海嘯紀念之碑

歌津中山の海
概  要

明治29年(1896)に発生し東北地方沿岸に激甚な被害を及ぼした三陸津波の碑。宮城県旧うた村(現南三陸町)内の馬場ばばおよび中山なかやまの地の境界に立ち、その被害を刻む。両部落は戸数60程度の村落だったが、7割近くの戸が津波に流され200名を超す溺死者が出た。4年後、犠牲者の追悼法会が開催され、間もなく建碑されたと考えられる。天皇や各地の人々の援助により当地が復興しつつあることを記し、そのことが忘却されないよう両部落の有志によって本碑は建てられた。「当時の惨劇を回想するとき、だれが悲しまずにおられようぞ」(現代語訳)との一文は、近隣出身と見られる撰者の偽りない心情が知られるのみならず、当時多くの人々がそうであった事実を確かに代弁していて生々しい。

資料名 かいしょう紀念之碑
年 代 明治33年(1900)
所 在 公道脇・五十鈴神社|宮城県本吉郡南三陸町歌津馬場
 北緯38°43’07″ 東経141°33’22”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0065_2508

目次

翻刻

「海(篆額)念之碑」
天災地異、何世無之。而其〔流ヵ〕甚、未有如明治丙申六(二十九年)月之海
嘯者也。夫三陸之地、西北山岳、東南臨水。沿海数百里、浜浦相
連、港湾相接、怒濤浪、々不免。虞、〔于ヵ〕千害一〔遇ヵ〕。至於
之海嘯、実古未曽有之嘯、而三陸沿海之地、一朝如人之境。
歌津村、(宮城県本吉郡)戸数僅五百、概属浜浦。是以被其害者、亦為甚矣。場・
中山之二浜、素同部落。戸数五十九、二地交界、家屋聯〔軒ヵ〕息之間、
流失四十餘戸、溺死者超二百、馬斃死五十餘頭。可謂惨至酷極
矣。 聖上派(明治天皇)**従官、賜金穀。至、以痍皆起、家屋稍将復。越
庚子年十(三十三年)月、二浜有志、津龍院二(宮城県本吉郡)十世雄龍師、為道師(ママ)、召集高僧
二十餘人、設場於中山、大挙行餓鬼。遠近聞之供養者、幾千人。
悉輸酒、以之。吁又盛矣。抑到之者、蓋雖曰因導師之智徳、而非
川諸氏之樹根、焉得至于此哉。下幽冥之鬼、可以也。顧回
想当時之惨状、則誰不鼻。況於之者。復有所大不忍者焉。雖然、
意之所在、情之所注、或恐帰于滅。於是乎、諸氏胥謀、欲刻
概、以伝不朽。若夫〔献ヵ〕可徴、則是亦万代之史鑑也哉。
  明治卅三庚子年冬十一月  筠渓 金士文撰并書(方印影「金氏章」)(方印影「□□〔士文ヵ〕」)

  〇ウラ面。
(上段人名略)

