刀祢上流以南修治告成碑(寛保治水碑) -武州の水害 長州の奮闘-

刀祢上流以南修治告成碑(寛保治水碑)
概  要

 がわ沿岸とその近辺における治水工事の記念碑。寛保2年(1742)、江戸と周辺諸国は大洪水に見舞われ甚大な被害があった。同年、幕府は復旧の大工事を企図して諸藩に命じたが、はるか遠方の長州藩もその一藩だった。同藩は、1700人余りもの人員を臨時に編成して派遣。5ヶ月にわたり工事任務についた。他郷での治水工事は、技術的な問題とは別に様々な困難が生じる。隣接地で工事する他藩との調整や、広大な工事範囲での宿営地の移動はもとより、人夫・材料・工期の見積りと幕府による裁可、実績確認のため絶えず訪れる幕府使者への応接などが必要だった。さらに、生活に困窮する被災住人を救うため、若年男性ばかりでなく、性別老若問わず人夫に雇い対価を払い続けた。こうした困難はあったが、藩側に病人や障害者は出ず翌年竣功に至る。
 この快挙には、当地に鎮座する鷲宮わしのみやの神による助力があったと考え、神へ完工報告と報謝をするとともに、顛末を石に刻んで永遠に残そうと、工事役人の発意で神殿前に奉建。題は「碑」とあるが、実際には石灯籠の竿さお部に刻字したもの。

 撰文者は、当代の高名な儒学者・服部南郭なんかく。一句の例外もないほど中国古典に基づく文章表現がなされており難解。記録文としての具体性が損なわれてもいるが、他方文学作品として高い品格を感じさせる。延べ百万人余りも要した大工事の困難さは十二分に読者に伝わり、記念碑を造ろうとした気持ちに誰もが共感するだろう。
 自身の領地領民には全く利益がないにも関わらず、大規模長期工事を成し得た理由の一つとして、幕府によるみんの徳政を、自分達も体現できたからだと碑文は述べる。そこに長州藩士の、せいの側に立つ者としての誇りが垣間見え、さすがに読者を感歎させずにはおかない。大水害と大治水工事、およびその労苦が高格な銘文から知られ、また当該地に石造物として立ち続けており、当地における文化財としての価値は高い。

資料名 刀祢とね上流なんしゅうこくせい
年 代 寛保3年(1743)
所 在 鷲宮神社|埼玉県久喜市鷲宮
 北緯36°05’59″ 東経139°39’18”
文化財指定 埼玉県指定史跡「寛保治水碑」(昭和3年3月31日指定)
資料種別 石灯籠の竿部銘文
銘文類型 事業達成(治水)
備 考 資料名は本文題による。追刻が疑われる部分がある。
ID 0036_2404

目次

翻刻

  〇正面
奉寄進
 石灯臺一基
毛利筑後藤原広定
清水長左衛門平元周
末国与左衛門平胤昌
児玉市之助藤原種記
井上半兵衛源光以
小笠原仁左衛門源長道
阪九郞左衛門大江時存
周田孫兵衛越智亮由
山県市郞兵衛藤原直勝
粟屋五郞兵衛源応勝
南方又八郞源親之
楢崎弾右衛門藤原豊信
吉田八右衛門藤原利〔澄ヵ〕
  〇左側面
祢上流以南修治告成碑
寛保二年秋八月、東都近帯諸州水。水溢自信毛諸山、而上毛武総下流受、極于
海、至之江東、水留旬有数日。淫尤甚者、自漂溺外、居民失業、殣相望。廷既乃
恤之、大発廩、給焉。既而以其水道塞、堤決堰潰、田卒萊、其冬又下命、大興役
修治焉。官給材、属役大小諸侯。則統政府遙制、農法司・監司・使者若干、臨以董事。
蓋大役云。長門侯*(毛利宗広)、以大国在関西、受其之一。於是、使大夫広定(毛利)植、率臣諸有司若干、
隷輿臺及私従者、合千七百餘人而東。乃到所分地、居于野本末数所、以視作治。自
冬十一月始、踰年至今年春三月、凡五閲月、竣事績。朝賜服、視事国臣十三人
服・白金、各有差。長門阪時存、自役帰、喬曰、(服部南郭)「此役也、諸臣者発也、君命戒固已若曰、
慎爾事。有不共。以従書、若我疆之事。則民唯朝夕是聴不惑、乃有司者、左
右手指相使而已。恤焉。今承朝命、乃使各庀奔問官守。既又出竟、越在千里之外、事雖
盬、非復吾所能及也。亦唯必体朝家恤下之徳意、従事焉。庶乎其可也』。吾諸臣者、既奉
。乃至則土方、議遠邇、度厚薄、仞溝洫。与我封疆異也、則与他諸大国同在事人士、
  〇背面
截然画地而守焉。而壌実相属、水実相承、固亦不可謂彼一此、吾何知之。則李往来、
不得不数以相諮詢。与我封疆異也、諸使者、蓋相望於路、旦夕迎唯謹。与我封疆
異也、其功也、自溝徂瀆、自原徂湿。即所廬、随其徙、東西無常居。居則纍・幄幕・
干掫・焚燎、不得不備夕之衛。行則輿馬・僕隷・芻米・屝屨、不得不具一日之積。与我封疆
異也、筊薪石、給県官、亦唯期財用、毎以待成命。則徒庸、称畚築、非吾之素。与我
封疆異也、大水之後、猶夫婦墊〔隘ヵ〕。乃一僦其土為役夫。而壮者固已随功与賈、而且
承朝家亟矜無資之旨、使有〔数ヵ〕月之食以麦禾。自窮民始、則至于老幼婦女、
尤甚。不問弱、一充運土、乃朝〔荷ヵ〕簣、暮与数銭。於是、夕下来、則纍携負至者百千、
成群於、有司簿正称事、授与不勝。唯不均是懼。与我封疆異也、有是数者而加之上下
千餘人、前後五閲月、日在野、不遑生毛、固亦不無膇疾疫之虞。是以吾諸臣者、日
思、若不寧。唯是頼有寡君之教、与三大夫之慎、終亦無有一事之、無有一〔隷ヵ〕
之病。然相勧、乃得以竣事。而承国家之大役、尚亦辞於反命、不亦天眷顧所及
乎。因相謀、是宜以告成而帰。而有宮之祠在其地。蓋典所命也。聴輿人之謀曰、
  〇右側面
『何必他営』。於是、俱就再拝稽首曰、『臣長門宗広(毛利)、受朝命奉役、其臣広定及某甲等、実
先後之、乃以明、今既集大事、無作神羞。敢告』。既以告矣。願復具其始末、勒碑鷲宮、以
貽永世」。喬乃承其所属、為記如是。凡長門所受役刀祢上流以南、而北尽其。水自西而
東。則其地上自武之玉郡久久宇、並水下、至州之玉郡間口十五里。而又自間口、
至羽生・騎西之地、界糟壁駅、南坼出五里、南北亘遠者十里餘。在西上、則自州之
沢郡横瀬、毛新田郡前小屋六里。其次自州之羅郡江原、迤至之俵瀬五里。
今一里、十古制之里。則西大率二百里、南北五六十里、若八九十里。堤壌修補、小者百
餘所。大決者、雖繕補、客土更築、率長八九十、横三四十堵、用夫十五六万。淩澮九十
餘所。在羽生、為大渠。而長三里、用夫十一万。在騎西、渠益大。実祢故道、而所浚三里餘、
用夫三十万。其他防・陂足・薪石・竹落之功、大小七百餘所。凡用夫百万餘云。自国臣有
司視事者十三人、至所属士、凡百四十七人、私従八百十人、隷以下七百五十人、合千
七百七人。其十三人姓名別具。寛保三年夏五月服元喬(服部南郭)謹記
                        長州学士津田泰之謹書

