修理洗堰碑

修理洗堰碑(道路脇)
概  要

愛知県西部を東から南へと流れるしょうないがわ水系の明治期治水工事の記念碑。近世以来この川は水害がひどく、流量軽減のため近世中期に大々的な治水が行われた。すなわち右岸側に分流して新流路(新川しんかわ)を開鑿かいさくし、並行して両川ともに伊勢湾に流れるようにしたのである。西にし春日井かすがい味鋺あじま村(現名古屋市北区)にある分流地点には、あらいぜきという、堤防より少し低いセキが設けられ、新川への分流量が調整された。それでも庄内川の川底堆積の影響で、新川に水害が頻発するようになる。そのため、明治11年(1878)以来、新川沿村の希求により洗堰の修理が断続的に行われ16年に竣功。沿村諸村の発意により同地に建碑。洗堰は治水装置として現役である。

資料名 修理あらいぜき
年 代 明治16年(1883)
所 在 新川洗堰・庄内川右岸|愛知県名古屋市北区落合町
 北緯35°13’18″ 東経136°54’25”
文化財指定      
資料種別 石碑
碑文類型 事業達成(治水)
備 考 資料名は題字による。
ID 0037_2404

目次

翻刻

「修理(題字)堰碑 (印影)(印影)」
明治十一年戊寅夏六月、修理洗堰之工、成矣。乃川沿村諸民、将
浴邦家明之沢、仰府賢良之治焉。蓋新川之憂水害者、淵源于
川土砂流出、川底漸高。而雨則水泓漲、溢入新川、川之沿村被其害者
年甚。年、於是議重修埭之事、議不諧。時前県令場君保和・前
記官国貞君廉平、及其官長君重・故黒川君治愿、誘説村民、議終諧。乃
刱工、五閲月、其工竣。其所修理之洗堰、低於鋺之堤九尺八寸。以此
免其水害者、不独新川沿村而已、東郡之東部亦然。故各処人民倶共
喜焉。既而辛巳(十四年)秋九月、河水漲、堰崩決、官修之。壬午(十五年)秋十月、暴水
復破堰、下流人民驚愕更請修之。土木課長黒川君治愿及岩本君賞寿、
相謀稟諸県令国貞君廉平・大書記官野村君賀真修之。其十月起工、乃
使堀田安善氏日夕従事、至癸未(十六年)九月、功成焉。鳴呼此工事、其堅牢非復
前日之比。自今以往、穡豊穰、庶可以〔腹ヵ〕。而不啻我郡村之幸、延及
他郡村。於是乎、所謂浴聖明之沢、仰賢良之治者、愈可以徴也矣。因建碑
録其事蹟、併記請願之村名、以供他日紀念云。
 明治十六年癸未秋九月愛知県令国貞廉平篆額
      尾張国〔西ヵ〕日井郡新川沿村請願人民謹誌

            〔平ヵ〕村    寺野村    阿原村
            須ヶ口村   九之坪村   西堀江村
            沖村     西田中村   下之郷村
            朝日村     助七新田   清洲村
            土器野新田  加嶋新田   十四村

