江戸時代初期、河川事業に尽力した角倉(吉田)了以の顕彰碑。了以は、京都嵯峨の裕福な医者の家に生まれた。京都・高瀬川を疎通した功績は著名で、淀川から直に京都市中まで舟の往来が可能になり、後世京都経済に多大な利益を及ぼした。丹波・山城の大堰川(保津川)や、甲斐・駿河の富士川も疎通し同じく舟運が始まった。水上の高層建造物から巨大な鉄棒を一気に落とし巨岩を粉砕したなど、壮大な治水事業が冷静な筆致で淡々と刻まれる。これらは晩年、しかもわずか十年で成し遂げられた。大胆な勇気と天性の直観を以って膨大な保有資本を一気に投下し、また豊富な工学的知識・体力・組織力を一身に具有して多数の物資・人員を駆使したことは想像に難くなく、読む者を感歎させずにはおかない。
大堰川疎通の後、息子の素庵は、儒学の師匠・藤原惺窩を請じて川辺を遊覧し、勝景・奇観を巡って和漢の故事に基づき平凡な現行地名を雅称に変更した。一見すると了以事跡と関係が薄い内容だが、疎通によって、経済的利益が生じただけでなく、文人を慰める勝景が船上から巡り見られるようにもなったと主張したいのだろう。本碑は遊覧案内板でもある。風雅な世界の記述は、撰文依頼者の素庵の意向であろう。
了以は生前、大堰川を見下ろすように嵐山に大悲閣(千光寺)を建て「自分の像を安置し事跡を石に記せ」と遺言し慶長19年(1614)に没した。遵守した素庵によって十七回忌に本碑が造立。伝存する坐像からは了以の相貌がわかり、石碑からは事跡が知られ、石碑の立つ場所からは功績の一つ大堰川舟運を眺められる。この坐像・石碑・所在地三者の関係は了以が意図したもの。撰文者は、惺窩の弟子で素庵と兄弟弟子の林羅山。篆額と本文は、了以子息で医者の長因の筆跡。了以・素庵・長因父子の豊富な財力と学識、風雅の心があって初めてこの石碑が生まれた。二次史料とはいえ、父を助けて共に治水事業に携わった素庵が造立に関わり、信頼度は低くない。了以事跡の基礎的な史料で、近世初期の治水を知る上でも価値がある。
資料名 河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘
年 代 寛永7年(1630)
所 在 大悲閣千光寺|京都市西京区嵐山中尾下町
北緯35°00’57″ 東経135°39’57”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は本文題に基づく。
ID 0022_2312
翻刻
「西山源姓吉田氏了以翁碑銘」
河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘 法印羅山子滕道春撰
法眼大膳亮源長因書并篆蓋
古云舟楫之利、以済不通。嘗聞其語矣。今有其人也。了以叟其人歟。了以、姓源氏、其先佐佐木支族号吉田者、宇多帝之後也云爾。世住江州。五代祖徳春、来城州嵯峨、因家焉。其所居、乃
角蔵地也。洛四隅各有官倉。在西、曰角蔵。語在沙門石夢窓天龍寺図記中。徳春子宗林、宗林子宗忠、皆潤屋也。而仕室町将家。宗忠子宗桂、薙髪遊天龍蘭若、嘗学医術。一旦従僧良策
彦、逾溟渤赴大明。明人或称宗桂号意庵。蓋取諸医者意也之義。還于 本邦、其業益進。娶中村氏、以天文二十三年甲寅某月某日生了以。諱光好、小字与七、後改名了以。性嗜工役。嘗
雖志筮仕、而未肯事信長・秀吉矣。及于
前大相国源君之治世也、而初出奉拝謁焉。慶長九年甲辰、了以往作州和計河、見舼船以為、凡百川皆可以通舟。乃帰嵯峨、泝大井川、至丹波保津。見其路、自謂雖多湍石、而可行舟。翌年
乙巳、遣其子玄之于東武、以請之。
台命謂、自古所未通舟、今欲通開。是二州之幸也。宜早為之。丙午春三月、了以初浚大井河。其所有大石、以轆轤索牽之、石在水中、則構浮楼、以鉄棒鋭頭長三尺、周三尺、柄長二丈許、繫縄、
使数十餘人挽扛、而径投下之、石悉碎散。石出水面、則烈火焼碎焉。河広而浅者、帖石而挟其河、深其水。又所有瀑者、鑿其上、与下流準平之。逮秋八月、役功成。先是編筏纔流而已。於□
自丹波世喜邑到嵯峨、舟初通。五穀・塩鉄・材石等多載漕、民得其利。因造宅河辺居焉。玄之嗣焉、子厳昭受伝之。玄之能書、且問儒風於惺窩滕先生有年矣。一旦、招先生、遡遊于河上。□
石激湍甚多。請先生、多改旧号。其白浪揚如散花者、号浪花隈〈旧名大瀬〉。其斉汩環石者、号観瀾盤陀。有石、相距可二十尺、猿抱子飛超其間者、号叫猿峽〈旧名猿飛〉。東有山岩、高嶮有棲鶻之危巣
者、号鷹巣。石壁斗絶、貌如万巻堆者、号群書岩〈旧名出合〉。此処有石似門、広五丈高百餘尺者、号石門関。有湍、急流、船行如飛、号鳥船灘〈旧名□川〉。灘隣於水尾。世伝、清和帝嘗来観魚于此焉。岸有
山岩、高可五十丈、其下水平衡、如水載山。取山下出泉蒙之義、号曰蒙山。皆有倭歌、在其家集。惺窩所遊観、止此焉。復有石方三丈許、其面如鏡、聳於水崖、号鏡石。又有浮田神祠。世伝、邃
古之世、丹波国皆湖也。其水赤、故曰丹波。大山咋神、穿浮田、決其湖。於是丹波水枯為土。乃建祠而祭之、以鋤為神之主。此神即是松尾大神也。下此、則愛宕・亀山在左、嵐山在右。其勝区、
不可枚数。十二年春、了以奉
鈞命、通舼於富士川。自駿州岩淵挽舟到甲府。山峽洞民未嘗見有舟、皆驚曰、非魚而走水。恠哉恠哉。与胡人不知舟何以異哉。此川最嶮、甚於嵯峨。然漕舼通行、州民大悦。十三年、又命了
以、試自信州諏訪到遠州掛塚、可通舟天龍河否。了以雖即漕、盪然無所用。故至今舟少。方是之時、営大仏殿于洛東、大木巨材甚労挽牽。了以請循河而運之。乃聴之。於是自伏見里、浮
之河、泝而拏焉。了以見伏見地卑於大仏殿基可六丈、即壊其高、為堤於卑処。若河曲処、置轆轤引起、復浮水。水平如地。先是呼許呼邪者、五丁憂之、万牛難之。於是、水運不労力、不日材
木悉達。人皆奇之。十六年、了以請行舟鴨河、乃聴之。因自伏見河、漕舼遡上流、達于二条。至今有数百艘。遂搆家河傍、使玄之居之。玄之男玄紀嗣焉。十九年、富士河壅嶮、舟不能行。
