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江戸幕府草創の重臣で尾張藩家老となった成瀬正成の墓碑銘。正成は三河の人。小牧・長久手合戦の武勲が元で徳川家康への近侍を許され、その後和泉国の堺奉行として善政をしき、伏見および駿府の家康を老中として輔佐した。家康は、尾張国など広大な領地を子の義直に封じ将軍家の藩屏とさせたが、信頼する正成をこの幼藩主に仕えさせ後見・補佐させた。正成は同藩草創期の行政にも力を発揮し、義直から同国内犬山城を与えられ、以後成瀬家は藩の家老として数万石を有し存続する。
寛永2年(1625)没。主君への追慕の念は殊更に深く、遺言により日光山の家康墳墓の傍らに葬られた(後に山内別所に改葬)。また義直は、敬愛する正成のため、名古屋城下に禅宗白林寺を創建し菩提をとむらうこととした。
本碑には、戦乱から平和へと移行する激動期を生き、父子二君に仕えた武臣・行政官の事跡が、長文の漢文で刻まれている。子息正虎の求めにより、同藩の医官・儒官で正成とも交流のあった堀杏庵が撰文。家康・正成の関係が、中国諸王朝草創期の君臣協同の有り方と相似するという主張が本碑文の主眼であって、功績の偉大さを際立たせている。
死没後やや年月が経過したころ、正虎によって白林寺に原碑が造立。現存碑は、原碑を約90年後に建て替えたもの。題名に「墓誌銘」とあるが、同寺は正成の埋葬地ではないので、あくまで招魂墓の墓碑と考えられる。
資料名 尾張犬山城主成瀬正成公墓誌銘
年 代 正徳5年(1715)再建 ※原碑は寛永2年(1625)。
所 在 平和公園内 白林寺墓地|名古屋市千種区平和公園
北緯35°10’21″ 東経136°58’33”
文化財指定
資料種別 石碑
銘文類型 同時代人物顕彰
備 考 資料名は本文題「故尾州犬山守従五位下布護少尹藤原朝臣成瀬公墓誌銘」の縮約。
ID 0041_2405
翻刻
故尾州犬山守従五位下布護少尹藤原朝臣成瀬公墓誌銘 尾陽路医官法眼杏庵正意誌
自古創業守成之君、必得英雄俊傑之士、為之輔佐、賛之謀計、而後一時策勲、千載成名者也。所以漢得蕭・曹・韓・張而興、唐得房・杜・王・魏而興、宋得曹彬・趙普而興、明得徐達・劉基而興之数者、皆股肱
心□之臣、特起超邁之才、而以明資明、以智資智、而其所好必相投、所尚必相契、而後、致力益顕、所志竟成也。今 国王大樹源君藝祖 大相国、崛起三州、混一四海者、佐謀多出於 公。公姓藤、氏
成瀬、諱正成、宗心其道称也。家世三州人也。祖正頼、以驍勇起家。皇考一斉、治県有循吏名。後為甲陽令、生 公及四子。四子皆倚 公之庇蔭而顕、仕列国。初 大相国在藩之日、豊臣秀吉、有欲并
呑四海之志、親擁二十万兵、屯於濃尾二州之間。 大相国、奮起遠州浜松城、択数千精兵、屡戦屡勝、殲厥渠魁、搴其旄旗。 公時年十七。先登陥陳、斬獲尤多。以軍功擢、給事幄中。豊臣、以師労兵衂、
行成交質而還。 大相国、領東関八州牧、表乎東海。従是以来、風波不起、民楽昇平。慶長三年歳在戊戌秋八月、豊臣臨薨、招 大相国、嘱曰、自今以往、握天下兵馬権。由是、列国侯伯、唯命是謹。越五
年歳在庚子、有事於奥州。 大相国、親督侯伯、師進次于野州小山。叛臣石田氏等、伺舋蜂起、西南悉靡矣。東軍西軍、分割於濃州関原、欲以挑戦。 大相国、分衆留備奥州、即倍日并行、九月乙卯日、
一戦而擒石田、海内又安。 公以智名勇略抜群、先衆補泉堺吏。 公到之日、法制戒飭、政治□明、市不征貨、路不拾遺。令聞広誉、特達于 朝、一増秩、至布護少尹、再策勲、知甲陽数県、兼領前軍兵
馬、事于伏陽于駿府、秉鈞軸賛廟謨。且夫内外章草也、郡国理務也、侯伯之来朝、蠻夷之貢献、乃至民間訟闘、県吏会計、無不与聞弁決焉。我 黄門、幼而岐嶷、慈仁忠良。 大相国鍾愛日厚。既而就
尾陽於茅土封、令 公為傅矣。夫尾之為州也、東接三州、西帯濃河、北隣信山、南隔伊水、所謂四塞之地、而要衝之都会也。越庚戌之春、 大相国、命列国牧伯、築那古屋城。石壁・塹湟、不日以成。令我
黄門守之、以蕃 王室。然而、天生孝順、不肯就国。晨昏不怠、定省左右、遣 公巡察郡県、施之政教。越甲寅之秋、難波兵起。姦相庸将、招集亡命者、推埋者、流寓者数万人、保棲于堅城、以塞西州之
要津。 大相国・ 大樹、率数十万之衆、環而攻之。士卒暴露於野三月、意謂不以一城易万人之命。遂成城下盟。而阤其池、崩其隅、示天下不復用兵矣。明年歳在乙卯、難波兵亦起。軽黠烏合之衆、凡
二十万人角力拒戦。 大相国・ 大樹、悉家衆大挙、命 公及安藤直次、節制諸将、総斉軍政。四方戮力、夏五月癸丑日、金城湯池、一炬焦土。翌日甲寅、凱歌而還京師。是行也、 公之所以籌策者居
多。傑然為開国宗臣也。由斯観之、有創業之君、而必有輔佐之臣。漢・唐・宋・明之所以興者如此。而 大相国之所以興者亦如此。有守成之君継述、而必有廟謨之臣賛揚。漢・唐・宋・明之所以伝数十世、
承数百歳者、亦如此。而 大相国之所以継継承承於千万年者、亦復如此。可謂盛矣。越明年歳在丙辰春正月、 大相国俄爾臥病、遂以四月十七日、薨于正寝。喪畢、而後各就国。明年歳在丁巳、我
黄門、巡観国境、田野闢矣、民人給矣。因是、嘉 公有勲労而能利邦家者、封以犬山、并食数十県。別賜 膏腴田、為湯沐邑。 公常侍那城、進尽至誠、退思撫循、官無留事、門無滞士。寛永元年歳在
甲子冬十月、不幸罹病、弥留危篤。会我 黄門、述職于江府。 公輿病而往。告執事太倉令利勝曰、託孤之命不渝、報国之忠不亡。而今而後、知免夫。執事、把手涕泣曰、特以聞。 国王、哀其将死也、与
我 黄門、詢命于国医及方技之士、診治万方、遂以明年歳在乙丑正月十七日、卒于江府。享年五十有九矣。遺命曰、瘞骨于野州日光山 東照大権現廟傍。一片石、書曰 成瀬氏某之墓云。 国
王聞訃音、□朝三日。我 黄門臨喪慟哭、哀礼咸申。天下之知与不知、無不聞之歎惜焉。令嗣正虎、幹父蠱、慎終之日、請於大僧正天海、建碑云。嗚呼、自古至今、君臣遭逢、以同日生以同日死、或王公
於国郡、或封侯於県邑、自非交際相契、智謀符合、則何以如此哉。 公有二子一女。兄正虎継 考封、為尾陽老、而不愧前烈。弟之成、勤仕 国王、為前軍従事掌鳥銃。一女、往今京兆尹板倉重宗、生
数子矣。孫女皆嫁于貴豪家。可謂有是父而有是子矣。我 黄門慕徳不已、相攸于那城南、為剏一宇、曰白林寺、屈於喝堂上人、令供香火、別封民戸数十家、復其徭役、以備四時之祭奠矣。令嗣正虎、
嘱予誌其顛末。予雖不当任、久沐恩徳、日聞謦□、甄抜於行伍之間、親炙於退食之暇。因不能固辞、略述其所見所聞矣。是皆輿人之所誦、而非予之私論也。 銘曰、