現代語訳

(題字)あらいぜきの修理を記した碑」
明治11年(1878)6月、洗堰の初度修理工事が完了した。そのため新川しんかわ沿村の諸民はまさに、国家を知ろし食す天皇陛下の恩沢を受け、また地方長官の善良で賢い行政を慕うにいたらんとしていた。憂いをもたらす新川水害の淵源は恐らく、庄内川に(上流から)土砂が流れてきて、その川底が徐々に高くなっていくことにある。そうして雨が降れば水深は深くなり乱流がみなぎり、溢れて(洗堰を越え)新川に流れ入る。沿川の村々が受けた被害は、毎年毎年甚だしいものがあった。そのため或る年、洗堰の再度の修理工事をしようと議論したが、議論は不調に終わった。その当時、前愛知県令やす保和やすかず君・前(愛知県)大書記官くにさだれんぺい君、および属官ぞっかんの長重君・故黒川治愿君は、村民に説明して(同意を)いざない、終に総意が得られた。よって工事を開始し、5ヶ月を経てその工事はようやく終わった。修理した洗堰は、味鋺あじまの堤より9尺8寸(約2.9メートル)低くなった。これによって水害を免れるようになったのは新川に沿った諸村ばかりでない。(新川中下流域にあたる)海東かいとう郡東部もそうであった。そのため各地の人民は喜びを共有したのである。やがて同14年(1881)9月になると、(庄内川の)川水があふれみなぎり、洗堰の石造部分が崩壊してしまったので、官に申請してこれを修理した。同15年(1882)10月、乱流により再び堰が壊れてしまったので、(新川の)下流の人々は、大変驚いて再度これを修理せんことを(官に)申請した。土木課長黒川治愿君、および岩本賞寿君は相談し、県令国貞廉平君に(修理すべきと)上申し、大書記官野村賀真君が修理に当たった。その10月に起工した。堀田安善氏に日夜従事させ、同16年9月に至って竣功した。ああ、この工事によって(洗堰は)堅固になったが、それは在りし日の比ではない。これからは、豊かな実りが得られ、はらつづみを打って歌うほど人民は安楽な暮らしを享受するであろう。(このことは)我が郡の村々の幸福であるのみならず、延いては他郡の村々にも(幸福は)及ぶであろう。そうなれば、先に言及した通り「国家を知ろし食す天皇陛下の恩沢を受け、また地方長官の善良で賢い行政を慕う」(と人々が感じる)状況は、いよいよ顕著になるであろう。そのため石碑を建ててその事跡を記し、合わせて(15年に洗堰修理を)請願した諸村を記し、そうして後日の記念とするのである。以上である。
 明治16年(1883)9月愛知県令国貞廉平が題字を書いた。
      尾張国西にし春日井かすがい郡新川沿村の請願人民が謹んで記した。

         ひら村    てら村    阿原あわら
         須ヶすかぐち村   つぼ村   西にしほり
         おき村     西にしなか村   しもごう
         あさ村    助七すけしち新田   清洲きよす
         土器かわらけ新田  しま新田   14村

訓読文・註釈

修理あらいぜき
明治十一年つちのえとら夏六月、洗堰を修理するのこう、始めて成る。乃ち新川しんかわ沿村の諸民、将に邦家せいめいたくに浴し、めい賢良のを仰ぐにいたらんとす。けだし新川の水害に憂れふるは、しょうないがわの土砂流出し川底漸くたかまるに淵源えんげんす。しこうしてあめふれば則ち暴水ぼうすいおうちょうし、新川にあふれ入り、川の沿村の其の害をこうむること、としどしにはなはだし。一年いちねんここに於いて重ねて堰埭えんたいを修するのを議するも、議ととのはず。時に前県令けんれいやすくん保和やすかず・前大書記官くにさだれんぺい、及び其の属官ぞっかん長君重・故黒川君治愿、村民を誘説ゆうぜいし、議終にととのふ。乃ち工をはじめ、五たび月をけみして、其の工はじめておわる。其の修理する所の洗堰は、味鋺あじまの堤より低きこと九尺八寸。れを以て其の水害を免かるるは、ただに新川沿村のみならず、海東かいとう郡の東部も亦たしかり。故に各処かくしょの人民、これを喜ぶ。既にして辛巳かのとのみ(同十四年)秋九月、河水こうちょうし、せきえん崩れ決し、官に告げて之を修す。みずのえうま(同十五年)秋十月、ぼうすいた堰を破り、下流の人民、きょうがくして更に之を修さんをふ。土木課長黒川君治愿、及び岩本君賞寿、相いはかりてこれを県令国貞君廉平にひんし、大書記官野村君賀真、之を修す。其の十月に工を起し、乃ち堀田安善氏をして日夕に従事せしめ、みずのとのひつじ(同十六年)九月に至りて、こう成る。鳴呼、此の工事や、其の堅牢なること復た前日の比にあらず。自今おうしょくほうじょうにして、みんしょ以てふくすべし。しかただに我が郡村の幸ひのみならず、延びて他の郡村にも及ばん。是に於いてか、ふ所の、聖明の沢に浴し、賢良の治を仰ぐは、いよいよ以てあらわるべきなり。因りて碑を建て其の事蹟を録し、あわせて請願する所の村名を記し、以て他日の紀念にきょうすとふ。
 明治十六年癸未秋九月愛知県令国貞廉平てんがく
     尾張国西にし春日井かすがい郡新川沿村請願人民謹んで誌す。

      ひら村    てら村    阿原あわら
      須ヶすかぐち村   つぼ村   西にしほり
      おき村     西にしなか村   しもごう
      あさ村    助七すけしち新田   清洲きよす
      土器かわらけ新田  しま新田   十四村

