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幕府討伐や新政府樹立に多大な貢献を成した長州藩藩主・毛利敬親の顕彰碑。墓前の参道脇に立ち、いわゆる神道碑に当たる。敬親は早くから海防の重要性を唱え勤王の志しを抱き、孝明・明治天皇に尽くして倒幕、ついで天皇親政の実現に功があった。天皇との関係を軸にその輝かしい事跡が、一句四言を連ねた漢詩で高らかに述べられている。詩は全体的に簡潔で、正しい解釈はおろかここから詳細な事跡を知ることは困難。むしろ既知を前提として、墓参する読者に対し文学による感動を起こさせようという、造立者側の意図が窺える。没後四半世紀を経た明治29年(1896)、勅により銅碑造立が命ぜられた。碑は巨大な銅製四角柱で、上部をアーチ状に成形し、前面に端正な字を陽鋳する。整然と敷き詰められた広幅の石畳を進むと、常緑の松に囲まれて深い緑青色の本碑が立ち、シンプルな形状ながらも、この空間と溶け合って静かな美しさと厳かさがある。たとえ銘文を読まなくとも功績の大きさが十分に感ぜられよう。
維新期の勲功顕彰のため、勅命によって同様形状で建てられた銅碑は、本碑を含め全国に数基ある。威信をかけて撰文・造立がなされたと思われ、時代を代表する碑の一つ。現代では伊藤博文・山県有朋・高杉晋作などの方が長州出身者としてはるかに有名だし、維新への貢献が顕著なのは明らかだが、彼らを抜擢し指揮し命を下した主君が、明治社会では著しい勲功者と見なされていたことが目に見えてわかる文化財。
資料名 従一位毛利公偉勲銘
年 代 明治29年(1896)
所 在 香山公園内 萩藩主毛利家墓所 参道脇|山口県山口市香山町
北緯34°11’20″ 東経131°28’19”
文化財指定
資料種別 銅碑
銘文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は篆額による。一般的な呼称は「勅撰銅碑」。
ID 0039_2404
翻刻
「贈従一位毛利公偉勲銘」
参謀総長陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
故長防国主贈従一位毛利公偉勲銘
公諱敬親、字子常、姓大江。其先、出自天穂日命、世列卿相。弘治中、贈従三位元就与其
子備中守隆元、奉 詔討賊、領山陰・山陽十餘州。公即三位十六世之孫、歴事
先帝・
今上両朝、出師戡乱。為中興佐命元勲、増封陞秩、至従二位権大納言。明治辛未三月
二十八日薨。贈従一位。今茲丙申、 勅建銅表、使臣剛銘焉。銘曰、
武臣跋扈、 手操国綱。 誰弁大義、 首倡勤王。 外寇出没、 環視四疆。 誰画長策、
首修海防。 国用窮乏、 誰設儲倉。 風教衰替、 誰開序庠。 時哉時哉、 天発禎祥。
篤生偉人、 大来吉亨。 天子曰格、 重任在卿。 公拝稽首、 誓荅聖明。 錦旆一麾、
東軍致城。 国是一定、 殊俗同盟。 彼頑而傲、 合従連衡。 公奮厥武、 経営告成。
雖則武成、 文治未昌。 抜才挙傑、 薦之廟堂。 曰我従政、 必也正名。 普天王土、
義不可攘。 乃還版図、 先撤保障。 列侯聞風、 納地釈兵。 五畿八道、 東西二京。
同文同軌、 謳歌洋洋。 凡此偉勲、 頼公忠貞。 賜誄贈爵、 煥乎天章。 吉敷之郡、
香山之塋。 勒銘金石、 日月争光。
明治二十九年一月
宮中顧問官従三位勲四等文学博士川田剛奉 勅撰
錦鶏間祗候正三位勲二等野邨素介奉 勅書
現代語訳
〔1.来歴および建碑の勅諚〕