雲竜恊起、水魚相資。維君維臣、為傅為師。撥乱反正、乾清坤夷。弔民伐罪、文恬武熙。幽韜秘略、呉正孫奇。百万驍雄、尽属指麾。守成垂統、蕭規曹随。億兆黎庶、普蒙恩施。天監厥徳、介福弥丕。人慎乃職、
百工允釐。振興儒教、是訓是□。鑿開禅心、得髄得皮。和楽既翕、燕翼所貽。依仁游藝、仲塤伯□。飛英騰茂、子葉孫枝。噫公偉績、載在口碑。於我何哉、伝之万斯。
寛永二年歳舎乙丑冬十二月日 従五位下隼人正藤原朝臣成瀬正虎立之
〇ウラ面
成瀬隼人正藤原朝臣正成
日往月亦遷、九十有一年。
碑石古帯蘚、銘文泯不全。
正徳竜乙未、時惟初秋天。
択数多有司、正幸新建焉。
現代語訳
〔1.王朝の創業と君臣〕
故尾州犬山守従五位下布護少尹藤原朝臣成瀬公墓誌銘
いにしえより何事においても基礎を打ち立て、その築いたものを一層堅固なものに成し得た君主というのは、必ず、知力や武勇、才能に秀でた臣士を得たものである。君主を輔佐させ、君主のはかりごとに協力させ、そうして(臣士による)一時の勲功は、千年にも及ぶ名声となるのである。というのは、漢は(臣下の)蕭何・曹参・韓信・張良を得て勃興し、唐は房玄齢・杜如晦・王珪・魏徴を得て勃興し、宋は曹彬・趙普を得て勃興し、明は徐達・劉基を得て勃興した。これらの類は、みな(君主の)手足となり心のよりどころとなる臣下が、特別に超絶的な才能を用い、その賢明さが(君主の)賢明さを増し、その智恵が(君主の)智恵を増したものである。両者の好むものが一致し、尊ぶものが合致し、そうして初めて(君臣が)力を出せば(その効果は)益々顕著になり、(天下統一という)企ては終に成功したわけである。
〔2.徳川家康の勃興と成瀬正成〕
現国王幕府将軍(徳川家光)の、文徳の誉れある祖先・太政大臣家康公は、三河の地より頭角をあらわし天下を統一した。(その統一過程における)はかりごとの多くに参画し助力を加えたのが、成瀬正成公である。公の姓は藤原、氏は成瀬、諱は正成で、その道号は宗心である。先祖代々三河の人だ。祖父の正頼は、その猛々しさ、勇ましさによって家を興した。大いなる亡父・一斎は、地方行政において良吏の聞こえがあり、後に甲斐国の奉行職となった。生まれた子供は、正成公および4人である。四子はみな正成公の庇護を受けて出世を遂げ、諸侯の国々に仕えることとなった。
〔3.小牧・長久手の戦い〕
家康公がまだ封地にいた時代、豊臣秀吉は、四海をすべて領有せんとする志しを抱き、自ら20万の兵を集め、美濃・尾張二国の境域に駐屯した。遠江国浜松城にいた家康公は奮い立つ。数千の精兵を選抜し、何度も戦っては打ち勝ち、その巨頭(森長可・池田恒興)を打ち滅ぼして軍旗を取った。この時正成公は17歳。先陣をきって敵陣を陥れ、斬殺および生け捕りの数がとりわけ多かった。抜群の軍功により、(家康の)幕中にてお側に仕えることとなった。豊臣側は、軍団も兵士も疲弊してしまったので、和を講じ人質を取り交わして撤退した。家康公は関東8ヶ国国守を領するに至り、東海方面に際立った勢力となった。これより以後、波風が立つこともなく人民は泰平を謳歌した。慶長3年(1598)秋8月、豊臣氏(秀吉)は、まさに薨じ去らんとするに際して家康公を招き
「今後は、(私に代わって)天下の軍事権を握りなさい」
と求めた。そのため、諸国の大小大名達は、(家康の)どんな命令にも謹みの心で接した。
〔4.関ケ原の戦い〕
次いで5年(1600)、奥州に事変あり。家康公は自ら大小の大名達を統率し、進軍して下野国小山に駐屯した。謀反の臣・石田氏(三成)等が、その間隙を衝いて蜂起すると、西南諸国はほとんどこれに靡いてしまった。東軍・西軍は美濃国関ヶ原にて分かたれ、勝負を決せんとしていた。家康公は、総員の一部を奥州に留めて(有事に)備えさせると、すぐに昼夜を問わず急いで進み、9月15日、一戦して(大将の)石田を捕獲し、天下はまた安定した。
〔5.和泉堺奉行の善政〕
正成公は、とても勇ましく、また知略をめぐらした功績により、諸衆に先んじて和泉国堺の政所(後の堺奉行)に任ぜられた。現地に至ると正成公は、法律によって人々を戒め、その統治は厳格で乱れたところが無かった。そのため市場で銭貨が非合理に奪われることはなく、また道路の遺失物を他人が自分のものにすることもなかった(すなわち人民の間に道義がよく行きわたっていた)。世間に広まった好評判は、わけても幕府の知るところとなり、爵位を一段階上げられて隼人佑に至り、褒賞をさらに重ねて甲斐国内の数郡を領知することとなった。
〔6.伏見・駿府への奉仕〕
さらに(家康軍の)先手として兵馬を指揮することを許されたし、(家康の御座する)伏見や駿府にお仕えし、閣老(老中)となって幕府のはかりごとを助けた。加えて、幕府内外への文書起案、(家康直轄領の)国郡および封国に関わる行政事務、諸藩大名の(幕府への)来訪、夷国人の入貢はもとより、民間の訴訟処理、諸郡役人の会計監査にいたるまで、絶えず諮問にあずかり、決定に関与していた。
〔7.尾張侯徳川義直の後見〕
我が君・中納言徳川義直公は、幼い時から優れた知恵をもち、人に情け深く、しかも善良な人柄で忠義心が強い。(そのため父君の)家康公はとても大事にしてかわいがり、その心は日に日に増していった。やがて諸侯に封ぜられて尾張国を与えられ、正成公をその後見とした。さて尾張国の地勢は、東は(家康公根拠の地)三河に接し、西には美濃の大河を有し、北は信濃の山々に隣接し、南は伊勢湾に隔てられており、所謂四塞の地であって、(軍事・交通・商業などの点で)重要な都会である。次いで慶長15年(1610)春、家康公は、国々を治める諸侯達に命じて名古屋城を築かせたが、その石塁・お堀はすみやかに出来上がってしまった。我が君・義直様に命じてここを守らせ、そうして王室(徳川将軍家)の藩屏とさせたわけである。しかしながら、天性孝行の心が強いので、封国におもむくことを承知せず、朝夕怠ることなく御親に孝養を尽くし、お側近くに侍って補佐した。(そのため封国には)正成公を派遣し、諸国諸郡を巡視して治めさせ、人民に徳育を施させた。
〔8.大坂冬の陣〕
次いで慶長19年(1614)秋、難波に戦が起きた。(豊臣方に仕える)邪まな家臣、凡庸な将軍達は、(幕府方の追求から)逃れようとする者や、人殺しのお尋ね者、浪人の合わせて数万人を招き集め、堅固で高い城(大坂城)に立てこもり、そして西国の重要な港を占拠して塞いだ。家康公・将軍秀忠公は、数十万の人々を率い(城を)囲んで攻撃させた。士卒は(家に帰ることもできず)3か月ものあいだ野にさらされていたが、「万人の命と引き換えに、一城を攻撃することは適当でない」と(家康公は)考え、遂に城下において(停戦の)盟約を交わした。そしてお堀を破壊し隅櫓を崩し、兵力を発動する能力のないことを天下に示した。
