方広寺鐘銘

方広寺の梵鐘
概  要

豊臣秀吉創建の京都・方広寺にある、史上最も有名な梵鐘の銘文。秀吉は、東大寺大仏にならいしゃ大仏を造立したが、慶長元年(1595)の大地震で大破し、その後の火災で大仏殿もろとも焼失した。没後、遺児秀頼に徳川家康が再建を促したことで、同18年に竣功。梵鐘の鋳造も企図し、翌年この梵鐘が出来上がった。以上の顛末が、インド・中国・日本の故事をおりまぜ美辞・比喩を連ねて刻まれている。合わせて大仏・伽藍・梵鐘の偉容を賛美し、再建を促した将軍家康、完遂した秀頼を称賛する。余りに装飾された文章はかえって読む者に虚構かと思わせるが、当時の大仏が本家東大寺大仏よりも大きかったことを踏まえれば、文飾にうなずく人もいるだろう。鋳造直後、家康が「国家安康」「君臣豊楽」の文言を難じ、大坂の陣、ひいては豊臣氏滅亡につながったことは有名。再建大仏・大仏殿はその後廃絶し、寺地も往時より著しく縮小した。この梵鐘だけは現存し、鐘銘は、その巨大さと相まって大仏・伽藍がいかに壮麗だったかを伝え、豊臣氏の栄枯に思いを致らせる。

資料名 方広寺しょうめい
年 代 慶長19年(1614)
所 在 方広寺|京都市東山区茶屋町
 北緯34°59’31″ 東経135°46’19”
文化財指定 国指定重要文化財「梵鐘」(昭和43年4月25日指定)
資料種別 銅鐘銘(線刻)
備 考 資料名は内容に基づく。題字はない。
ID 0020_2310

目次

翻刻

  〇撞座右の池の間。
欽惟、
豊国神君(豊臣秀吉)、昔年掌天之下、位兆之上、外施仁政、内帰乗。是故、天正
十六戊子夏之孟、攸於安城東、創大梵刹(方広寺)、安立舎那大像矣。蓋
武帝南京之大像、朝公東大之再建者也。雖然、慶長七
年臘月初四、不図、罹攸之変、已為有矣。凡髪含歯之類、無不歎惜
焉。粤
前征(平出)夷大将軍従一位右僕射朝臣家康公、謂
正二(平出)位右丞相臣朝臣秀頼公曰、那梵刹者、
豊国(平出)之創建也。不幸而有変。不能無遺憾焉。
右丞(平出)相何不継
先志(平出)乎。
右丞(平出)相曰、盛哉此言。憑茲丕発弘願、輒命桐東市正豊臣且元、再建
那宝殿。始于慶長己酉(十四年)、玉成于慶長癸丑(十八年)矣。速畢其功者、以
大樹之鈞(平出、徳川家康)**無盬、
右丞(平出)相志願不浅也。子聚沙之戯、猶功用不可測。矧又、長者布金之
制乎。其身也、万徳円満之用身、厳㞧上之教主也。臺上盧舎那、葉
上大釈迦、葉中小釈迦、華百億国、一国一釈迦、三重相関、互為主伴。音
声無辺、色像無辺之相好、不移寸歩、可立而見矣。寔変界成土者乎。
其宝殿也、輸削墨、工運斤、峨棟宇、高秀青雲之上、璨玉磶、深徹
泉之底。楹万柱、嶸其内、大梁小繹其上。楣焜燿、栱玲瓏、
墀畳石、鐸鳴風、門前聳、玉廊四回。訝史・夜摩、忽現下界、怪島・
瀛州已在人間。天鬼神所共礼、寔天下之壮観也。緬〔懐ヵ〕没・那爛陀
大刹、甲于西域、州阿逸多大像、冠于震、亦風猶在下。加旃、欲鋳梵鐘、
以備晨昏。金・銀・銅・鉄・鉛・錫・鑞、積如丘山、官・冶工、差肩而雲集、籥時
奮、範已設、鐘、一時新成矣。所謂干鼓鉦舞甬衡旋篆、無一
不備焉。昔在仏世、王下、鎔鋳祇桓金鐘、留孫造石鐘、諸仏出興、亦不
多譲矣。夫鐘者、誦之起止、粥之早晩、送迎急之節、必鳴之以警衆
焉。顕密禅、器之制、莫先於鐘。故建寺安衆、必先置之、魅、屈伏
外。宝為之明、諸天為之擁護。賓吒王、剣輪頓空、唐李主、累械忽
脱、門七条、山下堂、其用不可勝計焉。牢一声、上徹宮、下震
府。撃、普及塵刹土、使天幽明異類根清浄、以入円通三
昧。其施不亦博乎。簴、以掛着楼、祝曰、仰冀、
天子万(一字台頭)
台齢(平出)
  〇撞座左の池の間。
  〇方広寺鐘銘事件で問題とされた句「国家安康」「君臣豊楽」に二重線を引く。
   曰、
 東麓、 舎那道場。 聳空殿、 虹画梁。
 差万瓦、 嵬長廊。 玲瓏八面、 焜燿十方。
 境象夜、 刹甲桑。 新鐘高掛、 音于鍠。
 響応遠近、 中宮商。 八声縵、 八声忙。
 夜禅昼誦、 夕灯晨香。 界聞竺、 寺知湘。
 東迎月、 西送斜陽。 笥堀地、 山降霜。
 怪於漢、 苦於唐。 異惟夥、 用無量。
 所庶幾者、 国家。 四海化、 万歲芳。
 君臣、 子孫昌。 仏門柱礎、 湯。
 檀之徳、 高水長。
  旹慶長十九〈甲寅〉歳孟夏十六日

