贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑 -大阪道頓堀とミナミ発展のみなもと-

贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑
概  要

大阪の運河・道頓堀の開削を江戸時代初期に成し遂げ商業発展の基礎を築いたという安井道頓・同どうぼくの功績を記した石碑。人も住まない湿地に、運河を通し店舗を建てて商人を集めると、舟・車が往来し物や人が年々増えていき、後代の人はその恩恵を受け続けてきたという。大正天皇の行幸時、両人への贈位がきっかけとなり、功績を永遠に伝え読む者の心を奮い起こさせようと大阪府知事等の発意により建碑。道頓堀日本橋の北、繁華街の交差点にずしりと立つ。開削を主導したのは安井道頓ではなく成安道頓とするのが現在の通説だが、先人の労苦や大阪南部発展の源流、ならびに大正期大阪人の過去回顧の情を読み取ることはできる。

資料名 贈じゅ安井どうとん安井どうぼく紀功碑
年 代 大正4年(1915)
所 在 道頓堀日本橋北|大阪府大阪市中央区島之内
 北緯34°40’10″ 東経135°30’24”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 歴史的人物顕彰
備 考 資料名は題字による。
ID 0008_2307

目次

翻刻

〇オモテ面
贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑

〇ウラ面
□□□□〔贈従五位ヵ〕□□〔安井ヵ〕道頓安井道卜功碑
大正□□□〔三年十〕一月 聖上幸(大正天皇)大阪、追褒先民有功徳者、降旨贈位。安井道頓及従弟道卜亦並見贈従五位。蓋報開
〔渠ヵ〕之功也。道頓諱成安、称市右衛門。薙髪号道頓。河内人。其先出自足利氏支裔渋川満貞。満貞子安重始領
播磨安井郷、因氏焉。三世之孫曰主計頭定重、与二弟定正・定次並仕于織田氏、居内渋川郡久宝寺城。山之
役、敵軍来攻、定重死之、定正亦創、城遂陥。定次後仕于豊臣秀吉。実道頓父也。秀吉築阪城、定次父子督工鑿壕。
秀吉賜地城南、以賞之。当此時、大阪火漸密、而城南則荻叢生、未有民居。道頓乃与従弟定清・定吉及族人平
野藤治等、謀欲開漕渠、以便徠。慶長十七年、僦役夫於旧里、捐貲起工。定清称治兵衛、定吉即道卜称九兵衛。定
正二子也。翌年定清歿。既而阪役起、道頓感恩思義、奮然投西軍。元和元年五月八日城陥、道頓難。於是道卜
与藤治協〔理〕後事、至是歳十一月渠成。自横堀川導河水、以至津川。其長二十二町十一間餘、其濶上流二十
間、下流□□〔三十〕四間。初称南堀川、逮平忠明為大阪城主、憫道頓事、特録其遺功、更名道頓堀川云。藤治後仕幕
府、道卜則〔奉〕幕命、経営市井、構屋商。於是斯渠両岸、既得漕運之便、又有廛之設、邇皆蒙其利、多四方来居
者、逐月積〔歳〕〔阜〕人衆。昔日洳之場、今則為舟車之会、繁華麗之区。以大阪之漕渠四通、而道頓堀最著。嗚呼
道頓忠義〔大〕然可伝。如彼其功、利被於百世、亦復如此。而道卜継志後、效顕著宜矣哉。追
命、〔並〕旌厥績也。道〔卜〕歿于寛文四年十月十七日。享寿八十三。子孫世為組総年寄、至明治維新而廃。道頓・道卜、
既邀褒贈之典、而未有不朽之挙。大阪府知事久保君利武、乃与諸有志者、謀立石紀功。石浚河所獲、蓋為秀
吉築城之〔日ヵ〕、誤投于水者。君属予以文。予不敢辞。略叙事蹟、俾後人有以観感而興起焉。
  大正□□〔四年ヵ〕八月             西村時彦撰文   磯野惟秋書丹

