江戸初期、信濃を源流とし甲斐から駿河へ流れる富士川に、角倉了以が舟運を開いたのを顕彰する碑。覇者徳川家康の採用で河川事業に長けた了以が富士川を疎通し、慶長12年(1607)舟が上下往来できるようになった。舟の下りは一日と要せず、かつての人力・牛馬に比べ労力は著しく軽減された。甲斐・信濃へは塩や魚が、駿河へは木材がより流通し、加えて川沿いの住人が舟運業で渡世できるようにもなった。了以の功績と恩恵を甲信駿の民たちに忘れさせまいと、疎通から約二百年後、甲斐鰍沢の村役人の発意により同地に建立。鰍沢には河岸(川湊)があり、三国の物資と人民が輻輳していた。昭和初年の鉄道(現身延線)開通で舟運も役目を終え、今や自動車の往来する国道沿いの河岸跡に、ずしりと立つ。舟運で豊かになった住人達の過去回顧の記念碑であり、かつての富士川舟運繁栄の跡が知られる遺物でもある。
資料名 富士水碑
年 代 寛政9年(1797)
所 在 富士川右岸|山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢
北緯35°32’23″ 東経138°27’23”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 歴史的人物顕彰
備 考 資料名は篆額による。上記年代は、碑文撰述依頼の年。造立年はそれ以降。
ID 0025_2312
翻刻
「富士水碑」
富士水碑銘并序
下毛野黒川好祖撰
富士水有三源。其一、出於信州駒嶽。釜無水是也。其二、出於甲州。其出於笹子嶺、笛吹水是也。其出於金峰山、荒水是也。合為
富士水、至駿州而入于海。懸騰百餘里、雷呵電激、禹不能鑿、丹不能通。刳木以来、未有舟楫。何則出高山而下卑湿、摂巌石而
怒水勢也。及 神祖之覇有天下、愍黎民之患苦転運、欲通舟楫、以弛負担之労、募巧水利者於朝野。吉田君応募而上言曰、
水之有舟楫、猶陸之有車馬。陸無不可車馬、水無不可舟楫也。 神祖可其言。慶長十二年、命君為川衡、浚富士水。君至観之、
自三源、至鰍沢・黒沢・青柳三津、不労而通。自三津、至駿州岩淵、有如滝者、有広而浅者、有石出水上者、有潜而伏者。其如滝者、
鑿高而平之、其広而浅者、積石而狭之。其石出水上者、焼爛而碎之、其潜而伏者、作径尺長二丈錐頭杖、構浮楼以下之、因轆
轤以挙之必碎。而後舎之。不厭財力労費之多少、是以功成而舟通。溯游、則一日而下、雖其溯洄者、無過三日四日也。是以信
甲飽於魚塩、而駿土足於材木、五種百物副焉。自是以来、縁河之民、仰食於其利者、以千百数。不特人物馬牛省労也。其後八
年、川復壅塞。将召君而謀之、時君有疾。長子玄之、代父応命。以三月発服役百数日、川流稍稍欲復古。会君疾病、玄之告暇而
省之。至則前二日既已易簀。実慶長十九年秋七月十二日也。行年六十有一。君諱光好、字与七、後号了以。姓源、城州嵯峨之
人也。系出於 宇多帝、世居江州、為佐佐木荘司、後別居洛東吉田。故或曰佐佐木氏、或曰吉田氏。京師四隅有官倉。其西倉
曰隅倉。君五世祖徳春、徙居其地。故又曰隅倉氏。徳春子宗林、宗林子宗忠、咸富累巨万、事覇主足利氏。宗忠子宗桂、薙髪学
医、嘗随僧良策彦而之明。明人号之意庵。帰而業益進。娶中村氏、生君。君長而有仕志。唯不欲事織田・豊臣両主、遂謁 神祖。
最精水利。凡君所疏鑿、畿内有鴨水・大井水、東海道有天流水・富士水。皆無不為万世之利也。後言水利者、祖述之。寛政九年
丁巳冬十有二月、欲立石而勒君功績、令信甲駿民無忘其恵、甲州鰍沢里魁、来乞余辞。余嘗吏于其地也。銘曰、
