

戦国乱世を戦い抜き筑前福岡藩の祖となった黒田如水(孝高、官兵衛)の墓碑銘。
如水はもと播磨姫路の一土豪である。若き日に学問への執着を捨て、領地自衛のため武人として生きる決心をした。織田信長との出会いを経て、豊臣秀吉の指揮のもとに播磨・中国・九州・朝鮮と転戦して武勲を重ねた。関ケ原合戦で徳川家康に忠節を尽くし、筑前に封ぜられた息・長政に跡を譲って、最終的に参禅と学芸の世界へと退く。そんな波乱に満ち満ちた生涯が、三千字超の長文で刻まれている。
慶長9年(1604)、家臣や領民を慈しめとの言葉を長政に遺し逝去。筑前の禅寺・崇福寺に葬られた。その名誉ある人生を石に刻んで永遠に残そうと、同年に碑文の作成が長政から禅僧に依頼され、撰述された。崇福寺に立つ本碑は如水の墓石であり、撰文から遠くない時期に造立されたと考えられている。全体的に黒みがかった巨大な石は、その特徴的な形とあいまって、一目見れば誰しも忘れ難く、戦乱を乗り越え大身と成った人物に、いかにも似つかわしい。
撰者の景轍玄蘇は臨済宗系の禅僧。対馬を拠点とし朝鮮や明との外交交渉に従事してきた。そのような人物だけあって、和漢の故事や漢詩を踏まえた記述が随所になされており、文体は殊に風格がある。同時に、地の文と会話文を織り交ぜた文章はリズミカルで小気味良い。末尾の漢詩は、詠まれることの稀な七言排律で、二十句も連ねていながら表現上の無理は見られず、如水の生涯が高らかに歌い上げられている。注目すべきは、如水が、筑前大宰府に縁の深い菅原道真=天神の化身だという部分で、本碑文の主眼の一つといえよう。
碑文の作成は没後数ヶ月しか経ておらず、遺言内容など、史料として確度の高い部分もある。一方で、如水が多年に渡って帰依し、心の拠り所となったと想像されるキリスト教については、一言だにも触れていない。造立者・撰者の、意図的で選択的な記述が成されていることは注意が必要。平和の到来した17世紀前半に造立された戦国大名の漢文顕彰碑の内、最初期に成されたもので、我が国の石碑文化を考える上でも貴重である。
資料名 龍光院殿如水円清大居士碑
年 代 慶長9年(1604)
所 在 崇福寺 福岡藩主黒田家墓所|福岡県福岡市博多区千代
北緯33°36’22″ 東経130°24’48”
文化財指定 福岡市指定史跡「福岡藩主黒田家墓所(崇福寺)」(平成8年3月25日指定)所在
資料種別 石碑
銘文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は本文題による。年代は、碑文作成時。
ID 0050_2408
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〇第一面
龍光院殿如水円清大居士碑并序
居士、播州飾東郡人。姓源。父濃州刺史識隆。累代城于播州姫路。居士、生于天文十五年丙午冬十一月二十九日。雲下蓋屋、見者
僉曰、「慶雲甘露、天之瑞也。決是家門繁興先兆也」。七歳而父俾居士入寺学書。性不愛紙筆、只愛射御。十四歳而喪母。其慟哭者、超
越他人。孝子十七八歳之頃、専愛和歌之道。上自三代集、下至八代集。此外、更及□氏物語・伊勢物語・諸家歌集等、有欲通習之志。
傍有教僧号円満坊。謂曰、「今也国属艱虞、首戈比干。我邑去敵軍者、不過三四里。方乎此時、抛兵書愛歌集、孰為之当乎。若或未獲
止、請□魏曹瞞、鞍馬間造文、往往横槊賦詩之例。徒勤聚蛍映雪、□月吟花者、甚不可也。先束閣之、且待止戈之日則如何」。於是中
道而廃矣。永禄十二年己巳、赤松下野前司出帥囲姫路。居士対陣青山、一戦決勝。敵兵隕首者、三千餘輩也。居士威名勇功、自此
而顕矣。天正元年癸酉、贈左府織田信長、以畿内五六州置彀中、播州以西未属麾下。居士以謂、「熟聞左府為人、日本果帰掌握。不
如先出講礼」。秋七月入京。左府喜気溢眉、面話移刻。及辞京、左府密謂曰、「他日我伐中国、必以居士為先鋒如何」。居士、謹聞命、云訖
退矣。三年乙亥、中国戎卒、屯陣于播之英賀。居士出対陣、敵兵不当其鋒而敗矣。左府、以手書感之。翌年丙子、左府以羽柴筑前刺
史秀吉為将、欲伐播。街談巷説紛紛盈耳。秋九月、居士密通秀吉。秀吉不堪喜躍、書誓詞報曰、「自今以往、我与汝為異姓兄弟。請其
莫違焉」。冬十一月果伐播。居士為其先鋒、攻佐用城、城主兄弟刎首。死于居士之手者、其数不足勝記焉。秀吉、献捷於左府、左府又
感其忠以手書。翌日、囲上月城。中国出援兵三千餘騎、向別処右金吾之陣。居士見之、不獲忍、手自合鋒立刎首者孔韙矣。秀吉即
賜太刀一柄・活馬一疋及金鞍・玉勒、附諸縁具、以賞其忠。古人所謂賞不越其時、想是意、在茲乎。秀吉莞尓謂諸将曰、「若欲得重賞、
励勇功、猶如居士」云々。翌年丁丑夏四月、中国及紀伊・淡路精兵八千餘員、戮力攻播之別府城。秀吉聞之、命居士、率援兵五百餘
人、密入城中。少焉、敵兵八千餘、排闥為噲等伍、其鋒不可当。居士手戟叩楯下令曰、「運在天。勿敢退。乃是古之格言也。思旃、思旃」。其
声未絶、闘戦二三次、全身汗流漿、衆口気吐烟、依俙香象王截流、彷彿金獅子鼓牙。其勢不言以可知矣。敵兵難支、悉退散。隕首者、
〇第二面
七十餘人也。左府及秀吉、共以書感功。六年戊寅秋九月、荒木接州刺史叛。秀吉遣居士告曰、「勿憚改其過」。荒木不及致報、却留居士
不放帰。惟時嗣子長政、為質子在左府。居士親族会議、謂父識隆曰、「令子在荒木。令孫在左府。棄孫歟。棄子歟」。識隆曰、「孫也、親族相
議、質于左府。子也、使于荒木。其留之者、是荒木之非也。我争棄孫以与叛党乎」。親族嘆曰、「是義也」。翌年己卯冬十月、居士幸而脱出
来有岡。吁識隆賢慮之遠者、可喜焉、可尚焉。十年壬午、秀吉奉左府命、攻備中高松城。城堅而難容易潰。故環城皆築長堤。其高者、
益出于城之上。国中洪河細流、引帰長堤、雖涓滴不漏泄、堅城果没水、人皆成魚。可憐生、可憐生。左府命明智曰、「汝等成亜将、与先
□秀吉相議。俾中国帰吾掌握則可也」。明智不赴中国、却自丹波入京師、弑左府自立。禍起自蕭墻内者歟。此事飛報秀吉。秀吉招
居士謂曰、「此事若漏敵、必乗勢、吾軍難支。如之何而可乎」。居士曰、「只乞和之外、別有何奇策乎」。秀吉以居士之言、講和定界。如漢楚
剖鴻溝而帰矣。明智屯陣於山崎、待秀吉帰。秀吉以居士為先鋒、向山崎。僉曰、「天下安危、只在此一戦而已」。明智終敗矣。十二年甲
申、秀吉復畿内。而中国猶有餘殃。居士振蘇張之舌、止蛮触之戦。五畿・中国致枕泰山安者、是居士智力之所及也。十四年丙戌、秀
吉有欲合海西八九州之志、俾居士率中国勇兵三万餘騎征海西。冬十月、到豊前、陥小倉津・宇留津両城、死于鋒鏑之下者、二千
餘人也。秀吉感之以書。然後、攻障子岳城、囲香春岳城、城主高橋降矣。餘勇所及、筑前・筑後・肥前・肥後、皆竪降旗臣服矣。十五年丁
亥、秀吉自征薩摩。分軍南北、北軍路歴肥後、南軍路過日向。居士在南軍。於日向耳河、与薩兵合鋒、薩兵取敗。不幾而薩州太守嶋
津降矣。秀吉嘆曰、「今度海西八九州帰吾一握者、是出自居士方寸」。賞其忠以豊前国。寔栄莫栄焉。十七年己丑、居士譲国於嗣子
□政、而侍秀吉左右執事。譬如韓淮陰在沛公、言聴計用。夏五月任勾勘、是亦華也。十八年庚寅、秀吉東征囲小田原城数月不下。
果以居士智計、北条退城伏誅。六十六州一其統、生民呼万歳。文禄元年壬辰、秀吉征朝鮮国。遣三将為先鋒、嗣子長政亦其一員
也。居士亦相追超海。小西接州前司行長、逢人蔵行。居士指其短、行長不聴。居士却回、白秀吉言、「行長真執拗夫。而不従他言。其軍
〇第三面
□□□□」。果如居士之言。二年癸巳、秀吉賜旌旗於居士、命曰、「汝代我到朝鮮。出令於諸軍可也」。居士因是再超海。其軍忠不可勝
□□。秀吉以博陸之職譲秀次。仍称秀吉謂太閤。居士時時諫博陸曰、「庶幾、殿下、代大閤、伐朝鮮。殿下過海、号令必厳。々則凱旋不
可有日」。殿下不納諫。居士咨嗟曰、「殿下、恐失職」。居士之言、果如合符也。慶長三年戊戌、大閤薨矣。内府家康受遺命、輔佐幼主秀頼。
爰有石田礼部三成。運陰謀、欲奪内府権。居士密通内府、倮三成蟄居江州佐和山。五年庚子、三成終叛。濃州以西五畿・中国・四国・
九国皆□三成。三成屡次雖勧居士、於義不聴。惟時内府在東武江戸。長政亦従後東矣。秋九月、居士卒一万騎兵、赴豊後立石、一
戦生擒大友義統、誅戮其党兵。安喜・富来両城聞其勢、脱甲□絃以降矣。居士唱凱歌、帰豊前、陥小倉城、又赴筑後、囲柳川城、々主
立花統虎降矣。昔以三寸舌下斉七十城者、可併按也。十五日、内府家康上京、於濃州一戦、擒三成、諸国復旧。長政以有軍忠、改豊
前任筑前。□是築城号福岡。可謂有惟父有惟子。冬十一月、居士携義統入京。内府先問以九州戦闘次第。居士逐一答之。内府不
堪□□、謂曰、「必奏 朝転位」。居士跪曰、「我已老矣。富貴非願。不如帰去。生烟霞痼疾、発泉石膏肓、陪僧話於幽竹之院、颺茶烟於
落花之風。誦唐詩、詠倭歌、逍遙自適、是亦帰後之賜也」。内府家康聞此言曰、「処今行古者、除居士外、又誰乎。至矣、玄矣」。先是教僧曰、
「待止戈之日」。言不浪施。希有々々。六年辛丑、扣大徳寺三玄院、闚祖師向上巳鼻。七年壬寅、退休筑前。蓋以長政為其太守也。紫府
天満宮及観世音寺、最先修之。神也、昌泰四年辛酉、左迁太宰府都督、奮□之餘、裁䟽祈天、為威徳天神。威験日新者、猶如月来花
弄□。梅千里而飛、松一夜而老。其霊威不暇枚挙也。至若托蝶魂、参龍淵、探得頷下珠、光明奪目。世曰神、乃観自在応化也。梵曰補
□落、乃観音所住也。唐言小白梅花。然則神之所在不可無梅。梅之不遠千里而飛来者、有以哉。元・明巨儒渉此事。而天錫有観音
寺裏一声鐘之吟、洪□有一夜飛香度海雲之詠。異域猶尓。何矧於吾朝乎。児童走率、皆知可敬之。居士・太守、共取信者、非無其理
也。自此資始、于筥陽、于志嶋、百廃具興。時哉時哉。以紫府崇福禅寺、徙筥陽松間、□請大徳禅寺雲英大和尚、開堂演法、聳動衆聴。
古人云、「王者徳出山陵、則慶雲出」。雲英、乃是居士慶雲也。太守、継創龍光禅院。龍吟雲興、而符于居士初生、慶雲蓋屋之懸□。八年