現代語訳

〔1.関東の洪水〕
利根川上流南側の地を修治し(鷲宮の神に)竣功を告げたことを記した碑
寛保2年(1742)秋8月、江戸の周辺諸国に洪水があった。信濃・上野こうづけ下野しもつけの諸山から川水があふれでて、下流域の上野・武蔵・下総しもうさが水害を被った。(流水は)沿岸域にあまねく流れわたり、都(江戸)の隅田川東側にも至って10日余りも水が引かなかった。浸水による被害で最も重大なのは、溺死を除くと、住民が生業を失い道々に行き倒れになることである。遺体はあちらこちらで見られた。幕府は、彼らに哀れみの心を寄せ、(命を下し)まもなく大々的に穀物倉庫を開き、彼らに施し与えて生活を助けようとした。
〔2.長州藩に治水を命ず〕
諸川の河道はふさがって通じておらず、また堤が切れていたりせきが破損していたりし、どこもかしこも田地に水がたまり草が生い茂って荒廃していた。そのため同年の冬、さらに命令を下し、大工事を行わせてこれらを修繕することとした。幕府は、大小の諸大名に工事作業を請け負わせ、費用・材料は支給することとした(いわゆる御手伝おてつだい普請ぶしん)。幕府は、遠隔から統制して(彼らの工事を)監督するため、農政司法官(勘定奉行ヵ)・監察官(付方つけかたヵ)・使者若干に担当させ、修繕工事に問題がないかチェックさせた。(諸大名に全任せず幕府が監督するとしたのは)恐らく大工事だからだと言われている。長門ながとこう(長州藩主毛利宗広)は、西の方に大国を有していたので、(幕令により)その一部を受け持った。
〔3.大治水部隊の派遣〕
そこで、その家老毛利広定を工事総責任者とし、藩士の諸役人数人、下級藩士、召使い、(藩士の)私的従者合わせて1700人余りをひきいて東におもむかせた。そして担当配分された地に至り、本部と支部数箇所の仮設住居を野原にかまえて工事を指揮した。冬11月に開始し、年をまたいで今年春3月に至り、総計5ヶ月を要した工事を完遂して成果を(幕府に)献じた(=工事箇所を引き渡した)。幕府は(藩主毛利宗広に)高貴な服を賜い、工事を指揮した藩士13人に、(立場・成果を勘案し)相応の衣服・銀を賜った。長門のさか時存は、工事から帰ってきて私服部南郭に次のように言う。
〔4.藩主の訓示〕
「この工事では、私どもの主君は、我々臣下達の出発に当たり最早言うまでもないといった様子で訓示を申された。
『お前たちよ、行動や言葉に気をつけなさい。(幕臣や諸大名家臣に対して)不敬があってはいけない。我が領国で工事を行う時のように、(幕府からの)命令文書を遵守しなさい。(工事に動員する)現地住民達が朝夕に(お前たちに)敬意を払い、彼らが(命令を)聞いて疑惑するようなことがなければ、(お前たち)派遣役人は(住人達を)左右の指だけで動かすことができよう。(いつでも良好な関係が保てるように住民達を)慈しまないでよいことがあろうか。今や幕命を拝受し、(臨時の派遣役人および組織を)整え、幕府の担当役人方に速やかにお伺いをして指図を受けさせようとしている。やがて国境を出て行き千里の彼方にあれば、(幕府の修繕)事業が長く続いて終わらない(そして故郷への思いを増し心を傷ませる)ことがあるかもしれない。しかしそうなったとしても、私の力ではどうすることもできないのだ。(幕府がこのような事業を行うのは、我が藩に悪意があるわけではなく)下民をあわれむという、有徳の精神に基づいている。この精神を共有し、事業に尽力しなさい。そうあることを願っている』
我々臣下達は訓示を奉じ、諸旗の指揮のもと進発した。
〔5.遠方工事の難しさ 前半〕
到着すると、土石を取る場所やそこまでの距離を調査し、(堤防の)厚さを測量し、(灌漑水路の)溝をどれくらい深くするかを決めた。我々の領地と異なることとして、次のようなものがある。同じように事業に携わっている諸大国の藩士とともに、はっきりと(作業の)土地(や河川)を分割して各々治めるわけだが、大地は実際続いているし、河川は各々の流水を確かに受け継ぎ流していく。だから、あそこからは彼の藩、ここからは我が藩の工事領域で、自分以外のことを知る必要がないなどとは、そもそも言っていられないのである。そのため使者が彼我を往来し、しばしば相談せざるを得なかった。我々の領地と異なることとして、次のようなものがある。幕府諸役所の使者の往来は激しく、ひたすら謹みの心で朝夕お出迎えして接待した。我々の領地と異なることとして、次のようなものがある。溝からドブへ、また草原から湿原へというように、(いかなるところへも幕府使者は)土木工事の進捗や成果を巡視しにきた。だから修繕・しゅんせつの箇所に応じて仮住居を移さざるを得ず、東西にわたり常居できる場所などなかった。仮住居を定めれば、竹を重ねて囲いをつくり、幕を張りめぐらして境界とし、薪を焚いたり夜回りしたりして、警備をおろそかにするなど一晩もあり得なかった。輿こしや馬、(力仕事のための)下部の男達、人馬の食料、草履などの履き物、これらは移動するとなれば、一日として欠けてはならなかった。我々の領地と異なることとして、次のようなものがある。(川を堰き止めるための)しがらみ、(堤防を造成するための)竹や木や石は、幕府にその支給を請い求めるし、さらに完成工期の見積もりや必要材料の算定まで、常に裁可を待たなければならない。工事の必要人数や、はんちく(土を突き固めること)の労働力を見積もるということを、我々は常日ごろ行うわけではない。
〔6.遠方工事の難しさ 後半〕