濬哲了以、下此河瀕。疏通水道、賚𦴙民矣。石勒其績、立鰍沢津。迄于万年、永念其神。
東武藤原知𧋒書并篆額
神慶雲刻字
現代語訳
〔1.富士川と地理〕
富士水碑銘并序
富士川の水源は三ある。一つは信濃駒ケ岳から流れ出る。釜無川がこれである。残り二つは甲斐より流れ出る。笹子峠の山より流れ出るのは笛吹川で、金峰山より流れ出るのは荒川である。合流して富士川となり、駿河に至って海に流れ込む。稲妻のような激しさで大音を轟かせながら百里余りも湧き立つように流れ行く。(古代中国で治水の大功績があったというあの)禹でさえもこの川を開鑿することはできないし、また(他国に洪水を導くという非道な治水を行った中国戦国時代の)白圭でさえも疎通することはできまい。木を刳り貫いて舟というものが発明されてからというもの、(この富士川には)未だ楫を漕いで舟で移動するということがなかった。だから、高い山を出て(川のながれる)低地に下り、水の激しい勢いと争いながら(舟が進んでいけるように)岩石を取り除いていくことが、どうしてできたであろうか。
〔2.角倉了以の疎通〕
神君徳川家康公が覇者となって天下を掌握するに至ると、諸物運輸に苦労する人民を憐れんで、川船を往来させ荷負いの労苦を軽くさせてあげたいと思い、治水技術に巧みな人材を広く武家や民間から募った。角倉(吉田)了以君は、それに応じ次のように献言した。「水上に舟が行くというのは、ちょうど陸上で車馬が行くようなものです。車馬の往来に適さないような陸はありませんし、舟の往来に適さない川などありません(だから富士川を疎通することが可能です)」。神君は、その献言に賛意を表した。慶長12年(1607)、了以君を担当官とし富士川を浚うよう命じた。了以君は、(流域の)いたるところを見つくした。三の水源から鰍沢・黒沢・青柳の三の川湊に至る流路は、労せずして疎通することができた。三湊より駿河岩淵に至る流路については、滝のようなものがあったり、川幅が広く浅いところがあったりし、また石が水上に出ていたり、水中に沈み伏していたりするところがあった。滝のようなところは、高いところを削って平らかになるようにし、川幅が広く浅いところは、石を(両岸に)積んで幅を狭めた(そして水深を深くした)。水上に石の出ているところは、激しく焼き火を通してこれを砕いた。(石が)水中に沈み伏しているところは、直径が1尺(約30センチメートル)ほどで長さが2丈(約6メートル)の先頭がとがった(鉄の)棒をこしらえ、空高く建物を構築して水上に浮かべ、これを打ち下ろし、轆轤を用いて(鉄棒を)引き上げると(石は)必ず砕けた。その後、これを取り除いた。どれだけ資財労力を費やしても構うことなく(工事を進め)、そのため竣功して舟が往来できるようになった。
〔3.舟運の恵み〕
下流方向へは1日で漕ぎ下り、上流方向といっても3日4日以上はかからない。ここにいたり、信濃・甲斐には魚や塩が満ち足り、さらに駿河では材木が充足し、これに五穀やもろもろのものが加わった。それ以来、(舟運からもたらされる)利益で渡世することができるようになった川沿いの住人は千百を数えた。つまり(舟運がもたらすことになった利益は)ただ馬牛や人夫が荷を負う労苦を軽減しただけではないのである。その後8年が経ち、川はまたふさがってしまった。(幕府が)了以君を召して相談しようとしたが、そのとき了以君は病気にかかっていた。長男の素庵が父に代わって(将軍の)ご命令に応じた。3月から工事を始め、百日あまりが経ち川の流れはようやく在りし日の姿にもどろうとしていた。了以君が病気で危急であることをさとり、素庵は暇を告げてここを去った。(京都に)至ると既に2日前に亡くなっていた。慶長19年(1614)秋7月12日のことだった。享年六十一。