故長防国主贈従一位毛利公偉勲銘
公の諱は敬親、字は子常、姓は大江である。その祖先は天穂日命より分かれ、代々公卿に列してきた。弘治年間(1555~57)、贈従三位毛利元就とその子備中守隆元は、勅命を受けて賊徒を討伐し、山陰・山陽の10国余りを領有することとなった。敬親公は、三位元就の16世の子孫である。先帝(孝明天皇)・今上(明治天皇)両朝廷にお仕えし、兵を出して内乱を平らげた。天子の命を奉じ、王政復古という大業を助けた功績は偉大で、そのため禄を増加され官位を上げられ、従二位権大納言に至った。明治4年(1871)3月28日に薨去した。従一位を追贈された。今年明治29年(1896)、勅命により、銅碑を建立し、わたくしめ川田甕江にこれの銘(詩)を作らせることとなった。銘は以下の通り。
〔2.勤王の志し 領国の善政 -銘 1-〕
〇以下押韻ごとに改行。
武臣(幕府)は好き勝手な振舞をなし、(天子を無視して)綱をとるように自ら国家を運営する。
(そんな時)誰が大義をわきまえ、最初に勤王の意思を主張しただろうか。
外敵が(海辺に)出没し、四方八方ぐるりとこちらを見ている。
(そんな時)誰が遠大なはかりごとをなし、最初に海辺防備を整えたのだろうか。
国家の経費支出が困窮している時に、(それを見越して)誰が非常用の備蓄倉庫を設けただろうか。
人倫教化が衰えている時に、誰が学校を開設しただろうか。
〔3.天皇と敬親 君臣の交わり -銘 2-〕
ああその時節であるのだなあ、(国家復興の予兆として)天がまさに(毛利敬親公という)瑞祥をお下しになったのだ。
まことに偉人が生れ、君臣が交わり共同する。
天皇が(敬親公に)仰せられる、来なさいと。(公を参議に任じ)役目を重くして公卿とした。
敬親公は(勅命を)お受けして深く首をたれ、(昇進の名誉を与えたもうた)聖天子にむくいようと誓ったのである。
〔4.戊辰戦争 -銘 3-〕
錦の御旗一枚で、幕軍は江戸城を明け渡す。
国家の方針は一つにまとまり、諸侯はともに盟約を交わした。
彼ら(幕府の残軍)はかたくなで傲慢。(北陸・東北諸藩と)あるいは縦に合わさり、あるいは横につながる。
敬親公は彼の兵力を励まし、おおいにつとみはげみ(終に戦争の)終結を(天皇に)報告した。
〔5.版籍奉還 -銘 4-〕
戦争の勝利には至ったが、文に基づく政治はいまだ道半ば。
才ある人材を選び抜き優れた人材を引き上げ、彼らを朝廷に推薦する。
公は言う「私が政治を行うかぎりは、必ず名と実質を一致させる。
(王政復古なったいま)天下はあまねく王の土地であって、その道理を無視してはならぬ」と。
そのため領地を(天皇に)お返しし、率先して城郭を撤却した。
諸侯はこれを噂に聞き、(天皇に対して)土地を納め兵権を手放す。
〔6.光り輝く功績 哀悼の勅書 -銘 5-〕
五畿も八道も、東京も京都も。
文字や轍が同じになるように諸制度は全国で統一され、(人民は王政復古を)盛大に褒めたたえる。
およそこうした素晴らしい事跡は、敬親公の忠義心、そして正しい信念を貫いたことに基づいているのだ。
(公薨去ののち)哀悼の辞を賜り爵位(従一位)を贈られたことは、天子の作りたもうた文章に輝かしく明らか。
吉敷郡に、香山の奥つ城。
金石に銘を刻み、(輝かしきその功績は)日や月と明るさを争うばかり。
明治29年(1896)1月
訓読文・註釈
〔1.来歴および建碑の勅諚〕
「贈従一位毛利公偉勲銘」
参謀総長陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
