江戸に甚大な被害を及ぼした安政2年(1855)大地震の横死者供養石塔の銘文。正面に南無阿弥陁仏と大書し、不慮に圧死・焼死した諸人亡霊が冥途で苦しまないよう仏の引接を期待する。背面には造立由来等が刻まれる。麻生の左官玖八(九八)が、亡霊を憐れむ心を起こして造立を企図し、宗教界の重鎮で浄土宗増上寺の住持冠誉が、企てを称賛して正面名号を書いた。撰文は同寺の学僧によるもので、不善な行いで地震が起きたなど、仏教的世界観や儒教的価値観を織り交ぜ記述。塔のある両国の回向院は、明暦江戸大火の死者供養のため創建された浄土宗寺院。造立は災害後わずか半年余りの時であり、被害の悲惨さはもとより、生者の死者に対する憐憫心、復興への期待感、宗教者の天災観等を窺いうる。
資料名 安政江戸地震 横死者供養名号塔造立記
年 代 安政3年(1856)
所 在 回向院|東京都墨田区両国二丁目
北緯35°41’36″ 東経139°47’32”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は碑文内容に基づく。本文題字は「為圧死人建仏名塔記」。
ID 0032_2403
翻刻
〇正面
南無阿弥陁仏 大僧正冠誉(花押影)
(方形印影)(方形印影)
〇背面
為圧死人建仏名塔記 縁山南溪 徹定譔
蓋聞、古者有災孽妖変、則民皆責躬謝過、以祈求福祉。是畏天之至情也。大雄氏曰、地下有風。
名為持風。随諸衆生行不善業因縁故、令地大動。其言博矣哉。客歳安政乙卯冬十月初二日
夜亥上刻、江都地大震、随発火。圧斃燔死者、以万数焉。実古今所未曽有之災也。粤有泥匠玖
八者。発惻怛之心、造仏名塔、欲以抜其冤苦。 縁山大僧正冠誉尊者、嘉其意、為之
題弥陁六字宝符。唯庶、掩骼埋胔之義、広通六道、救陥済溺之仁、洽洎四生、
皇図鞏固、重若泰山、国土豊饒、富如蒼海。因勒貞石、貽諸不朽云。
維時 縁山南溪 正道書
安政三年歳次丙辰夏五月 石井松鶴鐫
〇台座正面
□布左官若者
〇台座右側面
□□□□□
現代語訳
圧死人のため仏名を刻んだ塔を建てる記 三縁山増上寺南谷の徹定が撰した。
古代において、災いや怪異があれば、人々は皆自分を責めて過去を悔やんだり過ちを謝ったりし、そうして(天に対して)幸いを祈り求めた。恐らくはそのように(私は)聞いている。これは天を畏れる真心ゆえのものである。釈尊は次のようにおっしゃる。「大地の下には風がある。それは「持風」と名付けられている。諸々の衆生が不善な行いをする、その因縁によって大地を大きく動かすのだ」と。そのお言葉は、広く知られているだろう。去年安政2年(1855)冬10月2日亥上刻(午後9時20分頃)、江戸の地は大きく揺れ、そして火事が起こった。押しつぶされたり焼かれたりして亡くなった人は1万にも及ぶ。実に古今未曽有の災いである。さて、玖八(九八)という左官の男がいる。(死者を)傷みあわれむ心が起こり、(阿弥陀仏の)名号塔を造り(その功徳を死者に回向し阿弥陀仏の引接により浄土に生まれんことを期待して)、悪業をなさずして亡くなり苦しむ彼ら亡霊を救いたいと思った。増上寺大僧正冠誉さまは、その心をお誉めになり、(名号塔に刻字するための)「南無阿弥陀仏」六字のお札をお書きになった。ひたすらに願うことは、露わな骨に覆いをかぶせ腐敗した肉を埋葬するという(古代中国の礼制を記した『礼記』に見える)道理が、(人だけでなく)六道の衆生に対して広く用いられんことを。諸々の亡霊は穴にはまり水に溺れているだろうが、(生者が弥陀の名号を唱え回向することによって)そのような困難から救おうとする仁(思いやり)のこころを、あまねく四生に対して持たれんことを。(災害復興に関わる)天子のはかりごとが泰山のように重く堅固であり、国土が豊穣になり大海原のように広く富みさかえんことを。そのため堅い石に刻み、これを永遠に残そうというのである。
三縁山増上寺南谷の正道が書写した。
時に安政3年(1856)夏五月 石井松鶴が彫った。
訓読文・註釈
圧死人の為め仏名塔を建つる記 縁山南溪 徹定譔す
蓋し聞く、古は、災孽妖変有れば、則ち民は皆な躬を責めて過ちを謝し、以て福祉を祈り求むと。是れ天を畏るるの至情なり。大雄氏曰く、地下に風有り。名づけて持風と為す。諸衆生の不善業を行ずる因縁に随ふの故に、地をして大いに動かしむと。其の言、博きかな。客歳安政乙卯冬十月初二日夜亥上刻、江都の地、大いに震へ、随ひて火発る。圧し斃れ燔き死ぬ者、万を以て数ふ。実に古今未だ曽て有らざる所の災ひなり。粤に泥匠の玖八なる者有り。惻怛の心を発し、仏名塔を造り、以て其の冤苦より抜かんと欲す。縁山大僧正冠誉尊者、其の意を嘉し、之が為め弥陁六字の宝符を題す。唯だ庶はくは、骼を掩ひ胔を埋むるの義、広く六道に通じ、陥るを救ひ溺るるを済ふの仁、洽く四生に洎び、皇図の鞏固にして、重きこと泰山の若く、国土の豊饒にして、富むこと蒼海の如くあらんことを。因りて貞石に勒み、諸を不朽に貽さんと云ふ。