我々の領地と異なることとして、次のようなものがある。大洪水の後の住民はというと、(収穫の喜びを得られず、神祇の祭祀も続けられず、苦しみを訴えるところとてなく)夫婦ともども疲れ苦しんでいた。(生活の糧を得させようと)土地の人々を一様に雇傭し人夫とした。言うまでもなく働きざかりの若者は、労働の成果に応じて(生きていくのに十分な)標準的な労賃を与えることができる。そうしてしばらくの間、幕府による困窮者救急の思し召しを謹んで承ることで、数ヶ月にわたって食料を得られ、麦や稲(の収穫の季節)に至ることができるのだ。(ところが)困窮した人はもとより老人・子供・女性については、(若者と同様の労働力は望めず雇傭するのは普通困難で)哀れなことこの上ない。(そのため)衰えた人も弱い人も関係なく、一様に土砂運搬の仕事を割り当てることとし、朝には一荷のもっこ●●●を担わせ、暮には数銭を支払った。そのため、(一日の労働を終え牛が牛舎に帰ってくるような)夕暮れ時になると、工事道具を担った百千もの人々が続々と(臨時設置の)役所に群集する。役人は帳簿を用いて(労働量を)集計するが、たとえ(当人に相応しい能率の)仕事ができていたとしても、支払い額は(必ずしも)多いわけではない。それはただ不公平であることを恐れたためである。我々の領地と異なることとして、次のようなものがある。(役人の)数に入る者とこれらに加わるものと上下総勢千人余りは、前後5ヶ月のあいだ来る日も来る日も広々とした野原にいたので、(古代中国の伝説的人物が治水に従事している時にそうであったように)脛に毛が生えるほどの余裕もなく、そもそも足が故障したり体が病気になったりする危険もないわけではなかった。そのため我々臣下達は、(最良の方策を)日夜つとめて熟考し、あやぶみ恐れる気持ちで落ち着いてなどいられなかった。ただ、私どもの主君の教訓と、「二三大夫」の慎みとを心の拠り所とし、身体障害を伴うケガは終に一件も無かったし、病気になった下部は一人もいなかった。(憂いの感情は現れず)喜びながら勤め上げ、そうして竣功することができた。
〔7.土地神への竣工報告〕
国家の大役を謹んで承り、さらにまた(それに死することなく竣功についての)復命の言葉を述べるにまで至ることができたのは、天の神様が愛護して下さったからではないだろうか。そのため皆で相談すると、
『祭壇を設けて竣功(とその感謝)を告げて帰郷するのが良い』
ということになった。さてこの地に鷲宮わしのみやという神のお社がある。(鷲宮は)恐らく国の祭祀対象の神々を列記した「えんしきじんみょうちょう」に載っており、(祭祀すべきことが)規定されている神社であろう。衆人の意見を聞くと、
『どうして他所にて営むことがあろうか』
という。そこで皆で再拝敬礼をなし次のように申し上げた。
『弊臣長門の毛利宗広は、幕命を承りお役を務め申し上げ、我が家臣の役人毛利広定ならびに某某達は、私の先となり後となって補佐しました。天の明らかな道にのっとり、今まさに大事業を成就させて下さり、神様をはずかしめることはありませんでした。(そのことを今ここに)あえて告げさせていただきます』
〔8.建碑の経緯〕
(我々はこのように神に対して)すでに(報謝の)言葉を申し上げた。願わくは、この顛末を具体的に文章化し、鷲宮にて碑に刻み、永遠に残し伝えていきたく思う」。
私南郭はこの求めを承り、そのため以上のように記してきたわけである。
〔9.実績〕
おおよそ長門侯が工事の割り当てを受けた「利根川上流の南」というのは、その北限は川の岸(右岸)である。利根川は、西から東へと流れていく。その工事地の上流部分は、武蔵国だま久久宇くぐう村から始まり、川の流れと並行して下っていき、同国埼玉さいたまくち村に至る15里(約59キロメートル)だった。そしてくち村から、羽生はにゅうりょう西さいりょうの地に分かれて至った。(羽生・騎西両工事地の境界は)粕壁かすかべ宿しゅくまで斜めに(=東南方向に)引いたものである。東南に分かれて進むこと5里(約20キロメートル)、南北に遠くまで進むこと10里(約39キロメートル)余りだった。西の上流方面では、同国榛沢はんざわよこ村より曲がりくねりながら上野国新田にったまえ小屋ごや村に至るまで6里(約23キロメートル)だった。その次は、武蔵国ばら村より曲がりくねりながら同郡たわら村に至るまで5里だった。今の1里は、古制の1里の10倍である。(古制で表示すると)東西におおよそ200里(約78キロメートル)、南北に5、60里(約20~23キロメートル)あるいは8、90里(約31~35キロメートル)である。堤防土の修繕は、小さなものが100余ヶ所。大きく決壊したところは、繕って修造したが、さらに他所から運んだ土を築いた。それは、おおよそ長さが8、90(約1200~1400メートル)、横方向に3、40堵(約450~600メートル)、人夫(延べ)15、6万人だった。90ヶ所余りの水路を浚渫した。羽生領においては、大きな水路を造った。すなわち長さが3里(約12キロメートル)、人夫(延べ)11万人。騎西領においては、(造設した)水路はさらに大きかった。古利根川の浚渫は、距離にして実に3里余り、人夫(延べ)30万人だった。その他、堤防や陂足、(堤防造設のための)木材・石材、じゃかごは、大小700ヶ所の実績があった。総じて人夫は(延べ)100万人余りという。役人として工事を指揮する家臣13人から、彼らに所属する藩士まで合わせて147人、私従者810人、下部以下750人、総計1707人。その13人の姓名は、別に詳らかにする。寛保3年夏5月、平安の服部南郭が謹んで記した。
       長州学士の津田泰之が謹んで書写した。