故長防国主贈従一位毛利公偉勲銘
公、諱敬親、字子常、姓大江。其の先、天穂日命に出自し、世よ卿相に列す。弘治中、贈従三位元就と其の子備中守隆元と、詔を奉りて賊を討ち、山陰・山陽十餘州を領す。公、即ち三位十六世の孫にして、先帝・今上両朝に歴事し、出師して乱に戡つ。中興佐命の元勲の為め、封を増し秩を陞められ、従二位権大納言に至る。明治辛未(四年)三月二十八日薨ず。従一位を贈らる。今茲に丙申(二十九年)、勅して銅表を建たしめ、臣剛をして焉に銘ぜしむ。銘に曰く、
*彰仁親王 小松宮彰仁親王(1846~1903)。幕末~明治時代の皇族、軍人。伏見宮邦家親王王子。戊辰戦争にあっては会津征討総督に任ぜられた。陸軍大将、元帥等を歴任。
*故長防・・・偉勲銘 「長防国主」は、長門・周防両国を領した長州藩の藩主。「毛利公」は、毛利敬親(1819~71)。偉勲は、偉大な功績。没後すぐに下された勅書にも「偉勲」と書かれており(「*賜誄・・・」参照)、天皇お墨付きの評価。銘は、金石にしるされた韻文。本文章は前後半からなり、後半の「武臣跋扈」以降の韻文がまさに銘に相当し、主たる部分。前半の「公諱敬親」以降の散文が銘の序文に相当し、副たる部分。
*世列卿相 卿相は公卿。大江匡房が代表的人物だが、古代・中世に大江氏族で公卿に列した人物は多くない。
*歴事 代々仕える。
*先帝 孝明天皇(1831~66、在位1846~66)。
*今上 明治天皇(1852~1912、在位1867~1912)。
*出師戡乱 出師は、軍隊をくり出すこと。戡乱は、争乱を平定する。
*中興佐命元勲 中興は、いわゆる王政復古を指す。佐命は、天命を受けた人物を補佐して、その大業を完成させること。元勲は、国家に尽くした大きな勲功。
*増封陞秩 増封は、封地を加増すること。陞秩は、官位を昇進させること。具体的には、明治2年(1869)6月に終結した戊辰戦争の戦功で、世禄10万石を賜り、従二位権大納言に叙任されたことを指す。
*銅表 銅標すなわち銅製の標示物。現代語訳では銅碑と訳した。
*臣剛 臣は、主君に対し臣下がへりくだって用いる自称。剛は、川田甕江(かわたおうこう、1830~96)。江戸後期~明治時代の代表的な漢学者。名は剛。備中の人。文学博士、学士会員になり、錦鶏間祗候、東宮侍読、宮中顧問官等を歴任。
〔2.勤王の志し 領国の善政 -銘 1-〕
〇以下押韻ごとに改行。
武臣跋扈し、手づから国綱を操る。
誰か大義を弁じ、首めに勤王を倡えしや。
外寇出没し、四疆に環視す。
誰か長策を画し、首めに海防を修めしや。
国用窮乏するに、誰か儲倉を設けしや。
風教衰替するに、誰か序庠を開きしや。
*武臣跋扈・・・ 以下の連句(計52句)は、偶数句末で押韻する四言詩(下平声七陽と下平声八庚の通押)と見られる。
*武臣跋扈手操国綱 臣たる幕府徳川将軍が、君たる天皇を無視して勝手気ままに国政をとることを述べる。
*誰弁大義首倡勤王 誰が最初に勤王を唱えたかと問いかけて、それが毛利敬親であることを暗に示す。以下同様の表現が続く。碑文草稿(下記補足参照)によれば、敬親は、19歳(天保8年=1837)で藩主を継承した際、「海内恬熙、而欧米各国争謀富強。公慨然欲紹祖志、興 王室、以禦外侮」とあるから、勤王を意識し始めたのはこの頃。
*外寇出没環視四疆 列強諸国が日本を狙っていることを述べた二句。外寇は、外敵。環視は、ぐるりととりまいて見ること。四疆は、四方八方。
