慶応4年(明治元年、1868)5月の淀川氾濫と決壊した堤防の修築工事を記述。堤防は旧三箇牧村の唐崎(現高槻市唐崎近辺)にあり、本碑も同地に立つ。地方官として工事を指揮し職務に励む関義臣の姿を住人が仰いで共に尽力したこと、平穏な生活が新築堤防の賜物であることを強調。当時維新政府は民政より戊辰戦争に注力せざるを得なかったが、関の働きは、政府の戴く天皇の恩沢が近畿地方の人民に広まる端緒となった。地元住人が功績を永遠に伝えたいと考えたことが碑造立の発端。
資料名 明治戊辰唐崎築堤碑
年 代 明治23年(1890)
所 在 淀川右岸堤防|大阪府高槻市唐崎南
北緯34°48’32” 東経135°36’56”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 事業達成(治水)
備 考 資料名は正面題字による。
ID 0004_2306
翻刻
〇オモテ面
「明治戊辰唐崎築堤碑」
〇ウラ面
唐崎修隄碑 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
明治之中興、徳川氏既服、而東北餘賊未平。挙海内之兵征之、四方司牧徴丁輸糧。日夜怱劇、未暇顧民
事、人心危懼、不知王政為何事。而夙用心于此者、為今大審院評定官関君。君以元年戊辰為大阪府権
判事。夏五月長霖、澱河暴漲、摂津三箇牧邨唐崎之隄大決、而島上・島下・豊島・西成四郡二百餘邨悉没
水底、一望蕩然。居民惨苦不可状。君乃奉命修築破隄。七月六日、臨唐崎、結仮屋為行庁、会邨吏、審量度、
定部署、大興土功。闔郷男女老少、尽来就役、日三千人。於是樹旗幟分隊伍、鳴鐘鼓戒進退、応強弱授工
事。節度整然。君執燭出、戴星入、冒暑衝雨、犇走指揮。勤者奨焉、惰者励焉、疫者撫焉。役夫畏而□之、莫不
奉令竭力者。十月二十五日、工遂竣。隄長壱百弐丈、高壱丈伍尺、厚弐拾壱丈、而殺其上得弐丈肆尺。用
金参拾万円。蓋徳川幕府、隄防之費、皆課于民。而今則官庫給之。民庶始知王慶可頼。爾後無復水害、豊
穣楽生者、二十餘年于茲。三箇牧邨長木邨孫太郎、亦当時与有力者。頃者首唱建碑、不朽君之功徳、謀
諸四郡吏民、僉曰固所願也。乃具状遠請余文。夫中興之政、在救斯民於水火。故欲勤王事、莫若勤民事。
君有見于此。在軍国倥偬中、一意重民事、齏身粉骨、拯昏墊之患、以布王沢於近畿、為今日四海皞々之
濫觴。莫功豈在東北勤王諸将之下乎哉。君名義臣、字李確、旧越前藩士。与余締交在明治之前。其後又
同官於司法、深知其為人。性摯直而才鋭敏、当事一向勇進、期必成。孫太郎所状、蓋非過称也。乃係之以
詩、曰、
澱河之水沙泥澱 流至摂西尤塡閼 河面幾尋出平地 両隄如山防潰決 潰決最大是戊辰
水勢奔注巨瀑懸 桑田一朝変滄海 魚鼈蛟龍逼黎民 維時聖尭始登極 乃命牧官拯墊溺
沐雨櫛風不蹔休 隄修水復民粒食 豊稔千秋不患澇 斯功斯徳何以報 歳時相挈此来拝
一片豊碑是禹廟
明治廿三年十月 大審院検事従五位三島毅撰 元老院議官従四位勲三等巌谷修書
「讃岐国三木郡
牟礼村
石工 和泉宗松」
現代語訳
〔1.戊辰戦争と維新政治〕
唐崎修隄碑
明治の天皇親政中興に際し、徳川氏は既に服属していたが、東北方面の賊徒は未だ平定されていなかった。そこで国内の兵を残らず用いて賊徒を征伐させた。各地の領主は、男子や兵糧を徴発しこれに当たった。この時期は(戦争で)日夜慌ただしく、民政を顧みる余裕がなく、人民は危ぶみ恐れ、(幕府にとって代わった)新政府の政治がどういったものかわからなかった。そうした中で早くから民政に心を配っていたのは、現在大審院評定官である関義臣君である。関君は明治元年に大阪府権判事となった。
〔2.淀川氾濫と唐崎堤防の決壊〕
その年の夏5月、雨天が続き淀川の水量が俄かに激増すると、摂津国三箇牧村にある唐崎の堤防が大きく決壊し、島上・島下・豊島・西成の四郡二百余村が悉く水没した。あたり一面、水面が広がり何もなくなってしまった。住民の辛苦を書き表すことはできまい。
〔3.官吏関義臣の指揮による堤防の修築〕
