

明治27年(1894)、山形県西部庄内地方に起こった大地震(庄内地震)をしるす碑。酒田の日枝神社境内に立つ。
庄内は近世以来の大穀倉地帯である。その実りをもたらす最上川の河口には酒田の町と港があり、良質な庄内米を各地へ輸出してきた。東北地方日本海側における最も豊かなこの町は、しかし大地震と、共に起こった大火災とによって一変。焼失・倒壊家屋は数千戸に及んだ。庄内砂丘上にある当地は砂質の地盤で、ために液状化現象も起こり被害は拡大してしまう。
折しも日清戦争の有事下であったが、庄内藩旧藩主家酒井氏や当地の富豪本間氏による炊き出しがあり、また天皇・皇后による義捐金の寄附や勅使の派遣・慰撫も成された。貴紳の活動に影響され、各地から被災者救援の動きがあり、徐々に町は復興していったという。本碑は、こういった救済の徳行を永遠に伝えようと、6年後に造立された。
丁寧にはっきりと字の刻まれたこの巨石は、大きな自然石を惜しげなく積み並べた石段の上に、砂防林の大松に囲まれて実に威厳ありげに立っている。人は、逆境を越えて順境に転じた後は、大災害の苦難を忘れ日常に安住してしまうので、本碑によって後世の人々を戒めたい、とも刻む。こういった主張は、本碑の厳めしさや文飾気味な文体と相俟って、権威主義的で上から目線の文章にも感ぜられるが、他方、情報媒体としての石碑の特長が活かされた、古今不変の警告ともいえる。
資料名 甲午震災紀念碑
年 代 明治33年(1900)
所 在 日枝神社 境内|山形県酒田市日吉町
北緯38°55’09″ 東経139°49’45”
文化財指定
資料種別 石碑
銘文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。年代は、撰文の年。
ID 0066_2508
翻刻
「甲午震災紀念碑」
従三位勲二等西村茂樹篆額
荘内之地、文化以来、三罹震災。而明治二十七年十月二十二日之変、実莫惨焉。蓋此月之初、天気晴
朗、温煖如春、井涸水渇。至前日、陰鬱濛闇、寒冷俄加。此日薄暮、轟然激震。万雷斉発、地裂濤激、一瞬之
間、比屋顛覆。既而火四起、炎焰焦天、僅冗屋梁而脱者、更投烈火之中、或没噴泥之隙、前躓後踣、出九
死而得一生者、苦喚悲号、声動両間、而父子兄弟夫妻、不遑相救焉。凡灰燼二千三百六十戸、倒廃百
九十九戸、破壊六百五十戸、死者百六十七人、傷者三百四十一人。夫酒田之為地、北海要港、人足物
殷、雄乎両羽。而今満目所触、凄風冷雨、敗瓦累々、狼藉焦土。死而不得礼葬、生而泣於餓窮。吁嗟天変
之劇、人事之惨、洵至極矣。官衙公署、即定便宜謀救恤、応急処弁。旧藩主酒井伯、特来慰問、爨給于倉
庫。巨室本間氏、世名慈善。率先爨給于別牆。其他諸氏賑給、共三十八万百十六口。而本間氏、実過其
半矣。其傷者、搬諸避病院、名医来診、施薬治療。又失住者、設茇舎以防寒。苟便民之事、莫不畢謀。於是
菜色少蘇。時強隣構事。 天皇親裁軍国機務、進大纛乎広島。而 皇后親製繃帯、頒賜創痍将士。及
奏此惨状、 両陛下震悼、直賜金四千円、尋差遣東園侍従、伝宣 聖諭。黎民感泣洪恩罔極、僉曰、復
覩天日矣。猶春風之長養草木、靡不欣々向栄也。於是海内勇於義者、勃然而起、捐貲給衣具者有焉。
飛檄而募捐者有焉。遠来慰藉者有焉。人民安堵、努力就産業、市廛漸将復旧。今茲罹災之七年、胥議
建碑日枝祠畔、将伝賑恤之徳于悠久、請文於予。凡人之入逆境也、反省之念、誰不切実。而稍復順境
也、忸乎故常、趨乎安佚、遂忘昔日之大厄。是以重有凶矣。惟惕然敬懼、預備有餘、則庶幾無患歟。此挙
足以儆戒後世不忘也。於是乎記。
明治三十三年歳在庚子十月 菊池秀言撰文
正四位勲三等巌谷修書
〇ウラ面
建設惣代人
白崎善吉