鈞命召了以、以有病、玄之代行治水、又能通舟。三月始役、七月成之、聞了以病急告仮。玄之未入洛先二日、了以歿。実慶長十九年秋七月十二日也。時六十一歲。此年夏、営大悲閣于嵐山。山
高二十丈許、壁立谷深、右有瀑布、前有亀山、而直視洛中。河水流於亀嵐之際、舟舼之来去、居然可見矣。其疾病時謂曰、須作我肖像、置閣側、捲巨綱為座、犂為杖、而建石誌。玄之等従其
遺教。玄之録其事以寄余、請為之記。件件如右。昔白圭之治水、以隣国為壑、張湯之漕褒斜、嶮巇不能通。今了以疏大井河、瀹鴨水、決富士川。凡其所排通釃開、則舟能行、不臭其□、人皆
利之。与白圭・張湯所為大異矣。所謂舟楫之利、以済不通者、不在茲乎。宜哉、垂裕後昆。余与玄之執交久矣。故応其請、書焉。且旌之以銘。其詞曰、
排巨川兮舟楫通。 浮鴨水兮梁如虹。 矧復鑿富士河兮有成功。 慕其錫玄圭兮笑彼化□熊。 嵐山之上兮名不朽而無窮。
寛永七年庚午秋七月十二日 嗣子源玄之立之
現代語訳
〔1.父祖の系譜〕
河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘
古くから「舟の往来できなかった川を疎通させることによって、川舟は人々に利益をもたらす」という。(この河川疎通事業を成した黄帝・尭・舜の生きていた古代中国では)人々は実際にその事業を見聞していたであろう。(それは遠い過去の話だが)現在において、そのような(事業をなした)人がある。了以翁がまさにその人ではなかろうか。了以の姓は源氏で、その祖先は佐々木氏の一族吉田氏であり、宇多天皇の後裔という。代々近江国に住んできた。五代前の先祖徳春が山城国嵯峨に来て、ここに居を構えた。住んでいた所は、角蔵という地だった。京都の四隅には、それぞれ官有倉庫があった。西にあるものを、角蔵といった。その語は、夢窓疎石が記した天龍寺図記にも見えている。徳春の子は宗林、宗林の子は宗忠で、みな(徳があって富を積み)立派な家に住んでおり、室町将軍家に仕えていた。宗忠の子宗桂は、剃髪し法体となって天龍寺に遊学し、常に医術を学んでいた。ある時、僧策彦周良に付き従って、果てしなく広がる海を越え明国におもむいた。明のある人が、宗桂を意庵と名付けた。恐らく「医術は、(口先や著書の説明ではなく本人の)「意」すなわち思慮によって会得するものだ」という故事を踏まえたのだろう。本国に帰還し、その医療技術はますます進展した。
〔2.大堰川の疎通〕
中村氏と結婚し、天文23年(1554)某月某日に了以が生まれた。その諱は光好、幼名は与七、後に了以と改めた。生まれつき好きこのんで土木工事に携わっていた。かつて仕官を志していたが、それでも織田信長や豊臣秀吉には仕えることをよしとしなかった。前太政大臣徳川家康が世を治めるようになると、初めて(仕官のため家を)出て、(家康に)拝謁申し上げた(そして主従関係を結んだ)。慶長9年(1604)、了以は美作国和気川(現在の吉井川)におもむき、川船を見ていてこう思ったのだった、「どんな川にも舟を通じさせよう」と。そこで嵯峨に帰り、大井川(現大堰川)を上流へのぼり、丹波国保津に至った。その川筋を見て、「急流や石が多いけれども、舟を行かせることはできるだろう」と感ぜられた。翌年、子の玄之(角倉素庵)を関東江戸に派遣して、(大井川疎通工事の認可を)請願した。すると「古来より舟が通じていないところを、今疎通させたいという。これは二国(山城・丹波)ともに利益をもたらす。早くこれを行いなさい」との将軍のご命令があった。慶長11年(1606)3月、了以は、まず手始めに大井川の川浚えを行い水深を深くした。大きな岩があるところは、(縄に結んで)轆轤を用いてこれを引き退けた。水中に岩がある時には、空高く建物を構築して水上に浮かべ、鉄棒 先がするどく、その先頭の長さは3尺(約90センチメートル)、周囲は3尺、根本の長さは2丈(約6メートル)ばかり を縄につなぎ、(建物の構造を利用して)数十人あまりでこれを引き上げ、一気に打ち落ろせば、岩はことごとく砕け散った。岩が水面に出ていれば、激しく燃やして焼き砕いた。川幅が広く水深が浅いところでは、川の両側を挟むように石を置き重ね、水深を深くした。また滝があるところは、その上部を削って、下流の勾配と等しくなるようにした。秋8月に至り、工事は竣功した。これより前は、筏を組んで少々流せるばかりの川でしかなかった。それがこの度は、丹波国世喜(世木)村より嵯峨に至るまで、舟を行き来させることができるようになった。五穀・塩鉄・木材・石材など、大量の物資を積載して運送できるようになり、(大井川舟運は)民に利益をもたらした。そこで(了以は)家宅を川のほとりに造設してここに住んだ。玄之がこれを相続し、次いでその子の厳昭が相続した。
〔3.大堰川遊覧と地名の雅称〕
玄之は書に秀いで、さらに藤原惺窩先生から儒学を長年学んできた。ある時、先生を招いて、上流へと遡りながら遊覧に興じた。奇石や早瀬がとても多かった。それらはすでに旧称があったが、先生に請うてその多くを改めた。花を散らすように白波が上がるところは、「浪花隈」(=波の花が散る、水の入り込んだところ)と名付けた。旧称は「大瀬」という。ある岩の周りでは、流水がみなぎり渦をまいていた。ここを「観瀾盤陀」(=大波を見られる、ゴツゴツとした岩)と名付けた。20尺(約6メートル)ほど離れた岩があり、子供を抱いた猿がそこを飛び越えていた。ここを「叫猿峽」(=猿の鳴く谷川)と名付けた。旧称は「猿飛」という。東の方に高く険しい岩山があり、その高所にハヤブサの巣がある。これを「鷹巣」と名付けた。ある切り立った岸壁は、あたかも万巻の書がつもったような形状をしていた。これを「群書岩」と名付けた。旧称は「出合」という。この付近に、門に似た岩がある。広さは5丈(約15メートル)、高さは100尺(約30メートル)余りである。