金粟山震災碑 -大伽藍 今と昔-

金粟山震災碑
概  要

明治24年(1891)に美濃・尾張地方に甚大な被害を及ぼしたのう地震の碑。岐阜県山県やまがた郡(当時)のこんぞくさんだいりゅう(現岐阜市)に立つ。壮大な伽藍を誇っていたが、大地震で境内は一変し一つのどうも残らなかったという。地域住人の発意により寺門の傍らに造立。その建碑の年月日は震後12年目に当たり、十三回忌追善ついぜん仏事に伴って造立されたと考えられる。建碑の目的はおよそ3点。(1)大震災の記憶を風化させないようにする、(2)後代の人を恐れさせ注意を喚起する、の2つが主目的であり、加えて(1)を手段とし(3)犠牲亡魂の救済のため追善仏事の継続が願われてもいる。犠牲者と後代の人々に対する真摯な気持ちが窺えよう。石碑から広い境内を眺めると立派な伽藍が立ち並び、一世紀前に壊滅的な被害があったとは誰しも信じ難い。災害記念碑の効用に思いを致らせる一碑。

資料名 こんぞくざん震災碑
年 代 明治36年(1903)
所 在 大龍寺|岐阜県岐阜市粟野
 北緯35°29’25″ 東経136°47’11”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。
ID 0045_2406

目次

翻刻

「金(篆額)粟山震災碑 (方印陰刻影「特授仏心宗空禅師印」) (方印陽刻影「妙心管長実叢」)」
山吼谷、巌裂水、鳥不能飛、獣不能走、而屋粉砕、墜棟人。
風火乗之、助天虐、防之不可防、避無処於避。天地之災、莫甚於
震、近歳之震、莫甚於阜矣。阜之震、実明治二十有四年十月
二十八日午前六時有半、震及濃尾二州。而岐阜・県郡最烈、
口殆三之二。郡之野田村、禅寺曰大龍。山号金粟。
統帝時、小角所創建、伽藍宏壮、人所敬、亦存一堂。震後
之惨不可名状。嗚呼、千歳有之変、而目視之、足蹈之、孰不身慄
心戦乎。土人相謀作一碑、建之于寺門、以不忘惨害、且欲使
有所懼。亦福之餘意、而慈雨之一滴哉。住持僧洪州和尚、来
乞余銘。乃銘曰、
珉、 味甘露。 弔厲魂、 以擬済度。 警後人、
以示戒懼。 勿赴奢、 勿忘艱苦。 慎、 怒。
治撫安、 金仙呵護。
   明治三十六年十月二十八日
       臨済宗妙心寺派管長 関 実叢 篆額
              浪華 岳藤沢 恒撰
              洛陽 石河謙同 謹書

現代語訳

〔1.大地震と岐阜〕
こんぞくざん震災碑
(当地で大地震が起こった時)山が大きな音をたて、谷が口笛をふくように鳴り響き、岩が裂け、水が勢いよく流れだし、鳥は飛ぶことも叶わず、獣は走ることもできず、大きな家もこなみじに砕け散り、むなは外れ落ちて人を押しつぶした。そこに風火が便乗し、天が災いを成すのに助勢する(=火事を引き起こす)。(だから)これを防ごうとしても防ぐことはできず、避難しようと思っても避難するところが無かった。天地に起こる災いで、地震以上にひどいものはなく、近年に起こった地震で、岐阜のそれ以上にひどいものはない。その岐阜地震が起こったのは、実に明治24年(1891)10月28日午前6時半であり、その震動は美濃・尾張2国に及んだ。最も激しかったのは岐阜(の市域)や(岐阜県)山県やまがた郡で、本貫地とする住人のほとんど3分の2が死傷してしまった。
〔2.大龍寺の惨状〕
同郡のいわ野田のだ村にはだいりゅうという禅寺がある。山号はこんぞく山である。持統天皇の御時に役小角えんのおづぬの創建にかかり、その伽藍は広大にして立派で、人々は仰いで敬っていたが、(地震が起こり)その堂宇は一つも残らなかった。地震後の惨状は、言葉で言い尽くすこともできまい。ああ、千年に一度の稀に見る大転変であって、まなこで眺め足で踏んだなら、体がこわばり心がふるえない人などあろうか。
〔3.建碑の経緯 -亡魂への追善 後人への訓戒-〕
現地の人々は相談して、一基の石碑を造ってこれを寺門に建立し、そうして悲惨な被害の記憶を風化させないようにしようと図り、加えて(碑を建てることで)後代の人を戒めて恐れさせ、警戒の心を起こさせたいと考えた。(建碑し風化を防ごうとするのは)追善供養の志しがあふれんばかりに尽きない(すなわち後代でも継続していって欲しい)からである。(後人への警戒というこのいつくしみの心は)仏菩薩の雨のごとき無差別の大慈悲の一滴ほどにはなるであろう。住職の洪州和尚が来て私にめいの作成を求めてきた。銘は以下の通り。
〔4.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
固くて美しい5尺(約1.5メートル)の石碑。(亡魂を成仏させんという仏の教えは)平等無差別の甘い露。
(あの世とこの世をさまよう)中途半端な悪霊をば、(追善供養をして)さいしようと思う。
半ばは警戒し半ばは顧みもしない未来の人をば、(この石碑によって)戒め恐れさせようと思う。
驕りたかぶり贅沢になってはいけないぞ。つらく苦しんだ日々を忘れてはならないぞ。
(大震災の過去を)のかがみとなし慎みの心を保つことができれば、天の怒りに触れて災害が起こることもあるまいし、
てんは(民を)いたわり安んずる至善の政治を行い、仏は(衆生を)守護するであろう。
   明治36年(1903)10月28日