関君は新政府からの命を受け破損した堤防を修築することになった。7月6日に唐崎にのぞみ、仮ごしらえの建物を設け仮設庁舎とし、ここに村長を集め、修築工事の規模や費用を詳しく計算し、修築の諸部署を定め、大土木工事がなされることになった。どこの村からも男女老若を問わず集まってきて工事の労役についたが、それは1日に3000人に及んだ。ここで、のぼりを立てて兵隊のように隊列を編成し、鐘や太鼓を鳴らして人夫の動きを統制し、体の強弱に応じて仕事を分配した。その指揮は整然としていた。関君は、明かりを持って暗いうちから家を出て現場に向かい、夜空に星が見えるまで働いて帰った。暑さをしのぎ雨に打たれながら、駆け回って工事を指揮した。よく働く者は褒め怠惰な者は励まし、病気の者をいたわった。関君のこのような姿に人夫達は恐縮し彼を慕う心があったので、命令をうけて力を尽くさない者はいなかった。10月25日、工事は遂に終わった。堤防の長さ102丈(約309m)、高さ1丈5尺(約4.5m)、厚さ21丈(約64m)。上部をそぎけずり、その厚さは2丈4尺(約7.3m)となった。費用は30万円。恐らく徳川幕府の時代には、堤防築造の費用は、皆住人に賦課していただろう。しかし今や官庫から費用を支出した。人民はここで初めて、新政府の奉ずる天皇の恵みを受けられることを知ったわけである。
〔4.新堤防の恩恵と顕彰碑造立の経緯〕
それ以後水害はなくなり、今に至るまで20年以上、大地の実りは豊かで生を享楽してきた。三箇牧村の村長木村孫太郎も、当時関君と共に工事に尽力した。孫太郎は最近、石碑を建て関君の功績や徳行を記して永久に伝えようと主張し、四郡の官吏・住人にはかると、以前よりそう願っていたと皆言う。そこで事情を詳らかに記して遠く私に碑文の作成を請うてきた。そもそも、明治中興の政治というのは、民達を水害火災より救うことにある。だから天皇が理想とする政治を官吏が行おうとするならば、それは民政に注力することに勝るものはない。関君はそのような官吏に当たる。軍事や内政の慌ただしい中にあって、一心に民政を重んじ、身を粉にして民の困窮を救い天皇の恩沢を近畿地方に広めた。こんにち(天皇の王者としての徳が広まり)人民はゆったりと落ち着いて暮らしているが、関君の功績はその起源といえる。莫大な功績は、同時期に東北で転戦していた勤王の将軍達のそれより劣ることがあろうか。関君の名は義臣、字は李確、旧越前藩士である。私と交流が始まったのは明治の前である。その後、司法方面(大審院)で同僚となり、深く彼の人となりを知った。性格はまじめで曲がったところがなく、うまれつき鋭敏である。事に当たっては弛まず進み、期すれば必ず成功する。孫太郎が記した内容は、恐らく褒め過ぎではないだろう。以上の序文に詩をつなぐ。
〔5.詩〕
淀川の水は砂や泥でよどみ、摂津の西に至って最も流れが塞がる。
川面は平地をどこまでも進んでいくが、両岸の堤防が山の如くそびえ決壊を防いできた。
(しかしそんな堤防も)決壊が最もひどかったのは明治元年、濁水が勢いよく走り流れ、山のような堤防から巨大な滝のように民家に押し寄せた。
明くる日田畑は青海に変わってしまい、みずちや魚が民にせまってきた。
おりしも、太古中国の聖人たる尭のような天皇が即位し、地方官の関君に命じて民の困窮を救わせる。
関君は雨に髪を洗い風をもって髪を整えるかのように一時も休まず、ついに堤防は修復され本来のように川水を活用できて民は米を食べることができるようになった。
豊作は千年もの長きに渡って続くかのようだし水害の憂いもない。その功績や徳行にどうすれば報いることができるのだろうか。
秋には必ず豊かな実りがあり、堤防ができて以来民は恩恵を拝受してきた。太古中国で水害を治めたという禹の墓に立って大地を見れば彼の偉大な功績を目にすることができるという この大きな石碑はあたかも禹の墓。側だって堤防を見れば、禹のような関君の治水の功績を目にすることができるだろう。
明治23年10月 大審院検事従五位三島毅が撰した。 元老院議官従四位勲三等巌谷修が書した。
訓読文・註釈
〔1.戊辰戦争と維新政治〕