訓読文・註釈

〔1.関東の洪水〕
刀祢とね上流なんしゅうこくせい
かんぽう二年秋八月、とう近帯きんたいの諸州、大水たいすいあり。水、しんもうの諸山より衍溢えんいつし、しこうしてじょうもうそうの下流を受け、ひんかいきわまりて、都の江東こうとうに至り、水の留まることしゅんゆう数日すうじつ浸淫しんいんもっとも甚しきは、ひょうできよりのほかきょみんなりわいを失ひ、道にきんして相いのぞむ。朝廷、既にすなわち之をびんじゅつし、大いに倉廩そうりんひらき、これしんきゅうす。

※『春秋左氏伝』は『左伝』と略す。

*刀祢上流以南修治告成 「刀祢上流」は、利根川上流部。同川は、関東地方を西北から南東流する川。千葉県銚子市で太平洋に注ぐ。かつては武蔵国埼玉郡佐波村(現埼玉県加須市佐波)あたりから南流し東京湾に注いでいたが、氾濫被害の軽減のため、元和7年から承応3年(1621~54)の本格的な治水工事で同村あたりから東に行く流路ができ、およそ現在の流路となった。もとの流路は、古利根川と呼ばれる。ここでいう「上流」は、同国児玉郡久久宇村(現本庄市久々宇)から、佐波村あたりを指しているらしい。「以南」は、同川の南岸(右岸)および南部の地域。「修治」は、つくろってなおすこと。「告成」は、完成を報告すること。具体的には鷲宮の神に報告すること。

*大水 洪水。

*衍溢 いっぱいであふれる。

*甾 わざわい。

*瀕海 海辺に面したあたり。

*都之江東 江戸隅田川の東岸地域。

*浸淫 しだいにしみこむこと。

*道殣相望 殣は、行き倒れる。行き倒れて亡くなった者が次々に見えるということ。『左伝』昭公三年「道殣相望」。

*朝廷 江戸幕府。京都朝廷ではない。以降の「朝」「朝命」「朝家」も、同様。

*憫恤 あわれみを施すこと。

*倉廩 米や穀物類を納めておく倉。

*賑給 困窮民に施し与えて生活を助けること。

〔2.長州藩に治水を命ず〕
既にして其の水道の堙塞いんそくし、つつみ決しせきつぶれ、田のことごとらいするを以て、其の冬も又た命を下し、大いにえきおこし焉をしゅうせしむ。県官けんかんざいきゅうし、役を大小諸侯にしょくす。とくは則ち政府にべられてようせいし、典農てんのうほうかん・使者若干、臨み以て事をただす。けだし大役なればなりとふ。長門ながとこう、大国の関西かんせいに在るを以て、其の一をく。

*堙塞 ふさがって通じない。

*汚萊 汚は、低い所に水がたまること、莱は、高い所に草がしげることで、要するに土地が荒れはてること。

*県官 幕府のこと。

*督則統政府遙制 解釈難。「統」は統制されるの意、「政府」はいわゆる政府の意で幕府のこと、「遙制」は遠くから制御する意とみられる。

*典農法司・監司・使者若干 解釈難。「典農」は農政官の意、「法司」は司法官の意と見られる。「典農法司」に該当するのは、租税徴収・検地などの民政および民事刑事訴訟などの司法を管轄していた勘定奉行か。勘定奉行は、本治水事業に関わっていた(「田口家文書」)。「監司」は、監督官の意で、幕府の目付方か。佐々源左衛門・中山五郎左衛門が、それに該当すると考えられる(「同文書」)。「使者」は、目付に統轄され「見廻り御用」を臨時に命ぜられた加藤左兵衛以下十数人の人々か(「同文書」)。