大檀那 正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公
     奉行 片桐東市正豊臣且元
          冶工京三条釜座護屋越前少掾藤原三昌
     前住東福後住南禅英叟清韓謹書(印影)

現代語訳

〔1.方広寺の再建〕
謹んで考えるに、豊国とよくに大明神(豊臣秀吉)は、かつてあまねく天下を掌握して万民の上に立ち、自身は仏教に帰依し他者には仁政を施した。そのため、天正16年(1588)初夏、平安京の東に良い土地を選び定め、大寺院(方広寺)を創建し、しゃ大仏象を安置した。これは恐らく、古代中国前漢の司馬しょうじょが戦国時代ちょうの賢臣・りんしょうじょを尊崇して改名した故事よろしく、奈良東大寺の大仏を鋳造した聖武天皇を(秀吉公が)敬慕していたからであろうし、また高い人格を目指す者が孔子の高弟・がんえんのようになろうと願うのと同じく、東大寺の再建を行った源頼朝公のようになろうと(秀吉公が)願ったからであろう。しかしながら、慶長7年(1602)12月4日、思いもよらず火災という異常事変に遭遇し、もはや跡形もなくなってしまった。およそ髪を頭にいただき歯を持つほどの者、すなわち人間ならだれでも、(この大惨事を)歎き惜しまないものはいない。さて従一位・前征夷大将軍・前右大臣徳川家康公が、正二位・右大臣豊臣秀頼公に対して、「盧舎那大仏の寺院は、豊国大明神が創建したものであるが、不幸にも異常事変が起こってしまった。残念でならない。右大臣よ、亡父の意志をどうして継がないことがあろうか」と言った。右大臣(秀頼)は、「なんと盛大なことかな、この言葉は」と言った。このことにより(大仏・大伽藍再建という)大きく広い誓願を立て、そして盧舎那大仏殿の再建をひがしいちのかみ片桐且元かつもとに命じた。慶長14年(1609)に始まり、慶長18年に立派に完成した。速かに竣功できたのは、将軍(家康)のご命令が堅固で、右大臣(秀頼)の(再建に対する)願いが深かったからである。(『法華経』に説くように)どう(子供)が戯れにすなあつめて仏塔をこしらえることすら、そのどくは測りがたいものである。むかし釈尊の在世中、弟子のしゅだつ長者が修行道場用地として祇陀ぎだたいの園林を請うた時、金を敷き詰めよとの太子の仰せごとがあり、ついには園林を賜って釈尊に差し上げ、おんしょうじゃとなって仏法繁栄の礎となった。大仏や大仏殿再建につながった家康公の仰せごとは、かの太子の仰せごとにも勝るほど仏法繁栄をもたらすもので、(童子聚沙の戯れと比較にならないほど)その功徳は無量である。
〔2.大仏の偉容〕
その仏身ぶっしんは万徳を満たすじゅようしんで、『華厳経』に説くように、様々なしゅうの場における説法の主である。蓮台におわす盧舎那仏、(それを取り囲む千の)蓮の葉上におわす(千の)大釈迦、葉中におわす(その配下の千百億の)小釈迦、(大釈迦・小釈迦は盧舎那仏の化身なのだから)それら三者は重なり合い相関係しあい、互いに主となり伴侶となり、一華の蓮におわす一の大釈迦が百億国を担当し、一国につき一小釈迦がきょうする。(盧舎那仏の)おんじょうが(全世界に)限りもなく響くありさまや、(経典に説くところの)その体の特徴は、(この大仏像の前にあれば)一歩も動くことなく立ちながら見てとることができる。真にこの娑婆しゃば世界を変じて仏国土としたかのようである。
〔3.大仏殿等伽藍の壮観〕
(盧舎那大仏がおわす)立派な大仏殿は、古代中国国の名匠こうしゅはん墨縄すみなわをうって(材木を)削ったかのようだし、えい人のおのの故事のように優れた技芸を用いて造られている。岩山のように高く険しく反り上がる屋根は、青雲の上に突き抜けているかのような高さを見せ、玉から光が放ち出るように明るく清らかな礎石は、地下深くあの世へも到達するかのようにずっしりと据えられている。千万もあるかのようなまるばしらかくばしらがその中に高く険しくそびえ立ち、大きな梁、小さな垂木が、その(大仏殿の)上方に絶え間なく掛けめぐらされている。美しく描き飾りたてられたのきは光り輝き、彫刻が施された組物くみものは透きとおった玉のように明るく輝く。階段や庭は石を敷き重ね、風鐸ふうたくは風に鳴り、玉のように美しい門が(大仏殿の)前にそびえ、美麗な回廊が四方をめぐっている。(盧舎那仏の説法の場である)そつてんてんがたちまちこの下界に出現したのかといぶかり、(仙人が住むという神山しんさんの)蓬莱ほうらいとうえいじゅうがこの人間の住む世界に存在しているのかと怪しむほどだ。人間界・天上界のしゅじょうじんがもろともに仰ぎみて礼拝するというべきもので、まことに天下の壮観である。はるかかなた、古代インドの優れた仏教施設であるあんおんおよびらん、そして中国で(大きさ)随一というしゅう凌雲寺大弥勒石像を思い起してみても、それらは(方広寺伽藍・大仏の)風下にある。