現代語訳

〔1.道頓・道卜への追贈〕
じゅ安井道頓安井どうぼく紀功碑
大正3年(1914)11月、大正天皇が大阪に行幸し、功績や徳行のある(地域の)故人を追賞し、勅旨を下して贈位させた。安井道頓および従弟の道卜も共に従五位を贈られた。恐らく運河開通の功績があったからだろう。
〔2.安井家の系譜〕
道頓のいみなは成安で、市右衛門と称した。剃髪して道頓と号した。河内国の人である。その先祖は、足利氏支族の渋川満貞から分かれた。満貞の子安重が始めて播磨国安井郷を領有し、そのため安井を名字とした。三世代後の子孫を主計頭かずえのかみ定重といい、その2人の弟定正・定次とともに織田氏に仕え、河内国しぶかわきゅうほう城に住んだ。(織田信長と石山本願寺が争った)石山本願寺合戦では、敵軍が来襲して定重が死に、定正も傷を負い、城が遂に陥落した。定次は、その後豊臣秀吉に仕えた。これが道頓の父である。秀吉が大阪(※当時の表記は大坂)城を築いた際には、定次父子は工人を監督して城堀を造成した。
〔3.道頓の道頓堀開通工事と豊臣家への忠義〕
秀吉はその褒賞として大阪城の南の地を賜った。当時、大阪の地には人家が少しずつ増えてきていたが、城南の地はあしおぎが繁茂するような未開の地で、いまだ住民はいなかった。道頓は、従弟の定清・定吉や一族の平野藤治等とともに、運河を開いて人々の居住を促そうと企てた。慶長17年(1612)、旧里にて役夫を雇い、対価を払って工事を始めた。定清は治兵衛と称し、定吉つまり道卜は九兵衛と称した。2人は定正の子供である。翌年定清が没した。やがて大阪の陣が起こり、道頓は、(秀吉の)恩に心を強く動かし道義を重んじて、豊臣の西軍に奮然と参じた。元和元年(1615)5月8日、大阪城は陥落。道頓は戦死した。
〔4.道卜の工事継承と町の発展〕
ここで道卜は、藤治と協力して残りの工事をとり行い、同年11月に運河が完成した。運河は、東横堀川より河水を引き木津川に至る。その長さは22町11間(約2,420メートル)余り、その川幅は上流が20間(約36メートル)、下流が34間(約62メートル)。はじめ南堀川と称していたが、松平ただあきが大阪城主となって、道頓が国の一大事に亡くなったことを憐れみ、特にその成し遂げた功績を記念して、運河の名を道頓堀川と改めたという。藤治は後に幕府に仕え、一方道卜は幕命を奉じて、市中の経営を行い、建物を建て商人を集住させた。この時に至り運河の両岸は運漕に便利になり、さらに店ができてきて、遠くの人も大阪近辺の人も皆(商売・舟運などで)利益を得るところがあり、四方から移住する者も多く、月をおい年を経るごとに物が豊かになっていき人も増えてきた。昔この地は(人も住まず)土地が低くて水はけが悪く常にじめじめとしていたが、今は舟と車が行き交い、華やかに繫栄し美しく見事な土地となったのである。大阪の運河は四本あるが、道頓堀沿いの繁栄が最も著しい。ああ、道頓の(秀吉に対する)忠義は偉大でひときわ優れているというべきである。道頓堀開通の功績で、人々は何世代にも渡り恵みを受けてきたし、これからも受け続けるだろうが、その功績も(秀吉への忠義と同じように)偉大でひときわ優れている。そして道卜は道頓の志を継承し未来のために良きように計らって開通の大事業を完遂させたが、その功績が顕著と言うのも尤もなことである。(開通以後、道卜は町の経営・発展という)幕命を賜り、(運河開通と)同じように大きな功績を挙げたわけである。道卜は寛文4年(1664)10月17日に歿した。享年83。
〔5.建碑の経緯〕
子孫は代々南組そうとしよりとなり明治維新に至るまで在職した。道頓・道卜は既に贈位の栄誉に浴したが、この功績を不朽にするような企て(=石などに刻むこと)は今まで無かった。大阪府知事の大久保利武君は、有志の者と共に、石を立てて功績を刻もうと企図した。その石は河をさらった時に得たものであって、(道頓に縁ある)秀吉が大阪城を築城する際、誤って落ちてしまったものだろう。大久保君は私に碑文の撰述を頼んできた。私は敢えて辞退せず、だいたいの事跡をしるした。後の人が感動の心を起こし、心を奮い起こさせるものがあればと思う。
  大正4年8月             西村時彦ときつね撰文   磯野惟秋書丹