発起人
 (人名略)
世話人
 (人名略。及川姓少なからず)
馬場・中山両浜、建之。

現代語訳

〔1.明治の三陸津波〕
津波の紀念碑
いかなる時代ならば天変地異が無いということがあろうか(いつの時代でも起こる)。そしてそういった天災で著しい弊害を後世に残したものとして、明治29年(1896)6月の津波に匹敵するものは、未だかつて存在していない。さて三陸さんりくの地は、西北に山岳があり、東南は海に臨む。沿海えんかいは数百里(百里は約390キロメートル)にわたって浜や浦が連なり、港や湾が接し合うので、荒れ狂う波が折々に激しく打ち寄せて来るのを免れることはできない。(しかし)心から恐れるほどの波の被害は、一千回に一回しか起こり得ない。この度の津波にいたっては、まことに太古以来、未曽有の大波であって、三陸沿岸部はわずか一朝の間に無人の土地になってしまったかのようだった。
〔2.宮城県歌津村の惨状〕
例えば(宮城県本吉郡)うた村は、戸数はわずかに500で、(その土地は)ほぼ浜や浦であるが、(津波のために)災害を蒙った程度は極めて甚だしかった。(歌津村の)馬場ばば浜と中山なかやま浜は、昔から部落を同じくしてきた。(その二地域の)境界は交わりつつ、59を数える戸が、軒を連ねるように隣接している。(それが)わずかの間に40余りの戸が流れ去って、200を超える人々が溺死し、50頭余りの馬などが倒れ死んだ。これ以上酷なことはなかろうし、無惨の極みというべきだろう。
〔3.天皇の救済〕
天皇陛下はじゅうかんを派遣し(現状を視察したり窮民を慰撫したりさせ)、金銭・穀物を賜りたもうた。被災者に対して十分に行き届いた援助が行われたので、被災して傷ついた人々はみな回復し、次第次第に住宅も復旧しつつある。
〔4.施餓鬼法会〕
そののち33年(1900)10月、二浜の有志はしんりゅういん20世の雄龍に頼んで(法会の)導師となってもらい、高僧20人余りを召し集め、中山の地に会場を設けて施餓鬼せがき法会を大々的に挙行した。これを聞いて亡霊供養に名を連ねた遠近の人々は、ほとんど千人にのぼった。ありたけの酒や餅を差し上げ、そうして(亡霊は)飽きるほど食して満足した。ああなんと盛大なことだろうか。そもそもここまでに至ることができたのは、おそらくは導師の智恵や徳義のためといってよいだろうけれども、及川おいかわ諸氏が善根ぜんこんを施さなかったならば、どうしてここまでに至ることができただろうか。黄泉の亡霊たちは、安らかに眠るであろう。
〔5.建碑の経緯〕
顧みて当時の惨状を回想すれば、心いたみ悲しまない者などいようか。まして、これを記す者(=本碑文の撰者自身)にとっては尚更である。まことに忍びえないものがある。そうとはいっても、天皇陛下の有り難いおぼしめしや、一般人民からの厚意が、あるいは忘れ去られてしまうのではないかと恐れる。そのためか、諸氏は相談し、(災害や施餓鬼法会の)概要を(石に)刻み、そうして未来に伝えたいと考えた。(こんご)もし諸文献(の著述)のために(本地域における被害や救済の事跡を)求めることがあるならば、(その資料を提供できるために本碑文は)幾世代にもわたる歴史のかがみとなるだろう。(本碑を建てる意義はここにもある)
  明治33年(1900)11月

訓読文・註釈

〔1.明治の三陸津波〕
かいしょう紀念の碑
天災地異、いずれの世にかこれ無からん。しこうして其の流毒の太甚たいじんなる、未だ明治ひのえさる六月のかい
しょうもの有らざるなり。三陸さんりくの地、西北は山岳をし、東南は水に臨む。沿海えんかいの数百里、ひんい連なり、港湾こうわん相い接し、とう猛浪もうろう往々おうおうに免れず。其のおそれ、千害ごとひとたびふ。這般このはんかいしょうに至りては、実にせん未曽有のたいしょうにして、三陸沿海の地、一朝に無人のきょうの如し。

〔2.宮城県歌津村の惨状〕
うた村のごとき、戸数わずかに五百、おおむね浜浦に属す。ここを以て其の害をこうむものも、最甚さいじんり。馬場ばば中山なかやまひんもとより部落を同じくす。戸数五十九、二地にちかいまじえ、家屋のきつらぬ。しゅんそくかん、四十餘戸を流失せしめ、溺死者は二百を超え、馬へいするもの五十餘頭。さんの至り、こくの極みとふべし。

〔3.天皇の救済〕
せいじょうじゅうかんつかわし、きんこくたまふ。しんじゅつし、以てそうき、家屋ようやまさふくさんとす。

〔4.施餓鬼法会〕
越えてかのえ年十月、二浜の有志、しんりゅういん二十世雄龍師にひて、どうし、高僧二十餘人を召集し、場を中山に設け、大いに施餓鬼せがきを挙行す。遠近えんきんの之を聞きて供養にまじわもの、千人にちかし。ことごと酒餻しゅこういだし、以て之にく。ああた盛んなるかな。そもそも之にいたるは、けだどうの智徳にるとふといえども、及川おいかわ諸氏の善根ぜんこんつるにあらざれば、いずくんぞここに至るを得んや。せん幽冥ゆうめい、以てねむるべきなり。

