

明治・昭和に発生し激甚なる被害を及ぼした三陸津波の記念碑。三陸のリアス式海岸沿いに浮かぶ大島(現宮城県気仙沼市)の地に立つ。大島における明治29年(1896)の津波被害は悲惨を極めたが、島民はこれを教訓として高台に住むようになったため、昭和8年(1933)のそれは被害が少なく復興も早かったという。両度の災害のいずれも天皇はじめ諸方から義捐金があって復旧できたことに謝意を表し、これを伝世するために建てられた(復旧の後あまり遠くない時期の建碑と見られる)。撰者は他所の専門学者ではなく、大島出身の知識人で両度の津波を経験した人物と見られる。漢文の語彙・語法はやや荒削りだが全体的に表現は詩的で、なおかつ災害の記述は迫真性があり、津波のすさまじい威力に思いを至らせる。
資料名 MEMORIAL OF THE GREAT EARTHQUAKE AND TIDALWAVE(邦訳:大地震および津波の記念碑)
年 代 昭和8年(1933)頃
所 在 公道脇|宮城県気仙沼市長崎
北緯38°51’18″ 東経141°37’25”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は題字による。年代は内容より推定。
ID 0063_2506
翻刻
「MEMORIAL OF THE GREAT EARTH QUAKE AND TIDAL WAVE」
古来伝説曰、昔有大津浪。滔々襄陵、全島殆為漲濤所浸有。火者
只休石有耳。人々多聚于此。故称休石。亦以鯛掛樹、呼鯛之下等。
未審経年而可数百年過去。而近時荐来襲。自明治至昭和、厪三
十七年間、有二回海嘯。前者、明治廿九年旧暦端午夕刻也。渉数
日震動、遂爆発海底而奔浪濫陸、倒壊家屋、惨死者無算、死屍累
々、相枕籍。親呼子、夫撿妻、離散之叫、怨嗟之声、満巷。真近古未曽
有悲愴也。於是、被害民恐怖去海岸、相地於丘阜巉崖居焉。後者、
昭和八年三月三日午前二時卅二分、地大震也三分間。猝有起
爆音于沖合、而見其放射之光芒於西空。須臾怒濤相豗、衝波狂
瀾捲海底来、噴大磐石於陸上、横流㬈浜、半島七十尺之断崖、注
長崎湾内。其趨勢猛也、齧崖倒樹沈埋、没陸上大石於海中。一襲
以竭島中百餘之船舶。雖其残痕不劣前回、而幸人畜之死傷稀。
則因前回防備完、与各人心裡、反応結果也大矣。寧此隣村被害
小、則地之利、而黒崎・両前見島不扼其湾喉、豈安得逸乎。毎回辱
両陛下恩賜、亦重頼同胞一般洪庇、今回復旧立就。記以伝焉。
東京朝日新聞社、募救恤罹災之義捐、集金実弐拾餘万円也。分
配、仍按分率罹災町村。亦以其残餘之交附金、建此碑云爾。
英文撰 従七位勲七等 小野寺広 小野寺東七撰文並書
野口 義雄 刻之
現代語訳
〔1.大島の津波伝説〕
大地震および津波の記念碑
(宮城県本吉郡の大島の)古い伝説は次のようにいう。むかし大津波があった。すさまじい量の海水が岡を昇り、全島はほとんどみなぎる大波に浸水したことがあった。休石のあたりのみ灯火が見え、人々は多くここに集まった。だから「休石」と称すのである。また、(海水で打ち揚げられた)鯛のかかった樹木があり、そのためここを「鯛の下」などと呼ぶのであるという。このことが起きてから、どれほどの年月が経ったかを未だに明らかにしていないが、数百年前の過去だろう。そして、近年たびたび(津波の)来襲があった。明治から昭和までのわずか37年の間に、2回の津波があった。
