正受翁遺愛碑 -名古屋東部 いまとむかし-

正受翁遺愛碑
概  要

 尾張藩領名古屋なごや新田しんでんしんでんがしら・兼松源蔵(しょうじゅおう)の功績を顕彰する碑である。名古屋新田は、名古屋城下から東方の丘陵諸村に散在する田畑。新田というが、畑地が大半を占める。兼松家は城下町人に出自し、開発の褒賞で新田頭を世襲した家で、行政・徴税を担い年貢を藩に上納してきた。年貢収取の過程で耕作者は銭納せんのうするのが一般的だったが、翁が就任する18世紀後半ころになるとぜに相場が下落し、結果的に藩への年貢が減少した。回復を目指す藩の意向を受け、翁は、城下を出て東の原野に屋敷を構え、自ら主宰して池の開鑿かいさくや稲田の開墾を行う。果たして年貢高は回復し付近には村落も形成された。翁没後も村人は生活のかてを得て定住したが、これは翁が遺した仁愛じんあいといえる。これらの功績と仁愛の顕彰のため、十三回忌に当たる文政2年(1819)、子息たみすけにより屋敷東方の塚に建碑(近年東に移設)。屋敷地・村落と開鑿池とのほぼ中間にあたり、功績顕彰にはふさわしい地だろう。

 城下周縁部に当たるこの地域は、明治期以降の名古屋の都市化のなかで、丘や池、田畑の広がる風景は一変し、一村落の形成など最早比較にならないほど、商業施設と住宅が密集する地域になった。二百年立ちつづけ語りつづけてきた本碑から知られることは、当時の社会経済的な状況や一翁の努力・功績はもとより、むしろ古今変容の激しさである。

資料名 しょうじゅおうあい
年 代 文政2年(1819)
所 在 公道脇(すいどうみち緑道 東端)|愛知県名古屋市千種区振甫町四丁目
 北緯35°10’25″ 東経136°57’07”
文化財指定      
資料種別 石碑
銘文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は題字による。
ID 0038_2404

目次

翻刻

「正受(題字)翁遺愛碑」
古屋新田長、素有二家。世以祖業、迪前〔蹤ヵ〕、属県令。兼松民弼、其父正受翁、殊有中興之績。於是、乞予勒其行状、以彰
其勲績。翁諱有常。俗称初曰源蔵、後曰宗右衛門。号正受。為人、暢淡雅、俐世〔務ヵ〕。蓋二家之祖、万治年、捜索〔所ヵ〕府之
有七村中不毛地、自費若干金、新墾頃隴。而後検其地、凡額二千七百七十石。号曰那古野新田。拠其事蹟、二家世為長、
頒給〔口ヵ〕若干、除徭役、免許佩刀、正登 城拝謁、以為規、冠于庶民。翁、安永五年、為新田長。而皐闔境、経〔歴ヵ〕〔星ヵ〕
夫頻衰耗、地主多逋負。天明年、及小笠原九郎右衛門源長幸為大県令、然嘆息、与翁議之。翁曰、量其地形、墾卑開田、鑿池
灌水、獲地利。令為善。翁択皐池内地、以為魁、以為基。墾若干田、鑿池于砲阪隈、疏渠沃水。翁復告令曰、今量畬、無
著于茲、為主宰者。則其〔籌ヵ〕豈可成乎。由是、翁乞土著池内、自為主宰、益田力。令許之。寛政元年、遂移宅于池内、営棟宇。
始図終、竭力躬耕、始墾田凡六町六段。営〔園ヵ〕宅地、設山水、餘力遊心。因号遊心亭。令喜語翁曰、使民土著、闢一落、汝為功
最大。翁請更名宗右衛門。令応言曰、汝竭力墾田。可謂興之宗矣。善哉、名宗。翁、延享二年八月十八日生、文化四年十二月
十九日没。年六十三。葬于屋街聞安寺。男民弼、嗣家為新田長。承其績、仮山地、疎鑿洞渠、墾田凡二十四町。以其税
則復旧之績取之上裁、正朝儀、逾庶民班、拝謁於 者大夫称名 君前。又除宅税。其 恩賞、不亦幾乎。今茲翁抵
有三回忌辰。於是、要刻功玄石。愛村落、建碑于宅東塿上、号曰愛碑。銘曰、茲正受、簣墾荒。応府命、力評量。〔闢ヵ〕
頃畝、立一区郷。弘裘業、増孫良。〔先ヵ〕人布績、後裔方。維宗維績、遺愛無疆。