*誰画長策首修海防 長策は、すぐれたはかりごと。修は、ととのえる。海防は、外敵が侵入しないように、沿岸を守ること。敬親が海防を意識し始めたのは、若年のころ(「*誰弁大・・・」参照)。
*国用窮乏誰設儲倉 国用は、国の費用。ここでは各藩の費用支出のための財源を意味すると見られる。儲倉は、非常用に備蓄する倉庫の意。碑文草稿によるとこの二句は、「天災流行、民散人亡。誰畜廩粟、豫備凶荒」の四句の縮約なので、天災・凶荒による対策を述べている。儲倉は、「撫育局」という、藩のクラを指すと見られる。敬親は倹約などをして一定の備蓄量を維持していたという。
*風教衰替誰開序庠 風教は、徳によって人民をよい方へ導くこと。衰替は、物事がおとろえて行なわれなくなること。序庠は、学校。碑文草稿によると、「斯文衰壊、士違義方。誰延師儒、開設序庠」の縮約。敬親は父祖の学業振興を継承し、儒者山県太華を招聘したり学制を整えたり藩校明倫館を充実させたりした。
〔3.天皇と敬親 君臣の交わり -銘 2-〕
時なるかな時なるかな、天は禎祥を発す。
篤く偉人を生じ、大来り吉にして亨る。
天子曰く格れ、と。任重くして卿に在り。
公拝して稽首し、聖明に荅へんを誓ふ。
*禎祥 めでたいしるし。よいしらせ。瑞祥。『中庸』「国家将興、必有禎祥。国家将亡、必有妖薛子」に基づく表現。敬親の出現が、国家復興の瑞祥というのであろう。
*大来吉亨 『易経』泰から引用文。それを説明する彖伝(たんでん)には、「上下交而其志同也」とある。要するに、天皇と敬親が、君臣和合して協同することが予期されるということ。
*天子曰格重任在卿 文久3年(1863)正月、敬親が孝明天皇と対面して天盃を賜り、さらに参議に任ぜられた(『忠正公略伝』)ことを述べた二句。「曰格」の訓みは、『書経』尭典「帝曰、格汝舜」などを参考。
*公拝稽首誓荅聖明 拝は、官を受ける。稽首は、頭をたれてうやうやしく礼をすること。荅は、むくいる。聖明は、天子。ここでは孝明天皇。
〔4.戊辰戦争 -銘 3-〕
錦旆一麾、東軍は城を致す。
国是一定し、殊俗同盟す。
彼頑にして傲、合従連衡す。
公厥の武を奮ひ、経営して告成す。
*錦旆一麾東軍致城 慶応4年(1868)、薩長を中心とする討幕軍が官軍として幕府を攻め、幕軍が江戸城を明け渡したことを述べた二句。錦旆は、錦の旗。官軍の証として賜った。一麾は、一つの旗。東軍は、幕府軍。致城は、致国(国を譲る)などの熟語を参考にすると、城の明け渡しを指すと見られる。
*国是一定殊俗同盟 国是は、国の方針。国是一定とは、慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令で幕府の廃絶が宣言され、天皇親政に基づく新政府が成立したことを指すと見られる。殊俗は、風俗がちがう人々。殊俗同盟とは、諸藩が同盟したことを示すと見られる。
*彼頑而傲合従連衡 慶応4年(1868)4月の江戸開城以降、幕府残軍と東北・北陸諸藩が連合して翌年まで新政府軍に対抗したことを述べた二句。
*公奮厥武経営告成 敬親が、新政府軍の長州藩兵を指揮して反乱軍を討伐し、明治2年(1869)6月、その鎮定を天皇に報告したこと述べる二句。
〔5.版籍奉還 -銘 4-〕
則ち武は成ると雖も、文治は未だ昌んならず。
才を抜き傑を挙げ、之を廟堂に薦む。
曰く我従政するに、必ずや名を正す。
普天王土にして、義は攘ふべからず、と。
乃ち版図を還し、先んじて保障を撤く。
列侯風に聞き、地を納め兵を釈つ。
*廟堂 朝廷。