橋本熊五郎
木村茂三
現代語訳
〔1.明治27年の庄内地震〕
甲午年(明治27年)の震災紀念碑
(山形県の)庄内地方では、文化年間(1804~18)以来、三たび地震災害を被った。しかし明治27年(1894)10月22日の大事変(大地震)はまことに悲惨なものであって、これより甚だしいものはないのである。確かこの月の初めのうちは、空が晴れ渡ってさわやかな天気で、春のように気候は暖かく、井戸水は涸れて川の流れはわずかだった。前日に至ると小雨の降る、陰気で薄暗い天候となり、にわかに寒気も加わってきた。そして、かの日の夕暮れ時、凄まじい音を立てて大地が激震した。(それは)万雷が一斉に鳴り響いたよう(に激しいもの)で、大地は裂け波浪は激しく、軒を連ねて立ち並ぶ家々はわずか一瞬のあいだに倒壊してしまった。やがて至るところで火事が起こり、天をも焦がすように炎は盛んに燃え上がる。(倒壊した)棟木や梁の間からなんとか抜け出た人も、あるいは烈火の中で我が身を焼かれ、あるいは(液状化による)噴砂の割れ目にはまり沈んでいった。前につまずき後ろに倒れながら(なんとか)九死に一生を得た人も、苦しみに泣き、悲しみに叫び、その声は天地を動かすほどであったが、(あまりの惨劇に)父子・兄弟・夫婦すらお互いを助ける余裕は無かった。
〔2.酒田の被災〕
総じて灰塵に帰した家屋は2360戸、倒れ崩れた家屋199戸、破損家屋650戸、死者167人、負傷者341人だった。さて(山形県飽海郡の)酒田の地は北海の要港である。人にあふれ物資は豊富で、羽前・羽後(現山形県・秋田県)のうちで特に秀でたところである。ところが今やどこを見渡してみても、すさまじい風が吹き冷たい雨が降る。壊れた瓦が累々と重なり、何もかもが雑然と散乱していて建物は焼け尽きてあとかたもない。亡くなった人々は礼を尽くした葬儀が成されず、生き残った人々も飢餓と困窮で泣き暮らす。ああ、数ある天災のうちでもここまでひどいものはないし、人間社会の出来事でこれほど無惨なものはない。
〔3.救済活動〕
役所や官庁は、すぐに適切な処置を講じて被災者救済をはかり、応急的に方針をとり決め処断していった。庄内藩の旧藩主酒井伯爵は特別に来りたもうて慰問し、(当地の米を収納し各地へ出荷するための)倉庫から米を出させて炊き出しを行った。勢家本間氏は代々慈善活動で名高い家である。率先して別の倉庫から米を出させて炊き出しを行った。その他諸氏も被災者救済活動を行い、(炊き出しの提供を受けた人は延べ)38万116人に及んだ。そして本間氏(による提供人数)は実にその半分を超えた。負傷者については、彼を避病院(伝染病患者を隔離収容した病院)に搬送し、名医が来診して、薬を施し治療に当たった。また住居を失った人々に対しては、簡素な建物を設けて寒さから身を守らせた。少しでも人民に有益だと思われることがあれば、いかなることでもその処置を講じた。そのため(被災者の)困窮して青白い顔いろは、すこしずつ良くなっていった。
〔4.天皇の救済 人民の安堵〕
その当時、隣の強国(=中国・清)が争い事を起こそうとしていた。天皇は自ら軍事と国事の最重要政務を行なわんとして、天子の大軍旗を広島の地に移させた(=大本営とともに広島に移りたもうた)。そして皇后は、御自ら包帯をお作りになり、傷痍軍人に分かち賜った。この度の(酒田地震の)惨劇が奏上されると、両陛下は(臣民の死傷を)哀れみいたみ、すぐに金4千円をたまい、次いで侍従の東園基愛を差し遣わし詔を伝えさせた。人民は、広大で果てしない御恩に感動のあまり涙を流し、みな「ふたたび太陽の光を見ることができたのだな」と言った。これはあたかも、春の風が草木の成長を勢いよく促し、よろこびの気持ちに満たされながら次第に伸び栄えるようなものである。このため義挙にためらいのない人々は、日本中で勢いよく立ち上がった。(その中には)私財を寄附し衣類・雑具を支給する者や、檄文を飛ばして義援金を募る者、遠くより当地に来たり(被災者を)慰撫する者がいたのである。人民は安堵の思いをなし、つとめて産業に携わり、まちなかの家々や店舗はようやく旧情に復さんとしつつある。
