
近世中期、災害で困窮した人々を助けた「義人」の顕彰碑。秋の収穫を前にした天明3年(1783)晩夏、信濃・上野両国にそびえる浅間山が大噴火を起こした。大量の火山灰が近隣諸国に降り積り、冷夏も重なって大飢饉となったが、武蔵国葛飾郡の幸手宿(現埼玉県幸手市)周辺も例外ではなかった。この時、同宿と近村の住人21人が、金銭や穀物、粥を提供して人々を飢えから救い、代官から褒賞されるに至る。碑は、彼らを義人と称え、善行が広まって欲しいと刻む。宿の名主・知久文左衛門を発起人とし、当地の長老達の発意で造碑。噴火被害の甚大さや義人の善行を、碑は語り続けてきた。さて他史料を読んでみると、文左衛門は、私費で堤防を修理したり、水損した田地を復興したり、飢饉に際し米価の廉価販売を商人に促したりし、それらの功績で名字帯刀が認められ、勧善の者と評価されていることがわかる。碑文に明記はないが、彼自身も援助活動を行い、またかの義人達に困窮者支援を促したことは想像に難くない。本碑は、彼の地域社会に対する理想を、自身を前面に出さない形で、表出したものと考えられる。
資料名 義賑窮餓之碑
年 代 天明4年(1784)
所 在 正福寺|埼玉県幸手市北
北緯36°04’54″ 東経139°43’15”
文化財指定 埼玉県指定史跡「幸手義賑窮餓之碑」(昭和14年3月31日指定)
資料種別 石碑
碑文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は篆額による。上記年代は、撰文の年。
ID 0035_2403
翻刻
〇オモテ面
「義賑窮餓之碑」
天明三年歳在癸卯、太陽気微、夏多伏陰、□東郡国穀蔬皆不熟。加
之、七月之初、信毛之間、山冢発火、大崒崩。近帯之州雨焦沙、平地積
或至四五寸。野無□艸、至明年春、民大飢、餓莩相属。武州葛飾郡幸
手邑里、雖人人飢困、其未罄者二十一人、各出銭穀、義賑焉、民以得
活。管赤県府主事土屋貞栄、密聞諸府尹伊奈忠尊公、公大嘉之。越
閏正月辛未、檄義賑人及里正、召見于府、褒賞懇到焉。特賜宴於公
堂、終日尽歓而罷。自是遠近聞而興起、往往賑救者、蓋矜式于我也。
府公特賞吾党、亦以賑最先諸郡也。然麦未熟、窮餓未尽起、義人、又
作粥於里中満福寺養窮、以庶幾及麦之熟也。於是、飢民百千、群集
于寺中、以就口食。若斯者、殆七十日。至食新而止、以得窮餓再蘇矣。
夫惟隣里相保、聖教所垂、釜庾周急、吾土肇造。乃父老相謀、志諸石、
以詒永世、冀使後人知。斯里有仁厚之俗、而多義信之人云。其二十
一人姓名、録于碑陰。天明四年甲辰夏六月、東都松延年記。
〇ウラ面。上下二段に刻字。
「奉納弁財天」
荒宿町
針谷 作右衛門
長島屋 善六
仲町
中山 喜右衛門
鍋屋 伝右衛門
鍋屋 伝兵衛
鍋屋 与兵衛
鍋屋 八兵衛
鍋屋 喜兵衛
新井 源四郎
渡部 忠右衛門
三田 平蔵
釜屋 忠兵衛
満福寺現住秀詮
正福寺現住宜堅
久喜町
金子 伝左衛門
伊勢屋 宗兵衛
遠野屋 吉右衛門
高崎 忠蔵
堺屋 太兵衛
奈良屋 嘉右衛門
上高野
上野屋 弥右衛門
上野屋 藤右衛門
上野屋 喜藤次
〈粥所/世話人〉荒物屋嘉右衛門
発起里正知久景信
現代語訳
〔1.浅間山噴火の被害〕
「義の心で困窮人を救ったことを記す碑」
天明3年(1783)、太陽の勢いは弱かった。夏に寒い日が多く関東の諸国諸郡では、穀物も野菜もともに十分には実らなかった。それに加えて、7月の初めに信濃・上野の境界にある山(浅間山)の頂きが噴火し大きく崩れてしまった。近隣の国々には火山灰が降り、平地に4、5寸(約12~15センチメートル)にまで積もることもあった。野には青草など見えず、翌年の春になると(去年秋の収穫物が少ないので)人々の飢えは甚だしいものとなり、連なるように多くの餓死者が出た。
〔2.義人の賑救 関東郡代伊奈氏による褒賞〕
