首級墳碑  - 関ケ原合戦 敗軍への慈しみ -

首級墳碑
概  要

徳川方・豊臣方の東西両軍が天下の覇権を争った関ケ原の戦い。その戦死者のしゅきゅう埋葬場所を示す碑である。西軍諸士の首は戦功認定のため実検じっけんされ、用済みになって棄てられた。それらを土着の人達が拾い集め埋葬したという。敗軍とはいえ丁重に遺体を扱ったのは、「じん」つまり慈しみの心が深かったからだと碑文撰者は評する。埋葬塚の存在が忘れられないようにと、約二百年後、関ケ原宿しゅくの役人の発意で側に建碑。戦跡に関わる近世造立の漢文石碑は、本碑以外当地にはない。関ケ原は、幕府成立を語る上で極めて重要な地域である。そんな有名戦跡の中に案内板のような本碑を建てたのは、ここが敗軍に関わる場所だからだと考えられる。敗者で、しかも無名の人々の痕跡が消え易いのは世の常である。勝者の徳川氏治世下にあって、西軍と系譜的に無関係な地元の住人が、あえて敗者に目を向け史跡を明示したところに本碑の特徴がある。

資料名 しゅきゅうふん
年 代 けい22年(1817)
所 在 「東首塚」敷地内|岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
 北緯35°21’50″ 東経136°28’05”
文化財指定 国指定史跡「関ケ原古戦場」(昭和6年3月30日指定)の附「東首塚」内に所在
資料種別 石碑
碑文類型 所在地説明
備 考 資料名は本文題による。上記年代は、書写年。
ID 0028_2402

目次

翻刻

  〇文中「神祖」はすべて二字台頭。
  級墳碑文        備藩 藤篤撰
造草昧之世、非有英傑之君起、荑凶賊、残去殺、厚施
義之教、俗成厚之習、則焉能致平矣。
神祖、(徳川家康)*興於東、及盛徳隆積、業弘広、人民和者、天下半、
君臣、岌乎、憂不有利於稷。於是相、相謀伐
神祖。慶長庚子(五年)歳、石田三成、帥諸将、向山東。
神祖発都、欲出防諸道中。乃帥大軍向西数日、与西軍遇於濃州。
乃通使、期日戦於原駅。西軍戈自攻、一戦而績。師散後、
神祖、設於帳、令諸将効虜、閲之。然後、〔斂〕首之棄者、若戦
死不知為誰之首委地者、葬之二。西軍士敵
神祖者、不為無罪。然犬吠尭者、各為其主、効死於義、豈悪之耶。〔斂〕
葬西軍之危授命者之首也、亦仁厚之俗所致、而
神祖之化也。宜乎、致昇平今矣。関原駅長古山某、恐其首級墳、
将来遇谷之変、而不知其所。於是、作一碑、建諸其側。亦可見
仁厚之遺俗、
神祖之化及。遠謁余録其梗概。於是為之記。