〔9.大坂夏の陣〕
翌慶長20年(1615)、またも難波に戦が起きた。軽率で悪賢い総勢20万の烏合の衆が力比べに防ぎ戦った。家康公・将軍秀忠公は、家臣をことごとく用いて大挙し、正成公および安藤直次に命じて諸将を統御させ、全体的に軍政がうまく運ぶようにさせた。(自軍の)どの方面においても力を合わせて(戦い)、夏5月7日、きわめて守りの堅かった城と堀は、一本の松明によって焦土と化してしまった。翌日8日、勝ちどきを上げて京都に帰還した。この軍事活動では、正成公の計略によるものが多くあった。新国家建設において傑出した重臣といえよう。
〔10.王朝の創業と君臣 -唐土・本朝の相似-〕
以上のことから考えられることは、基礎を打ち立てる君主には、必ず、それを補佐する臣士がいるものなのである。漢・唐・宋・明が勃興した理由はこのためであるし、家康公が勃興した理由もこのためである。(基礎を打ち立て)その築いたものを一層堅固なものに成し得た君主が、(子々孫々に)先人の業績を受け継がせていけるということは、必ずやそこに王朝の政治を助ける誉れ高い臣士がいるものなのである。漢・唐・宋・明の王朝が数十代にわたって伝わり、数百年にわたって受け継がれた理由もこのためであるし、家康公(の王朝)が千年万年にわたりずっと続いていくであろう理由もこのためである。すばらしいことではないか。
〔11.尾張藩への奉公と封地犬山(いぬやま)〕
次いで翌元和2年(1616)春正月、家康公は俄かに病に臥し、4月17日、遂に宮殿にて薨去した。喪が明け、その後(諸侯は)各々の国に帰っていった。翌元和3年(1617)、我が君・義直様は領地内を巡視したが、田野はよく拓かれ、人民には物資が充足していた。これは正成公の功績であって、領国内によく便益をもたらしたことを褒賞し、(尾張国)犬山の地を封じた。封地はすべて合わせて十郡を数えることとなった。別に肥沃な田地を賜り、その租税を湯沐(湯あみ)の費用にあてることを許された(=尾張藩への租税を免除された)。正成公は常に名古屋城に祗候していたが、(尾張藩庁に)上った時は至誠をつくし、(領内に)下がった時は(家臣・領民を)なぐさめいたわる気持ちを持っていたので、藩庁においては(裁判・行政など)滞る案件はなく、自家においては(裁判などで)待ちぼうけする家臣はいなかった。
〔12.死没〕
寛永元年(1624)冬10月、不幸にして重い病に罹り危篤な状態となった。その時たまたま我が君・義直様は、(尾張におらず)江戸へ拝謁に上がっていた。正成公は、病をも載せるように車に乗り(江戸に)向かった。執事大炊頭土井利勝に告げて言う。
「幼君(義直公)を後見せよとのご命令は(将軍の代替わりがあっても)変わっておりませんし、幕府に報いんとする忠義心は少しも無くなっていません。これからは(そういったご命令の遵守や忠義心を持ち続けることから)ようやく解放されて安心できるようです」。
執事利勝は手を取って涙を流し、
「特別に(将軍様に)申し上げたいと思います」
と言った。将軍家光公は、まさに死せんとすることを憐れみ、我が君・義直様と相談して幕医や(民間の)医療技術を有する人士に命じ万策つくして診療させたが、終に翌寛永2年(1625)正月17日、江戸にて没した。享年59歳。遺言して次のように命じた。
「下野国日光山の東照大権現廟(家康公の墓)の側に骨を埋めよ。一片の石に『成瀬氏某の墓』と書きなさい」。
将軍家光公は訃報を聞いて喪に服し、3日間政務を行わなかった。我が君・義直様は服喪のあいだ悲しみに耐えきれず号泣し、哀悼の礼を尽くした。相識とそうでないとを問わず、天下の人々はこれを聞いて歎き惜しまないことは無かった。令息正虎は、父の跡を継ぎ御親の葬式を丁寧に行った際、(日光山を管轄する)大僧正天海に申請し、(墓標の)碑を建てたという。ああ、古より今にいたるまで、(幾度となく)君臣のめぐり逢いはあったわけだが、(家康公と正成公のほかに)同日に生まれ同日に死ぬ事例はないだろう。(君臣二人が同日に生まれ同日に亡くなった)その理由は、王(=家康公)や王族(=義直公)による諸国や封国への対応、あるいは領地を与えられた大名(義直公)による郡村への対応において、(君臣が)互いに良い交わりをし、知恵や計略が(君と臣とで)一致していたからだろう。正成公には二男一女がある。兄の正虎は、前代の功績をはずかしめることなく、(許されて)亡父の封地を承継し尾張の家老となった。弟之成は、将軍にお仕えし、斥候として軍に関与し鉄砲隊を取り仕切っている。一女は、現京都所司代板倉重宗に嫁ぎ数子を生んだ。孫娘達はみな、貴人で勢力のある家に嫁いでいった。この父があって、この子供達があると言うべきであろう。
〔13.白林寺の創建〕
我が君・義直様は、彼の徳を慕うこころが止まず、名古屋城の南に良い土地を選び、正成公のために一宇を創建した。寺号を白林寺という。(その菩提をとむらうため)喝堂上人に頭を下げて(住持を)依頼し、お香をたき灯明をともさせた。別に民戸数十家を寄せ、(尾張藩の賦課する)労役を免除し(代わりに)四季の祭典に備えさせた。
〔14.碑文作成の経緯〕
令息正虎が、この顛末を記すことを私に求めてきた。その任に私は相応しくないけれども、長きにわたり(正成公の)いつくしみを被って日々に謦欬に接することができたし、諸衆の間から選ばれて退庁後の余暇に親しく接してもきた。だから、頑なに辞退することなどできず、(私が)見たり聞いたりしたことを略述してきたわけである。これらはすべて、衆人の説き語ることであって、私が勝手に論じているわけではない。銘にいわく、
〔15.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
(竜が吟ずれば雲はそれに応じるが)竜も雲も心を合わせて出現し、水と魚はお互いに(分かちがく)親密に助け合う そのようにして、家康公の求めに正成公が応じ、二人は親密に助け合う。
ああ君主よ、臣士よ、ある時は(義直様の)後見となり、ある時は(義直様の)教師となる。
乱れた世の中を治めて元の正しい状態にかえし、天は清く地は平らか。
民を憐れみ救い罪を打ち滅ぼし、文官も武官も安んじ楽しむ。
兵法書『六韜』『三略』は奥深く秘蔵され、『呉子』も『孫子』も珍しい。
強く勇ましい百万もの武士達は、ことごとくその指揮にしたがう。
創始者の築いたものを堅固にし後世に伝えていく。前漢劉邦の臣・蕭何が定めた法律を曹参が引き継いだごとく。
億兆の庶民は、あまねくその恩恵を受けている。
その徳のある行動を天は見て、大いなる幸いをますます賜る。