  〇側面
          県令長   口好古誌
文政二年己卯秋九月 
          那古野新田長兼松民弼建

  〇傍石柱
兼松氏名古屋新田開墾(以下読メズ)
其梗概勒在正受翁遺(以下読メズ)
昭和六年五月 有志総代(以下読メズ)

現代語訳

〔1.名古屋新田の来歴〕
しょうじゅおうが遺した仁愛を記した碑
名古屋新田のしんでんがしらには、昔から二つの家がある。(尾張藩領田地を管理する)だいだいかんに属しつつ、祖先がはじめた家業を代々誠実に継承してきた。兼松かねまつたみすけの父しょうじゅおうは、特に中興の功績があった。そのため、行跡を(石に)刻んでその功績を顕彰したいと、(現大代官である)私に請願してきた。翁のいみなありつね。俗称は、はじめ源蔵といい、後に宗右衛門といった。法号は正受である。その人柄は、のびやかであっさりしていて品があり、世の仕事を利口にこなす。恐らく二家の祖先は、万治年間(1658~61)、名古屋城下に隣接する17ヶ村の中に不毛の地を探し求め、若干の資金を自ら投じ、せんけいもの面積にわたって丘陵地を開墾した。後に検地すると総計2770石だった。これは名古屋新田と名付けられた。この事跡のため、二家は新田頭を世襲することとなり、くちまい若干を賜与され、(藩による新田の地への)労役賦課は免除された。佩刀が許され、正月に名古屋城に入り(藩主に)拝謁できる家格とされ、(そうして)庶民より一段上の身分とされたわけである。
〔2.新田経営の悪化と新田頭 兼松正受翁〕
安永5年(1776)、翁は新田頭となった。年月が流れ、(新田が散在する)東部丘陵では全域にわたり、(ぜに相場の下落が原因で)農夫は著しく衰えてしまい、地主は(藩に対して租税が納めきれず)負債が多かった。天明の頃(1781~89)、小笠原九郎右衛門が大代官となると、驚いて茫然となり嘆かわしさでため息が漏れた。翁とともにこのことを議論すると、翁は「地形を鑑みると、低地を開墾して田地をつくり、池を掘って水を(田地に)そそげば、ほぼ確実に地の利を得ることができましょう」と言った。大代官はそれを裁可した。翁は、東部丘陵の池内いけうちという地を選び、ここを(開墾の)魁とし、(租税復興の)基礎とした。若干の面積の田地を開墾し、(池内より東方に所在する)鉄砲坂の奥まったところを掘って池となし、(池内の開墾田まで)水路を通して水を注いだ。
〔3.正受翁の土着と村落の形成〕
翁は再度大代官に「ここ数年で新しく開墾した田地を今(あらためて)鑑みてみますと、土着して(農作業を)主管する人がここにはおりません」と申した。このため翁は、租税を益々増大させんがため、池内の地に土着して自ら主管人となることを請願した。大代官はこれを許可した。寛政元年(1789)、遂に居住地を池内に移し、居宅を造営した。事業を成し始めた時に終末までの道程を慮り、力を尽くして自らも耕し、ようやく総計6町6段の田地を開墾することができた。敷地に庭園を営み、さんすい(築山と泉水)をつくって、余暇には心を遊ばせた。そのため(この庭園・邸宅を)ゆうしんていと名付けた。大代官は喜んで翁に語った。「民を土着させ、一村落がひらかれた。あなたがその一番の功労者だ」と。翁は、名前を宗右衛門に変えたいと請願した。大代官は答えて、「あなたは、力を尽くして(名古屋新田の)田地を開墾した(そして租税収入を回復させた)。中興の祖というべきであろう。「宗」(祖の意味)と名乗ってよいであろう」と言った。翁はえんきょう2年(1745)8月18日に生まれ、文化4年(1807)12月19日に没した。享年63。(名古屋)たまちょうもんあんに葬られた。
〔4.子息民弼の継承と更なる開墾〕
息子の民弼が家を継いで新田頭となった。その有り余る財産を継承し、丸山まるやま村の地を借りて猫洞ねこがほら池から水路を開鑿かいさくし、合計24町の田地を開墾した。租税額が昔にもどった功績に基づき(褒美を)藩に請願すると、正月の藩の儀式に藩主に拝謁できるようになり、庶民の身分より上に位置することとなったし、拝謁の際には、大夫の称号を藩主の前で名乗ることができるようになった。また宅地への租税を免除された。それらの恩賞は、少ないということがあろうか。
〔5.建碑の経緯〕
今ここに翁の十三回忌をむかえた。そこで、功績を碑石に刻むことを(大代官樋口よしふるに)求めてきた(そして許可した)。(翁が)仁愛じんあいを遺したこの村において、屋敷東方の小高い丘の上に碑を建て、あい(故人が後の世に遺した仁愛の碑)と名付ける。めい(詩)にいわく、
〔6.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
ああここに正受翁よ、もっこ●●●で少土を運び運んで荒れ地を耕す。
大代官の命を受け、全力で考えをめぐらした。
けいもの広大な地を切り開き、一つの集落をつくり成す。
父祖から受け継いだ家業を拡大し、子孫の財産を増したのだ。
先祖は功を積み重ね、子孫は同じように継いでいく。
ああ(中興の)始祖よ、その功績よ、後世に遺した仁愛は限りない。
          大代官    樋口好古よしふる 記す
文政2年(1819)9月 
          名古屋新田頭 兼松民弼 建てる