訓読文・註釈

〔1.道頓・道卜への追贈〕
じゅう安井どうとん安井どうぼく紀功碑
大正三年十一月、聖上(大正天皇)大阪にみゆきし、先民のこうとく有る者を追褒し、むねくだし贈位せしむ。安井道頓及び従弟道卜も亦並びに従五位を贈らる。けだそうきょを開通するの功にこたうれば也。
〔2.安井家の系譜〕
道頓、いみな成安、市右衛門と称す。はつして道頓と号す。河内の人。其の先、足利氏支裔渋川満貞より出ず。満貞の子安重、始めて播磨安井郷を領し、因りてこれを氏となす。三世の孫、主計頭かずえのかみ定重と曰い、二弟定正・定次と並びに織田氏に仕え、河内しぶかわきゅうほう城に居す。石山の役、敵軍来攻して定重これに死し、定正も亦きずつき、城遂につ。定次、後に豊臣秀吉に仕う。実に道頓の父也。秀吉、大阪城を築き、定次父子、たくみひきいてほりひらく。
〔3.道頓の道頓堀開通工事と豊臣家への忠義〕
秀吉、地を城南に賜い、以て之を賞す。此の時に当り、大阪のえん漸く密に、しこうして城南は則ちてきそうせいし、未だ民居有らず。道頓、乃ち従弟定清・定吉及び族人平野藤治等とともに謀りて漕渠を開き以てしょうらいに便あらしめんと欲す。慶長十七年、役夫を旧里にやとい、貲をあたえて工を起す。定清は治兵衛と称し、定吉即ち道卜は九兵衛と称す。定正の二子也。翌年定清歿す。既にして大阪の役起こり、道頓、恩に感じ義を思い、奮然として西軍に投ず。元和元年五月八日、城陥ちて道頓難に殉ず。
〔4.道卜の工事継承と町の発展〕
是において道卜、藤治と後事を協理し、この歳十一月に至り渠成る。ひがしよこぼりかわより河水を導びき、以てがわに至る。其の長さ二十二町十一間餘、其のひろさ上流二十間、下流三十四間。初め南堀川と称し、松平ただあきの大阪城主と為るにおよび、道頓のに死すをあわれみ、特に其の遺功を録し、名を道頓堀川とあらたむと云う。藤治、後に幕府に仕え、道卜は則わち幕命を奉じて、市井を経営し、屋を構えあきんどを処す。是において斯の渠の両岸、既に漕運の便を得、又たてんの設け有りて、えん皆其の利を蒙むり、四方より来居する者多く、ちくげつせきさい、物ゆたかに人おおし。せきじつしょうじょの場、今則わちしょうしゃの会、繁華せいれいの区と為る。大阪の漕渠四通を以て、道頓堀最も著るし。嗚呼、道頓の忠義大節、卓然として伝うべし。彼其かの興功の如き、さいもつ百世にこうむることも、亦た復た此の如し。而して道卜志を継ぎて善後し、せいこうの顕著なることむべなるかな。ちょうめいを追錫し、ならびにの績を旌ぐる也。道卜、寛文四年十月十七日に歿す。享寿八十三。
〔5.建碑の経緯〕
子孫、よ南組総年寄と為り、明治維新に至りて廃す。道頓・道卜、既に褒贈の典にうも、未だ不朽の挙有らず。大阪府知事大久保君利武、乃わち諸有志者と与に、石を立て功をしるさんと謀る。其の石は河をさらいて獲る所にして、蓋し秀吉築城の日、誤りて水にてし者たらん。君、予にたのむに文を以てす。予、敢て辞さず。ぼ事蹟を叙し、後人をして以て観感して興起するもの有らしめん。
  大正四年八月  西村時彦ときつね撰文 磯野惟秋しょたん

*紀功 功績を記す。

*漕渠 船で物を運ぶために掘ったみぞ。運河。

*河内渋川郡久宝寺城 久宝寺寺内町の北西の隅(現大阪府八尾市久宝寺六丁目)にあったと伝えられる城。

*石山之役 石山本願寺合戦。元亀元年(1570)から天正8年(1580)に至る織田信長と石山本願寺(顕如)との戦い。石山合戦とも。

*大阪城 当時の表記は、「大阪」よりも「大坂」が支配的。

*煙火 炊事のけむり。ここでは人家のこと。

*蘆荻 蘆(あし)と荻(おぎ)。人の住まないような湿地帯。

*招徠 人をまねいて来るようにすること。

*大阪役 大坂の陣。慶長19年(1614)の大坂冬の陣と、翌年の大坂夏の陣。徳川家康が豊臣氏を攻め滅ぼした戦い。

*殉難 難は、いくさ。いくさで死ぬこと。

*東横堀川 大阪市東区と南区を南流する川。

*木津川 淀川下流の分流の一つ。大阪市西部を流れる。

*松平忠明 1583~1644。江戸初期の大名。母は徳川家康の娘。家康の養子になり松平氏を称す。元和元年(1615)大坂夏の陣の後、大坂藩を立藩。後、大和郡山へ移封。