人々はおのれの仕事にいそしみ、諸々の役人はよくおさまっている。
儒教の振興は、訓えであり規であり。
禅の心を切り開き、その精髄もその枝末も我がものぞ。
(成瀬の一族に)やすらぎも楽しみも集まっているのは、賢臣(正成公)が君主(家康公・義直様)をよく輔翼したため。
仁にもとづいて六藝を楽しみ、兄(正虎)は塤を弟(之成)は箎を吹く そのように兄弟は決して離れられない仲。
花は散って遠くまで伝わり、子孫は枝葉を茂らす。
ああ公の偉大な功績、それは(本来石碑に刻む必要とてなく)人々の口にのぼるもの。
(それでは碑文を撰した)私は何の意味があるのか。これを万年の先まで伝えようとする そのことだけだ。
寛永2年(1625)冬12月 従五位下隼人正藤原朝臣成瀬正虎が建てた
〔16.石碑の新建〕
〇ウラ面
成瀬隼人正藤原朝臣正成(の墓)
日は流れ月も過ぎ行きて、91年。
碑石は古びて苔を帯び、銘文は乱れて全きを得ない。
正徳の5年(1715)、時に初秋のころ。
担当の役人をあまた選定し、成瀬正幸が新しくこれを建てた。
訓読文・註釈
〔1.王朝の創業と君臣〕
故尾州犬山守従五位下布護少尹藤原朝臣成瀬公墓誌銘 尾陽路医官法眼杏庵正意誌す
古より創業守成の君、必ず英雄俊傑の士を得て、之が輔佐を為さしめ、之が謀計を賛けしめ、而して後、一時の策勲、千載に名を成す者なり。所以に、漢の蕭・曹・韓・張を得て興る、唐の房・杜・王・魏を得て興る、宋の曹彬・趙普を得て興る、明の徐達・劉基を得て興るの数は、皆な股肱心膂の臣の、特に超邁の才を起し、而して明を以て明に資し、智を以て智に資して、其の好む所必ず相い投じ、尚ぶ所必ず相い契し、而して後、力を致せば益す顕れ、志す所竟に成るなり。
*犬山 尾張国北部、木曽川南岸の地域。現愛知県犬山市。犬山城はその中心で、城下に町が広がる。
*布護少尹 下記「*至布護少尹」参照。
*墓誌銘 下記補足参照。
*尾陽路医官法眼杏庵正意 堀杏庵(1585~1642)。江戸時代前期の医者・儒学者。名は正意、字は敬夫、号は杏庵など。近江の人。医術を曲直瀬正純に、儒学を藤原惺窩(せいか)に学んだ。はじめ和歌山藩主・浅野幸長、広島藩主・浅野長晟に仕え、のちに尾張藩主・徳川義直に請われて元和8年(1622)同藩に仕えることとなった。その後幕命により『寛永諸家系図伝』の編集に関わる。なお「尾陽路」の「陽」は旧国名の後に美称として付けて用いる語、「路」は中国宋代の行政区画の名で、要するに尾張藩のこと。「法眼」については下記補足参照。
*守成 創始者の意向をうけつぎ、その築きあげたものをより堅固にしていくこと。
*英雄俊傑 英雄は、勇気・武力にすぐれた人。俊傑は、才能や人格が人より遥かにすぐれている人。
*策勲 国家・主君に尽くした功労者を文書に書き記すこと。ここでは、勲功の意に解釈した。
*蕭・曹・韓・張 劉邦を助け、前漢確立に文武の功績があった臣下4人。順に蕭何(前193年没)、曹参(前190年没)、韓信(前196年没)、張良(前168年没)。
*房・杜・王・魏 唐確立に文武の功績があった臣下4人。順に房玄齢(578~648)、杜如晦(585~630)、王珪(679年没)、魏徴(580~643)。
*曹彬・趙普 宋確立に文武の功績があった臣下(生没年は順に931~99、922~92)。
*徐達・劉基 明確立に文武の功績があった臣下(生没年は順に1332~85、1311~75)。
*数 たぐいの意と思われる。
*心膂 膂は、背骨。心膂は、こころの拠り所と解釈した。
*超邁 ぬきんでてすぐれていること。
*相投 一致する。
*相契 合う。
〔2.徳川家康の勃興と成瀬正成〕
今国王大樹源君の藝祖大相国の、三州に崛起し、四海を混一するは、佐謀、公より出づること多し。公の姓は藤、氏は成瀬、諱は正成、宗心は其の道称なり。家世、三州の人なり。祖正頼、驍勇を以て家を起す。皇考一斎、県を治むるに循吏の名有り。後に甲陽令と為り、公及び四子を生む。四子皆な公の庇蔭に倚りて顕れ、列国に仕ふ。
*今国王大樹源君 当時の江戸幕府将軍徳川家光(1604~51。「大樹」は将軍の意)。在職は1623~51。
*藝祖大相国 藝祖は、文徳ある祖。大相国は、太政大臣の唐名で、これを極官とした徳川家康(1542~1616)のこと。
*崛起 群をぬきんでて興ること。
*混一 統一する。
*佐謀 主君を助けはかりごとを成す。
*家世 代々の家柄。
*驍勇 強く勇ましいこと。
*皇考 死んだ父親。
*循吏 法に忠実で、よく人民を治める役人。
*甲陽令 天正10年(1582)12月に成瀬正一は甲斐国の奉行職になり、9年在住したという(『寛政重修諸家譜』)。同年は武田氏滅亡の年で、同国に駐留していた徳川家康は、同月浜松に帰還した。
*四子 吉正、正武、正勝、正則。
*庇蔭 おおい助けること。おかげをこうむること。
*列国 諸侯の国々。
〔3.小牧・長久手の戦い〕
初め大相国の藩に在るの日、豊臣秀吉、四海を并呑せんと欲するの志し有りて、親ら二十万の兵を擁し、濃尾二州の間に屯す。大相国、遠州浜松城に奮起し、数千の精兵を択び、屡ば戦ひ屡ば勝ち、厥の渠魁を殲し、其の旄旗を搴る。公、時に年十七。先登して陳を陥し、斬獲尤も多し。軍功の擢づるを以て、幄中に給事せしめらる。豊臣、師の労し兵の衂るるを以て、行成し交質して還る。大相国、東関八州牧を領し、東海に表る。是れより以来、風波起らず、民は昇平を楽しむ。慶長三年歳在戊戌秋八月、豊臣、薨ずるに臨み、大相国を招き、嘱して曰く「今より以往、天下兵馬の権を握れ」と。是れに由り、列国の侯伯、唯だ命是れを謹む。
*在藩之日 家康が、与えられた領地にあった時代。未だ天下を統一していない時分。
*遠州浜松城 静岡県浜松市にあった城。徳川家康が構築し、天正14年(1586)の駿府転進まで居城とした。
*渠魁 頭領。ここでは、池田恒興(1536~84)や森長可(1558~84)を指すと見られる。
*旄旗 軍を指麾するのに用いる旗。
*斬獲 斬殺することと、生けどること。
*行成交質 行成は、講和する。交質は、人質を取り交わす。
*東関八州牧 関東8か国(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸)の長官。
*表 きわだつ。
*昇平 世の中が平和に治まっていること。
*侯伯 侯も伯も、もとは古代中国の諸侯の階級の名。上から公・侯・伯・子・男のうちの二階級。ここでは、大小大名と現代語訳した。
*唯命是謹 どんな命令も尊重する。古典に類似の表現がある(『春秋左氏伝』宣公十五年「唯命是聴」など)。
〔4.関ケ原の戦い〕