維れ時に 縁山南溪 正道書す
安政三年歳次丙辰夏五月 石井松鶴鐫る
*縁山南溪徹定 縁山は、江戸の三縁山増上寺のこと。南溪は、同寺の南谷のこと。徹定は、養鸕徹定(うがいてつじょう、1814~91)。江戸後期から明治前期の浄土宗僧。筑後の人。上洛して儒仏二道を学び、のち江戸に遊学。書画、詩文にも優れていた。
*古者・・・ このあたり明確な出典未詳。古代中国以来、天変地異は普通、災異思想により説明される。すなわち君主や為政者の徳の欠如を天が知らしたもので、徳の修養が求められる。ここではその主体が「民」となっている。
*災孽妖変 災孽は、わざわい。災害。妖変は、あやしい変事。怪異。
*責躬 身を責め、後悔する。
*福祉 幸福。さいわい。
*至情 まごころ。
*大雄氏曰・・・ 大雄氏は、釈尊。この部分は、『正法念処経』巻第十九「随諸衆生行不善業因縁故、令地大動。地下有風。名為持風。(中略)風持於水、水持於地。以風動故、大水則動。以水動故、大地則動」に拠る。同経はここで、風・水・地三者の関係性、ならびに地動と衆生の不善業との因果関係について述べている。
*持風 仏典『正法念処経』の世界観では、大地の下に水があって大地を支え持ち、水の下に風があって水を支え持っている。同経では、水を支え持つ風を「持風」と名付けている。「*大雄氏曰」参照。
*客歳 去年。
*江都 江戸。
*泥匠玖八 泥匠は、左官。玖八(九八)は、その名。当時多くの家屋が損壊・焼亡し、火に強い土壁の需要とそれによる所得は膨大なものになったと考えられる。造立の背景には、憐れみの心に加えて、このような資金的余裕があったと見られる。
*惻怛 いたみかなしむ。
*仏名塔 「南無阿弥陁仏」と刻んだ石造の仏塔のこと。
*冤苦 無実の罪で苦しむ。ここでは死者が、仏教的な罪業を行ったわけでもないのに、死後の世界で苦しむこと。
*縁山大僧正冠誉尊者 増上寺の第六十六世冠誉慧厳。尊者は、身分の尊い人。仏教界の高位にある人物なので、縁山の前に数字分欠字がある。
*宝符 お札。
*掩骼埋胔之義 骼は、ほね。胔は、腐った肉。掩骼埋胔とは、死体が露出していたら覆い隠したり埋葬したりすること。古代中国の礼制について記した『礼記』月令第六・孟春之月に記載がある。義は、他人に対して守るべき正しい道。道義。
*六道 すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す6つの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。仏語。なお補足参照。
*救陥済溺 直訳すれば、穴にはまったり水におぼれたりした者を助ける。ここでは、不慮に亡くなって死後の世界をさまよい困難な状況に陥っている霊魂を、生者が念仏などをして追善供養し阿弥陀如来に救い助けてもらうことと解釈した。
*四生 生物をその生まれ方から4種に分類したもの。胎生(人や獣など)、卵生(鳥類など)、湿気(虫類など)、化生の4種。
*皇図 天子のはかりごと。ここでは災害復興に関する為政者のはかりごとを指す。
*鞏固 かたく、丈夫なさま。
*泰山 中国山東省の泰安県の北にある、高く大きな山。
*豊饒 作物が豊かにみのること。
*蒼海 青々とした海。大海。
*貞石 堅い石。
*麻布左官若者 江戸麻布にあった左官集団の若衆。明治期、東京左官職組合の支部が麻布にあったことが知られる(『左官業組合七十年史』)。発起人の「玖八」も麻布左官の一人と考えられる。
画像
その他
補足
- 「掩骼埋胔之義、広通六道」について:
「掩骼埋胔」は、儒教的な価値観であって本来人間だけに適用されるものだが、ここでは「六道」にも適用されるのが望ましいと述べている。ゆえに人間だけでなく畜生の死体も丁寧な埋葬が望ましいというのが、撰者の価値観にはあると思われる。大災害発生から約半年しか経っておらず、埋葬されずに露出したままの人畜の遺骸が散見されていた当時の状況が、この記述の背景にあると考えられる。 - 本資料はすでに『回向院由来記』に翻刻されている。
- 写真撮影をする際、亡魂に対し敬意をもって行った。
- 安政年間(1854~60)頃には、巨大地震が何度か起こった。
参考文献
- 両国回向院編『回向院由来記』(回向院、1937年)83~4頁。
- 「三縁山志」巻十一(『浄土宗全書 第十九巻』(浄土宗開宗八百年記念慶讃準備局、1975年)541~3頁)。
- 「浄源脈譜」十八檀林第三・三縁山増上寺広度院(『同上』138~40頁)。
- 明治16年(1883)東京左官職組合申合規則第五条(左官業組合七十年史編纂委員編『左官業組合七十年史』(東京都左官工業協同組合、1951年)1~7頁)。
所在地
安政江戸地震 横死者供養名号塔造立記 地図
所在:
回向院|東京都墨田区両国二丁目
アクセス:
JR総武線・都営大江戸線 両国駅 下車 徒歩数分
回向院境内に入り本堂横にあり
編集履歴
2024年3月4日 公開