これを「石門関」と名付けた。流れの早い瀬がある。そこでは鳥が飛ぶように舟が一気に進んでいくので、「鳥船灘」と名付けた。旧称は「鵜川」である。灘は、水尾の地に隣り合っている。かつて清和天皇がここに魚を見に来たと代々伝えられている。岸辺に、50丈(約150メートル)ばかりで山のごとくそびえ立つ岩がある。その下の川水は平らかで流れがないので、その岩山は水に載っているように見える。(『易経』の)「山下に出る泉あるは蒙なり」を典拠として、ここを「蒙山」と名付けた。(惺窩先生の)和歌集には(これらの雅称を歌題とした)和歌が収められている。(雅称改名や詠歌のため)遊覧に際し惺窩先生はここらに滞留したのである。また3丈(約27平方メートル)ばかりの広さで、鏡のような面を持つ岩があり、みずぎわに聳え立っている。これを「鏡石」と名付けた。また(川沿いに)請田(浮田)神社がある。代々伝えていうことには、「大昔、丹波国はすべて湖だった。その水は赤く染まっており、だから丹波(丹の色の波)というのだ。大山咋神が浮田の地をうがち、湖の水をそこに切り流した。そのため丹波の水は枯れてしまい大地となった。そこで祠を立ててこの神を祭り、鋤を依り代とした。この神は、松尾の大神と同体である」という。この場所から下っていくと、愛宕山・亀山は左に、嵐山は右に見えてくる。景色のすぐれたところは枚挙に暇がない。
〔4.富士川の疎通〕
12年(1607)春、了以は、将軍のご命令を承り、富士川に舟を通じさせた。駿府国岩淵から舟を引いて遡上し甲府に至ることができるようになった。洞窟しか住み場所のないようなこの山あいの住人達は、未だかつて現物の舟を見たことがなく、みな驚いて「魚でもないのに水を走っている。不思議だ不思議だ」と口々に言った。(これはあたかも中国北方の野蛮人で、騎馬を得意とする)胡人が舟を知らないということと、なんら変わりはない。この川の最も険しいところは、嵯峨の大井川のそれより遥かに勝る。それでも(了以の工事によって)荷舟が上下往来し(荷物や人を運び)、国の人々は大いに喜んだ。13年(1608)にもまた了以に命が下り、信濃国諏訪より遠江国掛塚に至る天龍川において、舟を通じさせることができるかどうかを調査させた。了以は、(結局)舟運ができるようにしたけれども、一艘の往来もないほど利用されなかった。だから今に至るまで荷舟は少ないのである。
〔5.鴨川(高瀬川)の疎通〕
おりふし、京都の東で(方広寺)大仏殿の造営が進められていたが、(淀川を遡上して京都南部の地に陸揚げされた)巨大な材木を現場まで引き運ぶのは困難を極めた。そこで了以は、川に依りながらこれを運搬したいと請願すると、果たして許可された。そこでこれを川に浮かべ、伏見の地から上流に遡って引いていこうとした。了以は、伏見の地が、大仏殿の基底部より6丈(約18メートル)ばかり低いとわかると、(運漕流路を均一な勾配とするため)高いところは削ってより低くし、低いところは堤を設けた。川の曲がっているようなところは、轆轤を設置して引き起こし、(引き倒して)また水に浮かべた。あたかも大地を整地して平らかにするように、川の水が平らかになったわけである。これより前は、エイヤと叫び合いながら力を合わせて運ぶ大勢の男達でも、5丁(約500メートル)ですら難儀し、万匹の牛のような力をもってしても困難なことであった。それが、水運では力を費やすこともなく、一日も経たずして材木はことごとく現場に到達した。人々は皆不思議に感じたことだった。16年(1611)、了以は、鴨川に(沿って運河〔後に高瀬川と呼ばれる〕を開削し)舟を通じさせたいと請願してその認可を得た。したがって荷舟は、伏見の河(=現宇治川ヵ)より(現東高瀬川を)上流へと遡り二条に達することができるようになった。今に至っては(その舟運に従事する荷舟は)数百艘もある。ついに居宅を川側に築き、玄之に住まわせた。玄之の息子玄紀がこれを相続した。
〔6.了以の最期と碑造立の経緯〕
19年(1614)、富士川の流路がふさがって傾斜がきつくなり、舟運ができないようになった。将軍のご命令があって了以を(修繕工事に)召したが、病気のためかなわず、代わりに玄之が治水を行い、再び舟が行き来できるようになった。3月に工事を始めて7月に竣功し、(その時)了以の病が危険な状態にあることを聞き及んで暇を告げた。玄之入洛に先んずること二日、了以は没した。実に慶長19年(1614)7月12日だった。時に61歲。この年の夏、嵐山に大悲閣を造営した。山の高さは20丈(約60メートル)ばかりで、壁のようにそびえ立ち谷は深い。右には瀑布があり、前には亀山があって、じかに洛中を眺めることができる。川水は、亀山・嵐山の間に流れ、舟の往来は居ながらにして見ることができる。病にある時、「我が像を作り、大悲閣の側に置きなさい。(その像は)巨大な綱を巻いて座とし、スキを杖としなさい。石を建てて(我が事跡を)記すように」と言った。玄之等はその遺言に従った。玄之は、その事跡を記して私のもとに送り、碑文の作成を請うてきた。そこに記されている諸々のことは、すでに述べてきた通りだ。その昔、中国戦国時代の政治家・白圭は、治水を行う際に隣国を谷とし(そこに洪水を導いたため仁にもとると非難され)、中国前漢の法律家・張湯は、褒斜道を開削して運河としようとしたが、道が険しく疎通し得なかった。現代において了以は、大井河を疏通し、鴨川に治水を行い、富士川の水を切り流した。およそ彼が押し広げて舟を通じさせたり、汲み分けて開いたりした流路は、舟がよく進み、その荷物を汚すことがなく、あらゆる人に利益をもたらした。白圭・張湯のしたこととは大いに異なるのだ。いわゆる「舟の往来できなかった川を疎通させることによって、川舟は人々に利益をもたらす」とは、このことではないだろうか。豊かさを後世の子孫達に残したと、本当にそう言ってよいだろう。私と玄之とは長く交際してきた間柄だ。そのためその請願に応じて書いたのだ。さらに(その事跡を)ほめたたえるため銘をしるす。曰く、