□□、以慈嶋隘狭、旅客不便繫□、是故築石累。土無一□之止、終広洪其地者、三町餘也。爾来、官□・商□往還、攘風波之難。九年甲
〇第四面
□春三月、居士臥病。向長政遺訓曰、「死期必在念日辰刻。我没後、請愛士撫民、挙直措枉、慈孤弱、憐貧賤、親賢疎佞。則何追福加焉
□」。□□詠一首和歌。其□未絶、端然逝矣。□五十又九也。太守、如法葬□。□心皆不違居士遺訓。可謂孝矣。承聞、「太守侍居士病床、
憂労不交睫、不解衣。湯薬非太□口所嘗、弗進」。睠、夫曽参以布衣猶難之。今太守親以長者修之。過曽参孝遠矣。一日、差使於対府
□□□曰、「頃日、□石為居士碑。願和尚書銘以賜。則録碑伝之不朽」。予以謂、「大凡吾朝豪家、喪㛈妣者、以建寺度僧、刻木留像、□至
孝尓。今也、太守非啻建寺度僧、銘碑以欲流其芳於百世。孝于惟孝者、高出所聞也。古云、『忠臣必出孝子門』。因是観之、太守寔吾朝
一忠臣、而不愧漢三傑者也」。予結生縁於筑前、蔵姓名於対府、年久于茲矣。而況近来病多学廃、視□硯猶如禿奴視木櫛。雖然若
拒太守命、恐似忘本貫。是以不能峻拒。綴卑辞遺之、使歌以祀居士。其辞曰、
百戦□中□第一、 黄金只合鋳斯人。 黒田苗裔是称首、 紫府菅君即現身。 千里飛梅真面目、
□□佳□更精神。 曽聞累代居姫路、 何料比年隣姪浜。 □恵移家他猛士、 忘躬為国幾忠臣。
□□孔孟世間行、 慕藺唐虞風俗淳。 造化小児俄犯枕、 本州太守泣沾巾。 至誠所施孝惟孝、
□命勿□民我民。 筆下留歌辞焔部、 牌前呑気哭蒼旻。 伝々父子不伝妙、 斲石為碑輪扁輪。
慶長第九暦龍集甲辰端午前一日
大□□□聖皇帝 特賜日本本光禅師前聖福兼高源景轍老衲玄蘇謹書焉
現代語訳
〔1.若年〕
龍光院殿如水円清大居士碑
居士(黒田孝高、官兵衛、如水)は播磨国飾東郡の人である。姓は源、父は美濃守識隆で、代々播磨国姫路に城を構えてきた。居士は天文15年(1546)冬11月29日に生まれた。(その時)雲がおり下ってきて家屋を覆ってしまったが、これを見た者は皆、
「慶雲(めでたい雲)や甘露(甘い水)は、天の下したお目出たいしるしである。これはきっと家が繁栄する前兆であろう」
と言った。7歳の時、父は居士を寺に入れて書を学ばせたが、紙や筆に見向きもしない性格で、ただ弓術・馬術だけを好んでいた。14歳の時に母を失い、悲しみの余り他の誰よりも激しく泣いた。(このように親を大切にする「孝」の心深き)この孝行息子は、17、8歳を迎えた頃、和歌の道に深く傾倒するようになった。(学んだ歌集で、重要度の)高いものは三代集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)であり、低いものは八代集(三代集を含め、『新古今和歌集』など)に及んだ。このほか、さらに『源氏物語』『伊勢物語』や諸家の歌集にも及び、(歌道の)すべてに渡って学んでその道を究めようという志しがあった。彼の側に、円満坊という教僧(=禅僧でも律僧でもない旧仏教側の僧侶)がいた。居士に向かって言う。
「今や、(播磨の)国内は乱れて心配ごとが尽きず、(相抗争する諸勢力が)矛をあらわにし盾を並べている。我が領村と敵軍とを隔てる距離は、3、4里(約12~16キロメートル)に満たない。このような時に当たり、兵法書を脇に置いて歌集を愛すことを相応しいと考える人がどこにいるだろうか。もしあるいは止めることができないのであれば、馬上にあって文を作り、戦地でしばしば武器を横にして詩を成した、あの魏・曹操のような事例を念頭に置いて欲しい。夜に蛍を集め雪に映して灯火のかわりにするように、労苦して学問に邁進し、月や花を見てはいたずらに詩を作っている。実によくないことだ。まず(巻物を)たばねてこれらを脇に置き、干戈の止む時をしばらく待ってはどうだろうか」。
このため(和歌の学びは)道半ばにして終えてしまった。
〔2.信長への拝謁〕
永禄12年(1569)、赤松下野前司が軍を出し姫路を囲んだ。居士は青山において(敵軍と)対陣し、一戦して勝利を決した。討ち取った敵兵の首は3千を超えた。居士の威勢ある名声、武勇の功績は、この時をさかいに顕著になった。天正元年(1573)、贈左府(左大臣)織田信長は、畿内5、6ヶ国を勢力下に置いたが、播磨より西は未だ麾下に属していなかった。居士は次のように考えた。
「つくづくと左府信長殿のひととなりを聞いていると、最終的に日本は彼の掌握するところとなるであろう。(先方から求められるより)先にこちらから出て行って、礼を以って挨拶にうかがうに越したことはあるまい」。
秋7月、入京した。(在京の左府信長に会うと)左府の眉間には喜びの気持ちが満ち溢れ、面と向かって長いこと話が続いた。京を立とうとした時、左府は、
「他日、もし私が中国地方を討伐することになれば、必ず居士を先鋒となすだろう。どうだ」
と密やかに言った。居士は謹んで了承し、(了承の言葉を)言い終わって退出した。3年(1575)、中国の軍勢は播磨の英賀に陣を置いた。居士が進発して対陣すると、敵兵は剣先を交えずして敗れてしまった。左府は自筆の親書にて(戦功を)賞した。
〔3.秀吉の下での播磨討伐〕
翌年(1576)、左府は羽柴筑前守秀吉を将軍となし、播磨を討伐しようと考えた。世間の噂、ちまたの風説が飛び交い、しきりに耳に入ってきた。秋9月、居士は密かに秀吉に通じた。秀吉は踊りたくなるほどに喜び、その余り(居士を見捨てないと神仏に)誓約した文書を書いて次のように報じてきた。
「私と貴君とは姓が違っても、これからは兄弟である。(兄弟の関係を)損なうことがないようにと願うぞ」。
果して冬11月、播磨を討伐することとなった。居士はその先鋒となり、佐用城を攻撃すると、城主の兄弟は首を斬られた。居士の手によって討たれた人数は、数えきれないほどである。秀吉は左府に、勝利を報告して献上したが、左府は(前回に)引き続き自筆の親書にてその忠義を賞した。(早くもその)翌日、上月城を囲んだ。中国側(毛利勢)が出した援軍の兵3千余騎は、別所右衛門の陣に向かった。居士はこれを見て耐えることができず、我が手を以って(上月城の兵と)交戦し、すぐさま首をはねた。それは大変名誉なことだった。そこで秀吉は、太刀1本、元気な馬1匹、および美しい鞍、立派なくつわを賜い、これらの付属道具を加え、こうしてこの忠義を褒賞した。「(他の勇士を鼓舞するため)褒賞は速やかに行う(のがよい)」と古の人は言ったが、その心を思うと、(それが現実のものとなったのは)この時であったのだなあ。(というのは)秀吉は諸将軍に対しにっこりと笑って、
「もし莫大な恩賞が得たいのならば、居士のような勇ましい手柄を得んと努めよ」
と言ったというのである。翌年(1577)夏4月、中国および紀伊・淡路の精兵8千余人が、力を合わせて播磨の別府城に攻めてきた。秀吉はこれを聞くに及び、居士に命令して、援護の兵500余人を引率し密かに城に入らせた。しばらくして敵兵8千人余りは、(漢の樊噲が、主君劉邦の居室の扉を押して無理に押し入ったように)城の扉を押して(入ってきて)樊噲のような下らぬ人物と同類になってしまった。(だから)その矛先は(居士の軍兵に)当たるはずもなかった。居士は、武器を手に持ち盾を叩いて命令をくだし、
「命運は天が握っている。(だから)絶対に退却してはいけない。これは昔の格言である。これを思え! これを思え!」
と言った。その声が未だ終わらない内に、戦闘すること2、3度に及び、全身どろどろと汗が流れ、衆人の口からは煙のように呼気が吐き出された。(戦闘の激しさは、象の王たる)香象王が、諸々の煩悩や妄想を断ち切るのにそっくりだし、(文殊菩薩が乗る金色の獅子である)金獅子が牙をカチカチと打つことを彷彿とさせる。その勢いは、言わずして知るべしである。敵兵はこれを支え難く、ことごとく退散してしまった。首を落とした者は、70人余りあった。左府および秀吉は、ともに書状を以ってその手柄を賞した。
〔4.荒木村重による拘束〕
6年(1578)秋9月、荒木摂津守村重が(信長に)謀反を起こした。秀吉は居士を派遣して、
「(謀反という)過ちを悔い改めることに躊躇してはいけない」
と告げさせた。荒木は返報にも及ばず、そればかりか居士を抑留して帰ることを許さなかった。この時、嫡子の長政は人質として左府の元にあった。居士の親族達は集まって議論をなし、父識隆に言った。
「御令息は荒木の方にある。御令孫は左府の方にある。孫を捨てるのか。子を捨てるのか」。
識隆は言う。
「孫は、親族達が相議した結果、人質とした左府に出した。子は、荒木に使いに行かせた(までである)。これを抑留するのは荒木の側の非である。孫を捨てて謀反人側に与するなど、どうして私にそんなことができようぞ」。
親族達は、
「これは義(=道に叶ったこと)である」
と感歎していた。翌年(天正7年=1579)冬10月、居士は幸いにも(荒木の根拠地の)有岡より脱出して来た。ああ、識隆の深く賢き慮りは喜ぶべきことだ。尊ぶべきことだ。
〔5.備中高松城の水攻め〕
10年(1582)、秀吉は、左府の命を承って備中高松城を攻めた。城は堅固で、易々と落とすことは叶わなかった。そのため城の周りすべてに長い堤防を築いた。その高いところは、城より上に出ていた。国中の大きな川も小さな川も引いてきて長堤防に流し込み、わずかな水のしたたりさえも漏らさないようにしたので、堅固な城塞も果たして水に没し、人々はみな魚となってしまった。哀れな衆生達よ、哀れな衆生達よ。
〔6.明智光秀の謀反〕
左府は明智(光秀)に、
「お前達は、副将軍となって先鋒の(主将)秀吉と共に協議せよ。(そうすれば)中国地方は、吾が一握に帰することになろう」
と命じた。(しかし)明智は中国に行かなかった。それどころか、丹波より京都に入り、左府を弑逆して自立した。禍は、身内の者から起こるものなのであろうか。このことはすぐさま秀吉に報ぜられ、秀吉は居士を招いて問うた。
「このことがもし敵に漏れてしまったら、必ずやその勢いに乗じ、我が軍は対抗しがたいだろう。どうすれば良いのだろうか」。
