪崩〕
雪災紀念碑
陸軍軍医総監正三位勲一等功三級男爵石黒忠悳篆額
新潟県南魚沼郡三俣村は、越南の一蕭村なり。大正七年一月、降雪日を連ね、風伯威を逞うし、人心恟恟たり。九日夜半、前の平山巓数十丈の堆雪、俄然として崩落し、殆ど一村を埋没す。村民驚愕し、急を告げ救ひを求めんと欲するも、風雪狂暴なれば、寸歩も出づる能はず。
〔2.救援要請の峠越え〕
時に数箇壮漢の決起する有り、険を蹈み夜を徹し、漸く芝原に至り、電話機に依りて、急を湯沢に報ず。湯沢、之を郡衙に伝ふ。市橋郡長、楯山署長と与に相い議し、更に之を県庁に報じ、且つ全郡の青年団・在郷軍人団、並びに消防隊に促して、急遽に出動せしむ。
〔3.三昼夜の救助活動〕
是に於いて、遠近呼応し、各の米を負ひ醤を携へ鋤を把り相い踵ぎて至る者、二千有餘。隣郡小千谷警察署も亦た県命に依り、遠来して之を援く。時に正に寒気、氷点下二十度に在り。積雪氷結し、堅きこと石の如し。衆、力を協せて発掘し、眠らず息はざること、実に三昼夜なり。当時、恰も水力電気工事に当り各従業者も亦た大いに力を尽す。十二日午後に至り、事全て了りぬ。
〔4.清津川の荼毘〕
倒壊せしは、人家二十六、校舎一、土蔵四、荘庫一、炊場一。半壊せしは、人家二。遭難人員、一百八十。就中、死を免るるは僅かに二十二人のみ。発掘する所の死屍、悉く清津の河岸に列べ、一炬荼毘に付す。其の状、凄にして又た惨たり。
〔5.諸方からの救済〕
日本赤十字社新潟支部も亦た救護班を派し、傷病者を加療すること数日なり。事、天聴に達し、特に内帑金三百五十円を下賜し救恤せしむ。県知事渡辺氏も亦た救護費一千百餘円を支出し、県官を使して視察弔慰せしむ。加之、魚沼十日町、越佐・北越各新聞社、及び郡中各町村、競ひて義財を募り、以て弔慰と復旧との資に充つ。又た本郡人士の在京する者、胥い謀りて救済会を設け、為に義捐を募る。是等の金額、約一万三千円に迄ると云ふ。而して吾が各宗寺院も亦た各の法要を修し、霊を弔ひ福を薦めて、咸な尽さざる所無し。嗚呼、世の情を同じくするものの、噏然として此に到ること、何ぞ其の深厚なるや。亡者、以て瞑るべく、存者、以て慰むべし。今や、碑を建るに莅み、銘を予に嘱む。乃ち銘に曰く、
〔6.銘〕
〇以下原則として押韻ごとに改行。
越の国為く、雪を以て名を揚ぐ。
嗚呼雪や、豊年の嘉祥。
何事か今歳、戊午の正陽。
大雪害を流し、辺郷を埋没す。
家倒れ人亡び、満目荒涼たり。
如何ぞ善後せん、唯だ自ら強むるを要す。
天命我に在り、宜しく慶に殃を転ずべし。
大正七年十一月
禅臨済宗円覚寺派管長大教正釈宗演撰
従七位勲八等武田□書
*石黒忠悳 1845~1941。軍医。陸奥の人。江戸の医学所に学び、軍医総監、日本赤十字社社長などを歴任。
*南魚沼郡三俣村 信濃川支流の清津川上流の村。現南魚沼郡湯沢町三俣。
*越南 越後の南。
*蕭村 ものさびしい村。
*風伯 風の神。
*恟恟 恐れおののくさま。
*前之平山巓 前之平は、三俣村集落東方の斜面(石碑脇の湯沢町設置案内板より)。山巓は、山の頂。
*数箇壮漢 数箇は、数人。壮漢は、強く勇ましい男。
*芝原 新潟県南魚沼郡神立(かんだつ)村(当時)の一集落。現新潟県南魚沼郡湯沢町神立のバス停「芝原」付近。三俣から芝原に行くには、芝原峠という峠を越える必要がある。現在は芝原トンネル(昭和37年(1962)竣功)が通じる。
*湯沢 新潟県南魚沼郡湯沢村(当時)。現同郡湯沢町。
*郡衙 南魚沼郡の郡役所。当時は六日町(むいかまち、現南魚沼市六日町)に所在。
*市橋郡長 南魚沼郡長の市橋長治。任期は大正4年(1915)から同12年。
*楯山署長 六日町警察署長の楯山新太郎。同署所在地の六日町は、「*郡衙」参照。任期は大正6年(1917)2月から同7年7月。
*醤 味噌を指すと見られる。
*相踵 相次いで。
*隣郡小千谷警察署 新潟県北魚沼郡小地谷町(当時)に所在。現新潟県小千谷市。
*氷結 凍りつくこと。