*長門侯 長州藩藩主の毛利宗広(1717~51)。

〔3.大治水部隊の派遣〕
ここに於いて、たい広定をしてし、国臣諸ゆう若干、僕隷ぼくれい輿だい及びじゅう、合せて千七百餘人をひきゐてひがしせしむ。乃ちくる所の地に到り、居を野にすること本末数所、以てさくる。冬十一月より始め、年をえ今年春三月に至り、およたび月をけみし、事をへてせきたてまつる。ちょう侯服こうふくたまひ、事を視る国臣十三人にふく白金はっきんきゅうすること、おのおの差有り。長門さか時存、役より帰り、きょうひて曰く、

*為植 植は、工事の監督者。普請奉行。同時代の行政文書上の表現は「在国惣奉行」(「鷲宮神社文書」)。『左伝』宣公二年「宋城、華元為植巡功」に基づく表現。

*国臣諸有司 国臣は、長門国の臣、つまり長州藩の家臣のこと。有司は、その職を行なうべき官司。同時代の行政文書上の表現では「役人」(「鷲宮神社文書」)。

*僕隷輿台 僕隷は、下部。下男。輿台は、召使。身分の低い家臣。

*廬居 仮の住居。

*上績 功績をたてまつる。つまり治水工事を完了して現場を幕府に引き渡すこと。

*侯服 高貴な衣服。『漢書』叙伝第七十下「侯服玉食」。

*及 給与の意と見られる。

*時服・白金 時服は、四季それぞれの時候に着る衣服。白金は、銀。ここでは銀銭のこと。

*喬 服部南郭(1683~1759)。江戸中期の儒者、詩人。京都の人。名は元喬(もとたか)。初め江戸で柳沢吉保に歌人として召され、次いで荻生徂徠に漢学を学び、のち家塾を江戸に開いて子弟を教授。吉保没後、享保3年(1718)に主家を離れ、文雅の生活に一生を終えた。

〔4.藩主の訓示〕
  〇以後、発言引用のたびに適宜改行。
「此の役や、吾が諸臣のものの発するや、くん命戒めいかいするにじゃくとして曰く、
『各のなんじを慎め。きょう有ることなかれ。以てかんしょに従ふこと、我がほうきょうの事のごとくせよ。則ち民はだ朝夕にうやまひ、其の聴きてまどはざれば、乃ち有司の者、左右のしゅに相い使ふのみ。なんこれあわれまん。今ちょうめいうけたまわり、乃ちおのおのをしてそなへ、はしりてかんしゅに問はしむ。既にきょうで、越へて千里の外に在れば、事のむことしといえども、た吾のく及ぶ所にあらざるなり。た唯だ必ずちょうじゅつとくていし、事にしたがへ。其のならんをこいねがふなり』と。
吾が諸臣の者、既にしてうけたまわり以てせんす。

*吾諸臣者 「臣」は、厳密にいえば名詞でなく動詞。「臣者」は、「(主に)つかえるもの」という意。生者や使者と同様の漢文表現。古典中の類似表現として、『論語』季氏第十六「冉有曰、夫子欲之。吾二臣者、皆不欲也」。

*寡君命戒固已若 寡君は、自国の君主を謙遜していうことば。命戒は、命令や教戒。『孟子』滕文公章句上「五月居廬、未有命戒」。固已若の解釈やや難。ここでの若の機能は、然と同じように(例えば自然・固然・已然など)、語尾について状態をあらわす語をつくると見られる(例えば自若)。「固已」に「若」がついたものと考えられる。固は、いうまでもなくの意。已は、まぎれもなく。固已若は、もはやいうまでもないといった様子で。

*各慎爾事 『列子』説符第八「慎爾言。将有和之。慎爾行。将有随之」に基づく表現と見られる。

*罔有不共 共は恭の意で、罔有不共は、(幕府などに)不敬があってはいけない。

*簡書 幕府からの命令文書の意と見られる。

*封疆 将軍から封ぜられた領地。

*共 恭と同義。

*其聴不惑 民が上の命令を聞いて疑惑するところがない。『左伝』僖公二十七年「民聴不惑、而後用之」に基づく。

*奚恤焉 奚は、「不」の意を伴うと考えられ(『操觚字訣』)、全体として反語。「なんぞこれを恤(あわれ)まざらんや」というのと同じ。

*使各庀奔問官守 『左伝』襄公九年「使華閲討右官、官庀其司」を参考とすると、「庀」は、役人とそれに従う部下の組織を整えたとの意と考えられる。「奔問官守」は、『同』僖公二十四年「天子蒙塵于外。敢不奔問官守」に基づく。すぐにお伺いして、役人の指図を受けるの意。

*靡盬 『詩経』小雅・鹿鳴之什・四牡「豈不懐帰。王事靡盬。我心傷悲」を踏まえていると考えられる。王事である治水工事はやむことなく続くの意。

*旋 旗で指揮する意と見られる。

〔5.遠方工事の難しさ 前半〕
乃ち至れば、則ちほうえんはかり、厚薄こうはくはかり、こうきょくはかる。我がほうきょうと異なるや、則ち他の諸大国の、同じく事に在る人士とともに、截然せつぜんと地をかぎりてこれまもる。しこうしてつちまことに相いしょくし、水は実に相いけ、もとよりた、いっいっにしてわれ何ぞ之を知らんやと謂ふべからず。則ちこう往来し、しばしば以て相いじゅんせざるを得ず。我が封疆と異なるや、諸臺しょだいの使者、冠蓋かんかいみちに相い望み、旦夕たんせき逢迎ほうげいしてきんす。我が封疆と異なるや、其のじゅんこうするや、みぞよりみぞき、原より湿しつに徂く。即ちする所、其のしゅんぜんしたがひて移徙いしし、東西じょうきょ無し。れば則ち槍纍そうるいあくばくかんそうふんりょうし、一夕いっせきまもりも備へざるを得ず。行けば則ち輿僕隷ぼくれいすうべい屝屨ひく、一日のせきそなへざるを得ず。我が封疆と異なるや、けんこうしんせきは、きゅうを県官に仰ぎ、亦た事期じき財用ざいよういえども、つねに以てせいめいを待つ。則ちようを計り、畚築ほんちくはかるは、吾がもとに非ず。