〔4.系譜〕
了以君の諱は光好、字は与七で、後に了以と名乗った。姓は源で、山城国嵯峨の人である。その系譜は、宇多天皇から分かれ、代々近江に居住し佐々木荘司であった。(了以の祖先は佐々木の本筋から)後に別れて京都東部の吉田の地に住んだ。そのため、或いは佐々木氏といい、或いは吉田氏という。京都の四隅に官の倉庫があった。その西の倉庫を角倉といった。了以君五世前の先祖は徳春で、居宅をこの地に移した。だから角倉氏ともいうのだ。徳春の子が宗林である。宗林の子が宗忠で、みな巨万の富を築き、覇者足利氏に仕えた。宗忠の子宗桂は、剃髪して出家し医術を学び、かつて僧策彦周良に従って明におもむいた。明人は、彼を意庵と名付けた。帰朝してその医療技術はますます高まった。中村氏の娘を娶り、了以君が生まれた。了以君は、大人になると主に仕えようと志した。(それでも)織田・豊臣両氏に仕えたいとは思わず、最終的に神君家康公に拝謁して臣となった。治水事業の知識に本当に精通しており、了以君が疎通した川には、畿内では鴨川・大堰川があり、東海道には天竜川・富士川がある。どれも万世に渡り利益をもたらすものとなった。後代、治水事業に言及するものは、彼の行ったことを受け継いで語る。
〔5.建碑の経緯〕
甲斐鰍沢の村役人は、石を立てて了以君の功績を刻み、信濃・甲斐・駿河の民たちにこの恩恵を忘れさせないようにと考え、寛政9年(1797)冬12月、私のところに来て碑文の作成を求めてきた。嘗て私がその地方の官吏だったからである。銘にいわく、
〔6.銘〕
〇以下、二句ごとに改行。
知恵深き了以、この川のみぎわを下りゆく。
滞りなく水の道を通し、民達にたまう。
その勲を石に刻み、鰍沢の湊に立てる。
万の年を経るとも、とこしえにその精神を想起せよ。
訓読文・註釈
〔1.富士川と地理〕
「富士水碑」
富士水碑銘并びに序
下毛野黒川好祖撰
富士水に三の源有り。其の一は、信州駒嶽より出づ。釜無水、是れなり。其の二は、甲州より出づ。其の笹子嶺より出づるは、笛吹水、是れなり。其の金峰山より出づるは、荒水、是れなり。合ひて富士水と為り、駿州に至りて海に入る。懸騰すること百餘里、雷呵電激にして、禹も鑿つ能はず、丹も通ず能はず。木を刳りしより以来、未だ舟楫有らず。何ぞ則ち高山を出でて卑湿に下り、巌石を摂りて水勢と怒はんや。
*富士水 水は、川の意。富士川のこと。山梨県・静岡県の川。釜無川を上流とし、甲府盆地の南で笛吹川と合わさって南流し、駿河湾に注ぐ。
*碑銘并序 碑は、文字が刻まれた石。碑に、銘と序が書かれているということ。銘は、ここでは詩のこと。韻文で、末尾の「濬哲了以」から「永念其神」まで。序は、銘の序文の意味で、銘より前の文章(「富士水有三源」から「銘曰」まで)。散文。
*下毛野 下野国。現在の栃木県にほぼ相当。
*黒川好祖 詳細な来歴未詳。好祖は諱。碑文によると、撰述当時は下野におり、かつてこの地の「吏」だった。他史料によると、寛政4年(1792)頃に甲斐市川代官所の手代をつとめ、通称は宗八、字は子述。市川代官は、甲斐の幕領約3万石を支配し、陣屋は現山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にあった。