*曰我従政必也正名 敬親の発言内容。次の二句も同様。従政は、政治をおこなう。正名は、名分をただす。名と実質を一致させる。
*普天 天下。ここでは日本全土。
*乃還版図先撤保障 版図は、領地。それを「還」すとは、版籍奉還のこと。明治2年(1869)正月、薩長土肥四藩は、諸藩に先んじて領地と領民の返還を奏上した。保障は、城塞。
*聞風 うわさに聞く。
〔6.光り輝く功績 哀悼の勅書 -銘 5-〕
五畿八道、東西二京。
文を同じくし軌を同じくし、謳歌洋洋たり。
凡そ此の偉勲、公の忠貞に頼る。
誄を賜り爵を贈られ、煥乎たり天章。
吉敷の郡、香山の塋。
銘を金石に勒み、日月と光を争ふ。
明治二十九年一月
宮中顧問官従三位勲四等文学博士川田剛勅を奉りて撰す
錦鶏間祗候正三位勲二等野邨素介勅を奉りて書す
*八道 東海道などの七道に、北海道を加えた言い方。維新政府は、明治2年8月、蝦夷地を北海道と改称した。
*同文同軌謳歌洋洋 文は、文字。軌は、車輪の幅。同文同軌とは、要するに新政府によって天下が統一され、諸制度・諸文物の規格が統一されること。謳歌は、声をそろえてほめたたえること。洋洋は、盛大なさま。
*忠貞 忠義と貞節。貞節は、正しい信念を堅く守ること。
*賜誄贈爵煥乎天章 誄は、死者に対する哀悼の辞。贈爵は、位を賜うこと。煥乎は、明らかなさま。天章は、天子の作った文章。明治4年(1871)3月の敬親死没の後、4月15日付けの勅書が下され、その功績を称賛し従一位が贈られた。
*吉敷之郡香山之塋 吉敷郡は、周防国(山口県)西端の郡。長州藩藩庁があった山口を含む。香山は、山口の北の山。塋は、墓地。敬親は、山口の香山に葬られた。
*日月争光 敬親の功績は、太陽や月の輝きにも匹敵するほど偉大だということ。『史記』屈原賈生列伝第二十四「雖与日月争光可也」を踏まえた表現。
*野邨素介 野村素介(1842~1927)。幕末~明治時代の武士、官僚。長州藩士。藩校明倫館の舎長となる。維新後、文部大書記官、貴族院議員を歴任。書家としても知られる。
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碑前に至り左に折れて進むと敬親の墓所がある
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その他
補足
- 本碑文には草稿が伝わっており(外題「贈従一位毛利公神道碑」)、草稿をかなり縮約したものであることがわかる。本碑文解釈の参考にした。
- 本碑文を解説した書籍として、『毛利忠正公盛徳記』がある。解釈の参考にしたところがある。
参考文献
- 川田剛撰「贈従一位毛利公神道碑」(紙本墨書、明治18年頃写、国立国会図書館蔵、請求記号:宍戸璣関係文書(その二)99 第1分冊)。
- 作間久吉『毛利忠正公盛徳記 附録 香山勅碑銘義解』(作間久吉、1924年、国立国会図書館所蔵本を使用(請求記号:特111//349))。
- 村田峰次郎編『忠正公略伝』(稲垣常三郎、1891年)十三丁。
- 『新釈漢文大系 第23巻 易経(上)』(明治書院、1987年)315~7頁。
- 『新釈漢文大系 第89巻 史記九(列伝二)』(明治書院、1993年)338~9頁。
所在地
従一位毛利公偉勲銘
所在:
香山公園内 萩藩主毛利家墓所 参道脇|山口県山口市香山町
アクセス:
JR西日本 山口線 山口駅 下車 北へ徒歩 約30分
香山公園内にあり
編集履歴
2024年4月25日 公開
2024年4月30日 小修正