〔7.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
大井川は開かれて、舟は行き来す。
鴨川(沿いの高瀬川)に舟は浮かんで、虹のようにかかる橋々。
富士川はうがたれて、これまた立派な事業を成し遂ぐ。
今はむかし古代中国にて、治水の成功で帝から黒い宝玉を賜ったという禹を慕い、治水の失敗で処刑され黄熊になってしまったというあの鯀をあざけり笑う。
嵐山の上、ここにその名声は朽ちず、いついつまでも。
寛永7年(1630)7月12日 跡取りの玄之がこれを立てた。
訓読文・註釈
〔1.父祖の系譜〕
「西山源姓吉田氏了以翁碑銘」
河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘 法印羅山子滕道春撰
法眼大膳亮源長因書并に篆蓋
古に云く「舟楫の利は、通ぜざるを済すを以てす」と。嘗て其の語を聞く。今其の人有るなり。了以叟、其の人か。了以、姓源氏、其の先、佐佐木支族の吉田と号する者にして、宇多帝の後なりと爾云ふ。世よ江州に住す。五代祖徳春、城州嵯峨に来り、因りて焉に家ふ。其の居する所、乃ち角蔵の地なり。洛の四隅に各の官倉有り。西に在るを、角蔵と曰ふ。語、沙門石夢窓天龍寺図記中に在り。徳春の子は宗林、宗林の子は宗忠、皆潤屋なり。而して室町将家に仕ふ。宗忠の子宗桂、薙髪して天龍蘭若に遊び、嘗に医術を学ぶ。一旦、僧良策彦に従がひ、溟渤を逾え大明に赴く。明人の或、宗桂を称して意庵と号く。蓋し諸を「医は意なり」の義に取るならん。本邦に還り、其の業、益す進む。
*西山 地名。平安京の西方に連なる山を指す。嵯峨の地や、嵐山・亀山・愛宕山など。古典では使用例が少なくないが、現在あまり使用されない。本文題の「嵯峨吉田氏」の「嵯峨」に相当し、篆額では別の言葉で置き換えたもの。
*河道主事 主事は、主としてそのことを司る人。『孟子』万章章句上「使之主事、而事治、百姓安之」(「使」の主語は尭(ぎょう)、「使之」の「之」は舜(しゅん))を踏まえた表現と見られる。徳川家康が了以に対して河川の疎通工事を司ることを命じ、果たして了以は工事を成功させ万民に利益をもたらした。家康の人事の適切さと、臣了以の功績の大きさを踏まえ、了以の肩書のような言葉として「河道主事」と表現した。なお了以は生前無位無官だった。
*羅山子滕道春 林羅山(1583~1657)。江戸初期の儒者。京都の人。名は忠または信勝。家康の命で剃髪して道春と号す。藤原惺窩(せいか)に朱子学を学ぶ。幕府御儒者林家(りんけ)の祖。
*源長因 吉田長因(1588~1642)。江戸前期の医者。了以の子。産科に精通。徳川家綱(1641~80)誕生の際、幕府に召されて江戸に移る(以上『寛政重修諸家譜』)。
*篆蓋 篆額。
*古云舟楫之利、以済不通 『易経』繋辞下伝に所載の文章。舟が通じていない河川を疎通させれば、舟運は人々に利益をもたらすとの意。詳しくは下記補足参照。
*叟 老人を敬っていう語。
*石夢窓 夢窓疎石(むそうそせき、1275~1351)。鎌倉・南北朝時代の禅僧。天龍寺の開山。
*天龍寺図記 天龍寺所蔵の貞和3年(1347)仲秋「臨川寺領大井郷界畔絵図」(ただし案文)には、夢窓疎石の署判があり、天龍寺や嵯峨の地を描く。ここには臨川寺に隣接して「吉田後家地」との注記のある領域がある。この絵図を指すか。
*潤屋 富豪の立派な家。
*薙髪 剃髪して法体になること。
*蘭若 寺院。
*嘗 常に。
*良策彦 策彦周良(さくげんしゅうりょう、1501~79)。室町時代後期の禅僧。丹波の人。年少時から詩文で名をあげた。天文8年(1539)および同16年に明に渡る。
*溟渤 はてしなく広い海。
*医者意也 唐の名医・許胤宗(きょいんそう)が人から著述をすすめられたとき述べた言葉の一部。医術は、口先の説明や著書ではなく、思慮と工夫とによって会得すべきということ。
〔2.大堰川の疎通〕
中村氏を娶り、天文二十三年甲寅某月某日を以て了以生まる。諱光好、小字与七、後に名を了以と改む。性、工役を嗜む。嘗て筮仕を志すと雖も、而も未だ信長・秀吉に事ふるを肯ぜず。前大相国源君の世を治むるに及ぶや、初めて出でて拝謁し奉る。慶長九年甲辰、了以、作州和計河に往き、舼船を見て以為「凡て百川皆以て舟を通ずべし」と。乃ち嵯峨に帰り、大井川を泝り、丹波保津に至る。其の路を見て、自ら謂らく「湍石多しと雖も、舟を行かしむべし」と。翌年乙巳、其の子玄之を東武に遣はし、以て之を請はしむ。台命に謂く「古より未だ舟を通ぜざる所、今通開せんと欲す。是れ二州の幸なり。宜しく早く之を為すべし」と。丙午春三月、了以、初め大井河を浚ふ。其の大石有る所は、轆轤を以て之を索牽し、石の水中に在れば、則ち浮楼を構へ、鉄棒の、鋭頭の長さ三尺、周り三尺、柄の長さ二丈許なるを以て、縄に繫ぎ、数十餘人をして挽き扛げて、径ちに之を投下せしむれば、石悉く碎け散る。石の水面より出づれば、則ち烈しく火し焉を焼き碎く。河広くして浅ければ、石を帖ねて其の河を挟み、其の水を深くす。又瀑有る所は、其の上を鑿ち、下流と之を準平す。秋八月に逮び、役の功成る。是れに先じては、筏を編みて纔かに流すのみ。是に於いて丹波世喜邑より嵯峨に到るまで、舟初めて通ず。五穀・塩鉄・材石等、多く載せ漕ばれ、民其の利を得たり。因りて宅を河辺に造りて焉に居す。玄之、焉を嗣ぎ、子の厳昭、之を受けて伝へらる。
*小字 幼時の字(あざな)。
*工役 土木などの工事。
*筮仕 初めて仕官すること。
*前大相国源君 徳川家康(1542~1616)。豊臣秀吉没後、関ヶ原の戦に勝利し天下を手中におさめ、慶長8年(1603)征夷大将軍となり幕府を開く。同10年、子の秀忠に将軍職をゆずり駿府に引退するが、その後も大御所として秀忠を後見した。