*物土方、議遠邇、度厚薄、仞溝洫 土方は、土石をとる場所。遠邇は、遠近のことで、つまりその土石採取地までの距離。厚薄は、ここでは堤防の厚さ。仞溝洫は、ここでは灌漑用水路の深さを定める。『左伝』昭公三十二年「計丈数、揣高卑、度厚薄、仞溝洫、物土方、議遠邇、量事期、計徒庸、慮財用、書餱糧、以令役於諸侯(中略)韓簡子臨之、以為成命」に基づく表現。

*一彼一此 ある時は彼のもの、ある時は我のものという意。『左伝』昭公元年「疆場之邑、一彼一此、何常之有」に基づく。

*行李往来 行李は、使者。『左伝』僖公三十年「行李之往来、供其乏困」に基づく表現。

*臺 中央政府の役所の意と見られる。

*冠蓋相望 乗り物に乗った使者が絶えず続く。

*逢迎唯謹 逢迎は、出迎えて人に会うこと。唯謹は、ひたすら謹むこと。

*巡功 土木工事の成果を巡視する(「*為植」も参照)。

*濬繕 濬は、浚と同義。濬繕で、浚渫したり修繕したりすること。

*移徙 移ること。

*槍纍・幄幕・干掫・焚燎 槍纍は、竹槍を重ねて囲いとすること。『文選』巻九・楊子雲・長楊賦并序に「木擁槍纍、以為儲胥」。幄幕は、幕を大きく張ること。ここでは竹の囲いに幕を張って宿営地とすること。干掫は、夜回りすること。『左伝』襄公二十五年「近於公宮、陪臣干掫」。焚燎は、焼くこと。ここでは夜間警備のため薪を燃やすこと。

*一夕 一晩じゅう。

*輿馬・僕隷・芻米・屝屨 輿馬は、こしと馬。僕隷は、しもべ。下男。芻米は、馬の飼料と人の食料。屝屨は、くつ。

*揵筊薪石 解釈やや難。各字、堤防造成の材料。石はいうまでもないとして、揵は、しがらみ。薪は、木材。燃料のタキギではない。筊は、薪がない時に代用する竹。『史記』巻第二十九河渠書第七における、前漢・武帝が黄河の決壊場所を視察する部分に基づくと見られる。

*仰給 支給を請う。

*事期財用、毎以待成命 事期は、完成までの期限。財用は、材料。成命は、決定した命令。工事に入る前に、完成工期の見積もり、必要材料の算定をして、毎度、幕府の裁可を待つということ。『左伝』に基づく表現(「*物土方・・・」参照)。

*計徒庸、称畚築 計徒庸は、工事の必要人数を見積もる(「*物土方・・・」も参照)。称畚築とは、畚は土を運ぶもっこ、築は土を築きかためる杵のことで、つまり版築(はんちく)の適正な労働量を見積もること。『左伝』宣公十一年条に同一文あり。

〔6.遠方工事の難しさ 後半〕
我が封疆と異なるや、大水の後、民はほ夫婦墊隘てんあいするがごとし。乃ちいつに其の土にやとえきと為す。而して壮者そうしゃは、固より已に功に随ひてへいを与へ、而してしばらく朝家のきょくすく無きにめぐむの旨をきょうしょうし、数月の食有りて以てばくに及ばしむ。きゅうみんより始め、則ち老幼婦女に至るまで、あいもっとはなはだし。るいじゃくを問はず、いつうんて、乃ちあさには一簣いっきになひ、暮には数銭を与ふ。是に於いて、ゆうに下り来れば、則ち纍纍るいるいとしてけいして至るもの百千、群をていに成し、有司簿せいしてことかなふも、授与おおからず。唯だきんなるをのみ是れおそるればなり。我が封疆と異なるや、の数に有る者と之に加はるものと上下千餘人、前後五たび月を閲し、ひびこうに在りて、すねゆるにいとまあらず、固より亦たちょうつい疾疫しつえきおそれ無きにあらず。是を以て吾が諸臣のもの、日夜べんし、てきじゃくとしてやすからず。唯だ是れ、くんの教へと、二三たいの慎みと有るを頼み、終に亦た一事のはいも有ること無く、一隷いちれいの病も有ること無し。かんぜんとして相いつとめ、乃ち以て事をふるを得たり。