越えて五年歳在庚子、奥州に事有り。大相国、親ら侯伯を督し、師は進みて野州小山に次る。叛臣石田氏等、舋を伺ひて蜂起し、西南悉く靡く。東軍西軍、濃州関原に分割し、以て挑戦せんと欲す。大相国、衆を分かちて奥州に留備せしめ、即ち倍日并行し、九月乙卯の日(十五日)、一戦して石田を擒へ、海内又た安んず。
*有事於奥州 いわゆる会津征伐のこと。慶長5年(1600)、徳川家康が陸奥国会津若松城主上杉景勝の勢力を牽制するために起した軍事活動。家康・秀忠父子は、6月に大坂を発し、7月に江戸に着き、同月下旬に下野小山に着陣した。
*野州小山 下野国小山(現栃木県小山市)。なお「*有事於奥州」参照。
*石田氏 石田三成(1560~1600)。織豊期の武将。豊臣秀吉の死後、反徳川勢の中心となるが、関ケ原の戦いで敗れ処刑された。
*濃州関原 美濃国の関ケ原。
*留備 兵を留めて敵に備えさせるという意味と思われる。会津征伐の途上、石田三成の挙兵を知った徳川家康は、結城秀康を下野宇都宮城に置いて上杉方に備えさせた。
*倍日并行 二日分を一日で行くように、急いで進むこと。
〔5.和泉堺奉行の善政〕
公、智名勇略の抜群なるを以て、衆に先んじて泉堺の吏に補せらる。公到るの日、法制もて戒飭し、政治厳明にして、市には貨を征らず、路には遺ちたるを拾はず。令聞広誉、特に朝に達し、一つ秩を増して、布護少尹に至り、策勲を再びして、甲陽の数県を知し、(以下次章に続く)
*泉堺吏 幕府の直轄地である和泉国堺(現大阪府堺市)の行政官。同時代の表現では、堺政所(まんどころ)。後の堺奉行。
*法制戒飭、政治厳明 戒飭は、人に注意を与え慎ませること。政治は、法に基づく行政的行為。厳明は、厳格ではっきりしていること。
*征貨 征は、うばいとる。貨は、銭貨。ここでは、強引に銭貨を奪い取ることに加えて、暴利を貪ることも含意されていると考えられる。
*令聞広誉 世間にひろまったよい評判。
*朝 幕府のこと。
*至布護少尹 布護少尹は、隼人佑(じょう)の唐名。他方、成瀬正成は、自他ともに隼人正を称している。この齟齬の理由には、(1)撰者の単純な勘違い、(2)朝廷からの任官辞令には隼人佑と明記されていたの2通りの可能性が考えられる。
〔6.伏見・駿府への奉仕〕
兼ねて前軍兵馬を領し、伏陽に駿府に事へ、鈞軸を秉り廟謨を賛く。且つ夫れ内外の章草や、郡国の理務や、侯伯の来朝、蠻夷の貢献より、乃ち民間の訟闘、県吏の会計に至るまで、与聞し弁決せざることなし。
*前軍兵馬 先陣に立つ軍隊との意と見られる。
*事于伏陽于駿府 伏陽は、山城国の伏見(現京都市伏見区)。慶長3年(1598)の秀吉没後、伏見城は二条城とともに家康の居城となった。同12年、家康は駿府城(現静岡県静岡市葵区)に本拠を移した。
*秉鈞軸賛廟謨 「鈞」はおもり、「軸」は車の心棒で、要するに「鈞軸」とは重要な政治的行為や案件。「廟謨」は、政府の政治上のはかりごと。ここでは老中の職務を指す。
*内外章草 内外は、幕府の内外。章草とは、文書草案の作成を指すと見られる。
*郡国理務 「郡国」は、古代中国の地方行政制度に基づく表現。皇帝直轄の郡県と、諸侯を封じて治めさせた国のこと。ここでは、「郡」は幕府直轄地、「国」は大名に与えた領地を指すと考えられる。理務は、役職に伴う事務をおさめること。
*侯伯之来朝 侯伯は、「*侯伯」参照。来朝は、幕府に参ずること。
*蠻夷之貢献 蠻夷は、外国人を下に見た言い方。貢献は、貢ぎものを奉じること。関連事例として、慶長15年(1610)、鹿児島城主島津家久は、琉球王を率いて駿府に参じ家康に謁見した。
*県吏会計 「県」は、古代中国の郡県制、すなわち行政単位として郡の下部に県がある行政制度を念頭に置いた表現。中国の郡-県を、日本の国-郡とおおよそ対応させている。したがって、「県吏」とは、幕府直轄地で郡レベルの広さの知行を任された人。会計は、その年貢収取の状況を監査するというほどの意味であろう。
*与聞弁決 与聞は、あずかり聞く。政治などに関係する。弁決は、わきまえて決定する。
〔7.尾張侯徳川義直の後見〕
我が黄門、幼くして岐嶷、慈仁忠良なり。大相国の鍾愛、日びに厚し。既にして尾陽に茅土の封を就け、公をして傅と為らしむ。夫れ尾の州為るや、東は三州に接し、西は濃河を帯び、北は信山に隣り、南は伊水に隔てられ、所謂四塞の地にして、要衝の都会なり。越えて庚戌(慶長十五年)の春、大相国、列国の牧伯に命じて、那古屋城を築かしむ。石壁・塹湟、不日に以て成る。我が黄門をして之を守らしめ、以て王室に蕃たらしむ。然り而して、天生孝順にして、国に就くを肯ぜず。晨昏怠らず、定省左右し、公を遣はし郡県を巡察し、之に政教を施さしむ。
*我黄門 黄門は、大中納言の唐名。撰者堀杏庵の主君で、当時権中納言だった徳川義直(1600~50)のこと。義直は、家康の九男。尾張徳川家の祖。慶長12年(1607)尾張国清洲へ封ぜられ、15年、同国名古屋城の築造により居を移し(ただし碑文の通り基本的に駿府にいた)、同年、碑文の通り正成は義直の輔佐を命ぜられた。元和元年(1615)、信州木曽と美濃国内を加封。家康没後の同2年、駿府から入国。寛永3年(1626)権大納言。学を好み儒教を奨励した。
*岐嶷 幼少で知恵のすぐれていること。
*鍾愛 深く愛すること。
*茅土 古代中国において天子が諸侯を封ずるとき、白茅に包んで与えた土。要するに諸侯を封ずることを表す。
*傅 後見。
*濃河 美濃国の河川。木曽川など。
*信山 信濃国の山。
*伊水 伊勢湾。
*牧伯 諸侯。
*那古屋城 名古屋城(現名古屋市中区)。徳川家康が西南諸大名に命じ慶長14年(1609)着工、同19年おおよそ完成。尾張徳川家の居城。
*石壁・塹湟 石壁は、石垣を指すと見られる。塹湟は、ほり。
*就国 領国に帰る。
*晨昏 朝夕。
*定省左右 定省は、子が親に朝夕孝養を尽くすこと。左右は、そば近く仕え補佐すること。
*政教 政治と教化。
〔8.大坂冬の陣〕
越えて甲寅(慶長十九年)の秋、難波に兵起く。姦相・庸将、亡命する者、椎埋する者、流寓する者数万人を招き集め、堅城に保棲し、以て西州の要津を塞ぐ。大相国・大樹、数十万の衆を率ゐ、環りて之を攻めしむ。士卒の野に暴露すること三月にして、意謂く「一城を以て万人の命に易へず」と。遂に城下に盟を成す。而して其の池を阤り、其の隅を崩し、天下に復た兵を用ひざるを示す。
*難波兵起 慶長19年(1614)、徳川家康が豊臣秀頼の拠る大坂城を攻めた戦い。大坂冬の陣。
*姦相庸将 姦相は、心の正しくない重臣。庸将は、凡庸な将軍。
