

明治24年(1891)に岐阜・愛知方面を襲った濃尾地震の碑。岐阜県可児郡春里村(現可児市)の神社に立つ。地震直後のすさまじさを始めとして、家屋倒壊による村人の犠牲や、水不足など事後の困窮を具体的に記し、読む者に大震災の苦悩を印象付ける。天皇・国・県の救済、国内外からの義捐金、諸人の労苦によって復興し得たといい、これら災害救済の顛末を永遠に伝えようと村人の発意で1年後に建碑。わずか1年の間に、大地の激震と身の上の大転変を経験し、記録として石に残さずにはいられなかったものと見られる。
資料名 紀救葘功碑
年 代 明治25年(1882)
所 在 南宮神社|岐阜県可児市矢戸
北緯35°24’09″ 東経137°01’27”
文化財指定
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は本文題による。
ID 0044_2406
翻刻
「民得蘇息」
岐阜県知事従三位勲三等小崎利準篆額
紀救葘功碑 従七位勲八等水谷弓夫撰
明治二十四年十月二十八日、美濃・尾張両国地大震。山川壊崩、人畜死傷、
不可勝数。 天皇陛下、勅内閣総理大臣伯爵松方正義、巡視両国、尋大
発国帑、救急治害、別賜 内帑、使侍従子爵東園基愛・毛利左門、前後歴問
各郡。内外国人、亦多所寄遺焉。春里村被害甚矣。初地之震在早晨。家家始
起、忽而異響自西北、地裂家簸、少長蒼皇走而避之。触墜梁摧柱死傷者二
十餘人。門屋残敗、殆無完体。井川或濁或涸、不可以炊、幸得生亦絶火食。尚
収死尸扶傷者、竟日困頓、縛茅僅庇霜露者数旬云。蓋在可児郡、其害莫甚
於本村、在本村莫甚於矢戸・塩両区。 勅使各来伝 聖旨、細問葘害死傷。
人人莫不感泣焉。我岐阜県、時差吏員、庇護備至。且分給其 内帑五拾餘
円・国帑七千百五拾餘円、及内外国人寄遺五百八拾餘円、乃用之以購食
粟・農具、並修治池溝・道路。於是乎、人人安堵、物得復於旧。自非 聖徳浹
洽於天地、何能如是乎哉。頃村人相謀樹碑将伝之不朽、属予作記。嗚呼、為
後之村人者、毎対此碑、感 聖恩之盛、而思当日之労、則必当期奉上率
徳、力田治産、以補 国家之昌運。此乃所以報其 恩而酬其労也。
明治二十五年十二月 浪越 橋本忠良書
〇ウラ面
義捐者
矢戸
(人名略)
塩
(人名略)
阪戸
(人名略)
長洞
(人名略)
室原
(人名略)
塩河
(人名略)
主唱者
(人名略)
現代語訳
〔1.濃尾地震と救済〕
「民は息をふきかえし生気がよみがえった」
天災で困窮する人々を救った功績について記した碑
明治24年(1891)10月28日、美濃・尾張両国の地が大いに震動した。崩壊した山川、死傷した人畜は数えきれない。天皇陛下は、内閣総理大臣伯爵松方正義に勅命を下し、両国を巡視させ、次いで大々的に国庫より費用を支出して、急場の難事を救い被害を抑えさせ、特別に皇室財産から(金銭を)賜与した。侍従子爵東園基愛・毛利左門を派遣し、あい前後して各郡をあまねく尋ね問わせた。国民や外国人からの寄附も多かった。
〔2.春里村の大損害〕
(岐阜県可児郡)春里村の被害はとても大きいものがあった。はじめ大地が揺れたのは早朝で、(これにより)家々では人々が目を覚まし起き始めると、すぐさま恐ろしい轟音が西北から聞こえ、大地は裂け家々は(箕でふるうように)あおりあげられた。老いも若きもあわてふためき、走って難を逃れようとした。崩れ落ちた梁やへし折れた柱に当たって亡くなったり負傷したりした人は20人を超えた。家屋や門が破損し、完全な形を保った家などほとんど無かった。井戸や河川は濁ったり涸れたりして炊飯が叶わず、幸いに生き延びた人も煮炊きの料理をすることができなくなってしまった。加えて、遺体を収容し負傷者を救護していたために一日中疲労が癒えなかったし、霜や露から身を守れるばかりの粗末な建物を茅などでこしらえ、そこでの生活が数十日も続いたのだという。恐らく、可児郡においては本村以上に甚大な被害を受けたところはなく、本村においては矢戸・塩両区以上に甚大なところはない。
〔3.春里村の復興〕
勅使各人が来たり聖天子(明治天皇)のお言葉を伝え、災害による死傷者を細やかに訪った。人々はみな感極まって涙を流した。我が岐阜県は、当時職員を派遣し、行き届いた救護活動を行った。さらに皇室財産からの支出のうち50円余り、国庫支出のうち7150円余り、および国内外の寄附金580円余りが分給され、これを用いて穀物・農具を購入し、加えて池や溝、道路を修復した。ここに至って、人々は安堵の思いをなし、環境は往時の通りに回復し得たのではないだろうか。もし天皇の聖徳が天地すみずみまで行きわたっていなかったとしたら、どうしてこのようになり得ただろうか。
〔4.建碑の経緯〕