〔5.建碑の経緯 後世への警戒〕
いま被災から7年に当たり、(人々は)共に話し合って、石碑を日枝神社の側に建て、被災者救済の徳行を永久に伝えようと考え、撰文を私に求めてきた。総じて人は、逆境に陥った時、切実なる反省の念の起こらない者などあり得ようか。しかしようやく順境(=思い通りになる状態)にもどった時には、現状の慣習に慣れてしまい、ともすれば気楽にのんびり楽しみ暮らして、しまいには過去の大災難を忘れ去ってしまうであろう。そうすれば、再び大きな災いに遭うであろう。ただビクビクと危ぶみ恐れて、あらかじめ備えが万全であれば、患いは無いも等しい。この挙(=石碑を建てること)は、過ちを起こさないよう後世の人々を十分に戒め、(大災害を)忘れさせないようにすることができるであろう。そのためにこれを記したのである。
明治33年(1900)10月
訓読文・註釈
〔1.明治27年の庄内地震〕
甲午震災紀念碑
従三位勲二等西村茂樹篆額
荘内の地、文化以来、三たび震災に罹る。而して明治二十七年十月二十二日の変、実に焉より惨なるは莫し。蓋し此の月の初め、天気晴朗として、温煖なること春の如く、井は涸れ水は渇く。前日に至りて、陰鬱濛闇として、寒冷俄かに加はる。此の日の薄暮、轟然と激震す。万雷斉しく発り、地は裂け濤は激しく、一瞬の間に、比屋顛覆す。既にして火の四に起こり、炎焰天を焦し、僅かに屋梁に冗れて脱する者も、更に烈火に中に投じ、或いは噴泥の隙に没し、前に躓き後ろに踣れ、九死を出でて一生を得る者も、苦しく喚び悲しく号び、声は両間を動かすも、父子・兄弟・夫妻、相い救ふに遑ず。
〔2.酒田の被災〕
凡そ灰燼二千三百六十戸、倒廃百九十九戸、破壊六百五十戸、死者百六十七人、傷者三百四十一人。夫れ酒田の地為るや、北海の要港にして、人足り物殷かにして、両羽に雄たり。而して今満目の触るる所、凄風冷雨、敗瓦累々として、狼藉と土を焦す。死して礼葬を得ず、生きて餓窮に泣く。吁嗟天変の劇しき、人事の惨たる、洵に至極す。
〔3.救済活動〕
官衙公署、即ち便宜を定め救恤を謀り、急に応じて処弁す。旧藩主酒井伯、特に来りて慰問し、倉庫より爨給せしむ。巨室本間氏、世よ慈善に名あり。率先して別牆より爨給す。其の他諸氏の賑給すること、共せて三十八万百十六口。而して本間氏、実に其の半を過ぐ。其の傷つく者は、諸を避病院に搬び、名医来り診て、薬を施し治療す。又住を失ふ者は、茇舎を設け以て寒さを防がしむ。苟しくも便民の事ならば、畢く謀らざる莫し。是に於いて菜色少しく蘇る。
〔4.天皇の救済 人民の安堵〕
時に強隣事を構ふ。天皇、親ら軍国の機務を裁き、大纛を広島に進む。而して皇后、親ら繃帯を製し、創痍の将士に頒ち賜ふ。此の惨状の奏せらるるに及び、両陛下震悼し、直ちに金四千円を賜ひ、尋いで東園侍従を差遣し、聖諭を伝宣せしむ。黎民、洪恩の罔極なるに感泣し、僉な曰く、復た天日を覩ると。猶ほ春風の、長く草木を養ひ、欣々と栄に向かはざる靡きがごときなり。是に於いて海内の義に勇なる者、勃然として起こり、貲を捐て衣具を給ふ者、焉有り。檄を飛して捐を募る者、焉有り。遠来して慰藉する者、焉有り。人民安堵し、努力して産業に就き、市廛漸く将に旧に復さんとす。
〔5.建碑の経緯 後世への警戒〕
