永井月丹居士碑銘 -長久手合戦の武勲 永井直勝の碑(3)-

永井月丹居士碑銘
概  要

小牧長久手合戦の武勲で有名な永井直勝の事績を刻んだ碑。織田信長、豊臣秀吉とのエピソードも交えつつ、若い頃から神君家康に付き従い幕府に忠節を尽くして功を積み、領地・爵位を賜ってきた様が描かれる。寛永2年(1625)没。領地下総えいせいに葬られた。没後約20年後、功名を永遠に伝えようと次男直清(後に摂津高槻藩永井家初代)が京都悲田院に造立。これより前、直清は父の菩提を弔うため、同寺を再興し霊代たましろとして位牌を安置した。本碑は、位牌に詣でる者に対して直勝を顕彰する意図があろう。並び立つ永井家の墓石に囲まれてひときわ高く立つ。頭部に竜の彫刻(しゅ)をいただき亀の台座()に立つ姿は、碑文内容と相まって威厳を感じさせる。これより後、本碑と文を異にする碑二基が兄尚政によって永井寺および京都宇治こうしょうに建てられた。

資料名 えいせいげったん碑銘
年 代 正保4年(1647)
所 在 悲田院|京都府京都市東山区泉涌寺山内町
 北緯34°58’47″ 東経135°46’34″
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は篆額による。
ID 0011_2308

目次

翻刻

  〇摩耗・剥離で判読困難な箇所が多いため、『羅山林先生文集』を参考にして補い翻刻した。
「永井月(篆額)丹居士碑銘」
右近大夫井月丹居士碑銘         民部卿法印 夕顔巷〔林ヵ〕□□〔春誌ヵ〕
                     正法山(妙心寺ヵ)比丘 養源院(以下読メズ)

居士姓大江、氏永井、諱直勝。産于参州。時永禄六年癸亥之歲也。自幼
東照大神*(一字台頭)君、経歴(徳川家康)遠参二州間。天正十年夏五月、 大神君到江州安土、謁織田信長公。公甚欣賞之。具尽礼、特請家臣数輩于別席設□□□□□□□□□ 〔膳。公自以箸配肴蔌。居〕*
士在其列。既而 大神君入洛、公亦到洛在本能寺。公勧 大神君遊覧泉堺。六月、公、為其下明智光秀被弑、京師大乱。 大神君聞驚、□□□□□□□□□〔慮道梗不利、而欲東帰。〕
乃発泉堺、経津過伊州、自勢州駕舟、而入参州崎城。是行也、往還居士不離左右。過旬後、光秀伏誅。十二年春三月、信長之子雄、□□□□□□□□□ 〔在尾州清洲城、与豊臣〕*
秀吉公有隙。秀吉将撃之、信雄請援兵。 大神君、以信長旧好故許之。秀吉、遣其将勝入(恒興)、以騎攻尾州抜山城。 大神君、率兵□□□□□□□□□〔救尾州、与信雄同屯小〕
山。居士従行焉。秀吉、引大軍入犬山。夏四月、秀吉謀密使勝入自間道襲参州。 大神君聞之、潜出小牧山、逆勝入戦于久手。居士執□□□□□□□□〔𥎄奮撃、鏦勝入得其〕
首、敵大敗走。時居士年二十二、人皆服其勇。勝入者、世所謂将也。居士之功、於是為多矣。冬十月、秀吉畏 大神君、遂与信雄和平而去。□□□□□□□□〔其後 大神君之家〕
臣若干、勅授従五位。居士亦在其中。他列国老叙位者鮮矣。文禄元年、秀吉撃韓、集群国兵于肥州護屋。 大神君往会焉。一日、秀吉□□□□□□□〔詣 大神君軍営、〕
見居士曰、彼何為者。衆曰、永井右近者也。秀吉曰、取勝入頭者是乎。衆曰、然。曰嘻壮士也。聞者皆羨之。慶長三年秋八月、秀吉公薨。闔国兵□□□□□□□〔馬之権、入 大神〕
君之掌握。五年秋、石田三成叛。 大神君自将討之、使諸将大戦于濃州関原、戮三成等。時居士列于隊頭。逮 大神君之開幕府也、遣居□□□□□□□〔就幽斎細川玄旨、〕
尋前代営之礼儀故事。蓋是損益随時也。十九年之冬、坂之役、居士亦為隊頭。明年夏五月、大坂城陥、豊臣氏殲矣。凱旋之時、有□□□□□□□□ 〔臧否群士、沙汰諸隊。〕*
功過已証、賞罰固当。而独属居士者、進止唯随其意、而定之官命令無論焉。居士之名、於是甚矣。元和二年夏四月、 大神君世。居士□□□□□□□□〔自駿城到江戸、仕 〕
台徳院(一字台頭)殿大相国(徳川秀忠)。乃賜常州間城、以加封戸。五年夏、 大相国在伏見城、嶋正則留滞江戸。以其違国法修築広嶋塁故。命山陽・南□□□□□□□□□〔両道牧守、以其衆收安〕
藝・備後二州。時遣対州太守藤重信与居士、往諭正則家人留守広嶋・原者。其行装謂受降如受敵也。留守懼而従命。乃取両城收二□□□□□□□〔州。雖正則罪不可〕
原、而思関原軍功、減一等放于越之後州。八年、以州最上郡賜居氏。然旧刺史之士卒、猶守方城。時遣州別駕本多正純及居□□□□□□□□□〔士往諭之。鳥居氏既入〕
山方城。会正純有罪。於是単使二人騁来、密告居士及鳥居氏。以命旨数正純罪状、左遷于利。是年、命居士改笠間賜総州河城、□□□□□□□□□□〔弥増采地。然常侍江府、有〕
訟、則居士預会焉。功成名遂、眷尤深。寛永二年乙丑季冬二十九日、嬰病禄。時年六十三。 大相国甚哀惜、時時及此焉。□□□□□□□□□□〔世人亦多悲慕之。葬于古〕
井寺。長子信州太守政嗣封、益揚家声、預聞国政。十年春三月、
大君幕(一字台頭)下、更改(徳川家光)古河賜城州城、復益其禄。且以城州岡、賜尚政之弟日州太守清、以為食邑。直清久事 幕下、夙夜不懈。常被親近、□□□□□□□□□〔眷遇日厚。是其恩賜之〕
栄盛、而居士之餘慶也。嗚呼懿哉。今日州奉為居士、再興廃寺田院、移于涌寺裏、以安其牌。其遠之情不易言也。唯恐、居士□□□□□□□□□□〔威名勇功雖顕於当世、不〕
垂於窮。故欲刻石而遺蹟。於是求余詞。余曽識居士久矣。又於日州猶韓也。故不能固辞。遂為之辞、系之以銘。銘云、
 井家譜 大江之後 赳武夫 在君左右 弱冠撃敵 于長久手 兵急接 勝入授首 父摏狄 羽斬良 □□□□〔昔人称美〕 □□□□ 〔今復見剛〕*
 関原之役 大坂戦場 隊有旅 紀之綱 笠間古河 食禄数万 鎮于一方 賜以券 偉哉種 天使滋蔓 趺載名 百世伝遠
 正保四年十一月二十九日         従五位日向守 永□□□□□〔井直清立之ヵ〕