この頃村人は、石碑を建ててこのことを永遠に伝えようと相談し、私に文の作成を求めてきた。嗚呼、今後村の人間となる者よ、この石碑に対する時、聖天子の広大な恩恵に感じ入り、在りし日の(村人等の)苦労に思いの至ることがあれば、その時は必ず、天皇のために尽くし、有徳の人に従い、農業や産業に努め励み、そうして国家の繁栄に寄与するのがよろしい。このようにすれば、かの恩恵や苦労に報いることができるだろう。
明治25年(1892)12月
訓読文・註釈
〔1.濃尾地震と救済〕
「民は蘇息するを得たり」
岐阜県知事従三位勲三等小崎利準篆額
紀救葘功碑(救葘の功を紀す碑) 従七位勲八等水谷弓夫撰す
明治二十四年十月二十八日、美濃・尾張両国の地、大いに震ふ。山川の壊崩、人畜の死傷、勝て数ふべからず。天皇陛下、内閣総理大臣伯爵松方正義に勅し、両国を巡視せしめ、尋で大いに国帑を発し、急を救ひ害を治さしめ、別に内帑を賜ひ、侍従子爵東園基愛・毛利左門を使はし、前後して各郡を歴問せしむ。内外国人も亦た寄遺する所多し。
〔2.春里村の大損害〕
春里村の害を被るや甚し。初め地の震へ、早晨に在り。家家始めて起き、忽にして異響西北よりし、地は裂け家は簸られ、少長蒼皇し走りて之を避く。墜梁摧柱に触れて死傷する者、二十餘人。門屋残ひ敗れ、殆ど体を完するもの無し。井川、或いは濁り或いは涸れ、以て炊ぐべからず、幸ひに生を得るも亦た火食を絶す。尚ほ死尸を収め傷者を扶けて、竟日困頓し、縛茅して僅かに霜露より庇ふこと数旬と云ふ。蓋し可児郡に在りては、其の害、本村より甚しきは莫く、本村に在りては矢戸・塩両区より甚しきは莫し。
〔3.春里村の復興〕
勅使各の来りて聖旨を伝へ、細かに葘害死傷を問ふ。人人、感泣せざる莫し。我が岐阜県、時に吏員を差し、庇護備至たり。且つ其の内帑五拾餘円・国帑七千百五拾餘円、及び内外国人の寄遺五百八拾餘円を分ち給ひ、乃ち之を用ひ以て食粟・農具を購ひ、並びに池溝・道路を修治す。是に於いてか、人人安堵し、物は旧に復するを得たり。聖徳の天地に浹洽するに非ざるよりは、何ぞ能く是の如からんや。
〔4.建碑の経緯〕
頃村人相い謀りて碑を樹て将に之を不朽に伝へんとし、予に記を作すを属む。嗚呼、後の村人と為る者よ、此の碑に対する毎に、聖恩の盛んなるを感じ、而して当日の労を思へば、則ち必ず当に奉上率徳、力田治産を期し以て国家の昌運を補くべし。此れ乃ち其の恩に報いて其の労に酬ゆる所以なり。
明治二十五年十二月 浪越 橋本忠良書
*蘇息 生気がよみがえること。
*紀救葘功碑 この碑の題名。救葘は、救災の意で、全体を丁寧に訳すと、震災で困窮する人々を救った功績について記した碑。
*国帑 国家の財産。
*内帑 皇室の財産。
*東園基愛 1851~1920。幕末から大正時代の公家(藤原氏中御門家流、羽林家)、華族。明治天皇につかえ侍従、掌典次長をつとめた。宮中顧問官。子爵。
*歴問 歴訪。
*寄遺 寄附。義捐。
*春里村 岐阜県可児郡の村(現岐阜県可児市塩ほか)。明治22年(1889)町村制施行により、坂戸村・塩村・矢戸村・塩河村・室原村・長洞村が合併して誕生(各々現岐阜県可児市坂戸、塩、矢戸、塩河、室原、長洞)。
*早晨 早朝。
*家簸 簸の原義は、箕(み)でふるって、穀物のちりをとりのぞく。ここでは地震の揺れで、箕でふるったように家があおりあげられること。
*少長蒼皇 少長は、老若。蒼皇は、あわてふためく。
*触墜梁摧柱 触は、あたる。ぶつかる。墜梁は、支えを無くして落ちた梁。摧柱は、へし折られた柱。
*門屋 門と家屋。
*炊 米を炊くこと。
*火食 火を用いた料理の意だが、ここでは煮炊きによる料理を指す。
*死尸 死骸。
*竟日困頓 竟日は、一日中。困頓は、非常に疲弊する。
*縛茅 茅が葺かれた建物のような、粗末な住居を造るとの意と見られる。
*数旬 数十日。
*可児郡 岐阜県の郡。現岐阜県可児市など。
*矢戸・塩両区 「*春里村」参照。
*葘害 災害。
*備至 行き届いているさま。
*食粟 穀物。
*浹洽 すみずみまで行きわたること。
*当日之労 地震の後、復興のため苦労したこと。特に春里村の人達のそれを指すと考えられる。
*奉上率徳、力田治産 奉上は、天子を上にいただき、尽くす。率徳は、有徳の人に従う(『史記』管蔡世家第五「改行率徳馴善」に基づく)。力田は、農事につとめはげむ。治産は、産業につとめて収益をあげる。
*補 たすける。
*所以 方法あるいは手だて。後世の村人が、天皇の恩恵や、村人の復興への労苦に報いる手だてとして、筆者は、農業・産業の振興などを勧めている。
画像








その他
補足
- 本碑文はすでに『可児町史』などの書籍に収められている。
参考文献
- 『可児町史 通史編』(可児町、1980年)570頁。
- 『新釈漢文大系 85 史記 五(世家上)』(明治書院、1977年)191頁。
所在地
紀救葘功碑 および碑文関連地 地図
所在:
南宮神社|岐阜県可児市矢戸
アクセス:
名鉄 広見線 西可児駅 下車 徒歩 約15分
南宮神社境内に入り本殿に隣接してあり。
編集履歴
2024年6月22日 公開
