昭和海嘯死亡者追悼碑 - 減災を未来に託す -

昭和海嘯死亡者追悼碑(左端)
正源寺
越喜来 崎浜の海
概  要

昭和8年(1933)に起こり甚大な被害を及ぼした三陸さんりく津波を刻む碑。災害発生は3月3日未明である。巨砲一発、轟音が海より響き渡って深夜の静寂を打ち壊し、次いで万馬の駆け上るような大津波が襲ったという。岩手県のらい村(現大船渡市)の被害は大きく、人命はもとより多くの家屋・家畜が損壊し田地が荒廃した。非業死者の霊魂を慰めるため、同村の正源寺住職らが建碑を発意。同10年に碑文が完成し、程なく同寺境内に造立されたと考えられる。本碑は、亡魂慰撫いぶに加えて、後代の人が碑文を読み地震・津波の発生原因を考究し多くの人を救うことも企図されている。科学的知見による減災を未来に託そうとしているのであり、大災害を無抵抗に諦めようとはしていない。

資料名 昭和かいしょう死亡者追悼碑
年 代 昭和10年(1935)
所 在 正源寺|岩手県大船渡市三陸町越喜来仲崎浜
 北緯39°06’22″ 東経141°51’35”
文化財指定     
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は篆額による。年代は撰文の年。
ID 0062_2506

目次

翻刻

  〇判読不明の字は、卯花1992によって補った。
「昭(篆額)嘯死亡者追悼碑」
  〇碑面上部に法名の列記があるが省略した。
天変地異、無世不有。然其原因、或可知、或不可知。可知者、可以人智避
之、不可知者、則其害甚大、而最可怖矣。我陸沿岸、古来数被海嘯之
害。是以、失財傷生者不尠焉。昭和八年三月三日爽、礮一発轟然
起海中、破天地之寞。〔聞〕音響、今猶存耳底、恐怖不知所
措、直欲警人而逃避、既而濤排天、如万馬騰、如漢落下。而壊
家屋、流人畜。其惨状、不堪鼻。浜・浦浜・泊・甫嶺等、其害尤多。流失破
壊之家屋百四十四、死者八十七。於崎浜観之、則被害家屋四十□□〔九、死〕
者五十、圃荒廃数十町歩。其惨害全□□〔額、達〕数万円。其他漁船漂流〔隄〕
防破壊、家畜流失、通計之、将及□□□□□□□〔百万。其惨害、可以〕〔也〕。噫天変□□□〔地異之〕
可怖、固不可以言語也。浜山正□□□□□□□□□□□□□□〔源寺十二世法雲老師、不忍見其惨〕
状、頃与有志胥謀、欲建碑記之、□□□□□□□□□□□□□□□〔以慰其霊。真可謂美挙矣。然則此挙也、〕
不啻慰其霊、後人読此□□□□□□□□□□〔碑者、知其可怖、深講究其〕*原因、尽智力、□□□〔避其害、〕
得救後人。則其功不亦□□□□□□□□□〔大乎。介人請予文。余亦〕嘗視其惨状、不□□□〔堪同感、〕
不可以不文而辞。乃叙其概、係以銘曰、
   **若怒号、  瀾沖天。  人畜無数、  没入深淵。
   恫鬼哭、  我涙如泉。  集気散、  死生玄玄。
   寿一如、  曷悲縁。  海万里、  好個墓田。
    昭和十年一月  従六位勲六等 龍沢良吉撰