〔4.梵鐘の鋳造〕
これら(大仏・伽藍)のみならず、(秀頼公は)梵鐘を鋳造して朝暮(の修行生活)に備えようとした。金・銀・銅・鉄・なまりすずびゃくろうは、山のごとく積み上がり、鋳物師いもじや担当官は肩をならべて雲集し、ふいごはおりおりに震え、鋳型がやがて出来上がり、すさまじい重量の巨鐘が一気に完成した。『しゅらい』が(鐘の部位の説明として)説くところのかんしょうようこうせんてんは、一つとして不足していない。昔、釈尊の在世中、梵天王が(人間界に)下ってきて祇園精舎の金鐘を鋳造し、また(釈尊の過去仏たる)そん仏が石鐘を造り(そこに描かれた)諸仏は現実にあらわれて経典を教説したが、これらの鐘と比較しても、そこまで引けを取らない梵鐘である。さて鐘は、坐禅・読経の開始や終了、朝夕の食事(の合図)、(要人などの)送迎の際、そして(仏事などで)急いだり緩やかにしたりする際、必ずこれを鳴らし僧衆を制する。けんみつ両宗寺院も禅宗寺院も、仏道修行のための道具として鐘ほど重要なものはない。そのため寺を建て僧衆を安置するならば、必ず先ず鐘を置き、(その音で、仏法や仏道修行を妨げる)化け物・物の怪の魔力をくじき折り、天魔・どうを屈服させる。梵鐘によって、三宝さんぽうは(まがいものではないと)明らかにされ、そのため諸天しょてんは(三宝を)擁護する。西北インドのけいひん王は、(殺生を好んだため来世で千の頭を持つ魚に生まれ変わり、天から)けんりんが降ってきたが(鐘の音を聞くと剣輪は)たちまち消え失せた(そして苦しみから逃れることができた)。中国五代十国時代、南唐なんとうの初代皇帝べんは、(投降人を殺害したため、死後地獄に落ちて)手かせ首かせにつながれていたところ、(鐘の音を聞くと)その苦しみを逃れることができたという。中国唐末五代の禅僧・雲門うんもん文偃ぶんえん禅師は「鐘が鳴れば七条袈裟をつけなければならないのはどういうことか」と問い、唐代の禅僧・徳山とくさんせんかん禅師は、いまだ鐘の音を聞かず鉢を持って堂を下った     このように鐘が縁となり起こった出来事が、禅僧を悟りへ導く公案こうあんとなった。鐘の不思議なはたらきは数えられない。ろうという海獣の大声のごとき(梵鐘の)一声は、上に向かっては天人の宮殿にも届き、下に向かっては冥土が震えるほどだ。雷神が持つという太鼓のごとき梵鐘を、稲妻のように激しく急に打つと、数かぎりない無数の国土にあまねく響きわたり、人間界・天上界によらず、冥土・現世に限らず、また人間以外の動物でさえも、そのこんを清浄にし、そして仏・菩薩の悟りの境地に至らしめる。(梵鐘による)仏教的な施しの度合いは、広大でないことがあろうか。不動明王が煩悩を縛る金索こんさくのごとき縄にしゅもくをつけ、横木と柱で組まれたしょうろうに(この梵鐘を)つるす。祝していうことには、天子の万歲、将軍の千秋を仰ぎ願う。銘に曰く、
〔5.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
  〇鐘銘事件で問題とされた句「国家安康」「君臣豊楽」の該当部分に二重線を引く。
京都東山のふもと、盧舎那仏のおわすどうの地。
空にそびえる大仏の宝殿、彩色うつくしきこうりょう
万の瓦は重なり合い、(諸堂をつなぐ)長き回廊はごつごつとした山のよう。
どこから見ても美しく、どこをみても光り輝く。
境内はあたかも兜率天や夜摩天のようで、中国・日本のどの寺院よりもすばらしい。
新梵鐘を高く釣り掛け、ここにゴーンと鳴る。
遠近に応じて響きをかえ、その音はよく調和している。
初夜十八回のはゆるやかに、除夜百八回の音は慌ただしい。
(鐘の音に従いながら)夜に坐禅し昼に読経し、夕にとうみょうを点じ朝に香をたく。
清き鐘の音が上界から聞こえてくれば中国天竺寺のそれかと思い、遠くから寺の鐘の音が聞こえてくれば中国のしょうしょう八景かと知られる。
東に明月を迎え、西に斜陽を送る。
中国ぎょく山では大地から鐘が掘り出され、中国豊山の鐘は霜が降ると自然に鳴るという。
前漢武帝の世には3か月も自然に鳴り続けて(山崩れという)怪事を知らせ、南唐では(皇帝の)苦悩を救った。
人智では量り難い出来事が何度も起き、そのはたらきは限りもない。
(このような鐘のはたらきによって)請い願うことは、国家の太平無事
国中(仏法によって)きょうされ、(再建を促した家康公、再建を果たした秀頼公の)美名が万歲に伝わらんことを(請い願う)。
君も臣もともに物が豊かで暮らしを楽しむことができ、その子孫が繁栄せんことを(請い願う)。
(方広寺は)柱や礎のごとく仏教の根幹で、熱湯の池をめぐらし金で造った城郭のごとく僧団の防壁である。
すばらしき檀越の徳、山がいつまでも高くそびえ水が永久に流れ続けるように長く伝わらんことを。
 慶長19年(1614)4月16日
大檀那  正二位右大臣豊臣朝臣秀頼