今茲に罹災の七年、胥い議して碑を日枝祠の畔に建て、将に賑恤の徳を悠久に伝へんとし、文を予に請ふ。凡そ人の逆境に入るや、反省の念、誰か切実ならざらん。而して稍く順境に復するや、故常に忸れ、安佚に趨き、遂に昔日の大厄を忘れん。是を以て重ねて凶有らん。惟だ惕然と敬懼し、預め備へて餘り有れば、則ち患ひ無きに庶幾きか。此の挙、以て後世に儆戒して忘れざらしむるに足るなり。是に於いてか記す。
明治三十三年歳庚子に在る十月 菊池秀言撰文
正四位勲三等巌谷修書
*紀念 物をとどめて後の思い出にする。
*西村茂樹 1828~1902。幕末・明治時代の倫理学者、教育家。下総国(千葉県)の人。維新後、文部省および宮内省に出仕。
*荘内 庄内。山形県北西部の地域名。日本海側に面する。庄内平野を中心とし、酒田・鶴岡両市がある。最上川が流れ、米の産地として有名。
*変 大事件。
*晴朗 空が晴れわたり、さわやかなさま。
*温煖 温暖。気候が暖かなこと。
*水 河川の意と見られる。
*陰鬱濛闇 陰鬱は、陰気でうっとうしいさま。濛闇は、天候がくもり小雨がふるさまを指すと見られる。
*万雷斉発 実際に雷が鳴るのではなく、雷がなるほど轟音がしたとの意。
*比屋顛覆 比屋は、数多くの家(「比」は列の意)。顛覆は、倒れ崩れる。
*四起 四方より起こる。
*炎焰 盛んに燃え上がる炎。
*冗屋梁 判読・解釈やや難。翻刻文・現代語訳は試案。
*噴泥 地震の振動によって表層の砂質土が地上に噴出する現象(液状化現象の一つ)を指すと見られる。
*両間 天と地との間、梁と梁の間の二つの可能性がある。ここでは文脈から前者をとる。
*凡灰燼二千三百六十戸・・・ 以下の被害数は、庄内地方全体ではなく酒田の地のみの状況を指すと見られる。
*酒田 庄内地方の中心的市街地の一つ。山形県飽海郡酒田町(現酒田市本町ほか)。最上川(もがみがわ)河口の酒田湊(酒田港)を擁し、17世紀に河村瑞軒(かわむらずいけん)が貯米場を設け、西廻航路を開いてから、庄内米の積出港として発達した。
*雄乎両羽 雄は、まさる。すぐれる。両羽は、羽前国と羽後国。明治元年(1868)12月、出羽国を南北に分割して成立。特定の行政区域あるいは行政組織を意味せず、単なる地域的名称にすぎない。同4年の廃藩置県によって実質的に消滅。各々、およそ現在の山形県と秋田県に相当。
*凄風 すさまじい風。
*敗瓦 壊れた瓦。家々が焼失・倒壊した際に破損した無数の瓦。
*狼藉焦土 狼藉は、多くの物が散乱しているさま。焦土は、建築物などが焼け尽きてあとかたもないこと。
*官衙公署 官衙も公署も、役所の意。
*定便宜 解釈やや難。現代語訳は試案。
*処弁 方針をとり決め処理する。
*旧藩主酒井伯 出羽国鶴岡(現山形県鶴岡市)に藩庁を置いた庄内藩の旧藩主で、伯爵に叙された酒井氏。
*爨給 爨は、米を炊ぐの意で、給は、支給の意、すなわち炊き出しの意と見られる。
*倉庫 旧庄内藩主酒井家が出資母体となった酒田米穀取引所(酒田米商会所の後身)の経営する倉庫を指すと思われる。当該倉庫は、明治26年(1893)ころ酒田町に隣接する鵜渡川原村山居(さんきょ、現酒田市山居町)に建てられた(現在の国指定史跡「山居倉庫」)。
*巨室本間氏 巨室は、勢力のある家。本間氏は、近世初頭以来酒田の大豪商で、近代においても大地主として存続した。
*名 解釈やや難。名高いの意と見られる。
*慈善 砂丘の続く当地は風砂に苦しめられてきたが、本間家3代光丘によってクロマツが植林され砂防林が築かれた。このようなことを指すと見られる。
*別牆 解釈やや難。酒井伯が炊き出しに用いた「倉庫」とは別の、本間氏の管理下にある穀物貯蔵倉庫を指すと見られるが、具体的にどこか未詳。