*亡命者、推〔椎〕埋者、流寓者 亡命者は、特に徳川方から追われて亡命しているもの。椎埋者は、人を撲殺して埋めた犯罪者。要するに人殺しのお尋ね者。流寓者は、放浪して他国に住んでいる人。すなわち仕官先の無い浪人。
*保棲 高いところにたてこもること。
*要津 重要な港。
*大樹 将軍。徳川秀忠(1579~1632)のこと。家康を継いで将軍となる。在職は1605~23年。
*阤其池、崩其隅 阤は、こわす。池は、城のまわりの堀。隅は、隅櫓の意と見られる。
〔9.大坂夏の陣〕
明年歳在乙卯(慶長二十年)、難波に兵、亦た起く。軽黠烏合の衆凡そ二十万人、角力拒戦す。大相国・大樹、家衆を悉して大挙し、公及び安藤直次に命じて、諸将を節制し、総じて軍政を斉へしむ。四方、力を戮せ、夏五月癸丑の日(七日)、金城湯池、一炬にして焦土たり。翌日甲寅(八日)、凱歌して京師に還る。是の行や、公の籌策する所以の者居多なり。傑然として開国の宗臣為るなり。
*軽黠 軽薄でわるがしこい。
*角力 力を比べること。
*節制 規律正しく統制すること。
*総斉 斉は、ととのえる。総斉は、総括するというほどの意と見られる。
*金城湯池、一炬焦土 金城湯池は、金で造った城と熱湯をたたえた堀が原義で、極めて守りの堅い城と堀。一炬焦土は、一本の松明から始まり、巨大建造物が焦土と化してしまうこと。『文章軌範』巻七杜牧「阿房宮賦」の「楚人一炬、可憐焦土」に基づく表現。
*凱歌 戦いの勝利を祝う歌。かちどき。
*京師 京都。
*是行 是は、この。行は、軍事活動の意。両度大坂の陣を指すと考えられる。
*籌策 はかりごとをなす。
*居多 たくさんある。
*傑然為開国宗臣 傑然は、傑出しているさま。宗臣は、重臣。
〔10.王朝の創業と君臣 -唐土・本朝の相似-〕
斯れに由りて之を観るに、創業の君有れば、而ち必ず輔佐の臣有るなり。漢・唐・宋・明の興る所以の者は此の如し。而して大相国の興る所以の者も亦た此の如し。守成の君の継述する有れば、而ち必ず廟謨の臣の賛揚せらるる有り。漢・唐・宋・明の、数十世に伝はり、数百歳に承くる所以の者も、亦た此の如し。而して大相国の、千万年に継継承承たらん所以の者も、亦た復た此の如し。盛なりと謂ふべし。
*継述 先人の業績を受け継いで行なうこと。
*賛揚 ほめたたえること。
〔11.尾張藩への奉公と封地犬山(いぬやま)〕
越えて明年歳在丙辰(元和二年)春正月、大相国、俄爾として病に臥し、遂に四月十七日を以て、正寝に薨ず。喪畢り、而して後各の国に就く。明年歳在丁巳(元和三年)、我が黄門、国境を巡り観るに、田野は闢かれ、民人は給る。是れに因りて、公の勲労にして能く邦家を利する者有るを嘉し、封ずるに犬山を以てし、并せ食むこと十県を数ふ。別に膏腴の田を賜ひ、湯沐の邑と為す。公、常に那城に侍り、進みては至誠を尽くし、退きては撫循を思ひ、官に留事無く、門に滞士無し。
*正寝 王が日常をすごす宮殿。ここでは駿府城。
*国境 領国内。
*給 物が十分にある。
*数十県 県は、我が国の郡の意と見られる(「*県吏会計」参照)。正成の領地は、当時下総・甲斐・三河・尾張の諸国に及んでいたが、その所有石高は、少なくとも十万石には及んでいない。とすれば、10の郡をまるまる領有していたという意味ではなく、領地は10の郡に広がっていたと解釈した方がよいと思われる。
*賜膏腴田、為湯沐邑 膏腴は、肥沃。湯沐邑の原義は、その租税を湯沐(湯あみ)の費用にあてるために王侯に与えられた土地。ここでは、名目はさておき尾張藩による課税の免除地を意味すると考えられる。
*那城 名古屋城。
*撫循 なぐさめいたわって手なずけること。
*官無留事、門無滞士 このあたり、『梁書』列伝第十六・始興王憺伝「曹無留事、下無滞獄」に基づく表現。官は、尾張藩。留事は、政治的・行政的案件で、いまだ処理されていないもの。門は、成瀬家の門。滞士は、ここでは裁判や事務決裁などを待つ家臣と考えられる。
〔12.死没〕
寛永元年歳在甲子冬十月、不幸にして病に罹り、弥留危篤たり。会ま我が黄門、江府に述職す。公、病を輿して往く。執事太倉令利勝に告げて曰く「託孤の命渝らず、報国の忠亡びず。而今而後、免かるるを知るかな」と。執事、手を把り涕泣して曰く「特に以聞せん」と。国王、其の将に死なんとするを哀れむや、我が黄門と与に、詢りて国医及び方技の士に命じ、万方に診治せしむるに、遂に明年歳在乙丑(寛永二年)正月十七日を以て、江府に卒す。享年五十有九。遺命して曰く「骨を野州日光山東照大権現廟の傍に瘞めよ。一片の石に、書きて成瀬氏某の墓と曰へ」と云ふ。国王、訃音を聞きて、輟朝すること三日。我が黄門、喪に臨みて慟哭し、哀礼咸な申す。天下の知ると知らざると、之を聞きて歎き惜しまざる無し。令嗣正虎、父の蠱を幹し、終りを慎むの日、大僧正天海に請ひ、碑を建つと云ふ。嗚呼、古より今に至るまで、君臣の遭逢、同日を以て生まれ同日を以て死するは、或いは王公の国郡に於ける、或いは封侯の県邑に於ける、交際の相い契ひ、智謀の符合するに非ざるよりは、則ち何を以てか此の如くあらんや。公、二子一女有り。兄正虎、考封を継ぎ、尾陽の老と為り、而ち前烈を愧めず。弟之成、国王に勤仕し、前軍と為て事に従ひ鳥銃を掌る。一女、今京兆尹板倉重宗に往き、数子を生む。孫女、皆な貴豪の家に嫁ぐ。是の父有りて是の子有ると謂ふべし。
*弥留 病気が重いこと。
*述職于江府 述職は、諸侯が王に拝謁して職事の状況を上申すること。江府は、江戸。
*輿病 病を載せて運ぶ。要するに病を押して乗り物に乗り移動すること。
*執事太倉令利勝 太倉令は、大炊頭(おおいのかみ)の唐名。土井利勝(1573~1644)のこと。江戸初期の幕府重臣。老中。下総古河藩主。幼時から家康に仕え、秀忠誕生とともに秀忠付きとなり、秀忠没後も家光に仕えた。
*託孤之命 託孤は、君主が臣下に命じ、幼君を補佐して国政を行えるようゆだねること。徳川家康は、子息義直の後見・輔佐を正成に命じ(「*我黄門」参照)、その命は秀忠・家光に代替わりしても変わらなかった。
*而今而後 これからのち。
*知免夫 このあたり、『論語』泰伯第八「曽子有疾。召門弟子曰(中略)而今而後、吾知免夫」に基づく。すなわち曽子が危篤の際に弟子達に述べた言葉で、親からもらった体を傷つけることなく努めてきたが、その責任から解放されるという。他方ここでは、身体損傷の意味ではなく、「託孤之命」「報国之忠」の責任からの解放を意味すると考えられる。
*以聞 奏上すること。申し上げること。
*国医及方技之士 国医は、幕府お抱えの医者。方技は、広義にはわざの意だが、ここでは医療技術を指すと見られる。国医及方技之士とは、要するに官民の医療技術者。