〔5.建碑の経緯〕
顧みて当時の惨状を回想すれば、すなわち誰かさんせざらん。いわんや之を記すものいてをや。た大いに忍びざる所のもの有り。しかりと雖も、せいる所、みんじょうそそぐ所、或いは湮滅いんめつするをおそる。ここいてか、諸氏はかり、梗概こうがいを刻み、以てきゅうに伝へんと欲す。れ文献にちょうすべくんば、則ちこれ亦た万代のかんならん。
  明治卅三庚子年冬十一月  筠渓 金士文撰ならびに書

*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。

*紀念 物をとどめて後の思い出にする。

*流毒 弊害を残す。

*太甚 はなはだしい。

*猛浪 荒れ狂う波。

*往々 おりおりに。

*其虞千害一隅 このあたりの判読と解釈やや難。「隅」は、千載一遇の「遇」の誤字と考えた。訓読文・現代語訳は試案。

*這般 このたびの。

*千古 遠い昔から現在までの長い間。

*大嘯 大きな海嘯。大津波のこと。

*無人之境 無人の土地。

*歌津村 宮城県本吉郡の村(現同郡南三陸町歌津)。

*最甚 実にはなはだしい。

*馬場中山之二浜 馬場も中山も歌津村内にある沿海の地(現宮城県本吉郡南三陸町歌津馬場および同町歌津中山)。馬場は中山の南に隣接する。

*瞬息之間 わずかの間。

*聖上 天子。ここでは明治天皇。

*侍従官 天皇側近の官職。

*賑恤 困窮者を援助するため金品を与えること。

*備至 行き届く。

*瘡痍 災害で損害を受け苦しむ人。

*津龍院 歌津村内の曹洞宗寺院(現宮城県本吉郡南三陸町歌津館浜)。

*施餓鬼 餓鬼道におちて飢餓に苦しむ亡者(餓鬼)に飲食物を施す意で、無縁の亡者(ここでは明治三陸津波による亡者)のために催す読経や供養。

*交供養 施餓鬼の法会に参集する意と、法会のために金品を差し出す意と、二つあると考える。

*餻 餅を指すと見られる。

*飽 お腹いっぱいに食べる。

*及川諸氏 及川を姓とする諸氏。

*善根 仏教語で、原義は来世で善い果報を招く原因となる善い行い。ここでは、法会開催のための援助や協力を指すと考えられる。

*泉下幽冥之鬼 「泉下」も「幽冥」も、あの世。冥途。「泉下幽冥之鬼」とは、津波で亡くなった亡霊のこと。

*瞑 眠る。不慮に亡くなり遺恨のある亡霊が心安らかになることを「瞑」と表現していると考えられる。

*酸鼻 心を痛めて悲しむ。

*記之者 碑文を記す人。撰者が自身のことをこう表現した。

*聖意之所在 直訳すると、天皇が思いを致すもの。すなわち被災者を救済せんとすることであり、より具体的には勅使(侍従官)派遣による慰撫や金品の賜与を指す。

*民情之所注 直訳すると、人民が心を寄せるもの。碑文だけからは情報が少なく文意不明瞭だが、「聖意之所在」(「*聖意之所在」参照)を参考とすると、より具体的には日本各地から歌津地域への義捐金や援助活動を指していると考えられる。

*湮滅 あとかたもなく消え失せる。

*梗概 概要。

*文〔献ヵ〕可徴 解釈やや難。現代語訳は試案。「歴史書などの書籍作成に際し、被災事跡の情報を提供し得る」というのが本碑の価値の一つだと、撰者は考えているらしい。

画像

全景1 (撮影日:’24/11/22。以下同じ)
全景2
全景3
碑面
ウラ面
石碑から歌津中山の集落を見る
歌津中山の海
五十鈴神社本殿
五十鈴神社から歌津中山・馬場の海を見る

その他

補足

  • 特になし。

参考文献

  • 特になし。

所在地

海嘯紀念之碑(南三陸町歌津)および碑文関連地 地図

所在
公道脇・五十鈴神社|宮城県本吉郡南三陸町歌津馬場

アクセス
JR 気仙沼線 歌津駅 下車
徒歩約1時間
公道脇・五十鈴神社参道鳥居側にあり

編集履歴

2025年8月6日 公開
2025年9月12日 小修正

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