訓読文・註釈

〔1.名古屋新田の来歴〕
しょうじゅおうあい
新田しんでんちょうもとより二家有り。鼻祖びそぎょうを以て、まことぜんしょうみ、だいけんれいに属す。兼松かねまつたみすけ、其の父しょうじゅおう、殊に中興のせき有り。ここに於いて、に其の行状をきざみ、以て其のくんせきあらはさんをふ。翁、いみなありつね。俗称、初め源蔵と曰ひ、後に宗右衛門と曰ふ。法号、正受。為人ひととなりかんちょうにしてたんせいれいたり。けだし二家の祖、まんの年、じょうとなる所の十ゆう七村中もうの地をさがもとめ、自ら若干金をついやし、新たにせんけいろうこんず。しこうして後、其の地をけんするに、およそ額二千七百七十石。号して新田と曰ふ。其の事蹟に拠りて、二家、世よちょうり、こう若干をはんきゅうし、徭役ようえきけんじょし、はいとうを免許せられ、しんせいに登城し拝謁するを以てし、庶民にかんたらしめらる。

*那古屋新田長 名古屋新田の新田頭。下記補足参照。

*鼻祖 ある物事を最初に始めた人。元祖。

*允迪 誠実な心でふみ行う。

*大県令 尾張藩領の地方行政を総括した大代官のこと。なお県は、古代中国の郡県制、すなわち行政単位として郡の下部に県がある行政制度を念頭に置いた表現。中国の郡-県を、日本の国-郡とおおよそ対応させている。

*法号正受 正受は、仏教用語のそれ(三昧の意)と見られるので、ショウジュと読んだ。

*簡暢淡雅 簡暢は、伸びやかなさま。淡雅は、あっさりしていて品があるさま。

*伶俐世務 伶俐は、利口なこと。世務は、世の中のつとめ。要するに新田頭としての行政的な仕事。

*城府 名古屋城下。

*十有七村中不毛地 下記補足参照。

*千頃隴 頃は、土地の面積の単位。千頃は、広大な土地の意で、現実の面積を表しているわけではないと考えられる。隴は、小高いおか。

*口資 「口之資」「糊口之資」(生きていくのに必要な物資)の略語と見られるが、ここではいわゆる口米(くちまい)を指すと考えられる。口米は、主君の領地を管理する代官が、年貢のほかに一定割合で徴収する米穀で、年貢徴収に伴う経費・対価として代官側に給された。

*蠲除徭役 蠲除は、租税などを免除する。徭役は、労役。ただし新田頭本人への労役免除の意ではなく、本来賦課されるべき労役を名古屋新田では免除したとの意と考えられる。名古屋新田は大半が畑地で、生産力や居住者が少なかったため、免除されたと考えられる。もちろんいわゆる年貢は賦課され物納された。碑文中「税」とは、物納の年貢のこと。