武蔵国葛飾郡幸手の村里の人々は飢えに苦しんでいた。ところが(食料や財産が)まだ尽きていない21人の人達が、おのおの銭や穀物を供出して、義賑すなわち義の心で彼らを助けた。そうして人々は生きながらえることができた。関東郡代の(本地域を管轄する)役人土屋貞栄は、長官の伊奈忠尊様へこのことを密かに申し上げたところ、伊奈様は大変お誉めになった。そののち閏正月15日、義賑の人達および幸手宿の名主に触文をつかわし、(江戸馬喰町にある関東郡代の)お役所に召して(伊奈様に)まみえさせた。とても丁寧で行き届いた褒美が与えられた。特別に伊奈様の邸宅で宴の席が設けられ、一日中存分に楽しみ尽くしそのまま閉会となった。これ以後、遠近の人々はこのことを聞いて心を奮い立たせ、おりおりに困窮者に施しを行い援助したが、それは(褒賞されたいわけではなく)慎みのこころで我々の行いを手本としたからであろう。さらに郡代伊奈様は我が故郷を特別に褒賞して、他の郡よりも災害援助を優先して行った。
〔3.再びの賑救〕
とはいえ麦がまだ十分には実っておらず、(人々は徐々に飢餓で苦しみ始めていたが)すべての人が飢餓で困窮する事態とはなっていなかった。それにも関わらず、かの義賑の人達は、幸手宿内の満福寺でお粥を焚いて再び困窮者を助け、そうして麦が十分に実る時を待ち望んだのだった。そのため、飢えに苦しむ人々が百人も千人も寺中に群集し、そうして食にありついて生きながらえることができた。このようなことは、ほぼ70日も続いた。(初夏となり)新麦が実り(神にお供えしたのち)これを食するに及んで終了した。飢えて苦しむ人々の命は、まさに消えようとするところでよみがえったのである。
〔4.建碑の経緯 -善行の顕彰・奨励-〕
ああ思うに、近所隣りを困窮させずに守るのは、聖人のお教えである。(また孔子が言うように)困っている人に少量であっても施しを与えることが、我が土地でなされたのは初めてのことだ。そのため、このような(すばらしい)事跡を石にしるして永久に残し、後代の人々に知ってもらいたいと(当地の)長老達は相談しあった。そのようにすれば、当地の人々は篤い仁(おもいやり、いつくしみ)の心を習慣的に身に付け、しかも義(道理)や信(誠実さ)を持つ人が多くなるであろう。以上のようなことを(長老達は、わたし松村梅岡に)言うのである。かの21人の姓名は、碑の後ろに記す。天明4年(1784)夏6月、江戸の松村梅岡が記した。
訓読文・註釈
〔1.浅間山噴火の被害〕
〇オモテ面
「義賑窮餓之碑」
天明三年歳在癸卯、太陽の気微かにして、夏、伏陰多く、山東の郡国に穀蔬皆な熟れず。加之、七月の初め、信毛の間、山冢火を発し、大いに崒崩す。近帯の州に焦沙雨り、平地に積ること四五寸に至る或り。野に青艸無く、明年の春に至りて、民大いに飢ゑ、餓莩相い属ぬ。
〔2.義人の賑救 関東郡代による褒賞〕
武州葛飾郡幸手邑里、人人飢ゑ困しむと雖も、其の未だ罄きざる者二十一人、各の銭穀を出して焉に義賑し、民以て活を得たり。管赤県府の主事土屋貞栄、密かに諸を府尹伊奈忠尊公に聞するに、公大いに之を嘉す。越て閏正月辛未、義賑の人及び里正に檄し、召して府に見えしめ、褒賞懇到たり。宴を公堂に特賜し、終日歓を尽して罷む。是より遠近聞きて興起し、往往に賑救するは、蓋し我に矜式すればなり。府公、特に吾が党を賞し、亦た以て賑ふこと最も諸郡より先ずるなり。
〔3.再びの賑救〕
然るに麦の未だ熟れず、窮餓の未だ尽くは起きざるに、義人、又た粥を里中満福寺に作り窮を養ひ、以て麦の熟るるに及ぶを庶幾ふなり。是に於いて、飢民百千、寺中に群集し、以て口食に就く。斯の若き者、殆ど七十日。新を食ふに至りて止め、以て窮餓の再蘇するを得たり。
〔4.建碑の経緯 -善行の顕彰と奨励-〕