〔2.明治の大津波〕
前者は、明治29年(1896)の旧暦端午(5月5日)の夕刻だった。数日にわたって震動があり、ついに海底が爆発して激しい大波が陸地に氾濫し、家屋を倒壊させ、無惨にも亡くなった者は数えあげることもできない。死体は累々と折り重なり、互いを枕にして伏していた。親は子を呼び、夫は妻を探す。離散の叫び、怨嗟の声が巷に満ちていた。まことに前代未聞の悲劇である。そのため損害を被った住民は、恐れを成して海岸を去り、土地の良しあしを占って小高い地や崖に居住した。
〔3.昭和の大津波〕
後者は、昭和8年(1933)3月3日午前2時32分、大地が3分にわたり激しく震動した。突然沖合に爆音が起こり、そして四方八方に放たれた光の筋が西の空に見えた。しばらくして、怒りに満ちたような激しい大波が互いにぶつかり合い、突き上げる大波、狂った大波が海底から海をまるごと巻き上げて襲来し、大岩石を陸に向かって吹き上げ、勝手きままに温浜に流れ込み、半島の70尺(約21メートル)もの断崖は長崎湾に注ぎ落ちた。その勢いの猛きさまは、崖を嚙み砕き樹木を倒れ伏し(海中に)沈めて見えなくさせ、陸上の大石を海中に没したほどだった。ひとたびの来襲で、島中の百艘余りの船舶がなくなってしまった。(襲来の)痕跡の程度は前回に劣らないものではあったが、幸いにも人畜の死傷数は稀であった。というのは、前回の(津波以後に行った)防備が欠けるところのなかったためであるし、各人が(防災に対して)心構えをしていたためでもあり、この二つが(死傷者僅少という)結果に大きく影響したのである。隣村に比較して被害が小さかったのは、つまり地の利であって、黒崎島・大前見島・小前見島が湾のノドを押さえていなかったとしたら、どうして(大被害を)逃れることができたであろうか。
〔4.建碑の経緯〕
両回ともに、かたじけなくも両陛下の恩恵を賜り、また両度にわたり同胞一般人の篤い恵みを頼りとし、このたびの復旧事業はたちまちに成功した。(碑文に)記してこのことを(未来に)伝える。東京朝日新聞社は被災者救済のための義捐金を募り、実に20万円余りが募金された。町村の被災度合いに応じて按分し分配した。またその余った残りの交付金を用いて、この石碑を建てた。以上である。
訓読文・註釈
〔1.大島の津波伝説〕
MEMORIAL OF THE GREAT EARTH QUAKE AND TIDAL WAVE
古来の伝説に曰く、昔大津浪有り。滔々として陵を襄り、全島殆んど漲濤の浸す所と為ること有り。火は只だ休石に有るのみ。人々多く此に聚まる。故に休石と称す。亦た鯛の樹に掛るを以て、鯛之下等と呼ぶと。未だ経年を審らかにせざるも、数百年の過去なるべし。而して近時荐りに来襲す。明治より昭和に至るまで、厪かに三十七年の間、二回の海嘯有り。
〔2.明治の大津波〕
前は、明治廿九年旧暦端午の夕刻なり。数日に渉りて震動し、遂に海底に爆発して奔浪陸に濫し、家屋を倒壊し、惨死する者算ふる無く、死屍累々として、相枕籍す。親は子を呼び、夫は妻を撿し、離散の叫び、怨嗟の声、巷に満つ。真に近古未曽有の悲愴なり。是に於いて、被害の民、恐怖して海岸を去り、地を丘阜・巉崖に相して焉に居す。
〔3.昭和の大津波〕