*新正 正月。

*家規 家格。

〔2.新田経営の悪化と新田頭 兼松正受翁〕
翁、安永五年に新田長と為る。而して東皐とうこうこうきょう星霜せいそう経歴けいれきして、こうすこぶ衰耗すいこうし、しゅ多し。天明の年、小笠原九郎右衛門源長幸の大県令と為るに及び、ぜんとして嘆息たんそくし、翁とともに之を議す。翁曰く「其の地形を量るに、ひくきをこんじて田を開き、池をりて水をそそげば、るにちかし」と。れいしと為す。翁、東皐池内いけうちの地をえらび、以てさきがけと為し、以てもといと為す。若干の田を墾じ、池を鉄砲てっぽうざかくまり、きょとおして水をそそぐ。

*東皐闔境 東皐は、直訳すると東の丘。ここでは名古屋城下の東方の丘陵地のこと。闔境は、その境域のいたるところで。

*星霜 年月。

*畊夫頻衰耗、地主多逋負 畊夫は、田畑をたがやす男。作人。地主に対して地子を納めなければいけない。衰耗は、衰え弱ること。地主は、名古屋新田各所の田畑を所有する者。作人から地子を収める権利を持ち、(新田頭を介して)尾張藩へ年貢を納める義務を有する。逋負は、未払いの租税や負債があること。詳しくは下記補足参照。

*憮然嘆息 憮然は、意外な出来事に驚いて茫然とするさま。嘆息は、なげいてためいきをつくこと。

*幾 ほとんど達している。

*東皐池内 東皐は、「*東皐闔境」参照。池内は、名古屋城下の東方の地。現在の名古屋市東区筒井三丁目あたり。同地にある名古屋市の公園「池内本町どんぐりひろば」は遺称地。建中寺の東南。碑文作成時は、愛知郡古井村のうち。

*鉄砲阪隈 鉄砲阪は、現名古屋市千種区田代町岩谷あたりにある傾斜地。隈は、奥まったところ。物陰。兼松源蔵がここに掘った池は、後世鉄砲坂池と呼ばれたが、現在は存在しない。

〔3.正受翁の土着と村落の形成〕
翁、た令に告げて曰く「今葘畬しよを量るに、ここちゃくし、主宰しゅさいと為る者無し。則ち其のはかりごとに成るべけんや」と。れにりて、翁、池内に土著し、自ら主宰と為り、田力たちからえきせんを乞ふ。令、之を許す。寛政元年、遂に宅を池内に移し、とうを経営す。始めをけいし終りをはかり、力をつくみずから耕し、始めて田を墾ずること凡そ六町六段。園を宅地に営み、さんすいを設け、りょくに心を遊ばす。因りてゆうしんていなづく。令、喜び翁に語りて曰く「民をして土著せしめ、一村落をひらくは、なんじこうすこと最も大なり」と。翁、名を宗右衛門にへんをふ。令、言にこたへて曰く「汝、力を竭して田を墾ず。中興のそうふべし。善きかな、宗とめいずるは」と。翁、えんきょう二年八月十八日に生まれ、文化四年十二月十九日に没す。年六十三。たまもんあんに葬る。

*葘畬 新しく開墾した田。

*土著 土着。

*籌 はかりごと。計画。

*埤益田力 埤益は、多く増し加える。田力は、租税。

*経営棟宇 経営は、縄張りして普請すること。棟宇の原義は、家屋のむねと軒(のき)。要するに家屋のこと。

*経始図終 経始は、物事を始めること。図終は、事業の完了をおもいはかることを意味すると見られる。

*仮山水 庭園の築山(つきやま)と泉水。

*村落 ここでいう村落は、行政単位となり得るほどの村でなく、集落ほどの意。

*中興之宗 中興の祖。

*玉屋街聞安寺 玉屋街は、玉屋町(現名古屋市中区錦三丁目)。聞安寺は、同町の真宗寺院(現在地は同前)。

〔4.子息民弼の継承と更なる開墾〕
男民弼、家をぎて新田長と為る。其のせきけ、円山まるやまの地をり、猫洞渠ねこがほらきょとおうがち、田を墾ずること凡そ二十四町。其の税の、則ち旧にふくするの績を以て之をじょうさいしゅするに、新正しんせいちょうに、庶民のはんえて、朝に拝謁し、えっすれば大夫の称を君前になのる。又た宅税をのぞかる。其の恩賞、いくばくならざらんや。