「ただ和を講じる以外、別に何の奇策がありましょうや」
と居士は答える。秀吉は、居士の言葉に従って和を講じ(各々の)境界を定めた。これは、(戦争状態にあった)漢(の劉邦)と楚(の項羽)とが、鴻溝(という川)を境界として領地を分割し各々帰参したことを彷彿とさせる。明智は山崎の地に陣取って、秀吉の帰ってくるのを待っていた。秀吉は居士を先鋒とし山崎に向かわせた。皆々、
「天下の安危は、ただ此の一戦にある」
と言ったものだった。明智は果たして敗れた。12年(1584)、秀吉は畿内(における勢力)を回復した。
〔7.中国征伐〕
しかし、(雌雄を決せず中途で講和してしまったため)中国地方にはなお災禍がくすぶっていた。居士は、古代中国戦国時代の蘇秦や張儀のように優れた弁舌を振るい、些細な領土問題から起こる争いを打ち止めた。五畿内や中国地方の人々は、泰山のごとく高い枕で安心して眠ることのできるようになったが、それは居士の智力がもたらしたのである。
〔8.九州征伐〕
14年(1586)、秀吉は、海西すなわち海の彼方の西方の8、9ヶ国(=九州地方のこと)を(版図に)合併しようという志しが有ったので、居士に、中国の勇ましき兵卒3万騎余りを率いさせ海西を征伐させた。冬10月、豊前に到り、小倉津・宇留津両城を陥落させた。その矛の下に戦死した者は2千人余り。秀吉は書状を以ってこれを賞した。その後、障子岳城を攻め香春岳城を囲み、城主の高橋が降参した。あふれんばかりの勇ましさは、筑前・筑後・肥前・肥後にも及び、みな降参の旗をまっすぐに建てて臣従してきた。15年(1587)、秀吉は自ら薩摩を征伐せんとした。行軍を南北両方面に分かち、北軍路は肥後を、南軍路は日向を通った。居士は南軍にあった。日向の耳川において薩摩兵と干戈を交えたが、薩兵は負けを選んだ。その後ほどなくして薩摩太守の島津は降参した。秀吉は感歎して、
「今度の海西8、9ヶ国が我が一握に帰したのは、居士の心中(の計略)から成されたのである」
と言ったのだった。豊前国を与えてその忠義を褒賞した。まことに栄誉なことであって、これより栄誉なことはない。17年(1589)、居士は国を嫡子長政に譲り、そして秀吉の左右に侍って(その命に服しつつ)諸事を執行した。これを(故事に)例えるならば、淮陰侯韓信が沛公劉邦の側にあって、その上申する意見も作戦計画も採用されたようなものである。夏5月、勘解由使に任ぜられたのは、これまた栄誉なことであった。
〔9.天下一統〕
18年(1590)、秀吉は東征して小田原城を囲んだが、数ヶ月経っても落ちなかった。最終的には居士の思慮深い計略によって北条氏は城を退き誅せられた。66ヶ国は統一され、民は(秀吉の)万歳をさけんだのである。
〔10.朝鮮への侵攻〕
文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮国を征伐しようとした。三将軍を遣して先鋒隊としたが、嫡子長政もその一員だった。居士もそれを追って渡海した。小西摂津前司行長は、誰かと行き合ってもその軍行の行き先を隠した。居士はそれが短慮であることを指摘したが、行長は聴かなかった。居士は(日本に)引き返し、秀吉に申し上げた。
「行長は実に頑固でありますなあ。他人の意見に従いません。彼の軍は必ずや敗れるのではありますまいか」。
果たして居士の発言の通りとなった。2年(1593)、秀吉は(諸軍統率の象徴たる)御旗を居士に賜り、
「お前は、私に代わって朝鮮に渡りなさい。諸軍に命令を下すことを許す」
と命じた。このため居士は再び海を渡った。その軍忠は数えきることができない。秀吉は、関白の職を(甥の)秀次に譲った。そのため秀吉を称して太閤といった。居士は折々に関白に対し、
「願わくは殿下、太閤に代わって朝鮮を征伐されんことを。もし(太閤の後継である)殿下が渡海なされば、その号令はいつも厳格でありましょう。(号令が)厳格であれば、(すぐさま勝利し)凱旋の日はすぐに訪れましょう」
と諫めた。(しかし)関白がその諫めを聞き入れることはなかった。居士は嘆息して、
「恐らく殿下は職を失ってしまうだろう」
と言った。居士の発言は、果たして符を合わせたように現実のものとなった。
〔11.関ケ原合戦と筑前拝領〕
慶長3年(1598)、太閤が薨去した。内府(=内大臣)家康は、(太閤の)遺命を受け幼主秀頼を輔佐することとなった。ここに石田治部三成というものがある。陰謀をめぐらし、内府家康の権力を奪いたいと考えていた。居士は密かに内府に通じ、三成を近江国佐和山に蟄居させた。5年(1600)、三成は終に謀反を起こした。美濃より西の五畿内・中国・四国・九州は、皆三成に味方した。三成はたびたび居士を勧誘したが、義にしたがって応ずることはなかった。この時、内府は東の方武蔵国江戸にあった。長政も(家康に)従って後に東に向かった。秋9月、居士は1万の騎兵を引率して豊後立石に赴き、一戦して大友義統を生け捕ってその党兵を誅伐した。安喜・富来の両城は彼の勢力の盛んなことを聞くと、武具を脱ぎ弓の絃を弛めて降伏した。居士は凱歌を歌って豊前に帰参すると、小倉城を落とし入れ、さらに筑後にも進み、柳川城を囲んで城主立花統虎を降伏させた。(この大きな功績については)かつて(漢が斉を下そうとした時、劉邦に命ぜられて酈食其という者が)弁舌を振るって斉の70もの城を下したことをも、合わせ考えるべきである。内府家康は京へと上り、15日、美濃(関ケ原)に於いて一戦して三成を捕らえ、諸国はまた元の状態に復した。軍忠があったため、長政は豊前を改め筑前に任ぜられた。そこで城を築き福岡と名付けた。(父子ともに多大な軍事的功績と恩賞があったが)この父が有ってこの子供が有るというべきであろう。
〔12.家康の褒賞 参禅・詩歌へのあこがれ〕
冬11月、居士は義統を引き連れて入京した。内府がまず九州の戦闘の次第を尋ねると、居士は逐一これに答えた。内府は手を打って大いに喜び、その余り、
「必ず朝廷に奏聞して官位を転じさせよう」
と言った。居士は跪いて答える。
「わたくしは既に老いてしまいました。富も地位も欲しくはありません。(あの陶淵明が詠ったように、我が家に)帰る以上に良いことなどありません。(俗塵を離れ)朝靄や夕霧や清泉や奇石などの自然を、病となるほどまでに愛し尽したいし、奥深く静かな竹林のある寺院で僧徒と問答を重ね(真理を探究し)、(禅寺の坐禅用腰掛に老いた身をゆだね)花を散らす風に(恨みごとも言わず)、茶を沸かす煙を軽やかに上がらせておきたいのです。漢詩を口ずさみ和歌を詠み、心のおもむくままにそぞろ歩きをし伸び伸びと楽しむ生活は、(俗世を離れ)帰郷をした後にこそ得られるものです」。
これを聞いて内府家康は、
「今におりながら古を行うのは、居士を除いて他に誰がいようぞ。至極の境地、深隠なる境地に至ったのだなあ」。
と言った。かつて(かの)教僧は、
「(学問を究めるのは)干戈の止む時を待て」
と言った。(僧侶からのアドバイスの)言葉は、(これまで)むやみやたらに実現することは無かった。稀有なことよ、稀有なことよ。6年(1601)、(京都)大徳寺三玄院の門をたたき、釈尊はじめ祖師達が悟りの境地に至った、その勘所について教えを請うた。
〔13.筑前への引退と天神〕
7年(1602)、筑前に退いた。これは恐らく、長政が筑前の太守に(幕府から)封ぜられたからであろう。大宰府天満宮および(大宰府の)観世音寺を最前に修造した。天神(菅原道真)は、(神と成る前)昌泰4年(901)、大宰権帥に左遷され、(怒りや悲しみの余り)激しく心をふるい起こした結果、奏状を作成し天に祈って威徳天神となった。祈願・祈祷により神が現す力は、(時代が下っても衰えることなく)日ごと日ごとに増してきた。それは、(雲の切れ目から)満月が現れ、大地の花の影が揺らめくようなものである。(大宰府に左遷された道真を慕って自邸の)梅は千里の距離を飛んできたし、(道真の託宣により京都右近の馬場に植えた)松は一夜にして生い茂って林を成した(そしてそこに北野天満宮が創建された)。その霊威は、数えきることができない。荘子が夢の中で蝶になって人と蝶との区別を忘れたように、夢の中にいたかの人(=日蔵上人)に至っては、危険を冒して龍の淵におもむき、頷の下にあって目もくらませるばかりの光を放つ珠玉を探り得るような経験をした。すなわち、気を失って威徳天神の住所におもむき、「私の恨みはつきないが、娑婆で像を造り祀るならば利益を与えよう」と告げられ目を覚ました。世に天神と申し上げている尊格は、(仏教でいう)観自在菩薩(観音菩薩)の化身、すなわち日本の人々を利益するため神に姿を変えて現れたもうたのである。さて梵語にいう「補陀落」は、観音菩薩のお住みになる所だが、これを中国では「小白梅花(しょうはくばいか)」と言う。そうなると、天神のまします所は、梅が無くてはならない。千里を遠いともせず梅が飛び来ったのは、理由があったのだなあ。元・明の大儒者は、これらの事柄について述べる所がある。すなわち元の薩都剌には、「観音寺裏一声鐘」すなわち「観世音寺あたりに響く鐘の一声」などど吟じた詩があるし、明の洪序には、「一夜飛香度海雲」すなわち「梅は香を飛ばしつつ一夜で海雲を渡った」などと詠んだ詩がある。異国ですら(天神の霊威への讃嘆は)このようなものである。いわんや、我が国においてや。児童や下僕ですら皆知っておりこれを敬っているであろう。居士・太守長政は共に信仰するが、その道理が無いということはない。
〔14.崇福寺の移転〕