訓読文・註釈

〔1.大地震と岐阜〕
こんぞくざん震災碑
え谷うそぶき、いわお裂け水ほとばしり、鳥は飛ぶあたはず、獣は走る能はず、しこうしておく粉砕し、むねち人をおさふ。ふう之にじょうじ、天のわざわひをすを助け、之を防がんに防ぐべからず、避けんに避くるにところ無し。天地のわざわひ、しんよりはなはだしきはく、近歳の震、岐阜より甚しきは莫し。岐阜の震、実に明治二十ゆう四年十月二十八日午前六時ゆう半にして、ふるのう二州に及ぶ。而して岐阜・山県やまがた郡は最もはげしく、こうほとんど三の二をそこなふ。
〔2.大龍寺の惨状〕
郡のいわ野田のだ村に、禅寺のだいりゅうふ有り。山はこんぞくと号す。とう帝の時、役小角えんのおづぬの創建する所にして、伽藍はこうそう、人の瞻敬せんけいする所なるも、た一堂もそんせず。震後のさんめいじょうすべからず。嗚呼、千歳希有けうの変にして、目もて之を、足もて之をめば、たれか身のおそれ心のおののかざらんや。
〔3.建碑の経緯 -亡魂への追善 後人への訓戒-〕
じん、一碑を作し、之を寺門に建て、以て惨害を忘れしめざらんと相いはかり、且つ後人こうじんをしてかいする所有らしめんと欲す。亦た追福ついふくにして、慈雨じうの一滴なるかな。じゅうそう洪州和尚、来りてに銘をふ。すなわち銘に曰く、
〔4.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
五尺の貞珉ていびんいちかん
はんちょうれいこん、以てさいせんとす。
半警はんけいの後人、以て戒懼を示す。
きょうしゃおもむくことなかれ、かんを忘るること勿れ。
かんがみ以てく慎めば、すなわてんを免れん。
せいあんし、こんせんせん。
   明治三十六年十月二十八日
       臨済宗みょうしんかんちょう 関 実叢 てんがく
              浪華なにわ 南岳なんがく藤沢 恒、撰す
              洛陽らくよう 石河謙同 謹んで書す

*嘯 口笛を吹くの意だが、ここでは谷がそのように鳴り響くことを指すと見られる。

*迸 勢いよく流れ出す。

*厦屋 大きな家。

*圧 おさえつける。おしつぶす。

*作虐 災難を成す。

*岐阜 岐阜県より岐阜の街と解釈するのが適当。

*岐阜之震 すぐ後文に、震動が美濃・尾張地方に及んだとあるので、「岐阜之震」は「岐阜地震」と訳す方が適当。撰者の認識において当該地震は、現在呼称する所の「濃尾地震」でなく「岐阜地震」であるらしい。なお「*岐阜」も参照。

*山県郡 岐阜県の郡。現山県市など。

*戸口 戸籍に登録されている人。要するにそこに住んでいる人。

*損 死傷と訳した。

*岩野田村 現岐阜県岐阜市粟野など。明治30年(1897)の岐阜県における郡制施行により、方県郡の岩崎村・三田洞村・粟野村が合併し山県郡に編入されて成立。昭和24年(1949)、岐阜市に編入。