訓読文・註釈

〔1.方広寺の再建〕
つつしんでおもふに、ほうこくしんくん、昔年てんの下をつかさどり、おくちょうの上にくらいして、外には仁政を施し、内にはぶつじょうに帰す。の故に、天正十六つちのえ夏のはじめ、平安城の東にそうゆうし、大ぼんせつを創建し、しゃ大像をあんりゅうす。けだれ聖武帝南京の大像にりんし、頼朝公東大の再建にがんする者なり。しかりといえども、慶長七年臘月ろうげつ初四、図らざるも、うつゆうの変にかかり、已にゆうと為る。およたいはつがんの類、歎き惜まざる無し。ここさきの征夷大将軍じゅいちぼく源朝臣家康公、正二位じょうしょう豊臣朝臣秀頼公にひて曰く、「しゃ梵刹は、豊国の創建なり。不幸にして変有り。遺憾とすること無き能はず。右丞相よ、何ぞ先志を継がざらんや」と。右丞相曰く、「盛んなるかな、此の言や」と。これりておおいに弘願をおこし、すなわ片桐かたぎりひがしいちのかみ豊臣且元とよとみのかつもとに命じ、舎那宝殿ほうでんを再建せしむ。慶長つちのとのとりに始まり、慶長みずのとのうしぎょくせいす。速かに其の功をおわるは、たいじゅきんめいもろきこと無く、右丞相がんの浅からざるを以てなり。どうじゅしゃたわむれすら、功用こうよう測るべからず。いわんや又、ちょうじゃきんの制に過ぐるをや。

*普天 あまねくおおう広大な天。

*億兆 多くの人民。

*仏乗 仏の教え。

*相攸 よい土地を選ぶこと。

*平安城 平安京。

*大梵刹 梵刹は、仏教寺院の意。ここで大梵刹とは、本梵鐘がある方広寺のこと。同寺は、現京都市東山区茶屋町にある天台宗の寺(下記補足参照)。

*盧舎那大像 盧舎那仏の大仏像。同仏は『華厳経』や『梵網経』の中心的尊格。東大寺大仏は、同仏を表したもの。

*慕藺 賢人を慕うこと。中国前漢の文人・司馬相如(しばしょうじょ)が、戦国時代趙の臣下・藺相如(りんしょうじょ)を慕って改名した故事から。

*聖武帝南京之大像 聖武天皇(701~56)が奈良(南都)東大寺に造立した盧舎那仏の大仏像。治承寿永内乱の際、平重衡(しげひら)の兵火により焼損。

*晞顏 高みを目指して先賢のようになろうと晞(ねが)うこと。『法言』学行巻第一「晞顔之人、亦顔之徒也」(顔は孔子の高弟顔淵(顔回))に基づく表現。

*頼朝公東大之再建 平重衡の兵火により被害を被った東大寺大仏および大仏殿が、源頼朝(1147~99)の援助で再造・再建されたこと。

*鬱攸 火事。

*烏有 何もないこと。

*戴髪含歯 髪をいただき歯を持つもの、すなわち人間。

*源朝臣家康 徳川家康(1542~1616)。戦国時代の武将。江戸幕府初代将軍。本鐘銘に関係する事項を略記する。慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去し、同5年、関ヶ原の戦で豊臣方に勝利すると、同7年に従一位、同8年に右大臣・征夷大将軍。同年には右大臣を辞任。同10年、征夷大将軍を辞した。同19年に本梵鐘が完成すると銘文内容を非難し、これを口実に大坂城の秀頼を囲む(大坂冬の陣)。翌年、再度囲み豊臣方を滅亡させた(大坂夏の陣)。

*豊臣朝臣秀頼 1593~1615。豊臣秀吉の息。本鐘銘に関係する事項を略記する。慶長3年(1598)の豊臣秀吉死去の後、その権を継承するも、同5年、関ヶ原の戦で徳川方に敗北し、摂津・河内・和泉を領する一大名に転落。同7年に正二位、同10年に右大臣となるも、同12年、右大臣を辞任(『公卿補任』)。銘文にある通り、同14年頃から大仏・大仏殿の再建工事が始まり、同18年に完成。同19年に本梵鐘が完成すると、家康に銘文内容を非難され、これを口実に大坂城を囲まれ(大坂冬の陣)、翌年、再度の合戦で滅亡(大坂夏の陣)。梵鐘が完成した19年段階では前右大臣であるはずだが、銘文では現任右大臣のように表記されている。

*舎那 盧舎那仏のこと。

*片桐東市正豊臣且元 1556~1615。安土桃山・江戸初期の武将。近江の人。豊臣秀吉に仕え、のち秀頼の後見となった。

*舎那宝殿 盧舎那仏の鎮座する美しい仏殿。大仏殿のこと。

*大樹 将軍または征夷大将軍の異称。ここでは徳川家康。

*鈞命 君主の命令。ここでは、家康から秀頼への命令。銘文では、家康が秀頼に大仏再建を促したように記述されているが、これを命令と表現している。

*童子聚沙之戯 子供が戯れに砂で仏塔をつくること。小さな善行でも功徳が積まれ成仏の因縁が結ばれることを示す。『法華経』方便品第二「乃至童子戯、聚沙為仏塔。如是諸人等、皆已成仏道」に基づく表現。

*過長者布金之制 古代インドの祇園精舎創立の故事に基づく表現。釈尊に帰依していた須達(しゅだつ)という長者が、土地を寄進して僧園を作ろうと考えた。土地を選定したところ、祇陀(ぎだ)太子所有の園林に勝るところはなかった。太子に請願すると、園林に「布金」つまり金貨を敷き詰めれば譲ろうとの仰せごとがあり、長者は実際にそうして園林を譲り受け釈尊に寄進し、遂に仏教にとって重要な聖地・祇園精舎が成立した。徳川家康が豊臣秀頼に対して方広寺再建を促したことは、「制」つまり祇陀太子の仰せごとよりも仏法興隆にとって価値があるということ。