現代語訳

〔1.家康への忠義と長久手の大功 -前半生-〕
右近うこんの大夫たいふえいせいげったん碑銘
居士の姓は大江、氏は永井、いみなは直勝である。三河国に生まれた。時に永禄6年(1563)のことである。幼い時から東照大神君(徳川家康)にお仕えし、遠江・三河二国の間をいったり来たりした。天正10年(1582)5月、神君が近江安土におもむき、織田信長公に拝謁した。信長公はこの謁見をとても喜びほめた。(家康一行への)接待は礼をつくしたものであった。(信長は家康の)家臣数人のみを別席に招いて食膳を設けた。信長公は自ら箸をとり、酒の肴に山野の幸をくばりわけたほどで、居士もその中にあった。やがて神君は入洛し、信長公もまた京都に到着して本能寺に滞在した。信長公は、神君に勧めて和泉の堺を遊覧させた。6月、信長公は、その配下明智光秀にしいぎゃくされ、京都はおおいに錯乱した。神君はこれを聞いて驚き、(京都への)道がふさがっていて(光秀討伐に)有利でない状況を慮り、東のかた本国三河に帰ろうと決した。そこで和泉の堺を発し、木津を経て伊賀を過ぎ、伊勢より舟にのり、参州岡崎城に入った。この行程で、居士は家康の左右を離れることがなかった。十日を過ぎたのち、光秀は誅せられた。12年3月、信長の子で尾張清洲城にいた織田のぶは、豊臣秀吉公と隙を生じ対立した。秀吉は軍勢を率いて信雄を討とうとし、信雄は援軍を(諸方に)請うた。神君は、信長公との旧好のため信雄に味方した。秀吉は、配下の将軍池田恒興を遣わし騎兵をもって敵陣に突撃させ、尾張を攻めて犬山城を攻略した。神君は軍兵を率いて尾張を救援し、信雄と共にまきやまに陣をはった。居士はこの軍行に従っていた。秀吉は、大軍を率いて犬山に入った。4月、秀吉は、密かに恒興軍に脇道を進ませ三河を急襲させようと謀った。神君はこのことを聞き及んで、しずかに小牧山から抜け出て、恒興を長久手の地に迎え撃った。居士は鎗をとって奮戦し、恒興を突き刺してその首をとると、敵は大敗をきっし退き去っていった。この時居士は22歳。人々はみなその勇気に感じ入った。恒興は、世にいうところの驍将、すなわちたけだけしく勇ましい武将である。居士はここで多大な軍功をあげたのだった。10月、秀吉は神君を恐れ、遂に信雄と和を結び退却した。その後、神君の家臣若干が、従五位を勅授された。居士もその内の一人だった。このほかに、一国の武将の配下で叙位された事例は少ない。文禄元年(1592)、秀吉が朝鮮を撃とうとして、諸国の軍兵を肥後国名護屋に召集した。神君は、当地におもむいて合流した。ある日、秀吉は神君の軍営に至り、居士を目にとめて「彼は何者か」と問うた。周りの者は「永井右近という者です」とお答えした。「池田恒興の首を取ったのはこいつか」と秀吉は問う。周りの者達は答えた「そうです」と。秀吉は「ああ勇ましい男であることよ」と言った。これを聞いた者は皆、うらやましい、自分もそうありたいと思ったことだった。慶長3年(1598)8月、秀吉公がこうきょし、全国の兵馬の権が神君の手中に入った。5年秋、石田三成は反乱を起こした。神君は自から軍を率いて三成を討とうとし、諸将軍に命じて美濃関ヶ原で大いに戦わせ、三成等を滅ぼした。この時、居士は隊頭に列していた。神君は幕府を開くに当たり、居士に命じて、前代室町幕府の礼儀体系や(軍事・政治の)故事を細川幽斎に尋ねにいかせた。恐らくこれは、(前幕府の状況を詳しく知り、新幕府の運営にとっての)利点・欠点を現実に応じて見極め取捨しようと思ったからだった。19年の冬、大坂の陣に際しても、居士は隊頭として従軍した。翌年の5月、大坂城は陥落し豊臣氏は滅んだ。凱旋に際し、ご命令があって従軍諸士の(軍功の)よしあしを判断するため、諸隊を調査した。功績と過失はやがて明らかにされ、賞罰はいうまでもなく(当該の功過に)かなって行われた。さて居士に属する武士については、その賞罰は(幕府でなく)居士のみの裁量にまかせられ、しかも彼らに対する功過審議で幕府中枢から指摘をうけることはなかった。そのため居士の名声は高まった。元和2年(1616)4月、神君家康は世を去った。