*有禅寺曰大龍 金粟山大龍寺。臨済宗妙心寺派。碑文にある通り創建は古く、もと密教寺院だったが、戦国期に土岐氏の外護により禅宗に改められたという。本尊は腹帯子守観音で、安産の信仰がある。加えて本堂脇に達磨大師堂がある。

*持統帝 持統天皇(645~702)。

*役小角 奈良時代の山岳呪術者(生没年不詳)。修験道の祖とされる。

*瞻敬 仰ぎみる。

*不存一堂 地震で倒壊したり焼失したりして、完形を保った堂宇は一つもなかった。

*希有 珍しい。

*後人 未来の人。ここでは特に、今後村人や檀家となる人。

*戒懼 いましめおそれる。

*追福之餘意、而慈雨之一滴 下記補足参照。

*五尺貞珉・・・ 四言詩。韻字、露・度・懼・苦・怒・護(去声七遇)。

*貞珉 かたくて美しい石。この石碑のこと。刻字は2字目を「石+民」に作るが、異体字で通用の「珉」に改めた。

*一味甘露 次聯と合わせて、この度の十三回忌追善仏事や、今後も催されるであろう追善仏事により亡魂成仏の希望を述べたものと考えられる。甘露は、亡魂を成仏させんとする仏菩薩の教えや慈悲心を甘い露にたとえたもの。一味は、その慈悲心が平等無差別であることを示すと考えられる。なお「*追福之餘意、而慈雨之一滴」参照。

*半弔厲魂 「厲魂」は、たたりをなす悪霊。さて現代中国語でも使われる「半吊子」(吊は弔と同義)は、生半可な、中途半端なという意味。これを参考とすると、「半弔厲魂」とは、濃尾地震の不慮の犠牲者で、あの世とこの世のはざまでさまよう悪霊を指すと考えられる。

*半警 半ばは警戒する。撰者の造語と見られる。前聯の「半弔」と対句表現を成す。

*驕奢 とてもおごっていて、贅沢であること。

*鑑 手本とする。

*能 たえる。ここでは、保つと訳した。

*廼 すなわち。

*天怒 災害として現れた天の怒り。

*聖治撫安、金仙呵護 前聯の仮定条件「鑑以能慎」を受けて述べられる聯。聖治は、すばらしい政治。撫安は、いたわり安んずる。金仙は、仏陀のこと。ここでは、仏菩薩ほどの意味で用いていると考えられる。呵護は、守護する。

*南岳藤沢恒 藤沢南岳(1842~1920)。幕末から大正時代の儒学者。讃岐高松藩士。名は恒。字は南岳など。

画像

全景 (撮影日:’24/06/07。以下同じ)
碑面
篆額
上部
上部
入口脇の石碑群
伽藍
入口

その他

補足

  • 「追福之餘意、而慈雨之一滴」について
    論理の飛躍があり難解。
    「追福」は、追善供養。功徳を積むことのできない死者に代わって、生者が仏事を営んで功徳を積み回向して死者の菩提に資すること。「餘意(余意)」は、あふれんばかりに尽きることのない意思。建碑の年月日が震後ちょうど12年目に当たり、十三回忌追善仏事が行われたであろうことに注意すると、(前文で述べる通り)建碑によって風化を防ぎ、追善供養が今後も行われるようにとの願望を述べていると考えられる。
    「慈雨」は、雨のごとく無差別に衆生を救う仏菩薩の広大な慈悲。前文では、建碑によって「後人」に対し警戒の心を起こさせたいと述べる。「後人」に対するこのいつくしみの心は、仏菩薩の広大な慈悲の「一滴」である、すなわちほんの少しにも及ばないと、謙遜を述べていると思われる。
  • 撰者は文学的な完成度を追求しようとしたのか、短文で論理関係の不明瞭な文章を作っており、上記を含めやや難解なところがある。
  • 本碑文は、すでに『山県郡志』『濃尾地震のツメ跡』に収載されている。後者は訓読文も掲載しており(ただし銘のみ)、参考にしたところがある。

参考文献

  • 『山県郡志』(山県郡教育会、1918年)280~1頁。
  • 野村倉一『濃尾地震のツメ跡』(教育出版文化協会、1980年)68~9頁。

所在地

金粟山震災碑 地図

所在
大龍寺|岐阜県岐阜市粟野

アクセス
自動車で行くのが無難。
境内入口を入りすぐ左手。

編集履歴

2024年6月29日 公開

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