*瘞骨于野州日光山・・・ 碑文の通り正成ははじめ家康埋葬地の傍らに葬られたが、後に日光山内妙道院に改葬された。
*輟朝 喪などのために、王が政務を行なわないこと。
*慟哭哀礼咸申 慟哭は、悲しみに耐えきれないで大声をあげて泣くこと。哀礼咸申は、哀悼の礼を尽くしたとの意と見られる。
*知 見知っている人。
*令嗣正虎 令嗣は、令息。正虎は、成瀬正虎(1594~1663)。正成の長男。はじめ徳川秀忠に仕え、後に徳川義直付となる。碑文の通り寛永2年(1625)父の死で尾張藩付家老・犬山城主となり藩政を総括。墓地は白林寺(以上『寛政重修諸家譜』)。なお、下記補足参照。
*幹父蠱 父の跡を継ぐ。『易経』蠱に基づく表現。
*慎終 親の葬式をていねいに行う。
*請於大僧正天海、建碑云 解釈やや難。碑は、正成埋葬地を示す墓標と解釈した。天海(1536頃~1643)は、織豊期~江戸前期の天台僧。徳川家康・秀忠・家光の政治顧問。日光山を管轄していたので、正虎は墓標造立を天海に申請したと考えられる。
*嗚呼・・・ この一文は論理的構造が複雑。現代語訳は試案。
*遭逢 めぐりあうこと。
*以同日生以同日死 家康生没の日は、26日と17日。正成の死没日は、本碑文より17日。生誕日は他史料から確かめられない。
*王公於国郡 王公は、王とその一族。ここでは、幕府将軍とその一族。碑文内容に即しより具体的にいうと、家康と義直を指す。国郡は、「*郡国理務」参照。
*如此 やや文意を掴みにくいが、「以同日生以同日死」を指すと考えられる。
*考封 亡父の封地。
*尾陽老 尾陽は、「*尾陽路医官法眼杏庵正意」参照。老は、家臣の尊称。尾陽老とは、尾張藩の家老のこと。
*前烈 先代の立てた功績。
*弟之成 成瀬之成(1596~1634)。正成次男。はじめ徳川秀忠、ついで家光に仕える。下総・三河にて計一万石余りを領す。
*掌鳥銃 鳥銃は、鉄砲。掌鳥銃とは、幕府の鉄砲部隊である根来(ねごろ)組を統率すること。根来組は、紀伊国根来寺の衆徒に出自する同心。父成瀬正一や正成は、家康から彼らの指揮権を預けられていたという(『寛政重修諸家譜』)。
*今京兆尹板倉重宗 今京兆尹は、今の京都所司代。板倉重宗(1587~1656)は、江戸時代前期の大名。元和5年(1619)、父勝重の後を継いで所司代となり、35年の長きにわたり在職。
〔13.白林寺の創建〕
我黄門の、徳を慕ふこと已まず、那城の南に相攸し、為めに一宇を剏め、白林寺と曰ひ、喝堂上人に屈し、香火を供へしめ、別に民戸数十家を封じ、其の徭役を復し、以て四時の祭奠に備へしむ。
*相攸 よい土地を選ぶこと。
*白林寺 名古屋城下に創建された臨済宗寺院。所在地は、名古屋市中区栄三丁目。碑文の通り、成瀬正成の菩提をとむらうため徳川義直によって創建。正虎が葬られ、成瀬家の菩提寺となった。なお、正成の埋葬場所は日光であって、ここではない。
*復其徭役 復は、免除する。徭役は、労役。労役を賦課する権限を藩側が白林寺・成瀬側に与えたと判断できる。
*四時之祭奠 四季の祭典。正成の菩提をとむらうために行う。
〔14.碑文作成の経緯〕
令嗣正虎、予に其の顛末を誌さんを嘱む。予、任に当たらずと雖も、久しく恩徳に沐ひ、日びに謦欬を聞き、行伍の間より甄抜せられ、退食の暇に親炙す。因りて固辞す能はず、其の見る所聞く所を略述す。是れ皆な輿人の誦ふる所にして、予の私に論ずるに非ざるなり。銘に曰く、
*謦欬 せきばらい。
*甄抜於行伍之間、親炙於退食之暇 甄抜は、多くの中から選びぬくこと。行伍は、中国古代の軍制で、兵卒5人を「伍」、25人を「行」と称したところから、兵卒の意。ここでは、撰者堀杏庵が自身を謙譲した表現と考えられる。親炙は、親しく接してその感化を受けること。退食は、役所(ここでは尾張藩庁)から退出すること。杏庵が名古屋に来たのが元和8年(1622)、正成が死去したのが寛永2年(1625)なので、この間のことと考えられる。
*輿人之所誦 輿人は、多くの人。誦は、説き語る。
〔15.銘〕
〇以下押韻ごとに改行。
雲竜は恊起し、水魚は相い資く。
維れ君維れ臣、傅と為り師と為る。
撥乱反正し、乾清く坤夷らかなり。
民を弔れみ罪を伐ち、文恬らかに武熙ぐ。
韜を幽し略を秘し、呉正しく孫奇し。
百万の驍雄、尽く指麾に属す。
守成垂統、蕭の規に曹は随ふ。
億兆黎庶、普く恩施を蒙る。
天は厥の徳を監、介福弥よ丕す。
人乃職を慎み、百工允釐す。
儒教を振興するは、是れ訓是れ彝。
禅心を鑿開し、髄を得皮を得。
和楽既に翕するは、燕翼の貽す所。
仁に依りて藝に游び、仲は塤、伯は箎。
飛英騰茂す、子葉孫枝。
噫公の偉績、載は口碑に在り。
我に於いて何ぞや、之を万斯に伝へん。
寛永二年歳乙丑に舎る冬十二月日 従五位下隼人正藤原朝臣成瀬正虎、之を立つ
*雲竜恊起・・・ 四言詩。韻字、資・師・夷・熙・奇・麾・随・施・丕・釐・彝・皮・貽・箎・枝・碑・斯(上平声四支)。
*雲竜恊起、水魚相資 家康・正成の関係を述べた二句。前句は、竜(家康の喩え)が吟ずれば雲(正成の喩え)が応じることをいう。『易経』乾「同声相応、同気相求。水流湿、火就燥。雲従竜、風従虎」に基づく。後句は所謂水魚の交わり(非常に親密な友情、交際などの喩え)を述べたもの。『三国志』蜀志・諸葛亮伝第五「孤(=劉備)之有孔明、猶魚之有水也」による。
*維君維臣、為傅為師 義直・正成の関係を述べた二句。前句の君は義直、臣は正成に相当。後句は、正成が義直の後見や師範になったということ。
*撥乱反正、乾清坤夷 家康の天下統一を述べた二句。前句は、乱れた世の中を治めてもとの正しい状態にかえす。後句の乾・坤は、天と地。夷は、たいらか。
*弔民伐罪、文恬武熙 弔民は、民を憐れみ救う。文恬武熙は、天下泰平で文武の官が安んじ楽しむこと。
*幽韜秘略、呉正孫奇 平和になり、古代中国の兵書が顧みられなくなることを述べる二句。韜・略は、『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』。呉・孫は、『呉子』『孫子』。正は、珍しいの意と見られる。
*守成垂統、蕭規曹随 守成は、「*守成」参照。垂統は、事業を後世の子孫に伝えること。後句は、前漢草創の功労者蕭何・曹参(「*蕭・曹・韓・張」参照)の故事を踏まえたもの。すなわち、蕭何が死に相国(宰相)の職を継いだ曹参は、すべて蕭何の定めた規約に従い、一事として変更しなかった。正成・正虎の関係を寓意している。
*黎庶 庶民。
*天監厥徳、介福弥丕 正成の徳のある政治を天が照覧し、官位叙任や領地拝領などの大幸が正成にあったことを述べる二句。介福は、大きな幸い。非常な幸福。丕は、受ける。