*民猶夫婦墊隘 墊隘は、疲れ苦しむこと。『左伝』襄公九年「使其鬼神不獲歆其禋祀、其民人不獲享其土利、夫婦辛苦墊隘、無所底告」に基づく。

*平賈 標準の価格。

*共承 謹んで承る。

*周亟矜無資 危急を救い、困窮する者を憐れんで恵みをたれる。『左伝』定公五年「帰粟于蔡、以周亟矜無資」に基づく。

*及麦禾 禾は、稲。工事の開始が冬なので、麦が獲れる初夏、あるいは稲が獲れる秋までという意。

*可哀 哀れなさま。

*羸弱 衰え弱るさま。

*一簣 一荷のもっこ。簣は、土を運ぶかごの類。

*日夕下来 『詩経』国風・王風・君子于役「日之夕矣、羊牛下来」(夕暮れになると、羊や牛が岡から下って帰ってくる)に基づく表現。要するに、夕暮れ時になるとの意。

*纍纍携負 纍纍は、つらなり続くさま。携負は、たずさえ負う。

*庭 役所。ここでは、長州藩出先機関のうち、労役を管理する部門。

*簿正称事 簿正は、帳簿によって計数すること。称事は、仕事量とつり合いがとれる。『中庸』「日省月試、既稟称事、所以勧百工也」を踏まえていると見られる。

*曠野 ひろびろとした野原。

*脛不遑生毛 古代中国の伝説的人物禹(う)の治水について記述した『韓非子』五蠧第四十九「股無胈、脛不生毛」に基づく表現。

*重膇 足がはれること。『左伝』成公六年「土薄水浅(中略)民愁則墊隘。於是乎、有沈溺重膇之疾」。

*勉思 熟考する。『文選』孫楚「為石仲容与孫皓書」の「夫治膏盲者、必進苦口之薬(中略)勉思良図、惟所去就」に基づく表現と見られる。

*惕若 あやぶみおそれること。

*二三大夫之慎 出典未詳。

*廃 不治の身体障害の意と見られる。

*驩然 喜ぶさま。

〔7.土地神への竣工報告〕
而して国家の大役をほうしょうし、ほ亦た反命はんめいするに有るは、亦たこうてんけんの及ぶ所にあらざらんや。りて相いぼうするに、
『是れよろしくだんし以て告成して帰すべし』と。
而して鷲宮わしのみやの其の地に在る有り。蓋してんの命ずる所なり。輿じんぼうを聴くに曰く、
『何ぞ必ずしも他にいとなまんや』と。
是に於いて、ともに再拝稽首けいしゅして曰く、
そうしん長門むねひろ、朝命を受け役を奉じ、其の官臣かんしん広定及びぼうこう等、実に之にせんし、乃ち天明てんめいを以て、今既にく大事をさしめ、神のはじすこと無かりき。敢へて告ぐ』と。

*奉承 つつしんで承ること。

*有辞於反命 反命は、使者として出向いた人が復命すること。「有辞於反命」で、復命の言葉があるという意で、要するに生きて復命することができたということ。

*皇天眷顧 皇天は、天帝。上帝。中国的世界観宗教観に基づく漢文表現。ここでは日本の神祇のこと。眷顧は、特に目をかけること。愛顧すること。

*与謀 相談の意と見られる。

*壇 神を祭るための祭壇を設けるとの意と見られる。

*鷲宮之祠 鷲宮の神を祭る社。鷲宮神社のこと。同社は、武蔵国埼玉郡騎西領鷲宮町に所在(現埼玉県久喜市鷲宮)。騎西領は、長州藩治水工事の範囲内。祭神は、天穂日命など。中世以来武人の崇敬篤く、当地のみならず関東の代表的神社の一つ。

*祀典 解釈難。しばらく祀典は、祭祀されるべきものを書き記した書籍と解し、ここでは「延喜式神名帳」と考えた。「神名帳」は、平安時代に成立した、官から祭祀を受ける神社のリスト。武蔵国埼玉郡のなかに「前玉神社」があり、鷲宮を指すとの見解が当時あった(度会(出口)延経著『神名帳考証』)。

*輿人 多くの人。

*曽臣 諸侯などが天子に対して謙遜して用いる自称。ここでは「長門侯」の毛利宗広が、鷲宮の神に対して謙遜してこの自称を用いる。このあたりの文章は、『左伝』襄公十八年「曽臣彪将率諸侯以討焉。其官臣偃、実先後之」に基づいている。

*官臣広定及某甲等、実先後之 官臣は、官についている臣。ここでは長州藩の役人のこと。先後は、後になり先になって(主君を)助ける。なお「*曽臣」参照。

*天明 天の明らかな道。

*克集大事、無作神羞 「集大事」は、神の力で大事業をなすことができた。あるいは、神が大事業をなさしめた。『左伝』哀公二年「衛太子祷曰、曽孫蒯聵、敢昭告皇祖文王・烈祖康叔・文祖襄公(中略)以集大事、無作三祖羞」に基づく表現。

〔8.建碑の経緯〕
既に以て告ぐるなり。願はくは復た其の始末をつぶさにし、碑に鷲宮にきざみ、以て永世にのこさんことを」と。
喬、乃ち其のしょくする所を承り、ために記すことかくの如し。

〔9.実績〕
凡そ長門の役を受くる所の刀祢上流以南は、すなわち北は其のぜんつくす。水は西より東す。則ち其の地、うえだま久久宇くぐうより、水と並びて下り、州の埼玉さいたまくちに至るまで十五里。而して又た間口より、わかれて羽生はにゅう西さいの地に至り、糟壁かすかべえきまで斜界しゃかいして、東南にたくしゅつすること五里、南北に遠きにわたること十里餘り。西上に在りては、則ち州の榛沢はんざわよこより、としてじょうもう新田にったまえ小屋ごやに至るまで六里。其の次、州のばらより、として郡のたわらに至るまで五里。今の一、古制の里に十たり。則ち東西に大率だいそつ二百里、南北に五六十里、若しくは八九十里。ていじょうの修補、小なるは百餘所。大決だいけつは、ぜんすると雖も、客土を更に築きて、おおむね長さ八九十よこ三四十堵、よう十五六万。溝澮こうかいさらふこと九十餘所。羽生に在りては、たいきょつくる。すなわち長さ三里、用夫十一万。騎西に在りては、渠ますます大なり。実に刀祢どうに浚ふ所三里餘り、用夫三十万。其の他のせんぼう・陂足・しんせき竹落ちくらくの功、大小七百餘所。凡そ用夫百万餘りと云ふ。こくしん有司の事を視る者十三人より、属する所の士に至るまで、凡そ百四十七人、じゅう八百十人、卒隷そつれい以下七百五十人、合せて千七百七人。其の十三人の姓名、別につぶさにす。寛保三年夏五月、平安ふく元喬謹んで記す。
                        長州学士津田泰之謹んで書す。