慶二十二年歳次丁丑小春下浣山姑蘇楊少谿書

現代語訳

〔1.関ケ原の戦い〕
  しゅきゅうふんぶん
(人が争乱にあけくれていて)世の中に秩序だったものが何もなく、まさに天が創造したままのような時代にあっては、(もしも)並外れた才知を持った英雄が現れ、凶悪な賊徒を一掃し、残虐な人に打ち勝ち、(民を教化して)死刑を用いなくてすむようにし、厚く礼や義(=道理にかなった行い)を教え諭し、いつくしみの心を習慣として人々に身に付けさせることができなければ、平和な世の中の実現などどうしてできようか。神君徳川家康公は、関東にて俄かに勢力を持つようになり、すばらしい人徳が高く積もり、帝王が行うような(すばらしい)事業が世の中に広く及ぶようになって、帰順する人民が天下の半分に及ぶようになった。すると大坂の君主(豊臣秀頼)と臣下達はあやうい状態となり、国家運営に有利でない状況を心配するようになった。そこで、かの公卿くぎょう(権中納言豊臣秀頼)は、神君を討伐しようと謀った。慶長5年(1600)、石田三成は諸将軍を率い関東に向かった。神君は、(籠城の選択をせず)江戸を発ち(みずから)出撃して彼らの進軍を道中にて防ごうとした。大軍を率い西に数日進軍すると、美濃で西軍と相対することとなった。そこで使者を通わせて開戦の日を決め、関ケ原宿あたりで合戦した。西軍の方では、ほこを後ろに倒し向けて味方を攻め出すものが現れ、一戦しただけで大敗してしまった。
〔2.土着住人による首級の埋葬〕
諸軍勢がいなくなったあと神君はあくをもうけ、打ち取った敵の首や捕虜を諸将軍に命じて持ってこさせ、これらを点検した。その後土着の人々は、それらの中で打ち捨てられてしまった首や、あるいは(西軍の武士で)戦死して誰なのかが判別できず(首実検に供されることなくそのまま)地に捨てられていた首を集めてきて、これらを葬った。西軍の武士のうち神君に敵対したものは、罪がないとはいえない。しかし、けつの犬がぎょうに吠え掛かるように、暴君の手下は聖天子でさえも乱暴を加えるのだから、(暴虐な)主人のために忠義をつくし死に至った彼ら(西軍の武士)を、どうして憎むことができようか。危急存亡の際に進んで命を投げ出した西軍武士の首を、土着の人達が集めてきて葬ったのは、彼らが習慣的に深い慈しみの心を持っていたからであるし、また神君の徳が及んだ結果である。(このように神君は徳のある人物だったのだから)今に至るまで平らかに世の中が治まっているのは、もっともなことである。
〔3.建碑の経緯〕
丘が谷になり谷が丘になるように、もし世の中が激しく移り変われば、首を葬った塚の所在が分からなくなってしまうのではないか    関ケ原宿役人の長・やま某はそのように恐れた。そのため一石の碑を造り、これをその傍らに建てることとした。このことは、慶長のころの土着の人々に習慣的に身に付いていた、かの慈しみの心を、こんにちの人々もまた持っているからであろうし、さらに、かの神君の徳がこんにちまで及んだからでもあろう。これらの概略を記して欲しいと遠くから私に求めてきた。そのため文章を作成したのである。
けい22年(1817)10月下旬 中国の楊しょう谿けいが書写した。

訓読文・註釈

〔1.関ケ原の戦い〕
  しゅきゅうふんぶん        備藩 近藤篤撰
天造てんぞう草昧そうまいの世に当り、英傑の君起ること有りて、きょうぞくさんし、ざんに勝ちさつを去り、厚く礼義の教へを施し、俗のじんこうの習ひを成すに非ざれば、則ちいずくんぞ能くしょうへいを致さんや。しん、東に勃興し、盛徳のたかく積り、大業のひろく広まり、人民の帰和きわする者、天下に居半きょはんするに及ぶや、はんの君臣、きゅうきゅうとして、しゃしょくに利有らざるを憂ふ。ここに於いてけいしょう、相い謀りて神祖をつ。慶長庚子かのえねの歳、石田三成、諸将をひきゐ、山東さんとうに向ふ。神祖、東都をち、出でてこれを道中に防がんと欲す。乃ち大軍を帥ゐ西に向ふこと数日にして、西軍と濃州にふ。乃ち使つかいを通じ、日を期して関原せきがはら駅に戦ふ。西軍、ほこを倒して自ら攻め、一戦にして敗績はいせきす。

〔2.土着民による首級の埋葬〕
いくさの散じし後、神祖、ちょうを設け、諸将をしてしゅりょいたさしめ、之をけみす。しかる後じん、其の首の棄てられし者、若しくは戦死して誰の首とすかを知らずして地にてられし者をあつめ、の二を葬る。西軍の士の、神祖にてきする者は、無罪らず。然るにけつの犬のぎょうに吠ゆる者の、おのおの其の主のめ、死を義にいたすは、に之をにくまんや。西軍の、危きに臨みて命をさずくる者の首を斂め葬るや、亦た仁厚の俗の致す所にして、神祖のなり。むべなるかな、昇平をじょこんに致すは。

〔3.建碑の経緯〕
関原駅のていちょうやま某、其の首級墳の、将来にりょうこくの変にひて、其の所を知られざるをおそる。是に於いて、一碑をし、これを其の側に建つ。亦た仁厚のぞく、神祖のの及ぶを見るべし。遠く余に其の梗概こうがいを録さんをふ。是に於いてこれが記を為す。