*駒嶽 駒ヶ岳。甲斐駒ヶ岳とも。山梨・長野の県境にある山。
*釜無水 釜無川。山梨県西部、甲府盆地を南東に流れる川。富士川の上流部の名称。鰍沢付近で笛吹川と合流して富士川となる。
*笹子嶺 笹子峠のこと。山梨県甲州市と大月市の境、すなわち甲府盆地と郡内地方を経て江戸とを結んだ甲州街道の峠。
*笛吹水 笛吹川。山梨県、甲府盆地の東部を南西流する川。甲府盆地南西隅の鰍沢付近で釜無川と合流し富士川となる。
*金峰山 甲府盆地から見て北、秩父山地のほぼ中央に位置する山。主稜線は山梨・長野県境に一致する。
*荒水 荒川。金峰山を源流部とする。甲府盆地にそそぎ、南流して笛吹川に合流する。
*懸騰 涌きたつ。
*雷呵電激 雷呵は、雷のごとく大きな音という意だろう。電激は、稲妻がはげしくおこること。
*禹 古代中国の伝説上の人物。治水の功績があった。
*丹 中国戦国時代の政治家・白圭(はくけい)のこと(圭は字、丹は名)。治水を行った際、隣国を谷とし意図的に水をそこに導いたため洪水で人々が苦しんだ。仁にもとると孟子から批判された(以上『孟子』告子章句下)。白圭のような邪道な方法でも富士川の治水は困難だということ。
*刳木以来 古代中国の伝説上の人物達が木を加工して舟というものを発明してから。『易経』繋辞下伝「神農氏没、黄帝・尭・舜氏作(中略)刳木為舟、剡木為楫」に基づく。
*舟楫 楫(かじ)を伴い航行する舟。
*卑湿 低くて湿ったところ。
〔2.角倉了以の疎通〕
神祖の覇たりて天下を有つに及ぶや、黎民の転運に患苦するを愍れみて、舟楫を通じ以て負担の労を弛めんと欲し、水利に巧みなる者を朝野に募る。吉田君、募に応じて上言して曰く「水の舟楫有るは、猶ほ陸の車馬有るがごとし。陸は車馬に可へざる無く、水は舟楫に可へざる無きなり」と。神祖、其の言を可とす。慶長十二年、君に命じて川衡と為し、富士水を浚はしむ。君、至って之を観るに、三源より鰍沢・黒沢・青柳三津に至りては、労せずして通ず。三津より駿州岩淵に至りては、滝の如き者有り、広くして浅き者有り、石の、水上に出づる者有り、潜きて伏す者有り。其の滝の如きは、高きを鑿ちて之を平らかにし、其の広くして浅きは、石を積みて之を狭む。其の石の水上に出づる者は、焼爛して之を碎き、其の潜きて伏す者は、径尺長さ二丈の錐頭の杖を作し、浮楼を構へ以て之を下し、轆轤に因りて以て之を挙ぐれば必ず碎く。而して後、之を舎く。財力労費の多少を厭はず、是を以て功成りて舟通ず。
*神祖 神としてまつられている(将軍家の)先祖。没後、東照大権現として神格化された徳川家康のこと。
*黎民 一般の人民。
*負担 荷物を負いかつぐこと。
*吉田君 角倉(吉田)了以(1554~1614)。江戸初期の土木事業家。京都嵯峨の人。大堰川・富士川・天龍川・高瀬川など諸川の疎通に尽力し舟運を開く。生前、大堰川を見下ろす嵐山に大悲閣(千光寺)を建てた。遺言により寛永7年(1630)に造立された碑があり、了以の事跡を刻む。
*川衡 川沢の官。
*至 極めつくして。いたるところ。
*鰍沢・黒沢・青柳 鰍沢の地は、現甲府盆地の最南端に位置し、東は富士川に面する。北に青柳が、富士川を挟んで対岸に黒沢がある。黒沢の地は、甲府盆地の南端に位置し、西は富士川に面する。青柳の地は、東は富士川に面する。角倉了以によって舟運が始まると、河岸(かし、川船の湊)が形成されて甲州三河岸と称された。すべて幕領で市川代官所支配。各々現山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢、同町駅前通、同町青柳町あたり。