〔2.幕政の参画 -後半生-〕
居士は(家康がいた)駿府から江戸に移り(新将軍)徳川秀忠に仕え始めた。すると常陸笠間城を賜って、領地を増し加えられた。5年夏、秀忠は伏見城にいて、在江戸の福島正則を拘留させた。その理由は、制禁を犯して広島城を修築したためである。そこで山陽道・南海道の大名に命じて、多大な軍事力をもって安芸・備後二国を(正則から)接収させた。その時、対馬守安藤重信と居士とを派遣し、広島や三原に留守居している正則の家臣達を説得させた。その軍行は、降伏者を受け入れるものでありながら、敵を受けて立ち向かうような本格的な様相であった。留守居達は恐れて幕令に従った。よって両城を取り上げ二国を接収した。正則の罪は許されるべきものではなかったが、関ヶ原の戦いの軍功にかんがみ、減刑されて越後に追放された。8年、出羽国最上郡を鳥居氏に賜わった。しかし旧領主の士卒はそれでも山方城(山形城)を守り立ち退かなかった。この時、上野介本多まさずみと居士を遣わし彼らを説得させたので、鳥居氏はやがて山方城に入ることができた。この時偶然にも正純に罪状ありと(幕府が)決した。そのため使者2人が(命令書を持って)馳せ来たり、密かに居士と鳥居氏に告げて、将軍の命令通りに正純に対して過ちを咎めさせた。その結果、(出羽国)由利に左遷された。この年、居士に幕府から辞令があり、笠間を改め上総古河城を賜り、領地石高が増加した。それでも常に江戸にて将軍に侍り、幕府にて訴訟が裁決される際には、居士はその議論の場に参加した。このように、これまで手柄を立ててきたので、名声は顕著となり、(それに対して将軍からの)恩遇もとても厚いものがあったわけである。寛永2年(1625)12月29日、病にかかり死去した。時に年63。将軍は非常に悲しんでその死を惜しみ、ときどきにその情が起こった。世間でも多くの人が、泣いて亡き人を恋しく思った。古河のえいせいに葬むられた。
〔3.子息の栄達〕
長子の信濃守なおまさが(幕府に認可されて)遺領を継承し、ますます家の名声を高め、国政に関与した。10年3月、現将軍徳川家光の命により、古河が改められ、山城国淀城を賜わり、さらにその禄高を増した。そのうえ尚政の弟日向守直清に山城国長岡を賜い領地とさせた。直清は昼夜おこたることなく久しく幕府に仕えてきた。(将軍から)常に親しくされ、日々ますます手厚く遇されてきた。これは、君恩による栄誉の至りであって、居士の余光なのである。(居士の子供たちが益々さかえていて)ああ、よいことかな。
〔4.建碑の経緯〕
今、日向守直清が、居士のおんために、廃寺悲田院を泉涌寺内に移して再興し(居士の霊代たましろとなる)位牌を安置した。日向守が居士の徳を追慕し供養しようとする気持ちは、言葉にできない(ほど深いものである)。ただ一つ懸念されることは、居士の武勇の名声や功績が、当代でよく知られているといっても、永遠には伝わらないかもしれないということだけである。そのため石に刻んですばらしい事跡を後世に遺そうと考えた。そこで私の粗雑な文を乞うた。わたしは、かつて居士と久しく交流していた。また日向守も、わたしなどと交流して下さる。だから固辞することはできない。とうとうこの文章を作成してしまい、以上の序文に銘(詩)をつなぐ。銘にいわく、
〔5.銘〕
  〇以下、換韻するごとに改行する。
 永井の系譜は、大江氏の後裔。勇ましい武人、神君の左右にはべる。歳弱冠にして敵を撃つ、尾州長久手に。手槍を握って急接近、恒興はおのが首を与えてしまった。
 中国春秋時代の人しゅうせいは戦場で敵国の君を矛でつき殺し、後漢末かんの戦いにそうそう側の将かんは敵軍の将がんりょうに斬り込み首級をあげた。誉れたかい武人は昔の人、しかし今もまた(匹敵する)つわものをみる。関ヶ原の戦い、大坂の陣。軍団数百人を指揮する、大づな小づなで操るように。
 笠間・古河、禄高は数万。鉄券を賜って、領地を治める。すばらしいことだ、武門の家に生まれしもの     天は彼らを繁栄させる。亀趺は名声を載せ、百代も先の遠い未来に伝える。
 正保4年(1647)11月29日         従五位日向守 永井直清が立てた。