けい二十二年歳次ひのとのうししょうしゅんかん唐山とうさんしょう谿けい

*首級墳碑文 首級は、討ちとった敵の首。墳は、塚。碑は、文章を刻んだ石。文は、散文であることを示す。

*近藤篤 近藤西涯(1723~1807)。江戸時代中期~後期の儒者。名は篤。備前岡山藩の藩校教授。碑文によると書写年は清・嘉慶(かけい)22年(1817)なので、没年(1807)以前に碑文が撰述され、没後に書写、ついで建碑されたことがわかる。

*天造草昧之世 天造は、造物主が作ったもの。人造に対して、天然にできたもの。草昧は、物事の初めでまだ秩序だたないこと。徳川家康が覇者となり平和と秩序をもたらす前の戦国時代のことを、やや誇張してこう表現した。

*芟荑 原義は草を刈り除くことで、転じて乱賊などを平定すること。

*勝残去殺 残虐な行いをする人に打ち勝ち、死刑を用いなくてもよいようにすること。『論語』子路第十三「善人為邦百年、亦可以勝残去殺」に基づく。

*礼義 礼と義。

*仁厚 慈しみの心の深いこと。

*昇平 世の中が平和に治まっていること。

*神祖 徳川家康(1542~1616)。死去の翌年、東照大権現との神号を贈られる。

*勃興 にわかに勢いを得て盛んになること。

*大業 帝王の行なうべきしごと。帝王の事業。

*帰和 帰順というほどの意味と思われる。

*居半 半数を占める。

*阪都君臣 阪都は、大坂。大坂城を拠点としていた豊臣秀頼とその臣下。

*岌岌乎 危ないさま。

*社稷 文意やや難。(1)豊臣政権が、没後神となった豊臣秀吉の祭祀と権力を継承し国家を運営すること、(2)後世国の守り神となった徳川家康の二つの可能性があるが、ひとまず前者をとる。

*卿相 公卿。ここでは当時権中納言だった豊臣秀頼を指す。

*東都 江戸。

*関原駅 関ケ原宿。

*倒戈自攻 敵に内通して味方を攻めること。

*敗績 大敗する。

*武帳 語義未詳。ひとまず、帷幄(いあく)すなわち幕をはりめぐらした場所と解釈した。

*首虜 切り取った敵の首と捕虜。

*土人 その土地に生まれ住みついている人。土着の人。

*歛 字形が類似するが別字の「斂」として解釈した。斂は、集めるの意。

*桀犬吠尭 暴君たる桀(けつ)の飼う犬は主人に忠義だてして、聖天子たる尭(ぎょう)にすら吠えかかる(尭も桀も古代中国の伝説的人物)。悪人の手下が、相手かまわず乱暴すること。

*臨危授命 危急存亡の際、進んで命を投げ出す。

*如今 今。

*亭長 宿駅の役人の長。

*陵谷之変 丘が谷になり谷が丘にかわる。世の中の移り変わりが激しいことのたとえ。

*嘉慶二十二年歳次丁丑小春下浣 嘉慶は、中国・清の年号。清年号なのは書写者が清人のため。和暦では文化14年、西暦では1817年に相当。小春下浣は、10月の下旬。

*唐山姑蘇楊少谿 唐山は、中国。姑蘇は、中国の地名で江蘇省蘇州市あたり。楊少谿は、来舶清人(らいはくしんじん)と見られるが詳細な来歴未詳。

画像

全景
碑面上部
碑面上部・側面
碑面
石碑(写真右)と首塚(首級墳。写真左。玉垣に囲まれ大木のあるところ)
「東首塚」敷地入口

※撮影日はすべて2023年3月7日または2024年2月4日。

その他

補足

  • 本ページの概要や現代語訳は、現在通用している説明と異なるところがあります。ご留意ください。
  • 本資料はすでにいくつかの刊本に翻刻されている。二例挙げると『不破郡史 下巻』『岐阜県下碑文集 漢文之部』に訓点付きで翻刻されている(ただし弊研究所の訓読文といくつか相違がある)。

参考文献

  • 『不破郡史 下巻』(不破郡教育会、1927年)585~6頁。
  • 岐阜県師範学校編『岐阜県下碑文集 漢文之部』(岐阜県師範学校、1937年)12~3頁。
  • 『関ケ原町史 通史編 別巻』(関ケ原町、1993年)5~7頁ほか。

所在地

首級墳碑

所在
「東首塚」敷地内|岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原

アクセス
JR東海道線 関ヶ原駅 下車
徒歩 約5分
「東首塚」と書かれた門を入りすぐ

編集履歴

2024年2月8日 公開
2024年2月13日 小修正

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