*人慎乃職、百工允釐 正成の政治により、人々が各々の仕事を慎み、諸役人がおさまっていることを述べる二句。乃職は、原義はあなたの職。ここではその「人」の職。百工は、もろもろの役人。允釐は、治まる。
*振興儒教、是訓是彝 正成の儒教振興の態度を述べた二句。訓は教え。彝はのり。銘の前の序文にその具体的内容が述べられているわけではないが、寛永2年(1625)作成という「正成公御遺訓書」には、「孔子の道を心にかけ」あるいは「仁義礼智信一つもかけては諸道成就不可成事」とある。
*鑿開禅心、得髄得皮 正成の禅宗傾倒の態度を述べた二句。銘の前の序文にその具体的内容は述べられていない。その死に臨み偈「生来去来、我不知。端的之処、仏祖亦不知。喝」を遺したという。
*和楽既翕、燕翼所貽 正成による君主輔佐の功績のおかげで、子孫や一族が繁栄していることを述べた二句。和楽は、やわらぎ楽しむこと。翕は、集まる。燕翼は、賢臣が君主をよく補佐すること。
*依仁游藝、仲塤伯箎 正成子息の正虎・之成兄弟について述べた二句。前句は、仁愛に則り、六芸(礼・楽・射・御・書・数)を修める。『論語』述而第七「子曰、志於道、拠於徳、依於仁、游於藝」に基づく表現。後句の塤・箎は、どちらも古代中国の吹奏楽器。仲・伯は、次男・長男。兄弟が笛を吹き仲がよいことを示す。『詩経』小雅・何人斯「伯氏吹塤、仲氏吹箎。及爾如貫」に基づく。
*飛英騰茂 飛英は、散る花。ここでは正成の子孫達のたとえ。騰茂は、名声などが遠くまで伝わる。
*口碑 人々が功績を口々に述べるとき、その口をあたかも碑に喩えたもの。
*於我何哉、伝之万斯 撰者の態度を述べた二句。前句は、その前二句において正成の功績が人口に膾炙していることを認めた上で、では碑文撰者としてどんなことができるかと問いかける。『孟子』万章章句上に同一字句がある。前句を受けて後句では、撰者は功績を永遠に伝えるのだという。万斯は、万年。
〔16.石碑の新建〕
〇ウラ面
成瀬隼人正藤原朝臣正成
日は往き月も亦た遷ること、九十有一年。
碑石古びて蘚を帯び、銘文泯にして全からず。
正徳竜乙未(五年)、時に惟れ初秋の天。
数多の有司を択び、正幸新たに焉れを建つ。
*日往月亦遷・・・ 韻文となっている。五言古詩。韻字、遷・年・全・天・焉(下平声一先)。
*有司 その職を行なうべき役人。
*正幸 成瀬正幸(1680~1743)。江戸時代中期の武士。正虎の孫。父正親(1639~1703)の跡を継ぎ、元禄16年(1703)尾張藩の付家老成瀬家(犬山城主)4代目となる。
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※撮影は、2023年1月または2024年3月。
その他
補足
- 本資料の翻刻・訓読文は、すでに『愛知県金石文集 上』に収載されている。判読不明な字は、これを参考とした。
- 本資料は、いくつかの問題点がある。
(1)原碑造立年と記載事項の矛盾
本碑は再建碑である。刻字が原碑と同じであれば、原碑の造立年は寛永2年(1625)12月。ところが、法眼と肩書のある撰者堀杏庵が同僧位に叙せられたのは翌3年である(『堀頤貞先生年譜稿本』)。さらに従五位下隼人正と肩書のある成瀬正虎が実際に同官位に叙任されたのは、翌3年8月である(『寛政重修諸家譜』)。杏庵の文集『杏陰稿』には、刻字前の原稿と思われるものが収録されているが、ここには2年12月に杏庵が撰文した旨が記されている。また正虎は、その初名「正房」と記述されている。以上より、撰文は寛永2年、原碑の刻字および造立は同3年以降であると考えておきたい。
(2)本文題が「墓誌銘」とあること
「墓誌」や「墓誌銘」とは普通、石板等に故人の事跡を刻んでその墓に埋めるものであるが、本資料は地上に立っている。本資料のほかにも、堀杏庵撰文で「〇〇墓誌銘」と題する碑がいくつか現存する(名古屋市千種区 平和公園内平田院墓地「本多親信墓誌銘」、京都市左京区 金戒光明寺墓地「石川朝臣吉信公墓誌銘」)。杏庵は、「墓誌銘」を建てるものと考えていたらしい。
(3)造立場所と本碑の機能
碑文中に本碑の造立場所の明記はない。自然に考えれば、原碑は当初、成瀬家菩提寺の白林寺(名古屋城下)に建てられたと考えられる。また(2)と関連するが、本文題が「墓誌銘」とあるので、本碑の主要機能は一見すると墓標と考えてしまう。ところが、碑文にもある通り正成は日光山に葬られた。白林寺は菩提をとむらう寺として創建されたのであって、正成が葬られたわけではない。したがって本碑は、故人の功績を刻んだ、招魂墓の墓標であると一応考えられる。 - 墓域の写真撮影をする際には、被葬者・祭祀者に対し敬意をもって行った。
- 本碑とほぼ同文で同様形状の石碑が、愛知犬山・臨渓院墓地にある(こちら)。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻九百四十七・九百四十八 成瀬氏(『寛政重脩諸家譜 第五輯』(榮進舍出版部、1917年)986~8頁、991~5頁)。
- 『大日本史料』天正10年12月12日条(第十一編之三、89~96頁)。
- 『新釈漢文大系 第1巻 論語』(明治書院、1960年)155頁、181頁。
- 『新釈漢文大系 第18巻 文章軌範(正篇)下』(明治書院、1962年)516~7頁。
- 『新釈漢文大系 第23巻 易経(上)』(明治書院、1987年)117~9頁、418~21頁。
- 『新釈漢文大系 第86巻 史記六(世家中)』(明治書院、1979年)496頁。
- 『新釈漢文大系 第111巻 詩経 中』(明治書院、1998年)357~9頁。
- 成瀬美雄編『成瀬正成公伝』(同労舎活版所、1928年)31頁、34~6頁。
- 『愛知県金石文集 上』(愛知県教育会、1942年)13~20頁。
- 『堀頤貞先生年譜稿本』(東京大学史料編纂所所蔵謄写本、請求記号2021-24、第8丁表)。
- 『成瀬家譜』(東京大学史料編纂所所蔵、請求記号4175-683、第16丁)。
- 『杏陰稿』一(東京大学史料編纂所所蔵謄写本、請求記号2034-135、第16~20丁)。
所在地
尾張犬山城主成瀬正成公墓誌銘 および碑文関連地 地図
所在:
平和公園内 白林寺墓地|名古屋市千種区平和公園
アクセス:
名古屋市営地下鉄 名城線 自由ケ丘駅 または 東山線 本山駅・東山公園駅 下車 徒歩 約20~30分
平和公園内の白林寺墓地にあり
編集履歴
2024年5月29日 公開
2024年6月17日 小修正