訓読文・註釈

〔1.家康への忠義と長久手の大功 -前半生-〕
右近うこんの大夫たいふえいせいげったん碑銘         民部卿法印 夕顔巷林道春誌す
                     正法山比丘 養源院(以下読メズ)
居士姓は大江、氏は永井、諱は直勝。参州に産まる。時に永禄六年癸亥の歲也。幼きより東照大神君にぜいし、遠参二州の間を経歴す。天正十年夏五月、大神君江州安土に到り、織田信長公に謁す。公甚はだ之をきんしょうす。礼を尽くし、だ家臣数輩のみを別席に請じ膳を設く。公、自から箸を以てこうそくを配る。居士其の列に在り。既にして大神君入洛し、公も亦洛に到りて本能寺に在り。公、大神君に勧めていずみさかいを遊覧す。六月、公、其の下の明智光秀の為めにしいせられ、けい大いに乱る。大神君聞きて驚き、道のふさがり利あらざるを慮ぱかりて、東帰せんと欲す。乃わち泉堺を発し、木津を経て伊州を過ぎ、勢州より舟にりて、参州岡崎城に入る。是の行や、往還に居士左右を離れず。旬を過ぐる後、光秀ふくちゅうせらる。十二年春三月、信長の子のぶ、尾州清洲城に在りて、豊臣秀吉公とすきま有り。秀吉きて之を撃たんに、信雄援兵を請う。大神君、信長との旧好を以ての故に之にくみす。秀吉、其の将池田しょうにゅうを遣わしとっを以て尾州を攻め犬山城を抜かしむ。大神君、兵を率いて尾州を救い、信雄とともまきやまたむろす。居士、行に従う。秀吉、大軍をみちびきて犬山に入る。夏四月、秀吉密かに勝入をして間道より参州を襲わしめんと謀る。大神君之を聞きて、ひそかに小牧山を出で、勝入をむかえてながに戦う。居士𥎄やりを執りて奮撃し、勝入をきて其の首をれば、敵大いに敗走す。時に居士、年二十二、人皆な其の勇に服す。勝入は、世に所謂いわゆるぎょうしょう也。居士の功、ここにおいて多しと為す。冬十月、秀吉、大神君を畏れ、遂に信雄と和平して去る。其の後、大神君の家臣若干、従五位を勅授せらる。居士も亦其の中に在り。其の他、国老に列し叙位せらるる者はすくなし。文禄元年、秀吉さんかんを撃たんに、群国の兵を肥州名護屋に集む。大神君、往きてこれに会す。一日、秀吉、大神君の軍営にいたり、居士をみとめて曰く、彼れなんするものぞと。衆曰く、永井右近なる者也と。秀吉曰く、勝入のこうべを取るは是れかと。衆曰く、しかなりと。曰くあ壮士也と。聞く者皆之をきんせんす。慶長三年秋八月、秀吉公こうず。こうこく兵馬の権、大神君の掌握に入る。五年秋、石田三成叛す。大神君自からひきいて之を討たんに、諸将をして大いに濃州関原に戦わしめ、三成等を戮す。時に居士隊頭に列す。大神君の幕府を開くにおよぶや、居士を遣わし幽斎細川玄旨に就きて、前代柳営の礼儀・故事を尋ねしむ。けだし是れ、損益時に随わしめんと欲すれば也。十九年の冬、大坂の役にも、居士亦隊頭と為る。明年夏五月、大坂城陥ちて豊臣氏ほろぶ。凱旋の時、旨有りて群士をぞうし、諸隊を沙汰す。功過已に証せられ、賞罰もとよりかなう。しこうしてだ居士に属する者のみ、進止唯だ其の意のみに随がい、しかも之を定むるに官命、あげつらうこと無からしむ。居士の名、是に於いてせきじんたり。元和二年夏四月、大神君そくせいす。