*餘績 多くの財産。

*円山 名古屋城下の東方の愛知郡丸山村(現名古屋市千種区丸山町あたり)のこと。

*猫洞渠 猫洞すなわち猫ヶ洞池は、名古屋城下の東方の池。現存(現名古屋市千種区平和公園)。寛文年間(1661~73)に開鑿。近隣諸村の灌漑に供された。古井村・丸山村もそれに含まれる。

*新正朝儀 新年正月の君臣対面儀式。

*朝 尾張藩主のこと。

*謁者大夫称名君前 解釈難。現代語訳は試案。

〔5.建碑の経緯〕
今茲に翁、十ゆう三回しんいたる。是に於いて、功をげんせききざまんことをもとむ。あいの村落に、碑を宅東たくとう培塿ほうろうの上に建て、号して遺愛碑と曰ふ。銘に曰く、

*十有三回忌辰 十三回忌。

*遺愛 遺愛は、故人がこの世に残した仁愛の風。仁愛のこころで田地を開墾したことにより村落が形成され、そこに住む人々は、正受翁の没後も彼の遺した仁愛を被り、生活の糧を得られている。そのことを踏まえた表現。

*培塿 小高い丘。下記補足参照。

*遺愛碑 遺愛は、「*遺愛」参照。中国・日本を問わず、「〇〇遺愛碑」と題する碑文は少なくない。

〔6.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
れ茲に正受、くつがえこうを墾ず。
めいの命に応じ、てんりょくしてひょうりょうす。
せんけいひらき、一区の郷を立つ。
きゅうぎょうを弘め、子孫の良を増す。
先人せきつらね、後裔こうえい方を嗣ぐ。
そう維れ績、遺愛かぎり無し。

  〇側面
          県令けんれいちょう   樋口好古よしふる誌す
文政二年己卯秋九月 
          那古野新田長兼松民弼建つ

*惟茲正受・・・ 四言詩。韻字、荒・量・郷・良・方・疆(下平声七陽)。

*覆簣 もっこで土を運ぶように、少を積んで功を成すこと。

*明府 地方長官の敬称。ここでは、尾張藩領内の地方行政長官すなわち大代官のこと。

*展力評量 展力は、尽力する。評量は、考えはかる。

*千頃畝 千頃は、「*千頃隴」参照。畝は、土地の面積の単位で、頃の下部単位。「千頃畝」は、「千頃」というのと同じ。要するに広大な面積。

*箕裘 父祖の遺業。

*子孫良 解釈難。現代語訳は試案。

*嗣方 方は、みち。父祖が切り開いた事業を継承していくということ。

*樋口好古 1750~1826。江戸時代の農政家。尾張藩士。浪人であったが藩の下級役人に召抱えられ、度々の昇進をとげて大代官・書物奉行などを歴任。治民の志あつく農政の書を著すほか、尾張・美濃・近江の領内巡視で得た、各村の現況・来歴などの民政関係事項からなる『郡村徇行記』を記した(文政5年(1822)脱稿)。