こうした援助から始まって、筥崎(の八幡宮)において、志賀島(の志賀海神社)において、どんな破損もすべて復興された。すばらしい時代かな、すばらしい時代かな。大宰府の崇福禅寺を筥崎の松原に移した。(京都)大徳寺の雲英大和尚を住持に招き、法堂を開いて説法する儀式を行い、拝聴していた衆人を強く驚かし動揺させた。古の人は言う、「山や岡よりも高く大きな徳が王者にあれば、慶雲という、めでたいしるしの雲が現れる」と。雲英は、すなわち(徳の大きな)居士の慶雲である。次いで太守長政は、(大徳寺に塔頭の)龍光禅院を創建した。竜が吟ずれば雲が応じて起こるというが、このように、龍光禅院が創建され、雲英大和尚が招請されたわけである。居士が生れた時、慶雲がおり下ってきて家屋を覆ったが、この予兆と符合するものである。地島は狭い島で、旅客の舟を繋留するのに不便があったので、同8年(1603)、石を積んで固めた。最後の一作業まで停止することなく土木工事は完遂し、終に(舟の繋留できる波止場を)3町(約300メートル)以上に広げた。それ以来、風雨の難を受けることなく官船や商船は往還できるようになった。
〔15.臨終〕
9年(1598)春3月、居士は病に倒れた。長政に向かい遺訓を垂れる。
「死期は必ずや20日の辰刻(午前八時頃)である。私が没した後に願うことは、士族を愛し人民に慈しみの心で接せられよ。公正でまっすぐな人間を抜擢し、邪悪な人を罷免されたし。幼いみなしごや寄る辺なき弱い人を慈しみ、貧しく卑しい人々を憐れまれよ。賢い人に親しみ、おもねりへつらう人を遠ざけられたし。もしこれらが実現されるならば、いかなる追善供養も必要なことがあろうか(我が亡魂は満足する)」。
死期に臨み一首の和歌を詠んだ。その声が絶えきる前に、整然と亡くなった。享年59。太守は法の如く葬送した。心を配り居士の遺訓に違うことは無かった。「孝」というべきであろう。次のようなことを承り聞いている。太守が居士の病床に侍っている際、心配して睫毛を合わせて眠ることもなく服を変えることもなかったし、太守が口で確かめてからでないと湯薬を(居士に)進めることもなかったという。(古を)顧みると、(孔子の弟子で孝の実践者として知られる)かの曽子でさえも、庶民の身でありながら、これを実践するのが難しかった。今太守は、身分の高い人でありながら自らこれを実践したのである。(太守長政の孝は)曽子の孝に比べてはるかに優れている。
〔16.建碑の経緯〕
ある日、使者を対馬国府の我が弊居に派遣し、このように告げてきた。
「ちかごろ、石を切って居士の碑を成しました。和尚よ、銘文を書いて、賜り下さいませ。そうすれば、碑に彫りつけてこれを永遠に伝えていきます」。
私は次のように考える。おおよそ我が国の権勢のある家では、父母を亡くした時、寺を建てて僧の修行環境を整え、木を刻んで(容貌を)像に留める(そしてその寺に安置する)ことが、至孝(=孝行の最高のもの)とされている。今太守は、ただ寺を建てて僧の修行環境を整えるだけでなく、碑に文章を刻み、(居士の)美しき人生の有り様を百代先の未来に遺そうと考えている。このすばらしい孝は、私が聞いてきた孝よりもはるかに高く秀でている。古人は言う、「忠臣は必ず、親孝行する子の家から生まれる」と。以上より考えると、太守は真に我が国第一の忠臣であって、(忠臣として名高い)漢の三傑(=蕭何・張良・韓信)にも恥じない人である。私は、縁が結ばれて筑前にこそ生まれたが、長いあいだ対馬国府に我が名を隠して住んできた。それどころか、近ごろは病気がちで学問はすたれ、(僧にとって重要な、詩文を書くための)筆や硯は、あたかも頭のはげあがった者にとっての木櫛に等しいものになってしまっている。そうはいっても、もし太守の命を拒んでしまえば、恐らくは、本貫地を忘れることに等しいものであろう。だからきっぱりと拒絶することなどできず、卑しき文章をつづってこれを(未来に)残し、漢詩を歌って居士を祭ることにする。それは以下の通り。
〔17.漢詩〕
〇以下押韻ごとに改行。
百戦して手柄第一の者、(越王勾践が功績第一の臣として范蠡の黄金象を造った故事よろしく)それに該当する人のみ黄金像は鋳られるべきだ。
(宇多天皇から出た)黒田氏の末裔(=如水居士)は第一の人で、大宰府の天神がその身に現れたもうたもの。
千里を飛んできたという梅は(観音菩薩の化身である天神の)真価を示す。(大徳寺)三玄院の良き菊によって、物事に執着する心をあらためる。
代々播州姫路に住してきたと聞いたが、どういうわけか近年は筑前姪浜の隣に住まう。
他の勇猛な武士は、恩恵だけを考え(仕官先を探し)家を移す小人。身を忘れ国のために尽くす居士は、忠臣に等しい。
孔子・孟子のような聖賢になりたいと願う(居士の)行動は世間でも(真似して)行われ、(居士は)中国古代聖天子の尭や舜のような賢人を慕うため(領内の)風俗は人情厚く偽りがない。
万物創造の造物主はきまぐれな小児のごとく突然(居士の)寝床を犯し、本州の太守長政は泣いて着物をうるおす。
この上なく誠実な心で(長政が)成したことは、なんと大いなる孝行だろうか。(居士の)遺命に違背することなく、(長政は)我が民を(モノや畜生のような下劣な扱いではなく)まさに民として扱う。
筆下に和歌をとどめ閻浮提(現世)に別れを告げる。(長政は)位牌の前では声を殺してすすり泣き、春となく秋となく青空の下では泣き叫ぶ。
(悟りの境地のように文字では)伝えきることのできない妙なるもの(=孝の心)もこの父子の間では伝わった。(父の功績を永遠に伝えるため長政が)石を切り碑を成すことは(正に孝であり)、車職人が車輪の作り方を代々伝えていくように、文字や言葉だけでは決して伝授できず自分自身の工夫によってのみ会得できる境地なのである。
慶長9年(1604)5月4日
訓読文・註釈
〔1.若年〕
龍光院殿如水円清大居士碑并に序
居士、播州飾東郡の人。姓、源。父は濃州刺史識隆。累代に播州姫路に城す。居士、天文十五年丙午冬十一月二十九日に生る。雲下りて屋を蓋ひ、見る者僉曰く、
「慶雲・甘露は、天の瑞なり。決ず是れ家門繁興の先兆なり」と。
七歳にして父、居士をして寺に入れ書を学ばしむ。性、紙筆を愛さず、只だ射御のみを愛す。十四歳にして母を喪ふ。其の慟哭すること、他人に超越す。孝子十七八歳の頃、専ら和歌の道を愛す。上は三代集より、下は八代集に至る。此の外、更に源氏物語・伊勢物語・諸家歌集等に及び、通習せんと欲するの志有り。傍に教僧の円満坊と号するもの有り。謂ひて曰く、
「今や、国は艱虞に属し、戈を首し干を比ぶ。我が邑の敵軍を去ること、三四里を過ぎず。此の時に方りて、兵書を抛ち歌集を愛するは、孰か之を当と為さんや。若し或いは未だ止むを獲ざれば、魏曹瞞の、鞍馬の間に文を造り、往往に槊を横へ詩を賦すの例を攀かんを請ふ。徒らに勤めて蛍を聚め雪に映し、月に嘯き花を吟ずるは、甚だ不可なり。先ず束ねて之を閣き、且く戈を止むの日を待つは則ち如何」と。
是に於いて道中ばにして廃す。
*龍光院殿如水円清大居士碑并序 「居士」までが、黒田如水(孝高、官兵衛)の戒名。なお下記補足参照。
*播州飾東郡 播磨国中南部の郡。現兵庫県姫路市の南東部。
*姓源 『寛永諸家系図伝』によれば宇多源氏。
*慶雲甘露天之瑞也 慶雲は、めでたいしるしの雲。甘露は、天子が仁政を施すと、天が感じて降らすという甘い露。天之瑞は、天の下しためでたいしるし。
*射御 弓術と馬術。
*孝子 親に孝行な子。母の死に際し慟哭したことを以って孝子と表現した。ここで唐突に「孝子」と表現するのは、後述の漢詩で、如水・長政父子に孝の心が伝わったと主張するため(「*伝々・・・輪扁輪」参照)。
*上自三代集下至八代集 三代集は、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』。八代集は、平安前期より鎌倉初期までの八代の勅撰和歌集。三代集に加えて、『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』。
*通習 すべてにわたって習い、真理をよくわきまえること。
*教僧号円満坊 教僧は、禅僧でも律僧でもない、いわゆる旧仏教側の僧侶。円満坊については未詳だが、後述の発言からして姫路から遠くない寺院とみられるので、書写山円教寺の僧侶か。
*国属艱虞首戈比干 艱虞は、世相や国家が乱れる憂い。首戈比干は、ホコをあらわにし、タテを並べる。戦闘態勢であること。『史記』周本紀第四「武王曰(中略)称爾戈、比爾干、立爾矛」に基づく表現と見られる。
*魏曹瞞鞍馬間造文往往横槊賦詩 魏曹瞞は、魏の曹操。中国三国時代魏の始祖で、孫権、劉備と天下を三分して争ったが、文人としても有名。横槊賦詩は、馬上でホコを横にし詩を作ること。『旧唐書』列伝第百四十下・杜甫「建安之後、天下之士遭罹兵戦。曹氏父子、鞍馬間為文、往往横槊賦詩」に拠る。
〔2.信長への拝謁〕
永禄十二年己巳、赤松下野前司、出師して姫路を囲む。居士、陣を青山に対し、一戦して勝ちを決す。敵兵の首を隕す者、三千餘輩なり。居士の威名勇功、此れより顕る。天正元年癸酉、贈左府織田信長、畿内五六州を以て彀中に置くも、播州以西は未だ麾下に属さず。居士以謂く、
「熟ら左府の為人を聞くに、日本、果して掌握に帰さん。先に出でて礼を講ずるに如かず」と。
秋七月、入京す。左府、喜気眉に溢ち、面話刻を移す。京を辞するに及び、左府密かに謂ひて曰く、
「他日、我中国を伐てば、必ず居士を以て先鋒と為すや如何」と。
居士、謹んで聞命し、云ひ訖りて退く。三年乙亥、中国の戎卒、陣を播の英賀に屯す。居士、出でて対陣し、敵兵其の鋒に当らずして敗る。左府、手書を以て之に感ず。
*青山 現兵庫県姫路市青山あたりの山。
*贈左府織田信長 1534~82。信長は、天正5年(1577)に右大臣に任ぜられて、これが生前の極官。没後の同10年、太政大臣を追贈。撰者が「贈左府」=贈左大臣とするのは誤り。
*彀中 力の及ぶ範囲内。
*講礼 礼をもって挨拶するとの意と見られる。
*聞命 拝承する。
*戎卒 兵士。
*播之英賀 現兵庫県姫路市飾磨区英賀あたり。英賀荘という荘園があった。
〔3.秀吉の下での播磨討伐〕
翌年丙子、左府、羽柴筑前刺史秀吉を以て将と為し、播を伐たんと欲す。街談巷説、紛紛として耳に盈つ。秋九月、居士密かに秀吉に通ず。秀吉、喜躍に堪へず、誓詞を書きて報じて曰く、