*永井月丹居士 永井直勝(1563~1625)の戒名。「永井月丹居士」で一つの戒名と考えられるので、「永井」はナガイではなくエイセイと読んでおく。居士は、仏教の在家信者のこと。

*筮仕 初めて仕官すること。

*東照大神君 徳川家康(1542~1616)。戦国時代の武将。江戸幕府初代将軍。はじめ今川義元、ついで織田信長と結び、のち豊臣秀吉と和睦して天下統一に協力。関ケ原の戦勝後、征夷大将軍。慶長10年(1614)秀忠に将軍職を譲り、大御所として駿府で幕府の土台固めにつくした。死去の翌年、東照大権現という神号を贈られる。

*治具 接待などの仕度をすること。

*肴蔌 酒のさかなにする、山の料理と野の野菜。欧陽脩「醉翁亭記」(『古文真宝』後集巻四)の「山肴野蔌、雑然而前陳者、太守宴也」を踏まえる。

*木津 京都府木津川市 (きづがわし) の南部。西流してきた木津川が山城盆地に出て北流する曲り角の南岸に位置。交通の要衝。

*岡崎城 現愛知県岡崎市にあった城。15世紀に、西郷稠頼が築城。のち、徳川家康の祖父松平清康が攻略して居城としたという。

*信雄 織田信雄(1558~1630)。安土桃山時代の武将。信長の次男。「のぶかつ」とも。信長の死後、尾張清洲城主。徳川家康の助けを得て一時豊臣秀吉と戦う。

*清洲城 愛知県清須市にあった城。15世紀、織田敏定が居城とし、のち織田信長の居城となった。信長の死後、次男の信雄の居城となる。清須城とも。

*池田勝入 池田恒興(1536~84)。安土桃山時代の武将。尾張に生まれる。美濃大垣城主。織田信長、豊臣秀吉に仕える。尾張長久手の戦いで徳川家康の軍に敗れ討死。

*突騎 敵陣に突撃する騎兵。

*犬山城 愛知県犬山市、木曽川南岸の丘にある城。天文6年(1537)織田信康が築いたという。

*小牧山 愛知県小牧市にある小高い山。小牧・長久手の戦いで徳川家康の主陣地となった所。

*長久手 尾張西部の地名。現愛知県長久手市。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの戦跡。

*驍将 たけだけしく勇ましい大将。

*其他列国老叙位者鮮矣 国老は、家の重臣、家老の意味か。このあたりの文意、やや難。

*三韓 朝鮮のこと。『古事記』『日本書紀』にいう、神功皇后による三韓(新羅・高句麗・百済)の征伐や帰服を踏まえた表現。

*名護屋 肥前国の地名。現佐賀県唐津市鎮西町。東松浦半島の北西端にあり、壱岐海峡に面する。文禄・慶長の役の際には、本営として名護屋城が築かれた。

*歆羨 ほしがり、うらやむ。

*幽斎細川玄旨 細川幽斎(1534~1610)。安土桃山時代の武将、歌人。本名藤孝。剃髪して玄旨・幽斎。三淵晴員の次男。伯父で和泉半国守護の細川元常の養子となる。足利義晴、義輝、義昭に仕え、義昭追放後は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。広く芸道に通じた文化人といえる。