*共三十八万・・・ この数字は、炊き出しを受けた被災者の延べ人数と考えられる。
*避病院 伝染病にかかった人を収容、治療した病院。伝染病でない人をも収容せざるを得ないほど、被災負傷者が多かったということ。
*茇舎 野宿するの意だが、ここでは簡素な仮設建物を指すと見られる。
*菜色 血色の悪い顔色。
*時強隣構事 強隣は、強い勢力を持つ近隣の存在。ここでは、清国のこと。構事は、「ことをかまえる」すなわち争い事を起こそうとする。事を荒立てる。漢語由来でなく、和語的な表現。
*軍国機務 軍国は、軍事と国事。機務は、最も重要な政務。
*進大纛乎広島 大纛の原義は、軍中に用いる大旗。ここでは、天皇のいる陣営、すなわち大本営のこと。大本営は、戦時または事変の時に設置された天皇直属の統帥部。震災と同年の6月に設置され、天皇は日清戦争のため東京から広島に移るとともに大本営も移され、国会もこの地で召集された。
*繃帯 包帯。
*震悼 天子が臣下の死を悲しみいたむ。
*東園侍従 東園基愛(1851~1920)。幕末から大正時代の公家(藤原氏中御門家流、羽林家)、華族。明治天皇につかえ侍従、掌典次長をつとめた。宮中顧問官。子爵。
*黎民 庶民。人民。
*復覩天日 詩的表現で解釈やや難。「復」は、ふたたび。「覩」は、みる。「天日」は、太陽の意味と、天子の意味とがある。震災当時、陰鬱な天気であったがゆえに、救済の手がのべられたので改めて太陽を意識したという意と、天皇の御恩を直接に感じたとの両意を一文に込めたと見られる。
*欣々向栄 植物や花が春を迎えて次第次第に栄えること。陶淵明「帰去来辞」の「木欣々以向栄」に基づく表現。
*遠来慰藉者 「遠来」は、遠くより来る。「慰藉」は、なぐさめいたわる。「遠来慰藉者」とは、具体的には僧侶などの宗教家と見られる。
*努力 つとめて。
*市廛 まちなかの家や店。
*胥議 主語が明示されていないが、ここでは碑陰の「建設惣代人」等を指す。
*日枝祠 酒田の日枝神社(現山形県酒田市日吉町)。
*賑恤 貧困者や被災者を援助するために、金品を施し与える。
*順境 物事が万事つごうよくいっている境遇。
*故常 習慣。慣例。
*趨乎安佚 趨は、向かっていく。安佚は、気楽にのんびりと楽しむこと。
*大厄 大きな災難。
*惕然敬懼 惕然は、あやぶみ恐れるさま。敬懼は、うやまいおそれる。
*儆戒 警戒。過ちを起こさないよういましめる。
*菊池秀言 1855~1944。幕末から近代における宗教家・慈善活動家。出羽国北村山郡の生まれ。漢詩をよくした。
*巌谷修 巌谷一六(いわやいちろく、1834~1905)。明治時代の書家。近江国水口に生まれる。日下部鳴鶴と並び明治時代の書名をうたわれる。
画像







鳥居左方に石碑が建つ
その他
補足
- 本碑文はすでに『酒田市史』に翻刻されている。また意訳が北原2001に掲載されている。
参考文献
- 『酒田市史 下』(酒田市、1958年)164~70頁。
- 『酒田市史 史料篇 第7集』(酒田市、1977年)320~1頁。
- 両羽震災取調所編『悲愴惨怛両羽地震誌』(日向書店、1894年、国立公文書館所蔵、請求記号45-91)8頁。
- 北原糸子「甲午震災記念碑の解説文」(『歴史地震』17、2001年)。
- 田村寛三『続 酒田ききあるき』(酒田ききあるき会、1990年)289~90頁。
所在地
甲午震災紀念碑および碑文関連地 地図
所在:
日枝神社 境内|山形県酒田市日吉町
アクセス:
JR 羽越本線 酒田駅 下車
徒歩約15分
編集履歴
2025年8月29日 公開
2025年9月12日 小修正