*和計河 岡山県を流れる吉井川の古名。和気川とも。鳥取県境の三国山に発し、津山盆地、岡山平野東部を経て児島湾に注ぐ。旧国での流域は、美作国のほか備前国。
*舼船 舼も船も、フネの意。本碑文中、舼・船・舟に語義の違いはない。
*通舟 河川を浚うなどの工事をして、舟が往来できるようにすること。
*大井川 碑文の示すところによると、丹波国世木(現京都府南丹市日吉町殿田あたり)から嵯峨あたりまでの川。この流域は現在大堰川・保津川や桂川と呼ばれ、京都府南西部を流れる。
*丹波保津 現京都府亀岡市保津町あたり。嵯峨から大堰川(保津川)の渓谷を遡上して、亀岡盆地に出たあたり。
*自謂 自は、おのずから。謂は、思う。つまり自謂とは、詳しく調べきったわけではないが、自然とそう感ぜられたということ。
*湍石 早瀬や岩石。
*行舟 舟を通行させる。碑文中では「通舟」と同義。
*玄之 角倉素庵(1571~1632)。角倉(吉田)了以の長子。通称与一。玄之は諱。剃髪して貞順、素庵と号す。江戸初期の京都の貿易家、朱子学者。幕府の土木・河川事業に功績があった。能書家としても知られる。藤原惺窩に師事して朱子学を学び、惺窩と林羅山を引き合わせた。本阿弥光悦の協力を得て嵯峨本を出版。
*東武 京都の東方にある武蔵の国。つまり江戸。
*台命 貴人の命。ここでは将軍徳川家康の命。
*二州 山城国と丹波国。
*初 はじめに。
*轆轤 重いものを、引いたり揚げたりするのに用いる滑車。
*索牽 綱で引く。索も牽も、引くの意。
*浮楼 水上に浮かべた高い建物。岸と綱で結ぶなどして流れないようにしたと考えられる。
*準平 均等にする。滝を削り、前後の流路の勾配を滑らかにしたということ。
*編筏 筏を組む。
*丹波世喜邑 丹波国船井郡世木村。現京都府南丹市日吉町殿田あたり。
*載漕 ものを舟に載せて運ぶこと。
*厳昭 ?~1645。角倉素庵の次男。
〔3.大堰川遊覧と地名の雅称〕
玄之、書を能くし、且つ儒風を惺窩滕先生に問ふこと年有り。一旦、先生を招き、河上に遡遊す。奇石・激湍、甚だ多し。先生に請ひ、多く旧号を改む。其の白浪の、揚がること花を散らすが如き者は、浪花隈と号く〈旧名大瀬〉。其の斉き汩りて石を環る者は、観瀾盤陀と号く。石の、相い距つこと二十尺可りにして、猿の、子を抱き其の間を飛び超ゆる者有りて、叫猿峽と号く〈旧名猿飛〉。東に山岩の、高く嶮しく棲鶻の危巣有る者有りて、鷹巣と号く。石壁斗絶し、貌の、万巻の堆るが如き者は、群書岩と号く〈旧名出合〉。此の処に石の、門に似て、広さ五丈、高さ百餘尺なる者有りて、石門関と号く。湍の、流れ急く、船の行くこと飛ぶが如きもの有りて、鳥船灘と号く〈旧名鵜川〉。灘は、水尾に隣る。世よ伝ふ、清和帝の嘗て来りて魚を此に観ると。岸に山岩の、高さ五十丈可り、其の下の水平衡にして、水の、山を載するが如きもの有り。「山下に出る泉あるは蒙なり」の義を取りて、号けて蒙山と曰ふ。皆な倭歌有りて其の家集に在り。惺窩の遊観する所、此に止まる。復た石の、方三丈許にして、其の面鏡の如く、水崖に聳ゆるもの有りて、鏡石と号く。又た浮田神祠有り。世よ伝ふ「邃古の世、丹波国は皆な湖なり。其の水赤く、故に丹波と曰ふ。大山咋神、浮田を穿ち、其の湖を決す。是に於いて丹波の水、枯れて土と為る。乃ち祠を建てて之を祭り、鋤を以て神の主と為す。此の神、即ち是れ松尾大神なり」と。此より下れば、則ち愛宕・亀山は左に在り、嵐山は右に在り。其の勝区、枚数すべからず。
*儒風 儒教の学風。
*惺窩滕先生 藤原惺窩(1561~1619)。江戸初期の儒者。播磨国(兵庫県)の人。藤原定家の子孫で、下冷泉家の出身。徳川家康に重んぜられ、門人に林羅山、石川丈山らの人材を出した。
*遡遊于河上 遡遊には、流れに従って下る意と、遡って遊覧に興じる意がある。現在地が比定し得る改称地名の記載順序は、下流から上流に向かってなので、ここでは後者をとる。河上には、(一)川の水面、(二)川の上流、(三)川のほとりの意があり、どれも矛盾なく解釈が可能だが、さしあたり(二)をとる。この遊覧は、後世の舟運のあり方を踏まえると、惺窩らが乗った舟を陸地から綱で引きながら遡上していったと思われる。もちろん折々に着岸して景色を愛でたであろう。後掲の文章から推して、請田神社あたりまで遡上した後、川を下って嵯峨まで来たと考えられる。
*激湍 岩などにはげしく当たって流れる早瀬。
*浪花隈 浪花は、砕けて白い花のように見える波。隈は、水のいりこんだところ。
*斉汩 解釈難。『羅山林先生文集』巻第四十三では、「ウスマキミナサキ」と訓む。斉は、うずの意があるので、うずまくと解釈しておく。汩は、波の立つさま。みなぎり波立つと解釈しておく。なお、この汩(音イツ、ユニコード6C69)は、汨(音ベキ、6C68)と別字。
*観瀾盤陀 観瀾は、大波を見る。盤陀は、平らかでない岩。
*叫猿峽 猿の叫ぶ谷川。戴叔倫の漢詩「夜発袁江、寄李潁川・劉侍郎」に「半夜回舟入楚郷、月明山水共蒼蒼、孤猿更叫秋風裏、不是愁人亦断腸」(『唐詩選』巻七)とあるように、舟の移動中に猿の鳴き声で寂しさを催すことはよく漢詩で歌われる。旧称「猿飛」では、単に猿が飛び越える様子が示されているが、「叫猿峽」と改名することで、視覚から聴覚へと注意の重心を移すのみならず、典故に基づいた寂しさの感情をも含ませていると見られる。
*棲鶻之危巣 ハヤブサの住む高い巣。蘇軾「後赤壁賦」(『古文真宝』後集巻之一)の「断岸千尺(中略)攀棲鶻之危巣」に基づく。
*鷹巣 前文では「棲鶻」=ハヤブサの巣となっているが、鷹もハヤブサも似た鳥なので「鷹巣」と命名したと見られる。読者に蘇軾「後赤壁賦」を想起させ、中国の赤壁(せきへき)のような断崖絶壁だと示したいわけである。
*斗絶 非常にけわしいこと。