*柳営 幕府。

*欲損益随時 文意やや難。現代語訳は試案。

*大坂之役 大坂の陣。徳川家康が豊臣氏を攻め滅ぼした戦い。

*臧否 よしあしを判ずること。

*沙汰 物事の是非をえらび分ける。

*藉甚 評判が高いこと。

*即世 死去。

〔2.幕政の参画 -後半生-〕
居士、駿城より江戸に到り、台徳院殿だいしょうこくに仕う。乃わち常州笠間城を賜わり、以て封戸を加う。五年夏、大相国伏見城に在りて、福嶋正則江戸に留滞せらる。其の国法に違い広嶋のとりでを修築するを以ての故なり。山陽・南海両道ぼくしゅに命じて、其の衆を以て安藝・備後二州を收めしむ。時に対州太守安藤重信と居士とを遣わし、往きて正則家人の広嶋・三原に留守する者を諭さしむ。其の行装は、所謂いわゆる受降じゅこう、敵を受くるが如き也。留守おそれて命に従がう。乃わち両城を取りて二州を收む。正則の罪ゆるすべからざると雖ども、関原の軍功を思い、一等を減じて越の後州に放つ。八年、羽州最上郡を以て鳥居氏に賜う。しかるに旧の士卒、猶お山方城を守る。時に上州べつ本多正純及び居士を遣わし往きて之を諭さしむ。鳥居氏既に山方城に入る。たまたま正純に罪有り。是に於いてひとえ使つかい二人せ来たりて、密かに居士及び鳥居氏に告ぐ。めいを以て正純の罪状をめ、に左遷せしむ。の年、居士をして笠間を改め総州城を賜い、弥いよ采地を増さしむ。然るに常にこうに侍し、とういんちょうしょうすること有れば、則わち居士これに預かり会す。功を成し名をげ、おんけん尤も深し。寛永二年乙丑とう二十九日、病にかかりて禄さず。時に年六十三。大相国甚はだ哀惜し、時時此に及ぶ。世人も亦多く之を悲慕す。古河えいせいに葬むる。

*台徳院殿大相国 徳川秀忠(1579~1632)。江戸幕府第二代将軍。家康の三男。慶長10年(1605)将軍となる。

*笠間城 現茨城県笠間市笠間にあった城。ここを藩庁とした笠間藩について碑文に関係する事項を挙げておくと、慶長17年(1612)松平康長が入封し、元和2年(1616)に上野高崎に移ったのち、永井直勝が入封。同8年、下総古河に転封。

*福嶋正則 福島正則(1561~1624)。安土桃山・江戸初期の武将。尾張に生まれる。豊臣秀吉に仕えた。小牧・長久手の戦い、九州・小田原征伐などで活躍。関ヶ原の戦いで徳川方につき、安芸広島城主となったが城修築でとがめをうけ、所領を没収。

*牧守 地方の長官。

*安藤重信 1557~1621。安土桃山・江戸前期の大名。三河の人。徳川家康・秀忠につかえ、小牧・長久手の戦い、関ケ原の戦い、大坂の陣で功をたてた。幕府老中。

*三原 備後三原城は、広島県三原市にあった城。天正年間(1573~92)小早川隆景が構築。のち福島氏、浅野氏の支城となる。

*所謂受降如受敵 文意やや難。現代語訳は試案。なお受降は、敵の降服を受ける意。

*羽州最上郡 最上郡は、出羽国南部の郡。現山形県内。ここを領していた最上氏は、足利一門の斯波氏の一流と称する武家。関ヶ原の戦いでは最上義光が徳川方につき山形五十七万石に封ぜられ、山形城を居城とした。しかしその領国体制は未熟で、義光の死後内紛が激化。元和8年(1622)幕府は最上義俊の所領を没収し、近江大森に転封して一万石を与えた。

*鳥居氏 鳥居忠政(1566~1628)。安土桃山・江戸時代前期の武将。

*山方城 「*羽州最上郡」の項参照。

*上州別駕本多正純 本多正純(1565~1637)。上州別駕は、上野介。江戸初期の大名。家康の信任厚く権勢をふるった。宇都宮城主となったが幕臣の反感をかい、出羽国(秋田県)に流された。