*洗堰 愛知県西春日井郡味鋺村(現名古屋市北区落合町あたり)にある新川洗堰(または庄内川洗堰、味鋺川洗堰とも)のこと。新川洗堰の造成は近世中期にさかのぼる。そのころ土砂で庄内川の河床が上昇し、沿岸諸村の被害がひどかったので、尾張藩の主導で天明4年(1784)に治水工事が始まった。味鋺村内の庄内川右岸堤防を一段低くして分流し、右岸側に並行して新たな川(新川)を掘り伊勢湾までつなげた。この低くなった部分を、洗堰という。

*始 初めての、初度の、との意と見られる。

*新川 「*洗堰」参照。

*往 いたるの意と見られる。

*聖明 天皇。

*明府賢良 明府は、地方長官の敬称。ここでは愛知県令。

*荘内川 庄内川。愛知県西部を流れる川。現名古屋市の北部、西部を流れて伊勢湾に注ぐ。

*暴水泓漲 暴水は、乱流。泓漲は、水深が深くなり水が満ち溢れる。熟語として一般的には使用されない。

*一年 或る年。

*堰埭 堰も埭も、セキの意。新川洗堰のこと。

*安場君保和 安場保和(1835~99)。明治時代の官僚。もと肥後熊本藩士。福島県令・愛知県令・福岡県知事・北海道庁長官等を歴任。

*大書記官 愛知県の役職。長官を補佐し、その事務を分担する。

*属官長君重 属官は、明治の官制で、官庁の職員の一つ。上官の指揮を受けて庶務に従事した。長君重は、名字が長、名前が重の人物(来歴未詳)。

*甫 ようやく。やっとのことで。

*味鋺 新川洗堰のある愛知県西春日井郡の味鋺村のこと(現名古屋市北区楠町味鋺のあたり)。

*海東郡之東部 海東郡は、愛知県西部の郡。同郡の東部(現海部郡大治町、名古屋市中川区・港区)を新川中下流が流れる。

*洪漲 およそ、水があふれみなぎるとの意と見られる。熟語として一般的には使用されない。

*石堰 洗堰の石造部分。

*告官 官に申請する。

*稼穡 農業。

*民庶 庶民。

*鼓腹 腹鼓(はらつづみ)をうつこと。世の中がよく治まり、食が足りて安楽なさま。

*所請願之村名 本来「村之請願者」とあるべきところ。ここ以外にも文法的な誤りや、不適当な字句が少なくない。

*西春日井郡 愛知県西部の郡。郡区町村編制法により明治13年(1880)春日井郡が東西に分かれたことによって成立。

*平田村・・・ 14村すべて愛知県西春日井郡の村。新川沿岸の村々で、ほぼすべて右岸域に所在。「平田村」は、現名古屋市西区平中町などに相当。以下列挙していくと、「寺野村」は、現清須市寺野。「阿原村」は、同市阿原。「須ヶ口村」は、同市須ケ口。「九之坪村」は、北名古屋市九之坪。「西堀江村」は、清須市西堀江。「沖村」は、北名古屋市沖村。「西田中村」は、清須市西田中。「下之郷村」は、同市春日。「朝日村」は、同市朝日。「助七新田」は、同市助七。「清洲村」は、同市清洲。「土器野新田」は、同市土器野。「加嶋新田」は、北名古屋市加島新田。

画像

全景 (撮影日:’23/03/13。以下同じ)
碑面
碑面 下部
碑面 左下部
題字
洗堰底部から庄内川下流方向に碑を見る。
洗堰は、右岸堤防より低いことがわかる。
洗堰底部から庄内川下流方向に碑を見る。
庄内川右岸から碑ごしに上流をみる。
低いところが新川洗堰。

その他

補足

  • 本資料は、『山田村誌』などに収載されている。判読困難文字は、本書を参考にした。
  • 近世における洗堰の増築、新川の開鑿について記した「水埜士惇君治水碑」は、こちら

参考文献

  • 『山田村誌』(山田村誌編纂委員会、1956年)8頁。

所在地

修理洗堰碑 および碑文関連地 地図

所在
新川洗堰・庄内川右岸|愛知県名古屋市北区落合町

アクセス
城北線 比良駅 下車 徒歩 約15分
庄内川方向に南下し、愛知県道162号沿いにあり

編集履歴

2024年4月12日 公開
2024年4月30日 小修正
2024年5月7日 小修正

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