*出合 出合は、一般に川・沢・谷の流れが落ち合う所という意味。改称名「群書岩」に相当するのは、現在「書物岩」などと呼ばれるところで、ちょうど清滝川が大堰川に合流する。
*鳥船灘 鳥のように船が早く進むほど急流の灘。『日本書紀』巻二神代下「又為汝往来遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦将供造」に基づく。日本の古典由来の命名なので、音読みでなく訓読みで読むと思われる。
*鵜川 鵜飼のための川であることを示す。「鵜河」「鵜飼の浜」などといい現在もこの名称は残る。
*水尾 現京都市右京区嵯峨水尾のあたり。清和天皇の終焉の地。同天皇陵がある。
*清和帝 清和天皇(850~880)。
*山下出泉蒙 山のふもとに湧き出る泉のあるところの象(しょう)は蒙であるの意。『易経』周易上経に所載。
*皆有倭歌、在其家集 藤原惺窩の歌集『惺窩先生倭謌集』巻第四には、「蒙山」「浪花隈」「群書巌」「鳥船灘」「観瀾盤陀」を題とする和歌が収められている。
*浮田神祠 請田神社(現京都府亀岡市保津町立岩)。
*邃古 おおむかし。
*故曰丹波 丹は、硫黄と水銀からなる鉱物・辰砂(しんしゃ)からとれる色。褐赤色。湖の水が赤いので、赤い波うつ国を「丹波」といったという意。
*大山咋神 記紀にみえる神。大年神(おおとしのかみ)の子。賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)の父。滋賀県大津市の日吉大社や京都市の松尾大社の祭神。
*神之主 神霊のやどるところ。つまり神の依り代。
*松尾大神 松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)に祭られる神の一つ。酒造の神として信仰を集める。
*愛宕 愛宕山。京都市右京区北西部の山。山頂に愛宕神社があり、鎮火の神として崇敬される。
*亀山 京都市右京区嵯峨、天龍寺の西にある山。後嵯峨・亀山両院などの離宮があった。大堰川を挟んで嵐山に対する。
*勝区 景勝地。
*枚数 数え挙げる。
〔4.富士川の疎通〕
十二年春、了以、鈞命を奉り、舼を富士川に通ず。駿州岩淵より舟を挽きて甲府に到る。山峽の洞民、未だ嘗て舟有るを見ず、皆な驚きて曰く「魚に非ずして水に走る。恠しきかな恠しきかな」と。胡人の舟を知らざると何を以って異ならんや。此の川の最も嶮しきは、嵯峨よりも甚し。然るに漕舼通行し、州民大いに悦ぶ。十三年にも、又た了以に命じて、信州諏訪より遠州掛塚に到るまで、舟を天龍河に通ずべきや否やを試さしむ。了以、漕ぶに即ると雖も、蕩然として用ゐらるること無し。故に今に至るまで舟少し。
*鈞命 君主の命令。ここでは江戸幕府の命令。
*富士川 山梨県・静岡県の川。釜無川を上流とし、甲府盆地の南で笛吹川と合わさって南流し、駿河湾に注ぐ。
*駿州岩淵 現静岡県富士市岩淵。富士川の西岸。了以の疎通以後、舟運で甲斐国鰍沢(かじかざわ、現山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)と物資の往来があり発展。甲州からの物資はここで荷揚げされ、陸路蒲原(かんばら)に運ばれて海運で諸方に向かった。また東海道における富士川渡川の要地。
*挽舟 上流へ遡るため、陸地から綱で舟を引く。
*山峽洞民 山峽は、山と山との間。谷間。洞民は、洞窟に住む人。実状とは異なると見られ、辺境の山岳住人を蔑んで大げさに表現したもの。
*胡人不知舟 胡人は、古代中国北方の胡国に住んでいた人。出典は未詳。なお『淮南子』には「胡人便於馬、越人便於舟」とあって(巻十一斉俗訓)、胡人と越人(中国南方の人)とを比較的に述べた箇所があり、胡人は馬に秀でていても、舟は不得手であるとの認識が垣間見える。
*漕舼 荷物を運ぶ船。
*試 調べる。
*遠州掛塚 現静岡県磐田市掛塚あたり。天竜川の河口。
*天龍河 中部地方を流れる川。長野県の諏訪湖に発し、南流して伊那盆地を貫流し、静岡県磐田市で遠州灘に注ぐ。
*即漕 このあたり解釈やや難。即は、いたるの意とし、即漕は、天竜川を疎通して荷舟が往来するに至らせたと解釈した。
*盪然 解釈やや難。盪と似た字に、蕩の異体字「蘯」がある。しばらく「蕩然」と解釈する。蕩然は、なに一つないさま。空しいさま。
〔5.鴨川(高瀬川)の疎通〕
是の時に方りて、大仏殿を洛東に営み、大木巨材、甚だ挽牽するに労る。了以、河に循ひて之を運ばんを請ふ。乃ち之を聴さる。是に於いて伏見里より、之を河に浮かべ、泝りて拏く。了以、伏見の地の、大仏殿の基より卑きこと六丈可りなるを見て、即ち其の高きを壊し、堤を卑き処に為る。河の曲がるが若き処は、轆轤を置きて引き起こし、復た水に浮ぶ。水の平らかなること地の如し。是に先じて許と呼び邪と呼ぶ者、五丁すら之を憂へ、万牛も之を難くす。是に於いて、水運は力を労さず、不日に材木悉く達す。人皆な之を奇む。十六年、了以、舟を鴨河に行かしめんを請ひ、乃ち之を聴さる。因りて伏見の河より、漕舼上流に遡り、二条に達す。今に至りては数百艘有り。遂に家を河傍に搆へ、玄之をして之に居せしむ。玄之の男玄紀、焉を嗣ぐ。
*大仏殿 京都東部の方広寺(現京都市東山区茶屋町)にあった大仏殿のこと。南北方向にはおよそ七条通に位置し、鴨川東岸に所在。同寺は、豊臣秀吉の発願により創建。文禄4年(1595)にはほぼ完成していたが、同年に大地震があり大仏は損壊。秀吉が没し遺志を継いだ子の秀頼は復興を命じ、大仏鋳造が続いていたが、慶長7年(1602)、火事が起き大仏殿を含め焼失。同14年頃から再造・再建工事が始まり同18年に完成。なおそれ以降堂舎は損壊・焼失が重なり、当時の大仏・大仏殿は存在しない。
*挽牽 挽も牽も、引くの意。
*循河 川にそって。この川は、無名の川で、伏見から方広寺大仏殿に至る流路であったようだ。なお下記補足参照。