「自今以往、我と汝と異姓の兄弟為り。請ふ、其の違ふこと莫れ」と。
冬十一月、果して播を伐つ。居士、其の先鋒と為りて、佐用城を攻め、城主兄弟、首を刎らる。居士の手に死する者、其の数勝げて記すに足らず。秀吉、捷ちを左府に献ずるに、左府又た其の忠に感ずるに手書を以てす。翌日、上月城を囲む。中国の出援の兵三千餘騎、別処右金吾の陣に向ふ。居士之を見て、忍ぶを獲ず、手自鋒を合せ立ろに首を刎るは孔だ韙し。秀吉、即ち太刀一柄・活馬一疋、及び金鞍・玉勒を賜ひ、諸に縁具を附し、以て其の忠を賞す。古人謂ふ所の「賞は其の時を越さず」、是の意を想ふに、茲に在るかな。秀吉莞尓として諸将に謂ひて曰く、
「若し重賞を得んと欲せば、勇功を励ますこと、猶ほ居士の如くせよ」と云々。
翌年丁丑夏四月、中国及び紀伊・淡路の精兵八千餘員、力を戮せて播の別府城を攻む。秀吉之を聞きて、居士に命じ、援兵五百餘人を率ゐて、密かに城中に入らしむ。少焉して、敵兵八千餘り、闥を排して噲等の伍と為りて、其の鋒、当るべからず。居士、戟を手ち楯を叩き令を下して曰く、
「運は天に在り。敢て退く勿れ。乃ち是れ古の格言なり。旃を思へ、旃を思へ」と。
其の声未だ絶せずして、闘戦すること二三次、全身の汗、漿と流れ、衆口の気、烟に吐き、香象王の截流するに依俙として、金獅子の牙を鼓つに彷彿たり。其の勢、言はずして以て知るべし。敵兵支へ難く、悉く退散す。首を隕す者、七十餘人なり。左府及び秀吉、共に書を以て功に感ず。
*羽柴筑前刺史秀吉 豊臣秀吉(1536~98)。羽柴は、豊臣以前に名乗っていた名字。筑前刺史は、筑前守。
*紛紛 意見や説が多くとびかうさま。
*佐用城 現兵庫県佐用郡佐用町佐用に所在した城。佐用川の西岸に突き出した丘陵上に築かれた。福原城とも。当時の城主は福原助就。
*城主兄弟 『寛政重修諸家譜』によれば、「福原主膳某・伊王野土佐某」。
*上月城 現兵庫県佐用郡佐用町上月に所在した城。佐用川の西岸の荒神山山頂に築かれた。当時の城主は赤松政範。
*別処右金吾 別所氏と見られるが、該当の人物未詳。
*縁具 解釈やや難。前述の金鞍と同じく馬に付随する道具と見られる。
*古人所謂賞不越其時 兵法の書『司馬法』天子之義第二「賞不踰時、欲民速得為善之利也」に基づくと見られる。
*莞尓 にっこりほほえむさま。
*別府城 現兵庫県加古川市別府町(または加古郡播磨町本荘)あたりに所在したと見られる城。播磨国加古郡南部の海岸近く。阿閇(あえ)城とも。
*排闥為噲等伍 「排闥」は、門の扉をおし開き、無理に押し入ること。『史記』樊麗滕灌列伝第三十五「噲(樊噲)乃排闥直入」に基づく。すなわち、病床で面会を拒んでいた劉邦の部屋に、樊噲(はんかい)が扉を押し開いて無理に入ってきたことを記す。「為噲等伍」は、樊噲のような下らぬ人物になること。『史記』淮陰侯列伝第三十二「信(韓信)出門笑曰、生乃与噲(樊噲)等為伍」に基づく。撰者は樊噲にまつわる故事を使って、敵兵の攻撃の愚かさを表現している。
*依俙香象王截流 依俙は、そっくりなさま。香象王は未詳。ひとまず香王菩薩を指すと解釈した。地獄、餓鬼、畜生、人、天の五道にいるものを救うという誓いをたてた菩薩。截流は、一切の妄想や煩悩を断ち切ること。
*彷彿金獅子鼓牙 金獅子は、文殊菩薩が乗る金色の獅子の王を指すと見られる。鼓牙は、牙をカチカチさせる意か。
〔4.荒木村重による拘束〕
六年戊寅秋九月、荒木接州刺史叛す。秀吉、居士を遣し告げしめて曰く、
「其の過ちを改むるに憚る勿れ」と。
荒木、報を致すに及ばず、却て居士を留めて放ち帰さず。惟の時、嗣子長政、質子と為て左府に在り。居士の親族会議し、父識隆に謂ひて曰く、
「令子、荒木に在り。令孫、左府に在り。孫を棄つるか。子を棄つるか」と。
識隆曰く、
「孫や、親族相い議して、左府に質す。子や、荒木に使す。其の之を留むるは、是れ荒木の非なり。我争か孫を棄て以て叛党に与せんや」と。
親族嘆じて曰く、
「是れ義なり」と。
翌年己卯冬十月、居士幸ひにして有岡より脱出し来る。吁、識隆の賢慮の遠きこと、喜ぶべし、尚ぶべし。
*荒木接州刺史 荒木村重(?~1586)。戦国時代の武将、茶人。摂津伊丹城(有岡城)主。「接州」は、摂州のこと。織田信長に仕えるもそむいて敗れる。
*嗣子長政 黒田長政(1568~1623)。嗣子は、跡取り息子。
*脱出来有岡 訓読・解釈やや難。有岡は、荒木村重の居城・有岡城(現兵庫県伊丹市伊丹一丁目ほか)。素直に訓むと「脱出して有岡に来る」(=脱出して有岡城に到達した)となるが、矛盾。撰者の勘違いあるいは誤字か。ひとまず「有岡より脱出し来る」と訓読した。
〔5.備中高松城の水攻め〕
十年壬午、秀吉、左府の命を奉り、備中高松城を攻む。城堅くして容易には潰し難し。故に城を環りて皆長堤を築く。其の高きは、益して城の上に出づ。国中の洪河細流、引きて長堤に帰し、涓滴と雖も漏泄せざれば、堅城果して水に没し、人皆魚と成る。可憐生よ、可憐生よ。
*備中高松城 現岡山県岡山市高松にあった城。備前との国境近くにあった。当時城主は清水宗治。天正10年(1582)6月3日、明智光秀謀反の知らせが秀吉に届いたため、秀吉は毛利側と急遽講和を結び、翌日宗治は切腹して両軍は兵を収めた。
*雖涓滴不漏泄 涓滴は、水のしずく。漏泄は、すきまなどからもれること。
*可憐生 あわれむべき人。
〔6.明智光秀の謀反〕
左府、明智に命じて曰く、
「汝等、亜将と成り、先鋒秀吉と与に相い議せ。中国をして吾が掌握に帰せしむるは則ち可なり」と。
明智、中国に赴かず、却て丹波より京師に入り、左府を弑して自立す。禍の蕭墻の内より起る者か。此の事、秀吉に飛報せらる。秀吉、居士を招き謂ひて曰く、
「此の事、若し敵に漏るれば、必ず勢に乗じ、吾が軍支へ難し。之を如何とすれば而ち可なるか」と。
居士曰く、
「只だ和を乞ふの外、別に何の奇策有らんや」と。
秀吉、居士の言を以て、和を講じ界を定む。漢楚の、鴻溝を剖かちて帰すが如し。明智、陣を山崎に屯し、秀吉の帰するを待つ。秀吉、居士を以て先鋒と為し、山崎に向はしむ。僉曰く、
「天下の安危、只だ此の一戦に在るのみ」と。
明智終に敗る。十二年甲申、秀吉、畿内を復す。
*明智 明智光秀(1528~82)。
*亜将 副将軍。
*蕭墻 原義はかこい。垣。ここでは身内。家内。
*漢楚剖鴻溝而帰 干戈を交える漢の劉邦と楚の項羽が、鴻溝という川を境界として領地を分け矛を収めた故事。
*山崎 山城・摂津の境い目の地名。現大阪府三島郡島本町山崎。天王山の南麓に位置し、南東を淀川が南西流する、狭隘の地。
〔7.中国征伐〕
而して中国に、猶ほ餘殃有り。居士、蘇張の舌を振ひ、蛮触の戦ひを止む。五畿・中国の、枕を泰山の安きに致すは、是れ居士智力の及ぶ所なり。
*餘殃 あとに残るわざわい。
*蘇張之舌 中国戦国時代の雄弁家蘇秦(そしん)と張儀のような優れた弁舌。
*蛮触之戦 小さい料簡から互いにつまらないことで争うこと。『荘子』則陽第二十五に見える故事で、かたつむりの角の上にある二つの国の蛮氏・触氏が、領土問題で大戦争をした。
*致枕泰山安 枕を高くして眠るたとえ。
〔8.九州征伐〕
十四年丙戌、秀吉、海西八九州を合せんと欲するの志有りて、居士をして中国の勇兵三万餘騎を率ゐ海西を征せしむ。冬十月、豊前に到り、小倉津・宇留津両城を陥し、鋒鏑の下に死する者、二千餘人なり。秀吉、之に感ずるに書を以てす。然る後、障子岳城を攻め、香春岳城を囲み、城主高橋降る。餘勇の及ぶ所、筑前・筑後・肥前・肥後、皆降旗を竪てて臣服す。十五年丁亥、秀吉自ら薩摩を征す。軍を南北に分かち、北軍路は肥後を歴、南軍路は日向を過ぐ。居士は南軍に在り。日向耳河に於いて、薩兵と鋒を合せ、薩兵敗を取る。幾らずして薩州太守嶋津降る。秀吉嘆じて曰く、
「今度海西八九州の吾が一握に帰するは、是れ居士の方寸より出づ」と。
其の忠を賞するに豊前国を以てす。寔に栄なること焉より栄なるは莫し。十七年己丑、居士、国を嗣子長政に譲り、而して秀吉の左右に侍りて事を執る。譬ふれば韓淮陰の沛公に在るが如く、言は聴かれ計は用ひらる。夏五月、勾勘に任ぜらるるは、是れ亦た華なり。
*海西八九州 海のかなたの西方の8、9ヶ国。要するに九州のこと。
*小倉津・宇留津両城 小倉津城は、小倉城。豊前国の城(現福岡県北九州市小倉北区城内)。宇留津城は、同国の城(現福岡県築上郡築上町宇留津あたり)。
*障子岳城 豊前国にあった山城。現福岡県田川郡香春町勝山松田あたり。香春岳城の支城。
*香春岳城 豊前国にあった城。香春岳の山頂に築かれた山城。現福岡県田川郡香春町香春あたり。
*餘勇 あふれる勇気。
*竪降旗 竪は、まっすぐに立てる。降旗は、降参の旗。
*日向耳河 日向国を流れる大河。現宮崎県日向市美々津を河口とする。ただし、具体的にどこで戦闘があったか不明。
*薩州太守島津 島津義久(1533~1611)。戦国時代の武将。薩摩国を基盤に、九州全域をほとんどその勢力下においたが、のち秀吉に降伏し、以後薩摩・大隅などを領した。ここでの太守は、現実に領有している者を示す。他方、「筑前刺史」などの「刺史」は、官職の「守」であり、現実の領有とは関係がない。
*方寸 心中。胸中。
*韓淮陰在沛公言聴計用 「韓淮陰」は、淮陰侯韓信。「沛公」は、漢の劉邦。韓信は、劉邦の重臣。「言聴計用」は、上申する意見が採用され、作戦計画が採用される。『史記』淮陰侯列伝第三十二「倍楚而帰漢。(中略)推食食我、言聴計用」に基づく。
*勾勘 勘解由使(かげゆし)の唐名。如水は勘解由次官に任ぜられた。
〔9.天下一統〕
十八年庚寅、秀吉、東征して小田原城を囲むこと数月なるも下らず。果して居士の智計を以て、北条、城を退き誅に伏す。六十六州、其の統を一にし、生民万歳を呼ぶ。
*小田原城 相模国にあった城(現神奈川県小田原市城内)。
*生民 人民。
〔10.朝鮮への侵攻〕