夫れ惟ふに、隣里相い保つは、聖教の垂るる所にして、釜庾も急なるを周くするは、吾が土肇めて造すと。乃ち父老相い謀るに、諸を石に志し、以て永世に詒し、後人をして知らしめんを冀ふ。斯ち里には仁厚の俗有り、而も義信の人多からんと云ふ。其の二十一人の姓名、碑陰に録す。天明四年甲辰夏六月、東都松延年記す。
〇ウラ面
「弁財天に奉納す」
荒宿町
(中略)
仲町
(中略)
満福寺現住秀詮
正福寺現住宜堅
久喜町
(中略)
上高野
(後略)
*義賑窮餓 義賑は、義の心で救済する。義とは、他人に対して守るべき正しい道が原義。ここでは弱い者を助け危急を救う心。窮餓は、生活が困窮して飢えている人。
*伏陰 夏季、寒気がこもったままであること。
*山東 関東。
*穀蔬 穀物と野菜。
*信毛之間、山冢発火 信毛は、信濃国と上野国(現群馬県)。山冢は、山のいただき。発火は、噴火。信濃・上野両国にまたがる浅間山の噴火を指す。
*崒崩 くずれおちる。このあたり、『詩経』小雅・十月之交「百川沸騰、山冢崒崩」から表現を借りている。
*焦沙 火山灰。
*武州葛飾郡幸手邑里 当時の行政区分では、武蔵国葛飾郡の下に、諸村からなる幸手領(りょう)があり、幸手宿(現埼玉県幸手市中あたり)は幸手領に含まれていた。「幸手邑里」(邑里は、村落の意)を、幸手領とする解釈もあり得るが、後出の義人21人は、すべて幸手宿と隣村の住人なので、幸手宿とその周辺村落と解釈した。
*未罄者 罄は、なくなる。未罄者とは、つまり食料や財産が尽きていない人々。
*管赤県府主事土屋貞栄 赤県は、王城付近の県。ここでは、幕府の所在地江戸の周辺地域のこと。府は、役所。管赤県府は、赤県を管轄する役所のことで、関東郡代(かんとうぐんだい)のこと。関東郡代とは江戸幕府の職名ないし機関で、主に関東の幕府直轄領を支配した地方官。支配地に幸手宿も含まれる。近世中期まで伊奈氏の世襲。主事は、主としてそのことをつかさどる人。ここでは、関東郡代の配下にあって、幸手宿等を管轄した役人のこと。土屋貞栄は、未詳。
*府尹伊奈忠尊 府尹は、役所の長官。要するに関東郡代のこと。伊奈忠尊(1764~94)は、江戸時代中期の関東郡代。板倉勝澄の子で、のち伊奈忠敬の養子となり、安永7年(1778)郡代職を継承。
*里正 里長(さとおさ)。ここでは、幸手宿の名主(なぬし)。碑陰に刻む「里正知久景信」こと知久文左衛門が該当。
*府 役所。ここでは関東郡代の役宅のことで、江戸馬喰町にあった。
*懇到 ていねいでゆきとどいていること。
*尽歓 十分に楽しむ。
*興起 心を奮い立たせること。
*賑救 施し物をして、災害、貧困などから救うこと。
*矜式 つつしんで手本とすること。
*吾党 自分の故郷。なお「吾」は、撰者ではなく、当事者の幸手の人々からみた言い方。「我」も同様。この使い方は、碑文中一貫している。
*麦 麦は、およそ秋に蒔き翌年の初夏に収穫する。
*満福寺 幸手宿にある寺(現埼玉県幸手市中四丁目に所在)。真言宗。「*正福寺」も参照のこと。
*養窮 困窮者をたすけること。
*口食 生きていくための食物。
*七十日 麦の収穫が4月初旬とすれば(「*麦」参照)、この70日は、天明4年(1784)のおよそ閏1月下旬から3月下旬に当たる。
*食新 新穀(ここでは収穫された麦)を食べる。『礼記』少儀第十七「未嘗、不食新」(収穫のお祭りを済ませていなければ、新穀は食べない)を踏まえた表現。
*再蘇 死にかかっていた者がよみがえること。
*隣里相保、聖教所垂、釜庾周急、吾土肇造 前半8字の典故は、『論語』雍也第六「原思為之宰。与之粟九百、辞。子曰、毋。以与爾隣里郷党乎」と見られる(再考の余地はあり)。後半8字のうち、釜庾は、少しの量。周急は、危急を救う。吾土は、幸手宿を中心とする地域。典故は、『同』同「子華使於斉。冉子為其母請粟。子曰、与之釜。請益。曰与之庾。冉子与之粟五秉。子曰、赤之適斉也、乗肥馬、衣軽裘。吾聞之也。君子周急不継富」。