現代語訳

〔1.予知しがたき三陸の津波〕
昭和かいしょう死亡者追悼碑
天変地異が起こらない時代などあり得ない。しかし、ある場合にはその原因を知ることができ、ある場合には知ることができない。知ることのできるものは、人智を用いて避けることができるが、知ることのできないものについては、その被害は甚大であって、本当に恐ろしいものである。我が三陸さんりくの沿岸は昔から津波の害を度々蒙ってきた。このため、財産を失い身体を損傷する人が少なくなかった。
〔2.昭和8年 津波〕
昭和8年(1933)3月3日未明、一発の巨砲のごとき轟音が海中より起こり、天地の静寂を破った。かつてその音響を聞いた古老達にとっては(轟音ののち大津波が来たので)、今なお耳の底にあるかのようにはっきりと覚えていた。そのため恐怖の置きどころを知らず、即座に人々に警告して逃げ去りたいと考えたが、怒り狂う大波は天をも押し開くかのごとく既に寄せてきており、それはまるで万馬がすさまじい勢いで駆け上るようでもあり、天の川が地上に落下するようでもあった。(大波は)すみやかに家屋を破壊し、人や家畜を押し流した。その無残な状況は、どうしても嘆き悲しまないわけにはいかない。
〔3.越喜来村 崎浜等の惨害〕
(岩手県気仙郡越喜来村の)さきはまうらはまとまりれい等の被害は実に大きかった。流失・破損の家屋は144、死者87人である。崎浜において見れば、被害家屋は49、死者50人、荒廃した田地は数十町歩あった。そんなむごいほどの損害の価額は数万円にも達した。そのほか、漂流した漁船、破壊された堤防、流失した家畜をも含めて計算すると、ほとんど百万円に及ぼうかというほどである。これによって被害の悲惨さは知られるだろう。ああ、(それでも)天変地異の恐ろしさは、言葉を用いて語り尽くすことなどそもそもできることではない。
〔4.建碑の経緯 -亡霊の追悼 未来への減災啓発-〕
(崎浜にある)白浜山しょうげんの十二世法雲老師は、この悲劇的な状況を見るに忍びず、このころ有志の人々と相談し、碑を建ててこの惨状を記し、そうして亡霊を慰めたいと考えた。本当に美挙と言ってよい。すなわちこの企ては、ただ亡霊を慰めるだけにとどまらず、この石碑を読む後代の人々がかの恐ろしさを知り得て深くその原因を探求し、智力を尽くして損害を回避することができたならば、未来の人々を救うことも可能であろう。とすれば(建碑の)功績は大きなものと言って良いのではないだろうか。(老師は)人を介して私に文章(の作成)を請うてきた。私もまた嘗てこの惨状を見ており、(老師達と)気持ちを同じくしないわけにいかず、文才が無いからといって断ることはできない。そのためこれらの概略を述べて、続けてめいを述べる。
〔5.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
海神は大声でさけび、荒れ狂う大波が天高くのぼる。
人も家畜も限りなく、深い水底へと沈みゆく。
神祇は痛ましう感じ亡魂は泣き叫ぶ。私の流した涙は泉のよう。
生気は或いは集まり或いは散っていく。死も生も深遠で(いつがその時か)測り知られない。
早死も長命も等しいもので、(非業死の)因縁をどうして悲しむ必要があろうぞ。
青々とした海はどこまでも広がる。(津波により大海へと流されていった人々の)お墓にするにはいかにも好ましかろう。
    昭和10年(1935)1月

訓読文・註釈

〔1.予知しがたき三陸の津波〕
昭和かいしょう死亡者追悼碑
天変地異、として有らざる無し。しかるに其の原因は、或いは知るべく、或いは知るべからず。知るべきは、人智を以て之をくべく、知るべからざるは、則ち其の害は甚大にして、しかも最も怖るべし。我が三陸さんりく沿岸は、古来しばしば海嘯の害をこうむる。ここを以て、財を失ひ生を傷つくる者すくなからず。

〔2.昭和8年 津波〕
昭和八年三月三日昧爽まいそうきょほう一発、ごうぜんと海中に起り、天地のせきばくを破る。ろうのうせきに其の音響を聞き、今すらていそんし、恐怖をばく所を知らず、直ちに人に警して逃げ避らんと欲するに、既にしてとう天をして、万馬のほんとうするが如く、天漢てんかんの落下するが如し。たちまちにして家屋をこぼち、人畜を流す。其の惨状、さんするに堪へず。

〔3.越喜来村 崎浜等の惨害〕
さきはまうらはまとまりれい等、其の害もっとも多し。流失破壊の家屋は百四十四、死者八十七。崎浜に於いて之を観れば、則ち被害家屋四十九、死者五十、でんの荒廃せる、数十町歩。其さんがいの全額、数万円に達す。其の他、漁船の漂流せる、ていぼうの破壊せる、家畜の流失せる、之を通計するに、まさに百万に及ばんとす。其の惨害、以て知るべきなり。ああ、天変地異のおそるべきは、もとよりごんを以て語るべからざるなり。

〔4.建碑の経緯 -亡霊の追悼 未来への減災啓発-〕
白浜山しょうげん十二世法雲老師、其の惨状を見るに忍びず、このごろ有志とともい謀り、碑を建て之を記し、以て其の霊を慰めんと欲す。真にきょふべし。しかれば則ち此のきょや、ただに其の霊を慰むるのみならず、後人こうじんの此の碑を読む者の、其のおそるべきを知り、深く其の原因を講究し、智力を尽し、其の害をくれば、後人を救ふを得ん。則ち其の功、た大ならずや。人を介して予に文をふ。余も亦たかつて其の惨状を視て、感を同じうするに堪へず、ぶんを以て辞すべからず。乃ち其の梗概こうがいじょし、かくるにめいを以てして曰く、