〔2.大仏の偉容〕
其の仏身なるや、万徳円満のじゅようしんごんじょうきょうしゅなり。だいじょうの盧舎那、ようじょうの大釈迦しゃかようちゅうの小釈迦、一華百億国、一国一釈迦、三重相関し、互いにしゅはんと為る。おんじょう無辺、しきぞう無辺の相好そうごうは、寸歩も移らず、立ちて見るべし。まこと忍界にんかいを変じほうと成す者か。

*仏身 これ以降、盧舎那仏の「仏身」がいかなるものかが説明されている。ここで「仏身」は恐らく二つの意味で用いられている。一つは、教理的な面において盧舎那仏がいかなる仏の身体を持つか、すなわち仏としてその存在の本質は何かということ、もう一つは、現実の仏像がどのように荘厳されているかということである。

*受用身 仏身すなわち仏の身体はいかなる種類があるか論ずるのが仏身論だが、法相宗の仏身論では、三仏身(自性身・受用身・変化身)を立て、その一つ。悟りを開いて、その悟りを享受している仏をいう。

*華厳㞧上之教主 「㞧」は「会」の古体。会上は、集会の意と見られる。盧舎那仏は、『華厳経』で述べるように諸菩薩・衆生などが集会した場における教説の主であるということ。

*臺上盧舎那、葉上大釈迦、葉中小釈迦 『梵網経』冒頭に記す諸仏の有りよう。蓮華台上の盧舎那仏、その周りで説法に接する千葉上の千の釈迦、ならびにその配下で葉中に坐す千百億の釈迦。

*一華百億国、一国一釈迦 一華につき一の大釈迦が百億の国を担当し、その配下で、一国につき一仏の小釈迦に仏戒を衆生に対して説かせることを示す。『梵網経』冒頭に記す偈(げ)と同文。「我今盧舎那、方坐蓮花台、周匝千花上、復現千釈迦。一花百億国、一国一釈迦、各坐菩提樹、一時成仏道。如是千百億、盧舍那本身。千百億釈迦、各接微塵衆、倶来至我所、聴我誦仏戒、甘露門則開」。

*忍界 娑婆世界。仏語。

*報土 仏のおわす浄土。

〔3.大仏殿等伽藍の壮観〕
其の宝殿なるや、公輸こうしゅさくぼくし、えいこうおのを運びて、嵯峨さがたるとう、高く青雲の上に秀いで、璀璨さいさんたるぎょくせき、深くこうせんの底にとおる。せんえいばんちゅう、其の内に崢嶸そうこうたり、だいりょうしょうてん、其の上にらくえきたり。しゅう焜燿こんようし、ちょうきょう玲瓏れいろうたり、かい石をかさね、鈴鐸れいたく風に鳴り、璧門へきもんは前にそびえ、ぎょくろうよもめぐる。都史とし夜摩やまの、たちまち下界に現ずるかといぶかり、ほうとうえいじゅうの、已に人間じんかんに在るかと怪しむ。人天じんてんじんの共にせんらいする所にして、寔に天下の壮観なり。はるかに、庵没あんもらん大刹の、西域さいいきまさり、しゅう阿逸多あいった大像の、東震とうしんに冠たるをおもふも、亦たふうは猶ほ下に在り。

*公輸削墨 公輸とは、公輸般(こうしゅはん)のこと。中国春秋戦国時代魯の名工匠。削墨は、墨縄をうってけずること。大仏殿建設に、公輸般のような名工が作業したということ。

*郢工運斤 技芸に優れた工人が斤(おの)を運んで建築作業にあたる。郢(えい、中国春秋戦国時代楚の首都)の人が鼻に土を薄く塗り、大工の名人にこれを削らせたところ、鼻を少しも傷つけなかったという故事を踏まえた表現。

*嵯峨 石や岩山などの高くけわしいさま。

*璀璨玉磶 璀璨、明るく清らかなこと。玉磶は、玉のように美しい礎石。

*黄泉 地面の下にあり、死者が行くといわれる所。冥土。

*千楹万柱 千本の丸柱と、万本の角柱(かくばしら)。

*崢嶸 高くけわしい。

*椽 垂木。特に角材の垂木ではなく、丸木の垂木をいうが、実際の大仏殿に丸木の垂木があったかは不明。

*絡繹 うちつづくさま。

*繡楣焜燿 繡は、華やかな、美しいの意。楣は、のき。焜燿は、光り輝くこと。

*雕栱玲瓏 雕栱は、彫刻を施した組物(くみもの)を指すと思われる。玲瓏は、明るく光り輝くさま。

*堦墀 堦は、きざはし、階段。墀は、にわ。

*鈴鐸 鈴・鐸は、大小の鈴。ここでは、堂舎の屋根にかける風鐸(ふうたく)のこと。撰者が見たであろう風鐸の残骸が残されている(京都市指定有形文化財「方広寺大仏殿遺物」)。

*璧門 玉のように美しい門。

*都史夜摩 兜率天(とそつてん)と夜摩天(やまてん)のこと。どちらも仏教的世界観における一小世界。盧舎那仏が説法を司ったところとして『華厳経』にえがかれている。六欲天の第四天および第三天。