*壖 川べり。ここでは利根川の南岸(右岸)。

*児玉郡久久宇 久久宇村(現埼玉県本庄市久々宇あたり)。利根川南岸。

*埼玉郡間口 間口村(現埼玉県加須市間口)。かつての古利根川(「*刀祢上流・・・」参照)の右岸。

*析至羽生・騎西之地 解釈難。析は、別れる。間口村まで一団で工事を進めてきたが、ここで二手に分かれて、武蔵国埼玉郡の羽生領と騎西領に至ったと解釈した(各々現埼玉県羽生市中央、同県加須市騎西の周辺)。領は、諸村の集合体で、郡の下位。

*斜界糟壁駅 糟壁駅は、武蔵国埼玉郡新方領の粕壁宿(現埼玉県春日部市粕壁あたり)。古利根川沿いに所在。斜界の解釈難。羽生領および騎西領の工事領域の境界線を、斜め、つまり東南方向に粕壁宿まで引いたということか。

*東南坼出五里、南北亘遠者十里餘 解釈難。羽生領と騎西領における工事での移動を指していると見られる。

*榛沢郡横瀬 横瀬村(現埼玉県深谷市横瀬)。利根川南岸。

*迤至 解釈やや難。曲がりくねりながら(治水工事を進めていき前小屋村に)至ったと解釈した。

*上毛新田郡前小屋 前小屋村(現群馬県太田市前小屋町および埼玉県深谷市前小屋)。当時、利根川乱流部の中洲に所在したと思われる。

*幡羅郡江原 江原村(現埼玉県深谷市江原)。利根川南岸。

*郡之俵瀬 俵瀬村(現埼玉県熊谷市俵瀬)。利根川南岸。

*東西大率二百里 大率は、おおよそ。二百里は、「古制」での表示と思われる。

*堵 長さの単位。1堵は、5丈(約15メートル)。

*溝澮 「溝洫」に同じ。田地灌漑用の水路と見られる。

*刀祢故道 古利根川のこと。「*刀祢上流・・・」参照。

*川防・陂足・薪石・竹落 川防は、河川堤防。陂足は未詳。堤防の修復を指すか。薪石は、「*揵筊薪石」参照。竹落は、蛇籠(じゃかご)を指すと考えられる。蛇籠とは、中に栗石、砕石などを詰めた、粗く編んだ長円形の竹の籠(現在は鉄線製)。『漢書』巻第二十九溝洫志第九「以竹落長四丈、大九圍、盛以小石、両船夾載而下之。三十六日、河隄成」。

*卒隷 「僕隷」と同義と思われる。「*僕隷輿台」参照。

*平安 京都。撰者服部南郭の出身地。

画像

全景 (撮影日:’23/02/19。以下同じ)
全景
竿部 正面
竿部 左側面
竿部 背面
竿部 右側面
上部
上部
拝殿・本殿
社殿(右) 碑(左奥)
鷲宮神社 入口

その他

補足

  • 中国古典を踏まえた文章表現が多く、全体的に解釈が容易でない。現代語訳は参考程度にお読み下さい。
  • 本資料は、すでに『南郭先生文集』三編巻八(延享2年(1745)刊)に訓点付きで収載されている。判読・訓読困難な箇所は、これを参考にした(相違も少なくない)。

参考文献

  • 『南郭先生文集』三編巻之八(早稲田大学図書館所蔵、請求記号:イ/2020/4)四丁ウ~八丁オ。
  • 『新釈漢文大系 第2巻 大学・中庸』(明治書院、1967年)268~72頁。
  • 『新釈漢文大系 第4巻 孟子』(明治書院、1962年)165~6頁。
  • 『新釈漢文大系 第22巻 列子』(明治書院、1967年)360~1頁。
  • 『新釈漢文大系 第30巻 春秋左氏伝 一』(明治書院、1971年)268~9頁、386~7頁、402~4頁。
  • 『新釈漢文大系 第31巻 春秋左氏伝 二』(明治書院、1974年)570~2頁、722~5頁、879~81頁、886~8頁。
  • 『新釈漢文大系 第32巻 春秋左氏伝 三』(明治書院、1977年)968~9頁、1203~6頁、1244~6頁。
  • 『新釈漢文大系 第33巻 春秋左氏伝 四』(明治書院、1981年)1631~2頁、1668~9頁、1748~9頁。
  • 『新釈漢文大系 第41巻 史記 四(八書)』(明治書院、1995年)265~8頁。
  • 『新釈漢文大系 第80巻 文選(賦篇) 中』(明治書院、1994年)134~6頁。
  • 『新釈漢文大系 第83巻 文選(文章篇) 中』(明治書院、1998年)320~1頁。
  • 『新釈漢文大系 第110巻 詩経 上』(明治書院、1997年)184~5頁。
  • 『新釈漢文大系 第111巻 詩経 中』(明治書院、1998年)167~9頁、320~4頁。
  • 「関東洪水復旧普請記録写」(「田口家文書」、『鷲宮町史 史料二 近世』(鷲宮町、1981年)145~50頁)。
  • 寛保3年9月「利根川上流以南修治告成碑記」(「鷲宮神社文書」、『鷲宮町史 史料二 近世』(鷲宮町、1981年)151~2頁)。
  • 『操觚字訣』巻之三(『操觚字訣』(須原屋書店、第6版、1907年)104~5頁)。
  • 『神名帳考証』巻四(『神祇全書 第一輯』(皇典講究所、1906年)237頁)。
  • 「天保国絵図武蔵国」(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号特083-0001、冊次0031)。
  • 「天保国絵図上野国」(国立公文書館デジタルアーカイブ、請求記号特083-0001、冊次0046)。

所在地

刀祢上流以南修治告成碑(寛保治水碑) および碑文関連地 地図

所在
鷲宮神社|埼玉県久喜市鷲宮

アクセス
東武伊勢崎線 鷲宮駅 下車 徒歩 約15分
鷲宮神社に入り社殿の前にあり

編集履歴

2024年4月6日 公開

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