文禄元年壬辰、秀吉、朝鮮国を征す。三将を遣して先鋒と為すに、嗣子長政も亦た其の一員なり。居士も亦た相い追ひて海を超ゆ。小西接州前司行長、人に逢ふも行を蔵す。居士、其の短なるを指すも、行長聴かず。居士却回し、秀吉に白して言く、
「行長、真に執拗なるかな。而も他言に従はず。其の軍、必ず敗るるや否や」と。
果して居士の言の如し。二年癸巳、秀吉、旌旗を居士に賜ひ、命じて曰く、
「汝、我に代りて朝鮮に到れ。令を諸軍に出すは可なり」と。
居士、是れに因りて再び海を超ゆ。其の軍忠、勝て算ふべからず。秀吉、博陸の職を以て秀次に譲る。仍て秀吉を称して太閤と謂ふ。居士、時時に博陸を諫めて曰く、
「庶幾くは、殿下、大閤に代りて、朝鮮を伐たれんことを。殿下、海を過ぐれば、号令必ず厳ならん。厳なれば則ち凱旋、日有るべからず」と。
殿下、諫を納れず。居士、咨嗟して曰く、
「殿下、恐るらくは職を失はん」と。
居士の言、果して符を合すが如きなり。
*三将 豊臣秀吉は、宗義智・小西行長らの第一軍、加藤清正・鍋島直茂らの第二軍、黒田長政らの第三軍を順次出兵させたが、「三将」とはこの三軍を指すと思われる。
*小西接州前司行長 小西行長(?~1600)。戦国時代の武将。宇喜多氏、のち豊臣秀吉に仕え大名となった。関ケ原の戦いで石田三成方に属して敗れ、殺された。「接州」は、摂州のこと。
*逢人蔵行 解釈難。味方に会っても自軍の行軍計画を隠したと解釈した。
*却回 ひきかえすこと。
*執拗 頑固に自分の考え、態度をゆずらないさま。
*博陸之職 関白の職。
*秀次 豊臣秀次(1568~95)。秀吉の甥。天正19年(1591)、秀吉の長男鶴松が死に、養子に迎えられて関白となったが、文禄2年(1593)の秀頼誕生後寵愛を失い、謀反の疑いで高野山へ追われ自殺。
*咨嗟 声を出して嘆く。
*合符 符合。
〔11.関ケ原合戦と筑前拝領〕
慶長三年戊戌、大閤薨ず。内府家康、遺命を受け、幼主秀頼を輔佐す。爰に石田礼部三成なるもの有り。陰謀を運び、内府の権を奪はんと欲す。居士、密かに内府に通じ、三成をして江州佐和山に蟄居せしむ。五年庚子、三成終に叛す。濃州以西五畿・中国・四国・九国、皆三成に与す。三成、屡次居士を勧むと雖も、義に於いて聴かず。惟の時、内府、東武江戸に在り。長政も亦た従ひて後に東す。秋九月、居士、一万の騎兵を率ゐ、豊後立石に赴き、一戦して大友義統を生擒し、其の党兵を誅戮す。安喜・富来両城、其の勢ひを聞きて、甲を脱ぎ絃を弛め以て降る。居士、凱歌を唱ひ、豊前に帰し、小倉城を陥し、又た筑後にも赴き、柳川城を囲み、城主立花統虎降る。昔三寸の舌を以て斉の七十城を下すこと、併せ按ふべきなり。十五日、内府家康上京し、濃州に於いて一戦し、三成を擒へ、諸国旧に復す。長政、軍忠有るを以て、豊前を改め筑前に任ぜらる。是に於いて城を築き福岡と号す。惟の父有りて惟の子有ると謂ふべし。
*内府家康 徳川家康(1542~1616)。慶長元年(1596)、内大臣任官。同8年2月、右大臣・征夷大将軍となる(右大臣は同年10月に辞退)。碑文撰述時の同9年現在では前右大臣だが、碑文では、ここに限らずなるべく記載事象の当時における状況が反映されている。
*秀頼 豊臣秀頼(1593~1615)。秀吉の第二子。慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで徳川方に敗北し、摂津・河内・和泉を領する一大名に転落。同20年(1615)、大坂夏の陣で滅亡。
*石田礼部三成 石田三成(1560~1600)。治部少輔(「礼部」は、治部省の唐名)。五奉行の一人として豊臣秀吉に仕え、行政面で実績をあげ、近江佐和山城主に封ぜられる。秀吉の死後、反徳川勢の中心となるが、加藤清正・黒田長政等に排斥され家康の命で佐和山に引退させられた。関ケ原の戦いで敗れ処刑。
*屡次 しばしば。たびたび。
*豊後立石 現大分県杵築市山香町立石あたり。
*大友義統 1558~1605。豊後を本拠とした戦国時代の大名。豊臣秀吉の九州攻めにしたがい、同国を安堵されるも、文禄の役で明の大軍と戦わずして退去したため改易。関ケ原の戦いの際、豊後で再起をはかったが、碑文にある通り失敗。
*安喜富来両城 安喜城は、豊後国にあった城。安岐城とも。伊予灘に注ぐ安岐川の河口部左岸域。現大分県国東市安岐町下原あたり。富来城は、同国にあった城。国東半島の東部、伊予灘に面する富来港の北側。現同市国東町富来浦あたり。
*柳川城 筑後国にあった城。現福岡県柳川市本城町に所在した。
*立花統虎 立花宗茂(1568~1642)。戦国時代の武将。統虎は、初名。碑文の通り、関ケ原の戦いで豊臣方につき所領を没収され、奥州に移封。大坂夏の陣後、柳川城主に返り咲いた。
*三寸舌下斉七十城 漢の劉邦が斉の国を下そうとして、酈食其(れきいき)なる説客を派遣し、弁舌によって武器を用いず降伏させた故事(『史記』淮陰侯列伝第三十二「酈生(中略)掉三寸之舌、下斉七十餘城」)。
*於濃州一戦 関ケ原の戦いのこと。
*築城号福岡 関ケ原合戦の後、恩賞地筑前に入封した黒田家は、当初名島城(現福岡県福岡市東区名島)に拠ったが、博多の西隣に城を築き、黒田氏の故地に因み福岡城と名付けた(現同市中央区城内)。以後城主は黒田氏の歴代が相継ぎ明治維新に至った。
〔12.家康の褒賞 参禅・詩歌へのあこがれ〕
冬十一月、居士、義統を携へて入京す。内府、先ず問ふに九州戦闘の次第を以てす。居士逐一に之に答ふ。内府、歓抃に堪へず、謂ひて曰く、
「必ず朝に奏して転位せしめん」と。
居士跪きて曰く、
「我已に老いたり。富貴は願ふに非ず。如かず、帰去せんには。烟霞の痼疾を生じ、泉石の膏肓を発し、僧話を幽竹の院に陪ね、茶烟を落花の風に颺げん。唐詩を誦じ、倭歌を詠み、逍遙して自適なるは、是れ亦た帰後の賜なり」と。
内府家康、此の言を聞きて曰く、
「今に処り古を行ふは、居士を除くの外、又た誰ぞ。至れるかな、玄なるかな」と。
是れに先んじて教僧曰く、
「戈を止むの日を待て」と。
言、浪りには施さず。希有なり、希有なり。六年辛丑、大徳寺三玄院を扣ね、祖師向上の巴鼻を闚ふ。
*歓抃 よろこんで手をうつこと。
*不如帰去 「帰去」は、東晋の詩人・陶淵明の「帰去来辞」すなわち淵明が仕官を辞し帰郷して作った詩を念頭に置いていると見られる。
*生烟霞痼疾 病気と疑われるほどまで自然の風景を愛し好む。「烟霞」の原義はかすみで、ここでは俗塵を離れた清浄なる自然。「痼疾」の原義は病気で、ここではある物事に執着するくせ。
*発泉石膏肓 「生烟霞痼疾」と同様の意(「*生烟霞痼疾」参照)。膏肓は、心臓と膈膜との間の部分で、ここに病が入ると直らないという。
*陪僧話於幽竹之院 唐代の李渉(りしょう)の漢詩「題鶴林寺」(『唐百家詩選』巻十四所収)すなわち「終日昏昏醉夢間、忽聞春尽強登山。因過竹院逢僧話、又得浮生半日閑」の転句を踏まえた表現。「陪」は、そえる。「幽竹」は、奥深く静かな竹林。
*颺茶烟於落花之風 唐代の杜牧(とぼく)の漢詩「題禅院」(『樊川詩集』巻三所収)すなわち「觥船一棹百分空、十歳青春不負公。今日鬢絲禅榻畔、茶烟軽颺落花風」の結句を踏まえた表現。「鬢絲」は、薄く白くなった毛。「禅榻」は、坐禅に用いる腰掛。「茶烟」は、茶を沸かす時の煙。「颺」は、風で吹き上げられる。「落花風」は、花を散らしてしまう風。如水は、老いた身には、茶を沸かしつつ禅院で坐禅をするのが良いというのであろう。
*唐詩 漢詩。
*至矣玄矣 至矣は、この上なく行き届いている。玄矣は、解釈やや難。はかりしれないほど奥深いと解釈した。
*扣大徳寺三玄院 扣は、たずねる。問う。三玄院は、京都大徳寺の塔頭。天正年間(1573~92)に石田三成・浅野幸長・森忠政の3名が、春屋宗園を開山として創建したと伝える。春屋は、龍光院の開山でもある(「*龍光禅院」参照)。
*祖師向上巳〔巴〕鼻 祖師は、釈尊はじめ法系譜上の師匠。向上は、迷いの境から悟りの境地に入ること。巴鼻は、物のとらえどころ。要点。
〔13.筑前への引退と天神〕
七年壬寅、筑前に退休す。蓋し長政を以て其の太守に為せばなり。紫府天満宮及び観世音寺、最も先に之を修す。神や、昌泰四年辛酉、太宰府都督に左迁せられ、奮激の餘り、䟽を裁し天に祈り、威徳天神と為る。威験の日に新たなること、猶ほ、月来たりて花の影を弄ぶが如し。梅は千里に飛び、松は一夜にして老ゆ。其の霊威、枚挙するに暇あらざるなり。蝶魂に托するが若きに至りては、龍淵に参じ、頷下の珠を探り得て、光明目を奪ふ。世に神と曰ふは、乃ち観自在の応化なり。梵に補怛落と曰ふは、乃ち観音の住する所なり。唐には小白梅花と言ふ。然れば則ち神の在る所、梅無かるべからず。梅の千里を遠くせずして飛び来たるは、以有るかな。元・明の巨儒、此の事に渉る。而して天錫に「観音寺裏、一声の鐘」の吟有り、洪序に「一夜、飛香、海雲を度る」の詠有り。異域すら猶ほ尓り。何ぞ矧んや吾が朝に於いてをや。児童・走卒、皆知りて之を敬ふべし。居士・太守の、共に信を取るは、其の理無きに非ざるなり。
*退休 しりぞいて休むこと。
*紫府天満宮 紫府は、筑紫の府、すなわち大宰府。紫府天満宮は、大(太)宰府天満宮のこと。祭神は菅原道真。延喜3年(903)に没した道真を葬って聖廟を設け、勅命により殿舎を造営したのに始まる。京都の北野天満宮とともに、天神信仰の中心的神社。
*観世音寺 大宰府にある寺(現福岡県太宰府市観世音寺に所在)。天智天皇の発願寺院。奈良東大寺、下野薬師寺とともに日本三戒壇の一つ。不空羂索観音像、十一面観音像が伝わっており、観音信仰の寺院。後述で天神が観音の化身であることが触れられ、また末尾の漢詩で如水が天神の化身であることが述べられる。如水と観音との関係性の深さを主張せんがために、ことさらに同寺の修造事実を述べているわけである。