*由利 出羽国の地名。

*古河城 茨城県古河市にあった城。

*棠陰 原義は、からなしの木陰。古代中国、周代の召公奭(しょうこうせき)が棠(からなし)の木の下で政治をよくしたので、彼の死後、人々は彼の善政をたたえてからなしの木を切らなかったという故事から、政治の場、徳政などの意。ここでは、善政をしいた家康の後を継いだ秀忠の幕府。

*聴訟 訴訟のあった際、当事者に事情を聞いて判決すること。

*恩眷 めぐみや情けをかけること。

*不禄 俸禄を受け終わらない意で、士人の死をいう。

*永井寺 永井直勝の菩提をとむらうため、死没翌年の寛永3年(1626)、子の尚政が古河に建てた寺(現茨城県古河市西町)。境内には直勝が葬られた塚と墓塔、石碑がある。石碑とは、慶安2年(1649)に尚政が立てた直勝の顕彰碑(「永井月丹居士石表辞」)。撰文は林羅山。

〔3.子息の栄達〕
長子信州太守なおまさ封をぎ、益ます家声を揚げ、国政を預かり聞く。十年春三月、今大君幕下、古河を更改し城州淀城を賜い、復た其の禄をす。且つ城州長岡を以て、尚政の弟日州太守直清に賜い、以て食邑と為す。直清、久しく幕下につかえ、しゅくおこたらず。常に親近せられ、けんぐう日に厚し。是れ其の恩賜のえいせいにして、居士の餘慶也。嗚呼きかな。

*尚政 永井尚政(1587~1668)。江戸時代前期の大名。永井直勝の長男。二代将軍徳川秀忠の近習。寛永3年(1626)、父の遺領をつぎ、下総古河藩主をへて、10年、山城淀藩主永井家初代。宇治興聖寺(現京都府宇治市宇治山田)に葬られる。

*今大君幕下 三代将軍徳川家光(1604~51)。

*淀城 京都市伏見区淀にあった城。戦国時代に細川氏が創建。その後廃されるも、寛永2年(1625)、松平定綱が伏見城を解体した材料で構築。永井・石川・松平氏を経て稲葉氏が入封。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで焼失。

*長岡 「*直清」の項参照。

*直清 永井直清(1591~1671)。江戸時代前期の大名。永井直勝の次男。山城長岡藩主をへて、慶安2年(1649)摂津高槻藩藩主永井家初代。京都所司代代理、大坂城代代理をつとめた。日向守。墓所は、京都府京都市東山区の悲田院。

〔4.建碑の経緯〕
今、日州、居士の奉為おんため、廃寺でんいんを再興し、泉涌寺のうちに移し、以て其の霊牌を安んず。其の追遠の情、言うにやすからざる也。唯だ恐るらくは、居士の威名・勇功、当世に顕わなりと雖ども、無窮に垂れざらんを。故に楽石に刻みてほうせきを遺さんと欲す。是に於いて余のを求む。余、曽て居士とること久し。又た日州に於いても猶おかんと識るがごとき也。故に固辞する能わず。遂に之が辞を為し、之にくるに銘を以てす。銘に云く、

*悲田院 泉涌寺の西に位置する同寺塔頭。本尊は阿弥陀如来。平安遷都後、東西二ヵ所に悲田院を設けて病人・孤児を収容したが、その後身という。正保年中(1644~48)に永井直清が現在地に移して再興。永井家累代の墓がある。

*泉涌寺 京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の大本山。空海創建という。鎌倉時代前期、俊芿(しゅんじょう)が堂宇を再建して台・密・禅・律四宗兼学の道場とし、現名に改めた。歴代皇室の菩提寺として崇敬をうけた。

*霊牌 位牌。死者の冥福を祈るために法号・戒名を記して、霊代(たましろ)とする板。

*追遠 先祖の徳を追慕する。

*無窮 永遠。

*楽石 秦始皇帝嶧山刻石の「刻此楽石」を踏まえ、碑石の意か。

*芳蹟 すばらしい事跡。

*蕪詞 乱雑なことば。自分の文をへりくだった表現。

*識韓 李白「与韓荊州書」(『古文真宝』後集巻十書類)の「談士相聚而言曰、生不用封万戸侯。但願一識韓荊州」に基づく表現。すぐれた人物である永井直清に、林羅山は幸いにも面識を得ることができたとの意か。直清に対して羅山が自分を謙遜した表現とみられる。

〔5.銘〕
 永井の家譜、大江の後。きゅうきゅうたる武夫、君の左右に在り。弱冠にして敵を撃つ、長久手において。短兵もて急接し、勝入、首を授く。てきき、かんりょうを斬る。せきじんしょうせられ、今も復た剛を見る。
 関原の役、大坂の戦場。隊をたもりょを有ち、之のこう。笠間・古河、食禄数万。一方をしずめ、賜うに鉄券を以てす。偉なるかなしょうしゅ、天まんせしむ。に名を載せ、百世遠きに伝う。
 正保四年十一月二十九日         従五位日向守 永井直清之を立つ。

