震災紀念之碑 -濃尾震災 愛知県西南部の惨状と支援-

震災紀念之碑
概  要

明治24年(1891)10月に美濃尾張地方で起きた大震災(のう震災)の記念碑。かいとう郡(現愛知県津島市ほか)における被害の悲惨さと、天皇はじめ諸方面から多大な支援をうけた事実とを永遠に伝えようと、同郡有志によって翌年に造立。造立地の津島には、当時郡役所が置かれていた。碑陰には、造立に関わった人々の名前がずらりと刻まれ、多くの人の賛助があったことが知られる。

資料名 震災紀念之碑
年 代 明治25年(1892)
所 在 天王川公園|愛知県津島市宮川町
 北緯35°10’27″ 東経136°43’21”
文化財指定 津島市 祖先の遺産「濃尾大地震記念碑」

資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0013_2308

目次

翻刻

〇オモテ面
「震災(篆額)紀念之碑」
天地之変異、其来不可測。而其災害激烈者、莫甚於地震也。明治二十四年十
月二十八日、尾濃二州地大震、東郡亦当其衝。土地陥没、田園荒廃、家屋倒
隤。死傷相接、幸而免死傷者、居無屋、飢無食、号泣之声、塞于四方。死者二百九
十四人、傷者千二百六十四人、家屋倒隤三万二千餘、土地陥没、田園荒廃、隄
圮、不遑枚挙焉。事達 聖聴。於是使侍臣条氏恭観察之、且賜金若干
円、撫恤其窮。継使松宮殿下慰問其惨害、再使侍臣園基愛験救済修
築之事。特下勅令、以開国庫出数百万金、而救窮民。窮民、屋防風雨、食免飢渇。
修復隄防、再造学校、其費用亦可得弁焉。当此際、赤十字社愛知病院皆派遣
医員、治負傷者、慈善家恵贈金員及物品。是以罹災之民、漸得安其堵。是実聖
恩洪大、至仁渥。加之以患分災之恵与而然矣。不則其災害、焉有所
哉。本郡有志者、欲紀災害之惨状、仁恩之洽、鐫之石、以伝不朽、乞余文。余
所不敢辞者、以同其感情也矣。
明治廿五年十月廿八日 愛知県海東郡長正八位横田太一郎撰
 愛知県知事従四位勲三等任為基篆額 愛知県属井村貫一書

〇ウラ面
多額寄付人
 (人名省略)
賛成者建設委員
 (人名省略)
賛成者
 (人名省略)
〔府ヵ〕川石寄附人
 (人名省略)
鉄柵寄付人
 (人名省略)
臺石寄附人
 (人名省略)
発起人
 (人名省略)
会計主管
 (人名省略)

現代語訳

〔1.大震災の惨状〕
震災紀念之碑
天変地異、それはいつ起こるかわからない。そして地震以上に被害の大きなものはない。明治24年10月28日、尾張美濃二国の地は大いに震動し、(尾張、愛知県)かいとう郡もその衝撃をこうむった。地面は陥没し、田畑は荒れ果て、家屋は倒壊した。死や負傷はすぐ間近に迫りきていたが、幸いに死傷を免がれた人でも、住むための家がなくなり、腹がへっても食料がない状態で、(悲しみのあまり)泣き叫ぶ声が四方をふさいでいた。死者294人、負傷者1264人、家屋の倒壊32000余り。陥没してしまった土地、荒れ果てた田畑、崩壊した堤防の数は、枚挙にいとまがない。
〔2.諸方面からの援助〕
事情は、天皇のお耳に入るところとなった。そのため、侍臣の北条うじゆきを遣わして被災地を視察させ、さらに金若干円を賜い、その窮状に対していつくしみとあわれみの心を寄せた。ついで小松宮あきひと親王を遣わし悲惨な状況(の住民)を慰問させ、加えて侍臣のひがしそのもとなるを遣わし救済・修築の状況を調べさせた。特別に勅令を下し、国庫から数百万金を支出して、窮民を救わせた。窮民は、(救援のため供給された)家屋で風雨から免れ、(支給された)食料で飢えを免れることができた。堤防修復や学校再建の費用も支出されることであろう。この度の震災で、赤十字社愛知病院は、医員をすべて派遣して負傷者を治療し、慈善家は金銭・物品を寄贈した。そのため被災した人々は、ようやく安堵の思いをなすことができた。これは、まことに天皇の恩が広大であって、この上なく思いやりのある心で厚くお恵みくださったからである。それに加え、(民間が)わずらいから救い苦しみを分かつような施しをしてくれたからでもある。もしそのようなことがなければ、このような大災の被害は、どうして止むことがあろうか。
〔3.碑造立の経緯〕
本郡有志の者が、災害の悲惨な状況、そして(多方面からの)思いやりの心で(一郡)すみずみまで施しを受けた事実を文にし、これを硬い石に刻んで、永久に後世に伝えようと思い、私に文の作成を請願してきた。私があえて辞退しないのは、彼らと感情を同じくするからである。
明治25年10月28日 愛知県海東郡長正八位横田太一郎が撰した。