*神 神すなわち天神(碑文では威徳天神)となった菅原道真(845~903)。道真は、平安初期の公卿、学者。宇多・醍醐天皇に重用され、従二位右大臣に至ったが、延喜元年(901)、藤原時平の中傷によって大宰権帥に左遷。当地の生活は窮迫をきわめ翌々年に死没。死後、朝廷や藤原氏に不幸が続き怨霊によるものとされたため、官位が追贈されたり、天神として崇められたりした。
*左迁太宰府都督 左迁は、左遷。太(大)宰府都督は、大宰府の責任者の唐名で、ここでは大宰権帥(ごんのそち)。
*奮激 激しく心をふるい起こすこと。
*裁䟽 奏状を作成するとの意と思われる。
*威験 祈願・祈禱などで神仏などが現す偉大な力。
*月来花弄影 前文(「威験日新者」)と合わせて合理的な解釈を施すことが困難。現代語訳は試案。
*梅千里而飛 菅原道真没後に生じた天神信仰における一伝説。道真が平生愛していた梅の木に「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」と詠んだところ、その梅の木が大宰府に飛んで来て、そこで生え匂ったという。
*松一夜而老 飛梅とともに、菅原道真没後に生じた天神信仰における一伝説。『北野縁起』によると、近江国比良宮の禰宜三和良種の男子に道真の託宣がやどり、京の右近の馬場にて松の種を植えよという。果たしてそうすると、一夜の内に松が千本生えた。その霊威に驚いた人々は、当地に殿舎を建て道真を祀った。なおこれが現在の北野天満宮である。
*至若托蝶魂参龍淵探得頷下珠 全体として、気絶中の日蔵上人が夢で天神から受けた啓示を述べていると考えられる。「托蝶魂」は、夢に見る。夢の中で蝶になり蝶と人間との区別を忘れたという『荘子』(斉物論第二)の故事に基づく表現。「参龍淵探得頷下珠」は、『荘子』(列禦寇第三十二)の故事に基づく。危険を冒し手に入れ難い大事な宝を得ること。『北野縁起』によれば、金峰山の日蔵上人という人は、気絶している時、怨念満ち満ちた恐ろしい姿の天神に遭遇した。天神は、我が像を造ったり名号を唱えたり真摯に祈ったりすれば、やがて良い報いがあると上人に告げた。上人は蘇って、子細を奏聞したという。
*応化 仏・菩薩が世の人を救うため姿を変えて現れること。
*唐言小白梅花 観音菩薩が住む山を、梵語の音写で「補陀落」(ふだらく)といい、「小花樹山」と漢訳する。「小白梅花」と訳す典拠は未詳。
*天錫・・・之吟 天錫は、薩都剌(さっとら、1308~?)の字。元代の人。漢詩全文は、「天満宮」との題で「無常説法現神通、千里飛梅一夜松。万事夢醒雲吐月、観音寺裡一声鐘」(『新芳薩天錫雑詩妙選藁全集』所収)。
*洪序・・・之詠 洪序は、明初の詩人。漢詩全文は、「日本曽聞北野君、愛梅瀟洒又能文。謫居西府三千里、一夜飛香渡海雲」(『梅城録』所収)。
*走率〔卒〕 はしりづかいをする下部。下僕。
〔14.崇福寺の移転〕
此の資より始めて、筥陽に于いて、志嶋に于いて、百廃具に興る。時なるかな、時なるかな。紫府の崇福禅寺を以て、筥陽の松間に徙し、大徳禅寺の雲英大和尚を招請し、開堂演法して、衆聴を聳動す。古人云く、「王者の徳の、山陵に出づれば、則ち慶雲出づ」と。雲英、乃ち是れ居士の慶雲なり。太守、継ぎて龍光禅院を創す。龍吟じ雲興るは、而ち居士の初め生るるや、慶雲の屋を蓋ふの懸讖に符す。八年癸卯、慈嶋の隘狭にして、旅客の舟を繫ぐに便ならざるを以て、是の故に石累を築く。土は一簣の止むことも無く、終に其の地を広洪すること、三町餘りなり。爾来、官船・商舶の往還、風波の難を攘ふ。
*筥陽 筥崎。筑前国の地名だが、ここでは筥崎宮(現福岡県福岡市東区箱崎)のこと。同社は八幡神を祭り、筑前国一宮。「陽」は旧国名などの後に美称として付けて用いる語。
*志嶋 筑前国の志賀島(しかのしま)に鎮座する志賀海(しかのうみ)神社(現福岡県福岡市東区志賀島)を指すと見られる。
*崇福禅寺 臨済宗大徳寺派の寺。山号は横嶽山。仁治元年(1240)湛慧が大宰府の横岳に創建したという。翌年宋から帰朝した円爾(えんに)を開山に迎えた。碑文の通り横岳(現福岡県太宰府市観世音寺六丁目)から、慶長5年(1600)黒田氏により現在地に移され(同県福岡市博多区千代)、菩提寺となった。
*筥陽松間 筥崎の松原。筑前国筥崎の海岸にあった松原で、博多湾に面する景勝地。筥崎宮の境内にその一部が残る。なお「*筥陽」参照。
*大徳禅寺雲英大和尚 雲英宗偉(1560~1603)。臨済宗の僧。京都大徳寺住持を経て、崇福寺の中興開山。
*聳動 ひどく驚かして動揺させること。
*龍光禅院 京都大徳寺の塔頭。黒田長政が父如水の菩提を弔うため創建したという。開山は春屋宗園。春屋は、三玄院の開山でもある(「*扣大徳寺三玄院」参照)。
*龍吟雲興 竜が吟ずれば雲が応じることをいう。『易経』乾「同声相応、同気相求。水流湿、火就燥。雲従竜、風従虎」に基づく。
*懸讖 予兆・予言に当てはまるとの意と見られる。
*慈嶋 地島という筑前国の島(現福岡県宗像市地島)。宗像市鐘崎の北西約1.5キロメートルに位置。
*石累 後述の文(「攘風波之難」)からすると、石で築いた突堤を指すと考えられる。地島の南には、この時築かれたという「殿様波止」と呼ばれる突堤がある。
*土無一簣之止 『論語』子罕第九「譬如為山。未成一簣、止吾止也」を踏まえた表現。一簣は、一杯のもっこ。大規模な土木工事も一杯一杯のもっこの土を運んで完成に至るから、最後の一杯が欠けても完成しない。「土無一簣之止」は、最後までやり切ったということ。
〔15.臨終〕
九年甲辰春三月、居士、病に臥す。長政に向ひ遺訓して曰く、
「死期、必ず念日の辰刻に在り。我の没する後、請ふ、士を愛し民を撫で、直を挙げ枉を措き、孤弱を慈しみ、貧賤を憐み、賢に親しみ佞を疎まんことを。則ち何の追福か焉に加はらんや」と。
期に臨み一首の和歌を詠む。其の声未だ絶せずして、端然として逝く。寿五十又九なり。太守、如法に葬送す。心を用ひ皆居士の遺訓に違はず。孝と謂ふべし。承り聞く、「太守の、居士の病床に侍るや、憂労して睫を交へず、衣を解かず。湯薬は太守の口の嘗むる所に非ざれば、進むること弗し」と。睠みるに、夫の曽参の布衣なるを以てするも猶ほ之を難くす。今太守、親ら長者なるを以て之を修す。曽参の孝に過ぐるや遠し。
*愛士 士族を愛する。要するに家臣を愛すること。
*挙直措枉 公正でまっすぐな人を抜擢し、曲がった人を退ける。
*孤弱 幼いみなしご。また頼る人がおらず、か弱い人。
*一首和歌 「おもひをく言の葉なくてつゐに行道ハまよはしなるにまかせて」と書いた短冊が「黒田文書」に伝世する。
*端然 正しくととのったさま。
*用心 心をくばること。
*憂労不交睫 心配して眠らない。
*曽参・・・修之 このあたり、『漢書』爰盎鼂錯伝第十九「太后嘗病、三年、陛下不交睫解衣。湯薬非陛下口所嘗弗進。夫曽参以布衣猶難之。今陛下親以王者修之。過曽参遠矣」をほぼそのまま用いた表現。曽参は、曽子。中国春秋時代の魯の学者。孔子の弟子。孝の実践者として知られる。「布衣」は、庶人の服。曽子が庶人であることを示す。「長者」は、身分の高い人。
〔16.建碑の経緯〕
一日、使を対府の寓居に差し、告げしめて曰く、
「頃日、石を斲りて居士の碑を為す。願はくは、和尚よ、銘を書し以て賜へ。則ち碑に録して之を不朽に伝へん」と。
予以謂く、「大凡、吾が朝の豪家、考妣を喪へば、寺を建て僧を度し、木を刻みて像に留むるを以て、至孝と為すのみ。今や太守、啻に寺を建て僧を度するのみに非ず、碑に銘し以て其の芳を百世に流さんとも欲す。「孝なるかな、惟れ孝」なること、高く聞く所より出づるなり。古に云く、『忠臣は必ず孝子の門より出づ』と。是れに因りて之を観るに、太守、寔に吾が朝一忠臣にして、漢の三傑に愧ぢざる者なり」と。予、生縁を筑前に結び、姓名を対府に蔵すこと、年茲に久し。而して況や近来、病多く学廃れ、筆硯を視るは猶ほ禿奴の木櫛を視るが如し。然りと雖も若し太守の命を拒めば、恐るらくは本貫を忘るるに似たり。是を以て峻拒する能はず。卑辞を綴りて之を遺し、歌をして以て居士を祀らしむ。其の辞に曰く、
*対府寓居 「対府」は、対馬島の府中のこと。古代に置かれた対馬島府を継承する一帯で、当時も対馬の政治的中心地。現長崎県対馬市厳原町にあたる。撰者景轍は、ここに以酊庵(いていあん)を構え住んでいた。以酊庵の後進寺院は、西山寺(同市厳原町国分)。「寓居」は、自分の住居を謙遜していう語。「*景轍老衲玄蘇」も参照。
*頃日斲石為居士碑 頃日は、ちかごろ。斲は、切り取る。この一文を素直に解釈すると、長政は、撰文を依頼する前にすでに石材を切り出していることになる。
*録碑 石板に彫りつける。
*大凡 おおよそ。
*豪家 権勢のある家。
*㛈妣 㛈は、考と同義と考えられる。考妣は、亡くなった父および母。
*建寺度僧 建寺は、文字通り寺を建てる。度僧は、俗人を得度させて僧徒にする。要するに当該寺院に財源を施入し僧徒が修行できる環境を整える。
*芳 すばらしい名声。
*孝于惟孝 解釈難。『論語』(為政第二)に「子曰、書曰、孝乎惟孝」とあり、「于」は「乎」の間違いか。孝行を強く賛美する意。
*漢三傑 前漢の傑出した3人の忠臣、蕭何(しょうか)・張良(ちょうりょう)・韓信。
*生縁 原義はこの世に生まれてくるための条件。ここでは、生まれた土地。
*禿奴 頭のはげあがった者。
*峻拒 きっぱりと拒絶すること。
〔17.漢詩〕
〇以下押韻ごとに改行。
百戦場中の功第一なるは、黄金只だ合に斯の人をのみ鋳るべし。
黒田の苗裔是れ首に称へ、紫府の菅君即ち身に現ず。
千里の飛梅真に面目、三玄の佳菊精神を更む。
曽て聞く累代姫路に居るに、何ぞ料らんや比年姪浜に隣る。
恵を懐ひて家を移すは他の猛士、躬を忘れて国の為にするは忠臣に幾し。
孔孟を希顔して世間に行はれ、唐虞を慕藺して風俗淳たり。
造化の小児俄に枕を犯し、本州の太守泣きて巾を沾す。
至誠の施す所、孝なるかな惟れ孝。遺命に違ふ勿く、我が民を民とす。
筆下に歌を留め焔部に辞し、牌前に気を呑み蒼旻に哭く。
父子に伝々たり、不伝の妙。石を斲り碑を為すは、輪扁の輪。