*蓬島瀛州 蓬島(蓬莱島、蓬莱山)および瀛州は、どちらも中国の神仙思想で説かれる仙境。三神山とされたものの二つで、東海中にあって神仙がすむという。

*人天鬼神 人天は、人間界と天上界とにいる衆生。鬼神は、天地万物の霊魂。

*瞻礼 仰ぎみて礼拝すること。

*庵没那爛陀大刹 庵没は、庵没羅園(あんもらおん)の略で、古代インドの毘舎離(びしゃり)国にあった庭園。庵没羅女が釈尊に献じたもの。那爛陀大刹は、那爛陀寺(ならんだじ)のこと。古代インドにあった大寺院。

*西域 インド。

*嘉州阿逸多大像 中国嘉州凌雲寺の、弥勒を象った摩崖仏(楽山大仏)のことと思われる。

*東震 中国の意。ここで震は、震旦(しんたん)すなわち中国。インドから中国を見ると東にあるので「東震」と表現した。

〔4.梵鐘の鋳造〕
加旃しかのみならず、梵鐘を、以て晨昏しんこんに備へんと欲す。金・銀・銅・鉄・なまりすずびゃくろうは、積りて丘山の如く、かんこうけんしてうんしゅうし、橐籥たくやくときどきふるへ、鎔範ようはん已に設けて、万鈞ばんきんこうしょう、一時に新成す。しゅらいに謂ふ所のかんしょうようこうせんてん、一として備はらざる無し。昔、在仏の世、ぼんおう下りて、祇桓ぎおんに金鐘をようちゅうし、そん石鐘を造り、諸仏出興しゅっこうするも、亦た多くは譲らず。夫れ鐘は、禅誦ぜんじゅ起止きしさいしゅく早晩そうばん、送迎緩急の節、必ず之を鳴らし以て衆をいましむ。けんみつぜん、法器の制、鐘より先なるはし。故に寺を建て衆を安んずれば、必ず先ず之を置き、魑魅ちみさいせつし、魔外まげを屈伏す。三宝さんぽう之がためしょうみょうせられ、諸天しょてん之が為に擁護す。けいひん王は、けんりんたちまくうじ、南唐なんとうしゅは、るいかいより忽ち脱し、雲門うんもんの七条、徳山とくさんの下堂、其のみょうようげてかぞふべからず。ろうの一声、上にはてんきゅうに徹り、下には地府じふふるふ。らいていげきあまねく微塵せつに及び、人天幽明ゆうめいるいこんをしてしょうじょうならしめ、以て円通えんつう三昧ざんまいしょうにゅうせしむ。其の、亦たひろからざらんや。金索こんさくしゅんきょ、以て宝楼ほうろうかいちゃくし、祝して曰く、仰ぎこいねがはくは、天子万歲、たいれい千秋を。銘に曰く、

*白鑞 錫四、鉛一の合金。しろめ。

*火官冶工 火官は、火にまつわる政務をつかさどる官。ここでは、鋳造の奉行である片桐且元を指すだろう。冶工は、鋳物師。

*橐籥 ふいご。

*鎔範 鋳型。

*万鈞 きわめて重いこと。

*洪鐘 大きな釣鐘。

*周礼 中国の儒教教典の一。周公旦(しゅうこうたん)の作と伝えられるが、成立は戦国時代以降。周王朝の官制を天地春夏秋冬の六官に分けて記述する。そのうち冬官は失われたため「考工記」で補われている。

*周礼所謂・・・ 「干」以下8字は、すべて『周礼』冬官考工記第六鳧氏に所載のある鐘の部位。

*梵王下鎔鋳祇桓金鐘 梵王が人間界に下ってきて祇園精舎の金鐘を鋳造した。典拠不明。

*拘留孫造石鐘諸仏出興 祇園精舎の修多羅院にあった石鐘は、拘留孫仏(くるそんぶつ、過去七仏の第四仏)がかつて造ったもので、そこには十方諸仏が描かれ、日の出の時間になるとこの画仏が経典を説いたという。『中天竺舍衛国祇洹寺図経』巻下「東一院名修多羅院。(中略)有一石鐘(中略)画像。若花形周匝、作十方諸仏初成道像。至日出時、鐘上諸仏皆説十二部経。(中略)此鐘、是拘楼秦仏所造」に基づく。

*禅誦 坐禅を行うことと経を読誦すること。

*斎粥 仏家で朝と昼に食べる食事。

*緩急 ゆるやかなことと急なこと。ここでは、寺僧のもろもろの所作の緩急を指すと見られる。

*法器 仏道修行を行うにふさわしい器量の人、または仏道修行のための道具の2通りの解釈が可能。ここでは後者をとる。

*摧折 くじき折ること。

*魑魅 魑は、ばけものの類、魅は、もののけの類。

*魔外 天魔と外道(げどう)。仏道以外の道を修め、仏法を妨げるもの。

*三宝 仏教に根本的で不可欠な三の要素、仏宝・法宝・僧宝。

*罽賓吒王剣輪頓空 罽賓吒王は殺生を好んだため、死して千の頭を持つ魚に生まれ変わってしまった。剣輪に囲まれ苦しみを与えられていたが、鐘の音を聞いたことで剣輪が消え苦しみから逃れることができたという(『仏祖統紀』巻三十三より)。罽賓は、西北インドの昔の国。罽賓吒王は、そこの王と思われる。

*南唐李主累械忽脱 解釈やや難。『仏祖統紀』巻三十三所収の文に基づくとみられる。中国五代十国時代の南唐の初代皇帝・李昪(りべん、888~943)は、投降人を殺害した罪により、死後地獄に落ちて手かせ首かせにつながれていたところ、鐘の音を聞くとその苦しみを逃れることができたという。