前半8字は、義人21人が天明4年初めに「銭穀」を供出し賑救したことに対応し、これを聖教(聖人の教え)に基づき称賛する。後半8字は、21人が、同年春に「粥」を施したことに対応し、同じように称賛する。前者が、困窮者に対する「銭穀」の供出、すなわち全面的な賑救だったのに対し、後者は、貧困者に対して急場しのぎの「粥」の提供、すなわち「銭穀」と比較して少量だが不可欠の支援であるという関係がある。
*父老 一村一郷のおもだった長老。
*義信 義と信。どちらも儒教の徳目。碑文内容に即すと、義は、弱い者を助け危急を救う心。信は、誠実のこと。
*東都松延年 東都は、江戸。松延年は、松村梅岡(ばいこう、1710~84)。江戸時代中期の儒者。江戸駒込に住んだ。名は延年。
*弁財天 本碑が当初建てられた場所と考えられるが、特定できない。『新編武蔵風土記稿』をめくると、幸手宿の北隣にある内国府間(うちごうま)村には「弁天社」があり、碑陰にも刻まれている正福寺の管理とされている。当初の建立地は、しばらく内国府間村の弁天社と考えておく。
*荒宿町 幸手宿を構成する町の一。日光街道沿いの「荒宿」信号機のあたり(幸手市北一丁目、北二丁目、中三丁目、中四丁目の境界)。
*仲町 幸手宿を構成する町の一。日光街道沿いで、荒宿町の南隣、久喜町の北隣。現幸手市中三丁目、中四丁目あたり。
*正福寺 武蔵国葛飾郡内国府間村の真言宗寺院(現幸手市北一丁目に所在)。同村は、幸手宿の北隣の村(現幸手市内国府間あたり)。幸手宿を北に延びる日光街道は、本寺の門前でやや東に折れ再び北上する。多くの末寺を有していたが、満福寺もその一つ。碑文に本寺の言及はなく、碑陰に刻まれた理由は、粥施行の場を提供した満福寺の本寺として顕彰するためと見られる。当初碑は「弁財天」に造立されたが、現在は本寺境内に立つ。
*久喜町 幸手宿を構成する町の一。日光街道沿いで、仲町の南隣。現幸手市中一丁目、中二丁目あたり。
*上高野 武蔵国葛飾郡の上高野村。幸手宿の南隣。日光街道が通り幸手宿へ接続する。現幸手市上高野あたり。
画像








その他
補足
- 本碑造立の発起人で幸手宿名主の知久景信こと文左衛門の事跡が、『新編武蔵風土記稿』に記されている。合わせてご参照下さい。
- 本碑文はすでに『事実文編』に収載され、また『埼玉県史』に訓点付きで翻刻され、『加須市史』に訓読がなされている(いずれも全文ではない)。判読困難な箇所は、これらを参考とした。
- 本資料に関係する石碑類は下記の通り:
参考文献
- 『事実文編』次編十一「武州幸亭義賑窮餓碑」(『事実文編 第五』(国書刊行会、1911年)109頁)。
- 『埼玉県史 第六巻』(埼玉県、1937年)336頁。
- 『加須市史 通史編』(加須市、1981年)409~10頁。
- 『近代陰陽暦対照表』(外務省大臣官房文書課外交文書編纂室、1951年序)84~5頁。
- 『礼記』少儀第十七(『新釈漢文大系 第28巻 礼記中』(明治書院、1975年)532~3頁)。
- 『論語』雍也第六(『新釈漢文大系 第1巻 論語』(明治書院、1960年)129~30頁)。
- 後上辰雄編『幸手町誌』(国書刊行会、1982年)208~9頁、付録地図「幸手町略図」。
- 『新編武蔵風土記稿』巻之三十五「幸手宿」「上高野村」、巻之三十七「内国府間村」(蘆田伊人編『大日本地誌大系 新編武蔵国風土記稿 弐』(雄山閣、1929年)181~6頁、211~2頁)。
所在地
義賑窮餓之碑 および碑文関連地 地図
所在:
正福寺|埼玉県幸手市北
アクセス:
東武日光線 幸手駅 下車 徒歩 約15分
正福寺境内に入り右手にあり
編集履歴
2024年3月21日 公開
2024年4月10日 小修正