*岩淵 現静岡県富士市岩淵。富士川の西岸。了以の疎通以後、舟運で甲斐国鰍沢と物資の往来があり発展。甲州からの物資はここで荷揚げされ、陸路蒲原(かんばら)に運ばれて海運で諸方に向かった。また東海道における富士川渡川の要地。
*其如滝者・・・ 下記の記述は、『羅山林先生文集』巻第四十三所収寛永6年(1629)撰「吉田了以碑銘」の内容に基づく。「碑銘」に見えない内容も多々含むが、それは撰者の想像や当時の伝承によると見られる。
*其広而浅者、積石而狭之 両岸に石を積んで流路を狭め、水深を深くしたということ。
*焼爛 焼いて火を通す。
*轆轤 重いものを、引いたり揚げたりするのに用いる滑車。
〔3.舟運の恵み〕
溯游すれば、則ち一日にして下り、其の溯洄する者と雖も、三日四日を過ぐる無きなり。是を以て信・甲、魚塩に飽き、而も駿土、材木に足り、五種百物焉に副はる。是れより以来、縁河の民の、食を其の利に仰る者、千百を以て数ふ。特に人物馬牛の労を省くのみにあらざるなり。其の後八年、川復た壅塞す。将に君を召して之に謀らんとするに、時に君疾有り。長子玄之、父に代はりて命に応ず。三月を以て服役を発し百数日にして、川流、稍稍古に復さんと欲す。君の疾病を会し、玄之、暇を告げて之を省る。至れば則ち前二日にして既に已に易簀す。実に慶長十九年秋七月十二日なり。行年六十有一。
*溯游 流れに従ってくだること。
*溯洄 流れにさからってのぼること。
*飽 みちたりる。
*五種百物 五種は、五種類の穀物。五穀。百物は、さまざまのもの。
*仰食 頼り暮らす。
*壅塞 ふさがること。
*謀 相談する。
*玄之 角倉素庵(1571~1632)。角倉(吉田)了以の長子。通称与一。玄之は諱。剃髪して貞順、素庵と号す。江戸初期の京都の貿易家、朱子学者。幕府の土木・河川事業に功績があった。能書家としても知られる。嵯峨本を出版。
*服役 夫役(ぶやく)。
*稍稍 ようやく。
*易簀 学徳の高い人や高貴な人が死ぬことを敬っていうことば。
〔4.系譜〕
君、諱光好、字与七、後に了以と号す。姓源、城州嵯峨の人なり。系は宇多帝より出で、世よ江州に居し、佐佐木荘司と為り、後に別れて洛東吉田に居す。故に或いは佐佐木氏と曰ひ、或いは吉田氏と曰ふ。京師四隅に官倉有り。其の西の倉を隅倉と曰ふ。君五世の祖徳春、居を其の地に徙す。故に又隅倉氏とも曰ふ。徳春の子宗林、宗林の子宗忠、咸な富は巨万に累り、覇主足利氏に事ふ。宗忠の子宗桂、薙髪して医を学び、嘗て僧良策彦に随ひて明に之く。明人、之を意庵と号く。帰りて業益す進む。中村氏を娶り、君を生む。君長じて仕志有り。唯だ織田・豊臣両主に事ふるを欲せず、遂に神祖に謁す。最も水利に精し。凡そ君の疏し鑿つ所、畿内に鴨水・大井水有り、東海道に天流水・富士水有り。皆な万世の利と為らざる無きなり。後の水利を言ふ者、之を祖述す。
*佐佐木荘司 近江国佐々木荘の荘官。
*後別居洛東吉田 『寛政重脩諸家譜』巻第四百二十七の吉田氏の項によれば、近江国吉田荘の領有が名字の由来とし、現在こちらの方が通説。
*薙髪 剃髪して法体になること。
*良策彦 策彦周良(さくげんしゅうりょう、1501~79)。室町時代後期の禅僧。丹波の人。年少時から詩文で名をあげた。天文8年(1539)および同16年に明に渡る。
*大井水 大堰川。保津川や桂川とも呼ばれ、京都府南西部を流れる。