訓読文・註釈

〔1.大震災の惨状〕
震災紀念之碑
天地の変異、其のいたるや測るべからず。しこうして其の災害の激烈なるは、地震より甚しきはなき也。明治二十四年十月二十八日、尾濃二州の地、大いに震え、かいとうぐんも亦其のしょうに当たる。土地は陥没し、田園は荒廃し、家屋はとうたいす。死傷相い接し、幸いにして死傷を免かる者は、きょすにおく無く、飢えて食無く、号泣の声、四方に塞がる。死者二百九十四人、傷者千二百六十四人、家屋の倒隤三万二千餘。土地の陥没せる、田園の荒廃せる、隄防のほうせるは、枚挙するにいとまあらず。
〔2.諸方面からの援助〕
事、せいちょうに達す。ここに於いてしん北条うじゆき使つかいして之を観察せしめ、且つ金若干円を賜い、其の窮をじゅつす。継いで小松宮殿下を使つかいして其の惨害を慰問せしめ、再び侍臣ひがしそのもとなる使つかいして救済・修築の事をあんけんせしむ。特に勅令を下し、以て国庫を開き数百万金を出だして、窮民を救わしむ。窮民、屋は風雨を防ぎ、食はかつを免かる。隄防を修復し、学校を再造する、其の費用も亦弁ずるを得べし。此の際に当たりて、赤十字社愛知病院、皆な医員を派遣して負傷者を治し、慈善家、金員及び物品を恵贈す。是れを以て罹災の民、漸やく其のかきを安ずるを得たり。是れ実に聖恩の洪大に、至仁のりゅうあくなればなり。加之しかのみならず、救患ぶんさいけいを以てしかなり。しからざれば則わち其の災害、いずくんぞていする所有らんや。
〔3.碑造立の経緯〕
本郡有志の者、災害の惨状、仁恩のしょうこうなるをしるし、之をていせききざみ、以て不朽に伝えんと欲し、余に文をう。余の敢て辞せざる所は、其の感情を同じうするを以て也。
明治廿五年十月廿八日 愛知県海東郡長正八位横田太一郎撰
 愛知県知事従四位勲三等時任ときとう為基てんがく 愛知県属けんぞく井村貫一書

*海東郡 愛知県尾張地方の西南部、庄内川下流の西岸にあった郡。現津島市域ほかに相当。石碑建立当時の郡役所所在地は津島町(現津島市)。大正2年(1913)、海西(かいさい)郡と合わせて海部(あま)郡となった。

*崩圮 崩壊。圮は、やぶれる、くずれるの意。

*北条氏恭 1845~1919。幕末~大正時代の大名、官吏。河内狭山藩主北条家12代。維新後は明治天皇の侍従をつとめた。

*小松宮殿下 小松宮彰仁親王(1846~1903)。

*東園基愛 1851~1920。幕末から大正時代の公家(藤原氏中御門家流、羽林家)、華族。明治天皇につかえ侍従、掌典次長をつとめた。宮中顧問官。子爵。

*按験 取り調べる。

*隆渥 君主のめぐみのあついこと。

*救患分災 『春秋左氏伝』僖公元年夏六月条「凡侯伯、救患、分災、討罪、礼也」にもとづく。「分災」とは、他国のものが被害地の国に物品を送るなどして、被害の程度を自他の国で分かつこと。

*底止 行きつく所まで行きついて止まること。

*浹洽 すみずみまで行きわたること。

*貞石 堅い石

*時任為基 1842~1905。明治時代の官僚。薩摩鹿児島藩士の子。高知、静岡、愛知、大阪、宮城の各府県知事をつとめた。

画像

全景 (撮影:’23/03/19。以下同じ)
オモテ面
篆額
ウラ面

その他

補足

  • 本碑文は、すでに『津島町史』に収載されている(訓読文・現代語訳はない)。判読困難な箇所は、これを参考にした。
  • 篆額には「震烖・・・」と刻まれているが、「烖」は「災」の異体字なので、通用の「災」字で統一した。
  • 津島市「祖先の遺産」とは、同市条例「津島市祖先の遺産を守り育てる条例」(昭和53年12月25日条例第40号)に基づく制度。

参考文献

  • 『津島町史』(愛知県海部郡津島町、1938年)237~42頁、709頁。

所在地

震災紀念之碑

所在
天王川公園|愛知県津島市宮川町

アクセス
名鉄 津島駅 下車 徒歩
天王川公園内

編集履歴

2023年8月17日 公開

目次