唐崎修隄碑 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
明治の中興、徳川氏既に服すも、東北餘賊未だ平せず。海内の兵を挙げて之を征たしめ、四方司牧、丁を徴して糧を輸す。日夜怱劇、未だ民事を顧みるに暇あらず、人心危懼して、王政の何事たるかを知らず。而して夙に心を此に用うる者は、今大審院評定官関君たり。君、元年戊辰を以て大阪府権判事と為る。
〔2.淀川氾濫と唐崎堤防の決壊〕
夏五月長く霖り、澱河暴に漲ぎり、摂津三箇牧邨唐崎の隄大いに決して、島上・島下・豊島・西成四郡二百餘邨悉く水底に没し、一望蕩然たり。居民の惨苦状すべからず。
〔3.官吏関義臣の指揮による堤防の修築〕
君乃わち命を奉りて破隄を修築す。七月六日、唐崎に臨み、仮屋を結び行庁と為し、邨吏を会し、量度を審かにし、部署を定め、大いに土功を興す。闔郷の男女老少、尽く来りて役に就くこと、日に三千人。是において旗幟を樹て隊伍を分かち、鐘鼓を鳴らして進退を戒しめ、強弱に応じて工事を授く。節度、整然たり。君、燭を執りて出で、星を戴きて入り、暑さを冒し雨に衝り、犇走指揮す。勤むる者は焉を奨め、惰けたる者は焉を励まし、疫む者は焉を撫る。役夫畏みて之を愛し、令を奉り力を竭さざる者なし。十月二十五日、工遂に竣る。隄長壱百弐丈、高さ壱丈伍尺、厚さ弐拾壱丈、而してその上を殺ぎて弐丈肆尺を得たり。用金参拾万円。蓋し徳川幕府、隄防の費、皆民に課す。而して今則ち官庫より之を給す。民庶、始めて王慶の頼るべきを知る。
〔4.新堤防の恩恵と顕彰碑造立の経緯〕
爾後、復た水害なく、豊穣にして生を楽しむこと、茲に二十餘年。三箇牧邨長木邨孫太郎も、亦当時与に力むること有り。頃者、碑を建て君の功徳を不朽ならしめんと首唱し、諸を四郡吏民に謀るに、僉曰く固より願う所なり也と。乃ち状を具さにし遠く余に文を請う。夫れ中興の政、斯民を水火より救うに在り。故に王事を勤めんと欲せば、民事を勤むるに若くはなし。君此に見むるもの有り。軍国倥偬の中に在りて、一意民事を重んじ、身を齏き骨を粉にして、昏墊の患を拯い、以て王沢を近畿に布くし、今日四海皞々の濫觴を為す。莫功、豈に東北勤王諸将の下に在らんや。君、名義臣、字李確、旧越前藩士。余と締交すること明治の前に在り。其の後も又官を司法に同じくし、深く其の人となりを知る。性摯直にして才鋭敏、事に当たりて一向勇進し、期すれば必ず成る。孫太郎の状する所、蓋し過称にあらざる也。乃ち之に係くるに詩を以ってす。曰く、
〔5.詩〕
澱河の水、沙泥澱み、流れ摂西に至りて尤も塡閼す。
河面幾尋か平地を出むも、両隄山の如く潰決を防ぐ。
潰決の最も大なるは是れ戊辰、水勢奔り注ぎて巨瀑懸る。
桑田、一朝に滄海に変じ、魚鼈蛟龍、黎民に逼る。
維の時聖尭始めて登極し、乃ち牧官に命じて墊溺を拯わしむ。
雨に沐い風に櫛りて蹔くも休まず、隄修し水復して民粒食す。
豊稔千秋、澇に患わず、斯の功、斯の徳、何を以てか報いん。
歳時相挈い、此来拝す、一片の豊碑、是れ禹廟。
明治廿三年十月 大審院検事従五位三島毅撰 元老院議官従四位勲三等巌谷修書
*唐崎 現大阪府高槻市唐崎近辺。
*隄 堤防。
*明治之中興・・・ 慶応3年(1867)11月、将軍徳川慶喜が大政奉還上表を提出し、同12月、王政復古が宣言された。翌年1月には鳥羽伏見での戦闘から戊辰戦争が起こり、同月慶喜に対して追討令が発せられる。新政府軍は徳川方を責め、4月、江戸城が落ちる。東北諸藩は新政府を認めず、5月以降、奥羽越の諸藩が同盟を結び交戦したが次々に敗れ、9月頃同盟は名実ともに崩壊した。以下の碑文にある通り淀川の唐崎堤防決壊による大水害は5月に発生し、7月に修築に着手、10月に完遂した。この間は、新政府と東北諸藩が交戦していた時期にほぼ重なる。なお9月に慶応から明治に改元。
*司牧 地方の長官。ここでは各地の藩主、領主。
*大審院 明治憲法下において最高の位置にあった司法の裁判所。明治8年(1875)設置。