*伏見里 現在の京都市伏見区内で、旧紀伊郡内の深草の南、鳥羽の東の地。南に宇治川が流れる。平安時代から貴族の別荘地となり寺院も多く建立された。豊臣秀吉の伏見城築城後、城下町として発達。豊臣の滅亡後に城は廃棄され、その政治的地位も低下したが、江戸時代はなおも淀川水運の河港として繁栄。
*壊其高、為堤於卑処 この辺り解釈難。訓読・現代語訳・註釈は試案。勾配一定の流路を疎通するための処置。言い換えれば、急流や瀬がなく、流路のどこでも一定以上の深さを保ち、またほぼ一定の流速とするための処置。想定流路において、想定標高より高いところを削り、逆に低いところは削った土砂などで堤防を造成した。例えば大仏殿と伏見との中間地点では、水面が、伏見から見てプラス3丈(両高低差6丈の半分)の高さである必要ある。仮にプラス4丈であれば削り、プラス2丈であれば堤を造成した。
*水平如地 解釈難。大地を削って水平にするように、流路も平らかになった。
*呼許呼邪者 許も邪も、大勢の人が力を合わせて重い物を動かすときの声。大声を出して重い物を運ぶ人々。
*行舟鴨河 舟が往来できるように鴨川を疎通する。実際に疎通されたのは現在の高瀬川、すなわち二条あたりで鴨川から西側に分水して南下し、東九条にて再び鴨川に流入する流路である。現在では高瀬川沿いに家屋が林立しているが、近世初期この辺りは鴨川の川原という認識がまだ強かったと思われる。「鴨河」と記すのはそのためである。
*伏見河 現在の宇治川を指すと見られる。
*玄紀 角倉玄紀(1594~1681)。江戸前期の豪商。素庵の長男。京都二条の角倉本家をつぐ。
〔6.了以の最期と碑造立の経緯〕
十九年、富士河壅り嶮しくして、舟行く能はず。鈞命ありて了以を召すも、病有るを以て、玄之代はりて治水を行なひ、又た能く舟を通ず。三月に役を始め、七月に之を成し、了以の病の急なるを聞きて仮を告ぐ。玄之の未だ入洛せざるより先二日、了以歿す。実に慶長十九年秋七月十二日なり。時に六十一歲。此の年の夏、大悲閣を嵐山に営む。山の高さ二十丈許、壁立ちて谷深く、右には瀑布有り、前には亀山有りて、直に洛中を視る。河水、亀嵐の際に流れ、舟舼の来去、居然として見るべし。其の疾病の時、謂ひて曰く「須く我が肖像を作り、閣の側に置き、巨綱を捲きて座と為し、犂を杖と為し、石を建てて誌すべし」と。玄之等、其の遺教に従がふ。玄之、其の事を録し以て余に寄せ、之が記を為さんを請ふ。件件右の如し。昔白圭の治水するや、隣国を以て壑と為し、張湯の褒斜に漕ぶや、嶮巇として通ず能はず。今了以、大井河を疏し、鴨水を瀹し、富士川を決す。凡そ其の排き通じ釃み開く所、則ち舟能く行き、其の載を臭さず、人皆な之に利す。白圭・張湯の為す所と大いに異なる。所謂「舟楫の利は、通ぜざるを済すを以てす」とは、茲に在らずや。宜なるかな、裕を後昆に垂れんは。余と玄之と交りを執ぶこと久し。故に其の請に応じて書す。且つ之を旌すに銘を以てす。其の詞に曰く、
*壅嶮 流路が土砂などでふさがり険しい。
*大悲閣 大悲閣千光寺として現存(京都市西京区嵐山中尾下町)。碑文の通り了以発願にかかる。大悲は、観音。閣は、高い建物。字義通り解釈すると大悲閣とは、観音像を安置する高層のお堂。初め天台宗、のちに黄檗宗で現在は単立寺院。本尊は源信作と伝える千手観音像。現境内には本堂・大悲閣などがあり、大悲閣の側に本碑が建つ。本堂には本像とともに、碑文が言及する了以像が安置。
*瀑布 滝。
*居然 いながらにして。
*我肖像 この時に造られたと考えられる坐像が大悲閣千光寺に残る。
*犂 牛にひかせ土を掘り起こす農具。大悲閣千光寺の了以坐像が持つ工具をみると、土を掘るというよりも岩を砕いたり砂礫を掘り払ったりするのに適していると思われる。
*件件 あのこと、このこと。
*白圭之治水 『孟子』告子章句下に基づく。白圭なる人物が治水を行った際、隣国を谷とし意図的に水をそこに導いたため洪水で人々が苦しんだ。仁にもとると孟子から批判された。
*張湯之漕褒斜 張湯は、中国前漢の法律家。舟運のため褒斜(長安から蜀の地に至る谷)を疎通しようとして息子に代行させたが、障害となる石を除去し切れず失敗に帰した(『史記』河渠書第七)。
*嶮巇 山などのけわしくて高いこと。
*瀹鴨水 瀹は、川の流れをよくする。鴨水は、鴨川。
*排通釃開 排通と釃開の二組の語と判断する。排は、おしひらくの意。排通は、川をおしひらいて舟を通すこと。大井川(現大堰川)・富士川などの疎通を指す。釃は汲む、分けるの意。釃開は、水を汲み分けて新たな川を開くとの意だろう。鴨川の水を分けて高瀬川を疎通したことを指すと見られる。
*宜哉 もっともなことであるなあ。本当にその通りだなあ。
*垂裕後昆 後世の子孫に豊かさを残すこと。大堰川・高瀬川の疎通によって子孫は通船支配権を幕府から認められ多大な経済的利益があった。『書経』仲虺之誥の「以義制事、以礼制心、垂裕後昆」を踏まえていると考えられ、了以に徳があるために豊かさを残すことができたと言いたいのだろう。
*執交 よしみを結ぶ。
〔7.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
巨川を排きて舟楫通ず。
鴨水に浮きて梁は虹の如し。
矧んや復た富士河を鑿ちて功を成す有り。
其の玄圭を錫ふを慕ひて彼の黄熊に化するを笑ふ。
嵐山の上に名は朽ちずして而も窮まり無し。
寛永七年庚午秋七月十二日 嗣子源玄之、之を立つ
*排巨川兮・・・ 雑言詩。韻字、通・虹・功・熊・窮(上平声一東)。
*巨川 大井川(大堰川)。次句と字数を合わせるためにこの字を用いた。
*梁如虹 解釈やや難。前文の鴨水(鴨川)は、高瀬川のこと。梁は、橋。近世の高瀬川水運を描いた図をみると、高瀬舟が上下往来できるよう橋はやや高めに架けられている(『拾遺都名所図会』巻一)。船上から見た橋の様子を「虹の如し」と表現したと考えられる。