後は、昭和八年三月三日午前二時卅二分、地の大いに震ふや、三分間。猝かに爆音の沖合に起こる有りて、而して其の放射の光芒を西空に見る。須臾にして怒濤相豗ち、衝波狂瀾は海底を捲きて来り、大磐石を陸上に噴き、横に㬈浜に流れ、半島七十尺の断崖は、長崎湾内に注ぐ。其の趨勢の猛なるや、崖を齧み樹を倒し沈埋せしめ、陸上の大石を海中に没す。一襲し以て島中百餘の船舶を竭す。其の残痕の前回に劣らずと雖も、幸ひに人畜の死傷は稀なり。則ち前回の防備の完きと、各人の心裡とに因り、結果に反応するや大なり。寧ろ隣村に比して被害の小なるは、則ち地の利にして、黒崎・両前見島の其の湾喉を扼へざれば、豈に安んぞ逸るるを得んや。
〔4.建碑の経緯〕
毎回、両陛下の恩賜を辱くし、亦た重ねて同胞一般の洪庇を頼り、今回の復旧立に就る。記し以て焉を伝ふ。東京朝日新聞社、罹災を救恤するの義捐を募り、集金すること実に弐拾餘万円なり。分配は、仍ち按分するに罹災町村を率てす。亦た其の残餘の交附金を以て、此の碑を建つと爾云ふ。
英文撰 従七位勲七等 小野寺広 小野寺東七撰文並びに書
野口 義雄 之を刻む
*滔々 水がさかんに流れるさま。
*全島 宮城県本吉郡の大島(現気仙沼市)。生業の主体は漁業。
*漲濤 みなぎる大波。
*火者只休石有 文意やや不明瞭。『大島誌』を参考にして現代語訳を試みた。「休石」は、光明寺(現宮城県気仙沼市浦の浜)の東の入り口にあるという。
*鯛之下 大島内の地名「竹の下」は、もともと「鯛の下」だったという(『大島誌』)。市民バス大島線の停留所に「竹の下」がある(現気仙沼市外畑)。
*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。
*端午 5月5日。
*奔浪 激しくうち寄せる大波。
*枕籍 互いに枕して寝る。
*撿 みまわるの意と見られる。
*怨嗟 恨み嘆くこと。
*相地 土地の良しあしを占いみる。
*丘阜巉崖 丘阜は、小高い地。おか。巉崖は、がけ。
*光芒 光のすじ。
*須臾 しばらくして。
*怒濤相豗 怒濤は、いかり狂うような大波。相豗は、互いに打ち合う。
*衝波狂瀾 衝波は、つきあげる波。狂瀾は、狂ったようにさかまく大波。
*㬈浜 大島内の浜「温浜(ぬくはま)」のこと。現宮城県気仙沼市中山。なお「噴大磐」から「注長崎湾内」は別の訓読も考え得る。
*長崎湾 現宮城県気仙沼市長崎あたりに面する湾を指すと見られる。南北に長い大島の中ほどの、東側の湾。長崎は、本碑の所在地である。
*竭 なくす。
*黒崎・両前見島 黒崎島は、大島南端の南にある小島。両前見島は、大島の東にある二つの小島で、大前見島と小前見島。
*扼其湾喉 扼は、押さえる。湾喉は、湾のノド。湾は、具体的には長崎湾を指していると見られる(「*長崎湾」参照)。長崎湾の東に、大前見島・小前見島がある。
*洪庇 おかげ。
画像







左方は小前見島。
その他
補足
- 本碑文はすでに『気仙沼市史』に翻刻され、一部訓読文が『大島誌』に掲載されている。
参考文献
- 『気仙沼市史 八 資料編』(気仙沼市、1995年)560~1頁。
- 『大島誌』(大島郷土誌刊行委員会、1982年)713、744頁。
- 菅野青顔他著『気仙沼近代畸人伝 一』(NSK地方出版社、1983年)153~8頁。
所在地
大地震および津波の記念碑および碑文関連地 地図
所在:
公道脇|宮城県気仙沼市長崎
アクセス:
JR 大船渡線 気仙沼駅 下車
市民バス大島線に乗り換え 大島学校前 下車
徒歩約10分
公道脇にあり
編集履歴
2025年6月9日 公開