*雲門七条 『無門関』にみえる公案「鐘声七条」を示す。すなわち中国の禅僧・雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師が「世界はこんなにも広い。鐘が鳴れば七条袈裟をつけなければならないのはどういうことか」と言ったこと。寺院で起居動静を司り従わなければならない鐘の音も、見方を変えれば悟りに導く効用があることを示していると思われる。

*徳山下堂 『無門関』にみえる公案「徳山托鉢」を示す。

*妙用 霊妙なはたらき。

*蒲牢 想像上の海獣の名。鯨に襲われると大声を発するという。

*天宮 天人の宮殿。

*地府 死後の世界。冥府。

*雷鼓霆撃 雷鼓は、雷神が持つという太鼓。巨声を放つ本梵鐘を雷鼓とたとえた。霆撃は、いなずまのように、はげしく急に打つこと。

*微塵刹土 物を微塵に砕いたときの、その塵のように数かぎりない無数の国土。仏教的世界観にもとづく表現。

*人天幽明異類 人天は、「*人天鬼神」参照。幽明は、冥土と現世。異類は、人間以外の動物。

*耳根 聴覚器官とその能力、はたらき。六根の一つ。仏教では、迷いの原因となる六根を清らかにして悟りに至らせようとする。ここでは、鐘の音が耳根を清らかにするというのである。

*証入 真理を悟ること。

*金索 不動明王などが手にするなわ。仏の教えに障害をなすもの(煩悩)を縛るための慈悲を象徴する。ここでは、梵鐘を打つための撞木(しゅもく)を吊るす縄を指すとみられる。

*簨簴 楽器をかける台の横木と縦の柱。ここでは、梵鐘を囲む鐘楼の横木と柱を指す。

*宝楼 美しい鐘楼。

*天子 天皇。

*台齢 台は、敬意を示す語。御年齢と直訳される。徳川家康の年齢、豊臣秀頼の年齢の二説考えられるが、前者をとる。

〔5.銘〕
  〇鐘銘事件で問題とされた句「国家安康」「君臣豊楽」の該当部分に二重線を引く。
洛陽らくよう東麓とうろく舎那しゃな道場。空に聳ゆるけい殿でん、虹の横たはるりょう
しんたるまん崔嵬さいかいたるちょうろう。玲瓏なる八面、焜燿こんようたる十方じっぽう
きょうかたどり、せつそうまさる。新鐘高く掛け、の音こここうたり。
響きは遠近に応じ、りつきゅうしょうあたる。十八の声はゆるやかに、百八の声はあわただし。
夜禅昼誦、夕灯しんこう。上界のじく聞こえ、遠寺にしょうを知る。
東にげつを迎へ、西に斜陽を送る。ぎょくに地を堀り、豊山ほうざんに霜る。
かいかんに告げ、苦を唐に救ふ。れいおびただしく、ゆう量り無し。
庶幾こいねがふ所は、国家の安康あんこう。四海にを施し、万歲にほうを伝へん。
君臣豊楽ほうらく、子孫いんしょうせん。仏門のちゅう法社ほうしゃきんとう
えいだんの徳、山高く水長からん。
 ときに慶長十九〈甲寅〉歳もう十六日

大檀那  正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公
      奉行 片桐東市正豊臣且元
          冶工京三条かま名護屋越前しょうじょう藤原さんしょう
     前住東福後住南禅文英ぶんえいそうせいかん謹んで書す。

*銘 ここまでの散文に対して、「銘」以下の文は詩。四字を一句とし、偶数句末に韻を踏む韻文となる。

*洛陽東麓・・・ 四言詩。韻字、商・忙・香・湘・陽・霜・唐・量・康・芳・昌・湯・長(下平声七陽)。

*洛陽 京都。

*瓊殿 美しい殿堂。ここでは大仏殿のこと。

*横虹画梁 直訳すると、虹を横にしたような美しく彩色した梁(はり)。これは、美しく彩色された虹梁(こうりょう)を指すとみられる。虹梁は、社寺建築における梁の一種で、虹のように上方にやや反りを持たせてある。

*参差 互いに入り交じっていること。

*崔嵬長廊 崔嵬は、険しい山のこと。長廊は、屋根のある長い建物で、堂舎や門をつなぐ。大仏殿を含め堂舎群が巨大なため、それをつなぐ長廊の屋根も高く大きかったと思われ、そのような屋根を険しい山に見立てているのだろう。

*兜夜 兜率天と夜摩天。

*支桑 支那(しな)すなわち中国と、扶桑(ふそう)すなわち日本。

*爾音于鍠 訓読・解釈やや難。鍠は、かねやつづみの音。梵鐘の音がボーンと鳴っていると解釈した。

*律中宮商 解釈やや難。律は、音律。宮商は、音楽の音階。梵鐘の音がよく調和されていると解釈した。

*十八声 寺院で初夜(午後8時ごろ)に18回鳴らす鐘の音。

*百八声 除夜の鐘、すなわち寺院で大晦日の夜に108回鐘をつくこと。

*上界聞竺 解釈やや難。蘇東坡(そとうば)の詩「天竺寺」の題辞に引用される白楽天の詩の一句「上界鐘声下界聞」を踏まえた表現(『蘇東坡詩集』巻三十八所収)。「竺」は、中国天竺寺のことで、霊山という山中にあり、その麓に川が流れていた。現代語訳は試案。

*遠寺知湘 中国湖南省の瀟水(しょうすい)と湘水(しょうすい)の合流点付近には、8つの佳景があることでしられるが、その一つに「遠寺晩鐘」がある。これを踏まえた表現。