画像

全景
全景
碑面
碑面(23MB)
※スマホアプリ「ひかり拓本」使用。
題字
側面
上部
上部

※撮影日は2023年1月、2024年3月、同年4月のいずれか。

その他

補足

  • 名古屋新田について
    • 概要
      名古屋城下近隣の諸村に散在する田畑。新田とは名ばかりで、大半を畑地が占める。万治年間(1658~61)以降、兼松氏・小塚氏が開墾した地。両氏はもともと城下の町人で、この新田はいわゆるちょうにんうけおいしんでんに当たる。両氏は、藩からしんでんかしらに任命され、だいだいかんの指揮下のもと、行政・徴税を担当した。碑文にもある通り兼松氏は、後に城下を離れ田地経営のため池内いけうちの地に土着した。
    • 所在地
      碑文が言及する「十有七村」すなわち名古屋新田の田畑が所在する17村を挙げると、名古屋村(現名古屋市西区城西三丁目)、前津小林村(同市中区上前津)、御器所村(同市昭和区御器所)、古井村(千種区今池)、本井戸田村(瑞穂区井戸田町)、北井戸田村(瑞穂区津賀田町)、大喜村(瑞穂区大喜町)、本願寺村(瑞穂区本願寺町)、中根村(瑞穂区中根町)、石仏村(昭和区石仏町)、河名村(昭和区川名町)、八事村(昭和区八事本町)、丸山村(千種区丸山町)、伊勝村(昭和区伊勝町)、末森村(千種区末盛通)、鍋屋上野村(千種区鍋屋上野町)、大曽根村(東区大曽根)である(『郡村徇行記』)。城下東部の丘陵地が多い。
    • 地主と耕作者
      新田各所の田畑には、藩関係者をはじめ寺院・神社・農民・商人など多くの地主があった。彼らは、耕作人からは地子(小作料)を収取する権利を持ち、藩に対しては年貢を上納する義務があった。地子は銭納、年貢は金納が通常だった。
    • 耕作者と銭
      耕作人は、零細な畑作従事者が多かったと見られ、その渡世や利益獲得の内実は、多くの人馬が密集する城下の住人に対して畑地生産物を売ることだったと考えられる。各人、少額売買が基本であろうから、決済手段として銭を用いていたと考えられる。地子が銭納なのは、このようなことが背景にある。
    • 銭相場の下落
      天明(1781~89)のころまでには、銭相場の下落(銀・金・米に対して銭の価値が下がる)により、銭を蓄財していた耕作人達は、保有財産の価値が目減りして疲弊した。地主達にとっては、収入する銭に対して上納する金の負担が重くなり、藩などに負債を抱えたり、藩に地主の権利を譲渡したりした。碑文の「畊夫頻衰耗、地主多逋負」とは、以上の状況を指す。
    • 兼松氏の開発の背景
      上記の銭相場の下落は、結果的に名古屋新田からの年貢の減少をもたらした。碑文で大代官小笠原九郎右衛門が「嘆息」して兼松正受翁と議論したのはこのことで、年貢回復のため、翁や子の民弼が、灌漑整備や田地開墾をしたわけである。
  • 本碑文は、『名古屋人物史料』(写本)や『愛知県金石文集 上』に収載されている。ただし脱漏・改変が多い。本碑は摩耗が激しく、判読不明な字は、これらを参考とした。
  • 本碑は、2012年まで現在地より西方にある塚の上に所在した(名古屋市千種区高見一丁目16番。塚は滅失)。ここは兼松正受翁が建てた邸宅の地(「池内」。現東区筒井三丁目)のほぼ真東に当たり、碑文にいう「宅東たくとう培塿ほうろう」と考えられる。邸宅と、翁が開鑿した鉄砲坂池(千種区田代町岩谷)のちょうど中間地点に当たる。
  • 2012年の移設についての詳細が、高見学区連絡協議会ウェブサイトに掲載されている(こちら〔2024年4月閲覧確認〕)。
  • 掲載画像の一部は、奈良文化財研究所のアプリ「ひかり拓本」を使用して撮影・作成した。
  • 同一撰者の「水埜士惇君治水碑」は、こちら

謝辞

  • 高見学区連絡協議会の元会長・大野鉦三様より、2012年石碑移設時に撮影した写真を頂戴し、この度の解読に利用させていただきました。ここに記して感謝申し上げます。

参考文献

  • 『郡村徇行記』那古野府城志・巻上(『名古屋叢書 第九巻 地理編(4) 名古屋府城志 尾張徇行記(一)』(名古屋市教育委員会、1963年)81~3頁)。
  • 『名古屋人物史料』巻二十二(写本。名古屋市図書館所蔵、請求記号:市11/23/113)28丁~29丁。
  • 『愛知県金石文集 上』(愛知県教育会、1942年)469~71頁。
  • 田中重策編『尾張国愛知郡誌 上編』(駕竜閣、1889年)44丁ウ。

所在地

正受翁遺愛碑 および碑文関連地 地図

所在
公道脇(すいどうみち緑道 東端)|愛知県名古屋市千種区振甫町四丁目

アクセス
名古屋市営地下鉄東山線 池下駅 下車 徒歩 約15分
すいどうみち緑道の東端にあり

編集履歴

2024年4月19日 公開
2024年4月24日 小修正
2024年4月30日 小修正

目次