*永井家譜・・・ 四言詩。韻字、後・右・手・首(上声二十五有)、良・剛・場・綱(下平声七陽)、万・券・蔓・遠(去声十四願)。

*赳赳 勇ましいさま。つよいさま。

*短兵 短い武器。長い矛や槍に対して短い手槍などをさす。

*富父摏狄 中国春秋時代、魯国文公が敵と争った際、戦場で富父終甥(ふほしゅうせい)が、敵の君長喬如の喉を矛でつき殺してうちとった。『春秋左氏伝』文公十一年条「敗狄于鹹、獲長狄喬如。富父終甥、椿其喉以戈殺之」。

*関羽斬良 中国後漢末の官渡(かんと)の戦で、曹操側について戦っていた関羽が、敵方袁紹(えんしょう)側の将・顔良の首を斬って武功をあげたこと。

*今復見剛 『論語』公冶長第五「子曰、吾未見剛者」に基づく表現とみられる。ここで「剛者」とは、(最後まで筋を通す)強い人。今もまた(富父終甥や関羽のような)強い人、すなわち永井直勝がいるとの意。

*有隊有旅 隊は兵士100人を、旅は500人を一団とした軍隊。要するに直勝が数百人規模の軍隊を統率していたことを示すのだろう。

*之紀之綱 「綱」は大づな、「紀」は小づなの意。

*鉄券 鉄製の割符。古代中国で、功臣に与えたもの。

*将種 武将の家柄に生まれた者。

*亀趺 亀の形に刻んだ碑の台石。

画像

全景 (撮影:’23/01/10。以下同じ)
永井家墓所にある石碑
碑面
碑面 部分1
碑面 部分2
碑面 部分3
碑面 部分4
側面

その他

補足

  • 永井直勝の碑文には、下記が知られている。すべて林羅山撰文。
    • 寛永碑銘〔1〕
      題は「右近大夫永井月丹居士碑銘」。碑は現存せず、テキストのみ知られる。
      『羅山林先生文集』巻第四十一ほか所収。
      寛永14年(1637)、直勝の十三回忌に合わせて永井直清が立てたとある。
      テキストは完成したものの、同年の天草の乱の影響で、碑造立が実施されなかったか。
    • 悲田院 正保碑銘〔2〕:
      題は1と同じ。本碑のこと。悲田院に碑が現存。
      正保4年(1647)、悲田院の再興および直勝の位牌安置を契機として直清が造立。
      1とほぼ同文。ただし造立経緯と造立年の記述に相違がある。
    • 永井寺 慶安石表辞〔3〕:
      題は「右近大夫永井月丹居士石表辞」。永井寺に碑が現存(詳細はこちら)。
      慶安2年(1651)、永井尚政(直勝の子、直清の兄)によって造立。
      1、2と異文。大筋で内容は近しい。
      『羅山林先生文集』巻第四十一所収。
    • 興聖寺 慶安石表辞〔4〕:
      題は3と同じ。興聖寺に碑が現存(詳細はこちら)。
      慶安2年、永井尚政によって造立。
      3と同文同筆。
  • 本碑とほぼ同文の上記1は、下記の版本・書籍で全文が収載されている(訓読・現代語訳・註釈はない)。
    『羅山林先生文集』巻第四十一、『越後史集 地』。
    どちらも訓点・仮名が付されている。本碑の判読不能な部分は、上記を参考として補った。また、訓読の参考としたところがあるが、相違もかなり多い。このほか、肥前島原松平文庫が写本を所蔵する。
  • 墓域の写真撮影をする際には、被葬者・祭祀者に対し敬意をもって行った。

参考文献

  • 『羅山林先生文集』巻第四十一(早稲田大学図書館所蔵、請求記号:ヘ16/1533/17)二十四丁~二十七丁。京都史蹟会編『羅山林先生文集 巻二』(平安考古学会、1918年)42~4頁所収。
  • 黒川真道編『越後史集 地』(越後史集刊行会、1916年)146~9頁。
  • 「右近大夫永井月丹居士碑銘」(肥前島原松平文庫所蔵、函架番号48-13)。

所在地

永井月丹居士碑銘

所在
悲田院|京都府京都市東山区泉涌寺山内町

アクセス
JR奈良線・京阪本線 東福寺駅、または京都市営バス 泉涌寺道 下車 徒歩
悲田院 境内

編集履歴

2023年8月3日 公開

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