〔5.銘〕
  〇以下押韻ごとに改行。
かいじゃく怒号し、きょうらん天にのぼる。
人畜は無数に、深淵しんえんに没しる。
神はいたみ鬼はこくし、我が涙は泉の如し。
気の集まり気の散じ、死生はげんげんたり。
よう寿じゅいちじょにして、なんぞ因縁を悲しまんや。
そうかいは万里にして、こうでん
    昭和十年一月  従六位勲六等 龍沢良吉せん

*海嘯 直訳すれば海鳴り。ここでは地震のあとに発生した津波のこと。

*三陸 およそ宮城・岩手・青森三県に相当する地域。

*昧爽 未明。

*巨礮 巨砲。

*寂寞 静寂。

*故老 としより。特に故実や昔の事をよく知っている老人。

*曩昔 昔。以前。ここでは特に明治29年(1896)6月に起こり大損害を及ぼした三陸津波を指すのだろう。昭和8年(1933)の37年前である。

*開 「聞」の誤字と見られる。

*怒濤排天 怒濤は、はげしく打ちよせる波。排天は、天を押しのける。押し開く。

*奔騰 勢いよくかけのぼる。

*天漢 天の川。

*倏 すみやかに。

*酸鼻 原義は鼻を痛める意で、ここではひどく心を痛めて悲しむ。

*崎浜・浦浜・泊・甫嶺 すべて岩手県気仙郡越喜来村(おきらいむら)の地名で、海に面する。崎浜は、現大船渡市三陸町越喜来仲崎浜。本碑の立てられた地。浦浜は、現同市三陸町越喜来杉下あたり。泊は、現同市三陸町越喜来泊。甫嶺は、現同市三陸町越喜来甫嶺。

*田圃 田と畑、田地の2通りの可能性があるが、ここでは後者と考えられる。

*白浜山正源寺 岩手県気仙郡越喜来村の真宗寺院(現同県大船渡市三陸町越喜来仲崎浜)。本碑の立つところ。

*講究 物事を深く調べ、真実を解明する。

*梗概 概略。

*海若怒号・・・ 四言詩。韻字、天・淵・泉・玄・縁・田(下平声一先)。

*海若 海の神。

*狂瀾沖天 狂瀾は、荒れ狂ったように激しい波。沖天は、天にのぼる。

*神恫鬼哭 「神」は、祖先、神祇の二通りの可能性があるが、ここでは後者をとる。「恫」は、痛ましく感じる。「鬼」は、この度の津波により生命を絶たれた亡霊。「哭」は、大声で泣く。

*気集気散、死生玄玄 解釈難。「気」は、生気(万物を生長発育させる自然の気)の意と見られる。生気が「集」まれば生命が生まれ、生気が「散」じれば生命は死ぬ。「玄玄」は、測り知られないほど深遠なさま。

*夭寿一如 夭寿は、短命と長寿。一如は、等しいこと。仏教の立場からこういったものか。この聯は、短命で亡くなった亡霊に訴えかけて慰める意図がある。

*因縁 ある出来事の原因や条件。本碑においては、具体的には死没という大惨事の根本原因である津波と、(低地における居住や老体による歩行の困難さなど)津波による死没を成り立たせた諸条件。

*滄海万里、好個墓田 解釈やや難。「滄海」は、青々とした波。「好箇」は、ちょうどよいこと。適当なこと。「墓田」は、墓となる地。本聯は、津波によって大海へと流され死んでいった人々の墓所として、広々とした大海は墓所として好ましいといっており、非業死者や遺族に対しての慰めの言葉と理解できる。

画像

全景1 (撮影日:’24/11/21。以下同じ)
全景2
碑面上部・篆額
碑面中部
碑面下部
篆額
正源寺 山門
越喜来 崎浜の海

その他

補足

  • 判読困難な箇所は、卯花政孝1992を参考にした。

参考文献

  • 卯花政孝「三陸沿岸の津波石碑」(『津波工学研究報告』9、1992年)245頁。

所在地

昭和海嘯死亡者追悼碑および碑文関連地 地図

所在
正源寺 境内|岩手県大船渡市三陸町越喜来仲崎浜

アクセス
三陸鉄道 リアス線 三陸駅 下車
徒歩約1時間半
正源寺に入り本堂左脇にあり

編集履歴

2025年6月2日 公開

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