*天流水 天竜川。中部地方を流れる川。長野県の諏訪湖に発し、南流して伊那盆地を貫流し、静岡県磐田市で遠州灘に注ぐ。
*祖述 先人の説を受け継いで述べること。
〔5.建碑の経緯〕
寛政九年丁巳冬十有二月、石を立てて君の功績を勒み、信・甲・駿の民をして其の恵を忘ること無からしめんと欲し、甲州鰍沢の里魁、来りて余に辞を乞ふ。余、嘗て其の地に吏なればなり。銘に曰く、
〔6.銘〕
〇以下、二句ごとに改行。
濬哲なる了以、此の河瀕に下る。
水道を疏通し、𦴙民に賚ふ。
石に其の績を勒み、鰍沢の津に立つ。
万年に迄るまで、永く其の神を念へ。
東武藤原知𧋒書并に篆額
神慶雲刻字
*里魁 原義は里の長。ここでは鰍沢村の村役人。
*濬哲了以・・・ 一見して偶数句末字で韻を踏んだ四言詩のようだが、実際そのようには押韻されていない。第四句末以外は、すべて上平声十一真(瀕・津・神)。第四句末「矣」は、上声四紙。しばらく偶数句末押韻の四言詩にみなして、訓読・現代語訳を試みた。
*濬哲 深い知恵、すぐれた知識を持った人。
*下此河瀕 河瀕は、川のほとり。この句や序文によると、撰者は、了以が富士川を下りながら疎通工事を進めていったと考えているようである。しかし時代の近い「吉田了以碑銘」(『羅山林先生文集』所収)をよく読むと、逆に下流から上流に向かいながら工事が進められたと考えられる。
*賚 たまう。あたえる。
*𦴙民 民の上の字、難読。しばらく「𦴙」として翻刻した。この字は、黎と同字。「*黎民」参照。
*永念其神 神は、人のこころ。精神。この句は命令形で訓むのが適当と思われる。
*藤原知𧋒 知の下の字は、原文のままだと「虫」+「赤」つまり「𧋒」。これは、『康煕字典』によると「赨」と同字という。この人物来歴未詳。
画像








その他
補足
- 本資料はすでに多くの刊本に翻刻されている。2例挙げると、『甲斐勝記』に訓点付きで翻刻され(ただし全文ではない)、『鰍沢町誌』には訓読文に近いものが収載されている(ただし弊研究所の訓読文といくつか相違がある)。
- 本資料に関連する弊研究所作成データは下記の通り:
参考文献
- 『峡算須知』(寛政5年(1793)序、京都大学理学研究科数学教室所蔵、請求記号:和/こ/010)序文。
- 「口留御番所覚帳」に「寛政四」年付けで「小笠原仁右衛門手代 黒川宗八」とある(『甲斐叢書 第一巻』(甲斐叢書刊行会、1934年)411~3頁)。小笠原仁右衛門は、甲斐市川代官。
- 内野熊一郎『新釈漢文大系 四 孟子』(明治書院、2017年、初版1962年)434~5頁。
- 『羅山林先生文集』巻第四十三(早稲田大学図書館所蔵、請求記号:ヘ16/1533/17)五丁~九丁。京都史蹟会編『羅山林先生文集 巻二』(平安考古学会、1918年)65~8頁所収。
- 『康煕字典』艸部九画「𦴙」の項、および虫部七画「𧋒」の項(『康煕字典』(吉川弘文館、1909年)1079頁、1121頁)。
- 『鰍沢町誌』(鰍沢町、1959年)424~5頁。
- 西山是端編『甲斐勝記 附残簡甲斐風土記 巻一』(温故堂、1897年)三十九丁~四十一丁。
所在地
富士水碑
所在:
富士川右岸|山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢
アクセス:
JR東海 身延線 鰍沢口駅 下車 徒歩 約20分
富士川右岸に渡り下流方向へ。国道沿いにあり。
編集履歴
2023年12月26日 公開
2024年1月15日 小修正