*死事 国事すなわち国の重大事件で死ぬこと。

*処商 商人を置く。『管子』第八巻小匡第二十の「桓公曰、定民之居、成民之事、奈何。管子対曰、士農工商四民者、国之石民也。不可使襍処。(中略)処商必就市井」を踏まえる。

*市廛 まちなかの家や店。

*遠邇 遠近。

*沮洳 水はけがわるく、常にじめじめしている土地。

*盛麗 みごとに美しい。

*大節 大義。

*卓然 ひときわ優れているさま。

*興功 功績を挙げること。

*済物 世の人を救うこと。「済」は救うの意。「物」は衆生の意。

*恵利 めぐみを与えること。

*善後 あとのために良いようにすること。

*成効 成功。事業を完成すること。

*錫 賜と通じ、たまう、あたえる。

*寵命 恩命。ここでは「幕命」のこと。

*南組総年寄 南組は、近世大坂の三郷の一つ。いまの本町筋を境として北を北組、南を南組、さらに淀川以北を天満組と称し、それぞれ世襲の総年寄をおいて町政にあずからせた。

*大久保君利武 大久保利武(1865~1943)。明治~大正時代の官僚。大久保利通の三男。台湾総督府、内務省に勤務。鳥取県・大分県・埼玉県・大阪府の知事を歴任。

*其石 まさにこの石碑に使われている石。

*西村時彦 西村天囚(1865~1924)。明治・大正期の新聞記者、漢学者。本名時彦(ときつね)。

画像

全景 (撮影:’23/02/28。以下同)
オモテ面
ウラ面
ウラ面 その1
ウラ面 その2
ウラ面 その3
ウラ面
台石刻字
平成補修記念石
道頓堀 (日本橋から西方向) 1
道頓堀(日本橋から西方向) 2

その他

補足

  • 碑文内容には再検討が加えられていて、内容すべてを史実とすることは困難である(もちろん史実と認められる部分は少なくない)。詳しくは牧英正『道頓堀裁判』などを御参照いただきたい。その点を理解し現代語訳をお読み下さい。
  • 判読困難箇所は、『碩園先生遺集 第二』を参考にした。
  • 下記の文献で既に全文が収載・紹介されている(現代語訳、註釈はない):
    牧英正1977、『道頓堀裁判』、『浪速叢書 第十』、長南倉之助1937、『大阪人物誌 巻下』、『大阪府全志 巻之二』、『碩園先生遺集 第二』
    このうち、前の二点は訓読文が掲載されている。
  • 治水面で大阪に貢献をなし、本碑と同時期に建てられた河村瑞賢の顕彰碑は、こちら
    形状が類似し、建碑発意者、撰文者ともに同じ。

参考文献

  • 井上正雄『大阪府全志 巻之二』(大阪府全志発行所、1922年)563頁。
  • 船越政一郎編『浪速叢書 第十』(浪速叢書刊行会、1929年)572~4頁。
  • 石田誠太郎『大阪人物誌 巻下』(石田文庫、1936年)95~7頁。
  • 『碩園先生遺集 第二』(懐徳堂記念会、1936年)三八~四〇丁。
  • 長南倉之助「浪華先賢墓田録(四十一)」(『掃苔』6-6、1937年)184~5頁。
  • 牧英正「道頓堀訴訟覚書(2)」(『都市問題研究』315、1977年)115頁。
  • 牧英正『道頓堀裁判』(岩波新書、1981年)19~21頁ほか。

所在地

贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑

所在
道頓堀日本橋北|大阪府大阪市中央区島之内

アクセス
大阪メトロ日本橋駅・近鉄日本橋駅 下車 徒歩
日本橋を渡り交差点(「日本橋北詰」)の広場に所在

編集履歴

2023年7月11日 公開
2024年2月1日  小修正

目次