*錫玄圭 錫は、賜う。玄圭は、黒い圭玉。中国の伝説的な故事で、禹が治水を成功させた際、帝舜が玄圭をたまわった(『史記』秦本紀第五)。
*化黄熊 中国の伝説的な故事。帝舜から治水を命ぜられた鯀(こん)は、成功させることができず舜に処刑されてしまった。その霊魂が変化して黄熊(おうゆう)になった(『史記』五帝本紀第一、『国語』巻第十四晋語八)。
画像

スマホアプリ「ひかり拓本」使用。







スキを持ち綱を座とする






(上流方向に撮影)




※撮影日はすべて2023年9月から12月の間。
その他
補足
- すでに下記をはじめ多く版本・書籍で全文が収載されている。
『羅山林先生文集』巻第四十三、『嵯峨誌 平成版』
どちらも訓点がつき、後者は語註がある。本碑の判読不能な部分は、上記を参考として補った。また、訓読の参考としたところがあるが、相違もかなり多い。 - 「舟楫之利、以済不通」の解釈について
碑文冒頭と末尾に、『易経』繋辞下伝に所載の下記の文章を引いている:
刳木為舟、剡木為楫。 舟楫之利、以済不通、致遠以利天下。
前後も合わせて挙げた(碑文は下線部のみ)。次のように訓読・現代語訳するのが自然である:
訓読A:木を刳りて舟を為り、木を剡りて楫を為る。舟楫の利、以て通ぜざるを済し、遠きに致して以て天下を利す。
現代語訳A:太い木をえぐって木の舟を作り、長い木をけずって舟をこぐ櫂を作る。舟と櫂の利便性とは、渡ることのできなかった川を渡って、人がさらに遠くまで行き着けることにあり、それはまさに天下の人々のために大きな利便性をあたえる。
しかしこうすると、碑文を整合的に解釈できない。むしろ撰者は次のように訓読および解釈したと考えられる(下線部のみ示す):
訓読B:舟楫の利は、通ぜざるを済すを以てす。
現代語訳B:舟が通じていない河川を疎通させることによって、人々は舟運によって利益を得られる。
最も大きな違いは「通」の解釈である。自然な解釈では「通」は、川を渡るの意で、Aのようになる。他方、碑文中の「通」は、「通舟」「通舼於富士川」と使用され、要するに舟が上下往来できなかった河を工事して疎通させる意である。この意味を採用すると、Bになる。 - 大仏殿造営の材木運送に利用した「河」について
了以は造営の材木運送について「循河而運之」と請願し許されて「自伏見里、浮之河、泝而拏焉」とある。この「河」とは具体的に何を指すか。
(1)まず、鴨川のことではない。というのは、後出の慶長16年工事の文章でははっきりと「鴨河」と記されていて、もし「河」が鴨川のことなら、ここも「鴨河」と記されなければならないがそうなっていないからである。
(2)本碑文では基本的に川を固有名で表記している。故に、単に「河」と記されているのは、これが無名の川であることを示す。
(3)「河」に材木を浮かべて伏見から引いてきたとあるので、「河」は伏見から大仏殿あたりまで流れる川である。
なお以上は通説と異なるのでご注意ください。 - 資料の調査・写真撮影に際し、藤原吉希氏・横尾拓真氏に協力していただきました。
- 掲載画像の一部は、奈良文化財研究所のアプリ「ひかり拓本」を使用して撮影・作成した。
- 本資料に関連する弊研究所作成データは下記の通り:
参考文献
- 『羅山林先生文集』巻第四十三(早稲田大学図書館所蔵、請求記号:ヘ16/1533/17)五丁~九丁。京都史蹟会編『羅山林先生文集 巻二』(平安考古学会、1918年)65~8頁所収。
- 堀永休編『嵯峨誌』(嵯峨自治会、1932年)319~23頁。
- 『嵯峨誌 平成版』(嵯峨教育振興会、1998年)465~71頁。
- 今井宇三郎『新釈漢文大系 23 易経 上』(明治書院、2008年、初版1987年)215~8頁。
- 今井宇三郎ほか『新釈漢文大系 63 易経 下』(明治書院、2008年)1585~9頁。
- 内野熊一郎『新釈漢文大系 4 孟子』(明治書院、2017年、初版1962年)333~4頁、434~5頁。
- 星川清孝『新釈漢文大系 16 古文真宝(後集)』(明治書院、2011年、初版1963年)57~9頁。
- 楠山春樹『新釈漢文大系 55 淮南子(中)』(明治書院、2009年、初版1982年)575~6頁。
- 吉田賢抗『新釈漢文大系 38 史記 一(本紀上)』(明治書院、2017年、初版1973年)41頁、231~2頁。
- 吉田賢抗『新釈漢文大系 41 史記 四(八書)』(明治書院、2017年、初版1995年)263~4頁。
- 大野峻『新釈漢文大系 67 国語(下)』(明治書院、2011年、初版1978年)619~21頁。
- 『寛政重修諸家譜』巻四百二十七・四百二十八(『寛政重脩諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年)226~34頁)。
- 『拾遺都名所図会』巻之一(天明7年(1787)序、国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:特1-17)五十四丁裏~五十五丁表。
- 『惺窩先生倭謌集』巻第四(『国民精神文化文献 17 藤原惺窩集 巻上』(国民精神文化研究所、1938年)214~5頁)。
- 林屋辰三郎『角倉了以とその子』(星野書店、1944年)89~112頁。
所在地
河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘 および碑文関連地 地図
所在:
大悲閣千光寺|京都市西京区嵐山中尾下町
アクセス:
阪急 嵐山駅 下車 徒歩 約1km(大堰川右岸沿いを遡上)
千光寺 境内 大悲閣の前にあり
編集履歴
2023年12月 公開
2024年1月16日 小修正