*水力電気工事 湯沢発電所の造設にともなう水力発電工事のこと。同所は湯沢村(当時)にあり、山上を流れる清津川から水を取水・流水して発電し、近くを流れる魚野川に放水する。大正11年(1922)完成、翌年運用開始。現在も東京電力により稼働(所在地は湯沢町湯沢)。
*荘庫 語義未詳。ひとまず村落共有の倉庫と考え現代語訳を行った。
*炊場 語義未詳。
*清津河岸 清津川の河岸。同川は三俣村集落の西を流れる。
*内帑金 皇室の財産。
*県知事渡辺氏 渡辺勝三郎(1872~1940)。明治~昭和時代の官僚。徳島、新潟、長崎各県の知事を歴任。
*弔慰 死者をとむらい、遺族を慰めること。
*魚沼十日町 中魚沼郡十日町(現十日町市)、北魚沼郡小出町の十日町(現魚沼市十日町)、南魚沼郡塩沢町の上十日町(現南魚沼市上十日町)の3の可能性があるが、1番目をとる。
*越佐・北越各新聞社 越佐新報社と北越新報社。ともに新潟県内の新聞社。
*人士 二義あり、(1)地位や教育のある人々、(2)世間の人々のどちらの可能性もあるが、後者をとる。
*薦福 仏教法会で得られた福徳を亡者にたてまつる。
*噏然 噏には、吸うという意味があるので、噏然とは吸い寄せられるさまを指すと考えられる。
*深厚 恩徳、情などが深く厚いこと。
*瞑 目をとじる。
*越之為国・・・ 四言詩。韻字、揚・祥・陽・郷・亡・涼・強・殃(下平声七陽)。
*名揚 押韻の必要上「揚名」を転置。名をあげること。
*雪也豊年嘉祥 豊年は、豊作。嘉祥は、めでたいしるし。瑞相。冬に大雪がある年は、豊作となるとの俗信があった(『万宝鄙事記』など)。
*正陽 正月の意と見られる。
*辺郷 都から遠く離れた土地。
*善後 あとのために良いようにすること。
*唯要自強 自ら努め行なうこと。『礼記』学記第十八「知困、然後能自強也」に基づく表現と見られる。
*天命在我 天命すなわち天罰が我々に下ったと解釈した。別の解釈の可能性もある。
*転慶殃 「転殃慶」(災いを幸いに転じる)と記した方が文脈上適当だが、ここでは押韻の都合上、「殃慶」を「慶殃」と転置している。
*釈宗演 1859~1919。明治・大正時代の臨済宗僧侶。若狭の人。慶応義塾に学び、のちセイロンに留学。帰国して円覚寺・建長寺の管長となる。
画像











伊米神社参道より眺める
その他
補足
- 本碑文は、撰者の詩文集『楞伽漫録』に「雪害碑記」として収載されている(但し異同あり)。
参考文献
- 釈宗演『楞伽漫録 巻五』(楞伽会、1920年)第十丁。
- 『南魚沼郡誌 続編 上巻』(新潟県魚沼郡町村会、1971年)18~9頁。
- 『南魚沼郡誌 続編 下巻』(新潟県魚沼郡町村会、1971年)「南魚沼郡の郷土年表」その四の一。
- 新潟県警察本部編『警察風土記』(新潟県警察本部教養課、1978年)247~9頁。
- 新潟日報事業社出版部編『写真集ふるさとの百年 南魚沼』(新潟日報事業社、1981年)186頁。
- 新潟日報事業社出版部編『図解 にいがた歴史散歩 長岡』(新潟日報事業社出版部、1983年)152~3頁。
- 『康煕字典』口部十二画「嗡」の項(『康煕字典』(吉川弘文館、1909年)151頁)。
- 貝原益軒『万宝鄙事記』巻之六(益軒会編『益軒全集 巻一』(益軒全集刊行部、1910年)388頁)。
- 今野円輔『檜枝岐民俗誌』(刀江書院、1951年)84頁。
- 『礼記』学記第十八(『新釈漢文大系 第28巻 礼記中』(明治書院、1975年)543頁)。
所在地
雪災紀念碑 および碑文関連地 地図
所在:
公道脇|新潟県南魚沼郡湯沢町三俣
アクセス:
JR 上越線・上越新幹線 越後湯沢駅 下車
南越後観光バスに乗り換え、「道の駅みつまた前」駅下車
南の方に徒歩約15分 公道右方にあり。
仏像・墓など石造物群の一つ。
編集履歴
2024年7月11日 公開
2024年8月30日 小修正