*関君 関義臣(1839~1918)。幕末から大正時代の武士、官僚。越前福井藩重臣本多氏の臣。維新後、大審院の官吏や、徳島、山形県の知事を歴任。
*元年戊辰 明治元年(1868)。
*夏五月 この年は旧暦(太陽太陰暦)。
*三箇牧邨 三箇牧村。かつて大阪府にあった村。島上郡に属す。現高槻市唐崎の周辺。
*島上 島上郡は、淀川右岸の摂津国東部に位置した郡。現在では、大阪府三島郡島本町の全域および高槻市の大部分と枚方市の一部にあたる。
*島下 島上郡は、淀川北岸の摂津国東部に位置した郡。現在では、大阪府茨木市・摂津市の全域、吹田市の大部分、箕面市・豊能郡豊能町・豊中市の一部にあたる。
*豊島 豊島郡は、摂津国東部の猪名川左岸に位置した郡。現在では、池田市の全域、豊中市・箕面市の大部分、吹田市の一部分にあたる。
*西成 西成郡は、摂津国にあった郡。現在では、大阪市の北部と中央西部にあたる。
*行庁 行宮(あんぐう)、行在所(あんざいしょ)などの「行」の用法から、仮設の庁舎の意とみられる。
*量度 量は容積を、度は長短をはかること。修築に関わるもろもろの量・長さを計算したとの意。
*犇走 かけまわる。
*功徳 功績と徳行(徳の高い行い)。
*斯民 この人民。親しみの気持ちをこめた言い方。
*倥偬 忙しいさま。あわただしい。
*昏墊 困窮。
*皞々 心がひろくゆったりとしているさま。『孟子』尽心上の「覇者之民、驩虞如也。王者之民、皡皡如也」を踏まえる。
*澱河之水・・・ 七言古詩。韻字、閼・決(入声七曷と入声九屑の通押)、辰・懸・民(上平声十一真と下平声一先の通押)、極・溺・食(入声十三職と入声十二錫の通押)、澇・報・拝・廟(去声二十号と去声十卦と去声十八嘯の通押)。
*塡閼 泥で河水が塞がる。
*魚鼈 魚類とかめ類。水産動物の総称。
*蛟龍 水中に潜み、雲雨にあえば、それに乗じて天上に昇って龍になるという、古代中国の想像上の動物。みずち。
*登極 天皇が即位すること。明治天皇は、慶応4年(1868)8月に即位(践祚は前年1月)。
*粒食 穀物を食べる。ここでは米を食べること。
*澇 大雨による水害。
*歳時相挈 歳は穀物のできぐあい。挈は、契と同意で、合う。「時」と「歳」が合う、すなわち穀物の実りの時期に合わせて、実際に豊かな実りがあったとの意。
*豊碑 大きな碑。
*禹廟 古代中国で治水の功績があった禹をまつった廟。四川省忠県にある。唐の杜甫の「禹廟」詩では、杜甫が実際に禹廟を詣で、そこからの景色を見て禹の治水の功績を目の当たりにしている。
*三島毅 三島中洲(ちゅうしゅう)。1830~1919。幕末・明治時代の漢学者。備中国の生れ。明治維新後、大審院中判事になったが、明治10年、致仕して私塾二松学舎(現・二松学舎大学)を創設し漢学を教授。
*巌谷修 巌谷一六(いわやいちろく)。1834~1905。明治時代の書家。近江国水口に生まれる。日下部鳴鶴と並び明治時代の書名をうたわれる。
*和泉宗松 香川県木田郡(明治32年に三木郡と山田郡が合併して成立)牟礼村の石匠。讃岐あじ石の石材商。阪神地方はじめ遠隔地で石碑建造・刻石の仕事を多くしたという(『香川徳嶋両県官民肖像録』)。
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その他
補足
- 解読困難なところは、三島毅(中洲)の文集『中洲文稿』を参照。
- 隣接して「修堤碑」(明治18年(1885)建立)がある。
- 現地に立つ高槻市教育委員会の案内板には、「築堤碑」との名称で紹介されている。
なお、上記「修堤碑」と合わせて、「築堤・修堤記念碑」との名称で紹介されている。
参考文献
- 三島中洲『中洲文稿 第二集 一』(明治33年(1900)刊)下篇第一三丁。
- 遠藤永吉編『香川徳嶋両県官民肖像録』(有終社、1914年)98頁。
所在地
明治戊辰唐崎築堤碑
所在:
淀川右岸堤防|大阪府高槻市唐崎南
アクセス:
高槻市営バス 玉川口駅 下車 淀川右岸堤防に進む
堤防最高部から川から離れる方向に傾斜した斜面上にあり
編集履歴
2023年6月28日 公開