慶長第九暦龍甲辰に集る端午の前一日
大明万暦聖皇帝 特賜日本本光禅師前聖福兼高源景轍老衲玄蘇謹んで焉を書す
*百戦・・・ 七言排律。韻字、人・身・神・浜・臣・淳・巾・民・旻・輪(上平声十一真)。
*黄金只合鋳斯人 本句は、中国戦国時代の呉・越闘争の故事と、宋代の詩とを踏まえている。寵愛する女性西施(せいさ)に迷った呉王夫差(ふさ)は、越王勾践(こうせん)に滅ぼされる。戦勝に誇った勾践は次々と功臣を滅ぼしたので、最高の功労者范蠡(はんれい)も越を脱する。非を悟った勾践は金工に命じて范蠡の黄金像を造らせ、座右に置いた。宋代の鄭解は、この故事を踏まえ、詩「嘲范蠡」(『錦縫段』所収。「千重越甲夜成囲、宴罷君王醉不知。若論破呉功第一、黄金只合鋳西施」)を詠んだ。最高の功労者は范蠡ではなく西施で、彼女の黄金像こそ造るべきというのである。本句は結局、天下統一の過程で最高の功労者は、まさにその実積のある人だけだというわけである。
*黒田・・・現身 この漢詩は排律で、本聯(第3・4句)以後、第9聯(第17・18句)まで対句であることに注意。「黒田」は、如水の名字。「苗裔」は、遠く血をひく子孫。末孫。次句の「菅君」に対応することを踏まえると、「苗裔」には、単に末孫というだけでなく、(道真の主君だった)宇多天皇の末孫と考えるのが適当(「*姓源」参照)。「称首」は、第一の者とする。「紫府」は、「*紫府天満宮」参照。「菅君」は、菅原道真。現身は、身を現す。如水は天神の化身というのである。
*千里・・・精神 「千里飛梅」は、「*梅千里而飛」参照。真面目は、本来のありさまやすがた。真価。三玄は、「*扣大徳寺三玄院」参照。「佳菊」の解釈難。陶淵明の「飲酒二十首」の「其七」に「秋菊有佳色、裛露掇其英。汎此忘憂物、遠我遺世情」とあり、世俗を忘れる情感をいったものか。「更精神」の解釈難。物事に執着する心をあらためると解釈した。
*姪浜 筑前国の地名。現福岡県福岡市西区姪の浜あたり。博多湾に臨む。福岡城から西方にやや離れているが、福岡城の隣接地域ではある。押韻の必要上、および前句の「姫路」との対句表現をする必要上、「姪浜」が選ばれた。
*懐恵 利益を得ようと思う。『論語』(里仁第四)「君子懐徳、小人懐土。君子懐刑、小人懐恵」を参考とすれば、否定的な言葉として用いている。
*希顔・・・風俗淳 「希顔」は、晞顏とも。高みを目指して先賢のようになろうと晞(ねが)うこと。『法言』学行巻第一「晞顔之人、亦顔之徒也」(顔は孔子の高弟顔淵(顔回))に基づく表現。「孔孟」は、孔子・孟子。「慕藺」は、賢人を慕うこと。前漢の文人・司馬相如(しばしょうじょ)が、戦国時代趙の臣下・藺相如(りんしょうじょ)を慕って改名した故事から。「淳」は、すなおで飾りけがない。
*造化小児俄犯枕 「造化」は、天地を創造し万物を創造・化育する神。造物主。「造化小児」は、造化の神を、戯れをなす小児のようだといったもの。唐の杜審言(としんげん)が病床にあって、造化の小児のために苦しむと言った故事から(『新唐書』列伝第一百二十六・杜審言)。「犯枕」は、眠りを犯す、すなわち眠りがたいほどの重い病にかかるとの意と見られる。
*至誠・・・民我民 「至誠」は、きわめて誠実なこと。「孝惟孝」は、「孝乎惟孝」と同じと見られる(「*孝于惟孝」参照)。「民我民」は、領地の民を、民として真っ当に扱うとの意と見られる。
*焔部 閻浮提(えんぶだい)。現世の意。仏語。
*牌前呑気哭蒼旻 牌は、位牌。呑気は、呑声と同様の意と見られる。声を出さないようにして泣く。しのび泣く。哭は、大声で泣く。蒼旻は、あおぞら。春の空を蒼天、秋の空を旻天という。
*伝々・・・輪扁輪 「不伝妙」は、言語によっては伝えることのできず、自ら体得しなければならないもの。「輪扁輪」は、車職人の扁(へん)という名の職人の造る車輪。『荘子』(天道第十三)に言及される故事。中国戦国時代、斉の桓公に仕える輪扁(りんぺん)は、聖人の教えを記した本を読む主君を批判する。輪扁は、車輪を絶妙に作っていたが、技術は言葉にはできても、すべてを子供に伝えることはできないし、子供は自分で会得するしかない。聖人の教えも、字面を読むだけでなく体得する必要があるというわけである。要するに本聯は、「孝」の心が決してうわべでは無く如水・長政父子に伝わっていると言いたいのである。なお本聯は、宋の黄庭堅(こうていけん)の詩「題小雀捕飛虫画扇」(『黄山谷詩集』巻七)の転結句「丹青妙処不可伝、輪扁斲輪如此用」を参考としている。
*龍集甲辰 龍は、歳星(さいせい)。歳星は木星のことで、中国上代では木星の黄道上の位置によりその年の名をきめたところからいう。集は、やどる。「歳次甲辰」というのと同意。
*端午前一日 端午は、5月5日。前一日は、その1日前。つまり5月4日。
*大明万暦聖皇帝 万暦帝(1563~1620、在位1572~1620)。明の第14代皇帝。廟号は神宗。なお万暦は、同皇帝の年号(1573~1620)。慶長9年(1604)は、万暦32年。
*景轍老衲玄蘇 景轍玄蘇(1537~1611)。「老衲」は、老いた僧の意。景轍は、戦国時代から江戸時代前期の臨済宗の僧。俗姓は河津氏。同氏は代々筑前国宗像郡に住してきたという。対馬島主宗氏の求めで終生対馬にあり、朝鮮外交に従事。文禄・慶長の役には小西行長・宗義智に従って従軍し、戦時外交に携わる。「*対府寓居」も参照。慶長10年(1605)、南禅寺住持に任命。
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造立年次は慶長9年および10年




その他
補足
- 碑文に見えない黒田如水(1546~1604)の経歴を略記すると、初名孝隆、のち孝高、致仕後政成に改めた。通称は始め万吉、長じて官兵衛、勘解由と称した。名字は、はじめ小寺氏を称したが、のち黒田に復す。キリスト教の洗礼を受け、シメオンと称した。没後、遺言により博多の協会に寄附をしたという。死没地は京都の伏見。筑前崇福寺に葬られたという。
- 碑文の題「龍光院殿如水円清大居士碑并序」について:
「碑并序」という表現は注意を要する。普通、石材に散文と漢詩(韻文)を刻んだ場合、散文の方を「序」、韻文の方を「銘」といい、題は「〇〇碑銘并序」または「〇〇碑」となるのが一般的である。本碑には前半に散文が、後半に漢詩があるが、「碑并序」とある。撰者の詩文集『僊巣稿(仙巣稿)』でも「碑并序」とあるので、書写・刻字段階の誤字ではない。 - 黒田如水の碑文には、下記のテキストがある:
- 僊巣稿本〔A〕
撰者景轍玄蘇の詩文集『僊巣稿(仙巣稿)』に所収。
景轍が脱稿した時のテキストに一番近いと考えられる。
題は「龍光院殿如水円清大居士碑并序」。 - 甲碑拓本〔B〕
『福岡県碑誌』(昭和4年)に載る拓本。拓本元の石の形状は、一面にのみ刻字がなされ、しかも格子状の罫線が刻まれるなど、崇福寺現存の本碑と全く違う。便宜的に拓本元の石碑を甲碑とし、現存碑を乙碑とする。甲碑の所在・伝世状況は未詳。
題は「龍光院殿如水円清居士碑并序」。Aが「大居士」であるのに対し、「居士」であることに注意。文章は、Aとほぼ全部同じ。 - 乙碑(本碑)〔C〕
崇福寺現存の碑。
題はAと同じ。文章は、A・Bとほぼ同じ。ただし、「萬」を「万」と書いたり、「々」字を使ったりしており、A・Bと比べて略字体を使う傾向が顕著。
- 僊巣稿本〔A〕
- 本碑Cの翻刻には、上記A・Bを参考にしたところがある。
- 墓域の写真撮影をする際には、被葬者・祭祀者に対し敬意をもって行った。
参考文献
- 『寛永諸家系図伝』宇多源氏(国立公文書館所蔵、請求番号:特76-1、冊次第151冊)。
- 『寛政重修諸家譜』巻四百二十五(『寛政重脩諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年)200~8頁)。
- 『新釈漢文大系 1 論語』(明治書院、1960年)57頁、209頁。
- 『新釈漢文大系 8 荘子下』(明治書院、1967年)416~8頁。
- 『新釈漢文大系 38 史記 一(本紀上)』(明治書院、1973年)158~60頁。
- 『新釈漢文大系 90 史記 十(列伝三)』(明治書院、1996年)138~9頁。
- 『唐百家詩選』巻十四(『昌平叢書 唐百家詩選 十二之十四』(1909年)巻十四第十五丁)。
- 『樊川詩集』巻三(舘柳湾校『杜樊川詩集 二』(青木嵩山堂、1908年)巻三第十三丁)。
- 謡曲「老松」(『謡曲大観 第一巻』(明治書院、1930年)521~33頁)。
- 『北野緣起』中、下(『群書類従 第壱輯』(経済雑誌社、1898年)688~92頁)。
- 『新芳薩天錫雑詩妙選稾全集』(国立国会図書館所蔵、請求記号:821//254、元禄7年(1694)刊)第四十四丁。
- 『梅城録』(『群書類従 第壱輯』(経済雑誌社、1898年)729頁)。
- 『大日本史料 第十二編之一』慶長八年十月四日条。
- 『大日本史料 第十二編之一』慶長九年三月二十日条。
- 『大日本史料 第十二編之八』慶長十六年十月二十二日条。
- 『錦繍段』(国立国会図書館所蔵、請求記号:821/特別/215、元和2年(1616)刊)第十二~十三丁。
- 『黄山谷詩集』巻七(『漢詩大観 第六巻』(井田書店、1943年)3169頁)。
- 荒井周夫編『福岡県碑誌 筑前之部』(大道学館出版部、1929年)巻頭図版「黒田孝高碑」、159~72頁。
- 『僊巣稿』巻之下(国立公文書館所蔵、請求番号:205-84、冊次第3冊)第十三~十九丁。
所在地
龍光院殿如水円清大居士碑 および碑文関連地 地図
所在:
崇福寺 福岡藩主黒田家墓所|福岡県福岡市博多区千代
アクセス:
福岡市地下鉄 箱崎線 千代県庁口駅 下車
徒歩 約5分
崇福寺の北西側に墓域があり、北側に出入口がある(土曜・日曜に開門)
編集履歴
2024年8月21日 公開