*素月 白く光のさえた月。

*玉笥堀地 『摂戦実録』所収の本鐘銘の註釈文(下記補足参照)によれば、中国玉笥山で、奇特なる気が立っていたのでそこを掘ってみると鐘が出てきたという故事に基づく。ただし出典未詳。

*豊山降霜 中国豊山という山には鐘があり、霜が降りると鐘が鳴るという。『山海経』第五中山経「豊山(中略)有九鐘焉。是知霜鳴」に基づく。

*告怪於漢 『摂戦実録』所収の本鐘銘の註釈文(下記補足参照)によれば、漢の武帝の時、3ヶ月鐘が鳴り止まないことがあった。そのころ南山が崩れることがあり、鐘はその怪異を知らせたのだという故事に基づく。ただし出典未詳。

*救苦於唐 「*南唐李主累械忽脱」参照。

*霊異 人智でははかり知ることのできない不思議なこと。

*功用 はたらき。作用。

*安康 太平無事なこと。

*施化 教化を施すこと。

*伝芳 美名を伝える。

*豊楽 物が豊かで、人々が暮らしを楽しむこと。

*殷昌 ゆたかでさかんなこと。

*法社 仏道修行の集団。

*金湯 金城湯池のことで、きわめて守りの堅い城と堀。転じて、他から侵害されにくい所。

*英檀 すばらしい檀越。つまり梵鐘鋳造の檀越である豊臣秀頼のこと。

*山高水長 仁者・君子の徳がながく伝わるのを、山がいつまでも高くそびえ、水が永久に流れ続けることにたとえた語。

*名護屋越前少掾藤原三昌 名越三昌(なごしさんしょう、?~1638)。織豊・江戸時代前期の釜師。

*文英叟清韓 文英清韓(ぶんえいせいかん、?~1621)。伊勢の人。織豊・江戸時代前期、臨済宗の僧。文禄の役に加藤清正の右筆として随行。のち東福寺・南禅寺の住持。本鐘銘が徳川家康の怒りにふれ駿府に拘禁。のちゆるされた。

画像

梵鐘 1 (撮影:’23/10/12。以下同じ)
梵鐘 2
梵鐘・鐘楼
鐘銘 1(撞座右の池の間。以下同じ)
鐘銘 2
鐘銘 3
鐘銘 4
鐘銘 5
鐘銘 6
鐘銘 7
鐘銘 8
鐘銘 9
鐘銘 10
鐘銘 11(撞座左の池の間。以下同じ)
鐘銘 12

その他

補足

  • 方広寺は、東大寺の大仏(しゃぶつ)および大仏殿にならい、豊臣秀吉の発願により創建された。なお、東大寺大仏・大仏殿は永禄10年(1567)松永久秀のために焼かれてしまっており、発願当時は存在しない。文禄4年(1595)にはほぼ完成していたが(第一次大仏・大仏殿)、同年に大地震があり大仏は損壊。秀吉が没し遺志を継いだ子の秀頼は復興を命じ、慶長4年(1599)以降大仏の鋳造が続いていたが、同7年、鋳造中の大仏から火事が起き大仏殿を含め焼失。以降は鐘銘文にもある通り、同14年頃から再造・再建工事が始まり同18年に完成し(第二次大仏・大仏殿)、翌19年本梵鐘も完成した。以降堂舎は損壊・焼失が重なり、当時の大仏・大仏殿は存在せず、寺地も往時よりかなり縮小したが、梵鐘は現存している。
  • 本鐘銘は、いくつかの写本が伝わり、またすでに多くの刊本に収載されている。
  • 原文で解読困難な部分は、下記を参考にした:
    (1)『大日本史料 第12編14』所収の『駿府記』所引「大仏鐘銘」(原文との異同も注記)。
    (2)「文英清韓自筆方広寺大仏鐘銘草案」
     写本。撰者清韓自筆の草稿。訓点が注記。現在京都市歴史資料館所蔵。京都市有形文化財(美術工芸品)「方広寺鐘銘草稿」。
    (3)「方広寺鐘銘草稿」
     写本。撰者清韓自筆の草稿。現在MOA美術館所蔵。重要文化財「方広寺大仏鐘銘」。
  • 訓読の際、上記(2)を参考にしたところがある。
  • 『摂戦実録』六十三付録一所収の鐘銘(「洛陽大仏鐘銘」)には註釈文が付せられている(記者不明)。現代語訳の際、この史料を参考にしたところがある。

参考文献

  • 『駿府記』所引「大仏鐘銘」(『大日本史料 第12編14』453~6頁)。
  • 「文英清韓自筆方広寺大仏鐘銘草案」(「岡山県 近藤幸八郎氏所蔵」、東京帝国大学史料編纂掛編『古文書時代鑑解説 下』(東京帝国大学、1925年)43~6頁)。
  • 「方広寺鐘銘草稿」(大阪市編『豊公特別展観図録』(1932年)第六十一図)。
  • 『摂戦実録』六十三付録一所収「洛陽大仏鐘銘」(『大日本史料 第12編14』517~27頁)。
  • 石田瑞麿『梵網経』(大蔵出版、1971年)35~56頁。
  • 揖斐高『江戸幕府と儒学者』(中公新書、2014年)3~27頁。
  • 木村清孝『華厳経入門』(角川ソフィア文庫、2015年)。

所在地

方広寺鐘銘

所在
方広寺|京都市東山区茶屋町

アクセス
京阪本線 七条駅 下車 徒歩
方広寺境内の梵鐘に刻まれている

編集履歴

2023年10月19日 公開

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